#女性の声_HappyWomensMap

🌹貴女の毎日を変える #女性の声

日本の女性史・郷土のヒロイン 

Celebrate Heroines with Map!

Share Your Love & Story Changing Women's Days ! 

Happy Women's Map -Japan

日本のヒロイン Japanese Heroines

私たちの歴史は色々な分野で色々なカタチで活躍する女性たちによって彩られています。Happy Women's Mapで全国の地域・社会・世界に貢献した女性たちをお祝いして広く対話を育みませんか?

Our history is coloured with many amazing women who have done special archivement in a particular field. This Happy Women's Map celebrates heroines who made significant contributions to region, society, and world.  

Share Your Love and Happy Women's Story!

あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!

Share your story of a woman that inspires you!

東京都 Tokyo-To

長谷川時雨 女史 / Ms. Shigeru Hasegawa

「女が女の肩を持たないでどうしますか!」

"Become a good ally for women. What if we don't?"


長谷川 時雨 女史

Ms. Shigure Hasegawa

1879 - 1941 

東京都中央区小伝馬町 生誕

Born in Kodenma-tyo, Chuo-ku, Tokyo-to


長谷川時雨女史は日本初また唯一の女性歌舞伎脚本家であり、日本で初めて女性のための思想・文学・芸術に関する雑誌『女人藝術』を発刊日本の女性の文化芸術活動を支えました。

Ms. Hasegawa Shiguru is the Japan's first female Kabuki scriptwriter, and principal moving force for Japanese women's art by founding a female literary journal "Nyonin Geijyutsu".

*******

「あんぽんたん」

 時雨こと康子は東京日本橋の御用呉服屋の息子で免許代言人(弁護士)の父と、没落士族の娘で苦労人の母親のもと6人兄弟の長女として生まれます。病弱ではにかみ屋の「アンポンタン」として、もと御殿女中で呉服商家を盛り立てた祖母に溺愛されて育てられます。祖母や母の教育方針で学校へは上がらず、寺子屋での読み書きそろばんに裁縫・長唄・日本舞踊・二絃琴・生け花・茶の湯を身に着けます。母・多喜は、康子が読書をすると目の前で本をビリビリに破って燃やし、康子を激しく殴打して蔵に閉じ込めます。祖母・小りんは、康子が下田歌子の私塾に通うのを阻止、かわりに康子を連れて芝居小屋へ通います。14歳になって池田詮政侯爵家に行儀見習い奉公に出されると、康子は給料を書籍につぎ込んで夜分に読書三昧するも、3年目で肋膜炎を病んで家に戻されます。文学に目覚めた康子は父に頼み込んで、著名な歌人で国文学者の佐佐木信綱が主宰する「竹柏園」に通うことを許されます。康子は朝早くに家事を済ませるとご飯もろくに食べずに通りを急いで、嬉々として源氏物語や万葉集の古典を学びます。

「いやだいやだいだ」

 18歳になった康子は、両親の命で成金で評判の悪い鉄問屋・水橋家の次男・信蔵と結婚。嫁ぎ先では上品ぶってると悪口を言われ、書きものをするとはばかりに捨てらます。康子は家族の外出時にはひとり留守番をして読書に浸ります。しばらくして、父・深造が水橋家絡みの東京市議会を巻き込んだ贈収賄事件により公職を辞します。康子は離婚を申し出るも叶わず、実家から勘当された夫・信蔵とともに、岩手・釜石の鉱山町に移り住みます。しかし夫・信蔵は東京へ行って放蕩三昧で帰ってこず、康子は釜石で独り小説を書いて明け暮らします。22歳の時に雑誌『女学世界』に投稿した短編『うづみ火』が特賞に選ばれ、投稿を繰り返す中で注目を集めるようになります。25歳で離婚を決意して帰京、隠居中の父・深造と佃島の屋敷に住みながら、築地の女子語学校(今の雙葉学園)の初等科に通って英語を学びます。26歳のときに読売新聞に応募した戯曲「海潮音」が演劇界の大御所・坪内逍遙に絶賛されて入選、新派の喜多村緑郎、伊井蓉峰らによって上演されます。初めての女性脚本による歌舞伎として舞台挨拶に立ったり、ブロマイド写真を売り出して注目を集めます。

「まっしぐら

 康子は逍遙に師事しながら新舞踊劇を創作、日本海事協会に当選した「覇王丸」を「花王丸」と改題して市村羽左衛門と歌舞伎座で上演します。この頃、釜石時代から文通していた中谷徳太郎と交際をはじめ、共同で『シバヰ』を発行。六代目尾上菊五郎らと結成した『舞踊協会』『狂言座』でも彼の作品を公演します。30歳からは、古今の女性を題材にした美人伝・名婦伝を『読売新聞』『東京朝日新聞』『婦人画報』『婦人公論』などに発表して話題を集めます。その頃、ひとまわり年下の作家・三上於菟吉から熱烈な求愛を受けて結婚。献身的に夫を支えながら、甥っ子を引き取り、母と旅館の経営を始め、一家の大黒柱として家事に仕事に追われます。やがて売れ出した夫・於菟吉が妾を囲い芸者を侍らせ放蕩三昧となる中、康子は44歳で岡田八千代との同人雑誌『女人芸術』を創刊。女性作家たちに自由な活動の場を与えるも、関東大震災により2号で廃刊になります。

「女性の力」

 放蕩のどぶさらい役をさせてきた夫・於菟吉は、49歳の康子に資金援助を申し出ます。康子は早速、仲間割れで廃刊していた『青鞜』メンバーを迎え入れて『女人芸術』を再興。自伝的作品『旧聞日本橋』連載を始めて人気を集めます。康子は思想弾圧を受けて困窮する左翼の女性作家を受け入れ、度々発禁処分を受け資金に行き詰まる中、康子は『輝ク会』を結成して機関紙『輝ク』を創刊。「女性の共力がなくて強い国はない」。日中戦争開始とともに『皇軍慰問号』を発行、銃後慰問団体『輝ク部隊』を結成、陸海軍資金援助・監修により3冊の文集『輝ク部隊』『海の銃後』『海の勇士慰問文集』を制作。脳血栓で倒れた夫・於菟吉を看病しながら彼の新聞連載を代筆しながら、『輝ク部隊』を引き連れて中国厦門から広東へ、南シナ海を渡って海南島へ、さらに仏印まで足をのばそうというところで戦況が激化して引き返します。疲れ果てて帰国すると、体に鞭打って日本女流文学者会を発足する中で発病、61歳で没します。「めであがむ質のものではなく、女性一般の真の力が社会的に押し上げてきた来た喜びである。」

岡田八千代、野上弥生子、神近市子、山川菊栄、三宅やす子、島本久恵、富本一枝、高群逸枝、長谷川春子、湯浅芳子、尾崎翠、野溝七生子、宮本百合子、望月百合子、真杉静枝、大谷藤子、戸田豊子、平林英子、林芙美子、中本たか子、村山籌子、佐多稲子、竹内てるよ、平林たい子、円地文子、松田解子、矢田津世子、大田洋子、若林つや、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、窪川稲子、田中千代、大石千代子、吉屋信子らとともに女性の自由な活躍の場を広げました。

-東京都中央区立郷土資料館 Tokyo Chuo City Museum

「日本の娘さんたちは何という従順しい素直な女なんだろう」
“Japanese girls are so mild and obedient.”

高木 徳子 (旧姓:永井 徳子)女史
Ms.Tokuko Takagi
1891 - 1919
東京都千代田区神田神保町 生誕
Born in Jinbo-cho, Kanda, Chiyoda-ku, Tokyo-to

高木 徳子(旧姓:永井 徳子)女史は日本初のミュージカル女優です。アメリカ・イギリスでショーダンサーとして活躍後、日本で初めてバレエ、スネークダンスを披露。演出家の伊庭孝と「歌舞劇協会」を結成して浅草オペラの種をまきます。「離婚訴訟」ならびに「妻の職業的独立」を主張して話題になります。
Ms. Noriko Takagi (Noriko Nagai) is Japan's first musical actress. After working as a show dancer in the United States and England, she performed ballet and snake dance for the first time in Japan. She formed "the Song and Dance Theater Association" with director Takashi Iba and sowed the seeds of Asakusa Opera. She has become a hot topic by claiming ``divorce litigation'' and ``wife's professional independence.''

「大陸花嫁」
 徳子は、沼津藩出身の元旗本武士で明治政府の印刷局技手を勤める父・脆一と、沼津藩評判の美人であった母・タンのもと質素で厳格な家庭で8人きょうだいとともに育ちます。母親が急逝すると、徳子は神田高等女学校3年次の16歳の時、神田宝石店の長男で13歳も年上の高木陳平に嫁ぎます。4か月すると、2人でアメリカ行きの船に乗り込みます。写真結婚で単身アメリカに渡る花嫁達が大勢同船しており、シアトル上陸後に泣き出したりごねたり逃げ出したりする花嫁たちをなだめすかすのに徳子は大奮闘します。汽車で大陸を横断しニューヨークにたどり着いたのはクリスマスイブ当日。ニューヨークの明るい夜の街に目を見張ります。夫婦で住み込みの家政婦の仕事にありつくと、しばらくして友人の誘いで、夏のオハイオ州カントンで日本茶屋を手伝います。徳子は嫁入り道具として持参していた着物を着て給仕をして評判になります。続いて、隣のペンシルバニア州ピッツバーグで冬場の茶店を開きながら下宿屋をはじめたり、再び夏になるとマサチューセッツ州レビア海岸で日本茶店を開きながら雑貨屋を始めたり、冬にボストンに移ってショーウィンドウの生きマネキンをしたり、夫婦で奮闘しますが資金もやがて底をつきます。そこでボストンンの寒い冬を乗り切るために、10年前にアメリカで人気を博した天勝一座の水芸を真似て手品を始めます。徳子は婚礼衣装である紫の振袖で舞台衣装をこしらえると、音楽に合わせて踊りながら縄抜け・当てものなどを官能的にこなし人気者となります。地方巡業とボストンを行き来する1年半に及ぶ旅興行で7千ドルを蓄えると2人はニューヨークに戻ります。

「ショーダンサー」
 この頃アメリカでは中流階級向けの洗練された技芸、高度な舞台技術が求められうようになります。陳平は全資金を徳子のダンス修行につぎ込みます。20歳の徳子は本格的なショーダンサーを目指してダンス修行に踏み切ります。マダム・デビビラが主宰するブロードウェー・ステージ・ダンシング学院に入学。18名の年下の生徒たちの嘲笑に耐えながら基礎からダンスを学び始めます。やがてめきめき上達して「マダム徳を見よ」と激励され、教師の代稽古を任せられるようになり、半年後には成績優秀で卒業。マダム・デビビラ主催の舞台で活躍するようになります。するとその舞台を見たアメリカで有名なバレーマスターであるマダム・サラコに気に入られ、内弟子としてバレー、パントマイム、スペイン舞踊、インド舞踊、声楽を学びます。上流家庭に招かれて踊るようになります。陳平も一緒にパントマイムを習ったり活動写真と劇の研究をしながら、街から離れたところに夏場の喫茶店を開業したり、冬場にはホテル兼レストランを経営します。2年の修行を経て徳子と陳平は日本人の手品師・活動役者・踊り手・歌手を加えて一座を結成、アメリカ各地を巡業して周ります。翌年、海を渡ってイギリスロンドンにに降り立つと、貴族また富豪の出入りするのキャバレー・トロコカデロに夫婦で出演を果たします。1週間の給料が75ドルしかなかった手品師時代から1500ドルになり、ロンドン中の新聞に称賛される徳子にモスクワでの1カ月公演の話が舞い込みます。続くベルリン公演を前に第1次世界大戦が勃発。2人は急遽8年ぶりに日本に帰国します。

「オペラ女優」
 徳子のもとに帝国劇場から出演依頼が舞い込みます。イタリア人降り付け師のジョバンニ・ローシーのもと、バレエの人形の出てくるシーンを集めたメドレー仕立ての「夢幻的バレエ・人形」で徳子は日本人で初めてトゥシューズを履いてバレエを披露。軽やかにつま先を立てて蝶のように舞い踊る徳子に観客は魅了されます。しかし、クラシックバレエ出身のローシーとの対立がひどく、ローシーの秘蔵っ子・沢モリノが抜擢されると徳子は帝国劇場から締め出されます。徳子と陳平は有楽座で舞台活動を始め、高木徳子ダンシング・ススクールを設立します。この頃から陳平の酒乱がひどくなり、徳子はガス管を加えて自殺を図ったり、就寝中の陳平をカミソリで切りつけたりしはじめます。徳子は陳平と別居、翻訳家で演出家である伊庭孝の後押しで、髙木徳子一座を創設します。横浜から横須賀に渡る旗揚げ公演を行い、アメリカ仕込みのダンス・芝居・声楽で観客の目を引きます。パリのキャバレーで大流行していた「サロメダンス(スネークダンス)」、「白黒ダンス(黒い幕の前で黒服に白帽子・白靴・白蝙蝠傘の男と、白い下着に白手袋の女が躍る)」に観客は大喜び。アメリカ寸劇「恐ろしき一夜」で妻を冷酷に扱う金持家庭を舞台に夫婦また女の自立を問うストーリーは浅草で大歓迎されます。

「問題の女」
 次々と徳子のもとに興行依頼が舞い込む中で、陳平から突然興行中止命令を受けます。徳子は「離婚訴訟」を起こすとともに、妻の職業的独立を主張する「身分保全の仮処分」を申請します。すると陳平は「同居請求」を訴えて対抗します。当時の旧民法では婚姻中の同居は夫にとって妻に対する絶対的権利であり妻にとって拒むことのできぬ義務とされていました。徳子はスキャンダラスな「問題の女」として社会問題にされ、徳子の主張は全て退けられます。業を煮やした陳平は徳子一座の興行権を興行師・垣田一に売り渡し、総勢三十人で劇場に殴り込みをかけさせます。徳子は興行師・竹内一郎に仲介役を依頼して難を逃れ、陳平を1000円で興行から手を引かせます。地方巡業を始めると、徳子の人気に目を付けた松竹合同会社と契約を結んで昼夜二回の公演をこなしながら、内弟子達に稽古をつけ、企画・演出・振付けを一人で取り仕切ります。徳子の人気は上がる一方で、徳子の疲労が目立ち始めます。病気を押して舞台に立っていた徳子は公演中に倒れ入院します。それでも竹内は強行スケジュールを次々と勝手に組み、療養中の徳子を置いて一座を連れて巡業に出かけます。

「ミュージカル女優」
 徳子はストレス発作を起こすようになり、一座は解散。それでも3か月後には、徳子は伊庭孝と本格的なミュージカルを目指し「歌舞劇協会」を結成します。赤坂・演技座で初日を迎えると、美女が蛇に変身するインドの伝説を題材にした『古塔物語』で徳子はセリフで歌で得意のスネークダンスで、夫に永遠の憧れを抱かせた女神に嫉妬する妻を演じて大盛況。すると舞台上で突然暴漢に襲われ、興行師・垣田一派の執拗な襲撃が再会。興行仲裁役の曾我廼家五九郎の尽力で和解が成立すると、徳子と伊庭は根岸興行部と契約を結んで浅草の常盤座で喜歌劇『女軍出征』を上演。アメリカで人気を博した男装して軍隊に潜り込む少女を主人公にした物語で、徳子の歌う劇中歌「チッペラリーの唄」「ダブリン・ベー」など英語のラブソング、「ペッパーポットダンス」「セーラーダンス」「スコットランドの剣舞」など本場仕込みのショーダンスに大勢の男子学生が押し寄せます。徳子の『サロメ』の人気はすさまじく延長公演を行う中、陳平が連日楽屋に現れて座員に絡んで公演を妨害しはじめます。追い打ちをかけるように、徳子に陳平と同居すべしという離婚訴訟判決が下ります。「米人化した原告の行動は、日本古来の美風良俗に反する」。徳子のストレス発作はひどくなる一方。

「興行主の愛人」
 徳子は松竹合同会社との興行契約を結んで中国・試行・九州・関西と6カ月にわたる地方巡業に出発します。松竹が用心棒として雇った嘉納一家親分・嘉納健二のもと、陳平ならびに垣田一派の妨害もなく、徳子と伊庭は各地で熱狂的に迎えられます。長崎では各国領事が馬車で乗り付け、寄港中のアメリカ水兵たちが劇中歌を大合唱します。徳子は松竹合同会社と専属契約を結ぶと、松竹の仲介のもと3000円で陳平とようやく離婚が成立。するとすぐに妻帯者である嘉納健二に愛人関係を迫られます。当時の旧民法では、妻の場合は夫以外の男性と情を通じた場合は直ちに強姦罪が適用されるのに対し、夫の場合は未婚の女であればお構いなし、例え夫帯者であっても夫から告訴されない限り姦通罪は適用されませんでした。公演を続けるために徳子は嘉納の愛人となり、巡業を中心とする国民的創作オペラ運動を目指す伊庭は嘉納に命じられるがまま徳子のもとを去ります。関西はじめ中国・九州で絶大な勢力を振るう嘉納には誰も逆らえません。徳子は嘉納に強いられた過密スケジュールで、観客に女客や家族連れの客の姿がほとんど見られないことに複雑な思いを抱きながら踊り続け舞台上で倒れます。搬送先の大牟田市の村尾病院で29歳の短い生涯を閉じます。「口惜しい口惜しい」「頭が痛い頭が痛い」

-『狂死せる高木徳子の一生』(高木陳平(述)/黒木耳村(執筆)/生文社1919年)
-『舞踏の夫入 新帰朝の高木徳子』(高木徳子(述)/万朝報1915年)
-『舞踏に死す ミュージカルの女王・高木徳子』(吉武輝子/文藝春秋1985年)

「世の中の人々に私共が如何に潔白であったかを知らせて下さいませ。」
"Please let the people of the world know how innocent we were."

浜田 栄子 女史
Ms Eiko Hamada
1903 - 1921
千代田区駿河台 生誕
Born in Chiyoda-ku, Tokyo-to

浜田 栄子 女史は、日本で社会現問題になったミステリー事件の悲劇のヒロイン。若い才女の自殺を巡って、ミステリー小説のように新聞で1か月弱に渡って連載記事が掲載されました。
Ms. Eiko Hamada is the tragic heroine of a mystery case that became a social issue in Japan. The story of the young talented woman's suicide was serialized in newspapers for nearly a month, much like a mystery novel.

「無邪気な8才と21才」
 栄子は、産婦人科医の父・浜田玄達と、母・捨子のもとに2人きょうだいとして生まれます。玄達は産婆養成所また日本産婦人科学会を創設、宮内省御用掛また帝国大学医科大学長を退官後は私立病院を経営するなど多忙を極めます。捨子は乳母に2人の子育てを任せたきり、栄子におしゃれをさせることもなく、捷彦が連れてくる友人たちに構うこともなく、自分事に忙しくします。栄子はピアノに熱中しながら学業優秀で、お茶の水付属小学校では昭憲皇太后の前で朗読を披露。兄・捷彦は花柳に足を踏み入れ放蕩を始めます。栄子8歳の時に、母の甥・野口亮が浜田家から早稲田大学商学科に通いはじめます。

「見違えるほど大人びてきた16才と29才」
 栄子が12歳のときに父・玄達が逝去。父親の遺言書から親戚筋が外されます。「一家の重大事富富むることは(友人の)緒方正規、(門下生の)松浦有志太郎、(医師)佐伯理一郎、(家政顧問弁護士)尾越辰雄の4名に諮りて決めよ。病院は辻・小畑の両氏で永続すべし、難しい場合は前4氏に諮れ。資産は半額以上を捷彦に、栄子には後日捷彦と捨子にて相当の処置を為し、栄子はこれに快く服すべし。所有地物件は全て捨子に。親族から申し出のあるときは尾越辰雄に諮れ。」兄・捷彦は廃嫡され芸者と結婚して渡米。お茶の水女学校に通い始めた16歳の栄子は、大学を卒業して兵役に就く甥・野口亮との結婚を望むようになります。

「ラスプーチン」
 当時、30歳未満の男と25歳未満の女が婚姻をするには父母の同意を得なければなりません。16歳の栄子と29歳の亮は結婚の承諾を得るために、捨子はじめ尾越・緒方・松浦・佐伯の4氏を訪ねます。緒方夫婦から次男坊を、尾越夫婦から知り合いの医学生を結婚相手に勧められた栄子は断固拒否。一度、他家に養女に出てから野田家に嫁入りすることに決まります。なかなか養子縁組先が見つからない中で、栄子が身ごもります。すると尾越弁護士は小畑博士に病院を売却して共同経営者となり、病院に隣接する土地を和歌山の富豪・西村伊作に売却して仲介料を奪い、駿河台の自宅を売却して中野に移します。栄子は長男を出産するも早産で夭折。私生児として届け出ます。4氏は栄子にアメリカ留学を勧めます。「10年修行の後、野口も貴女も立派な紳士・婦人となったことを認めてからお渡しする。」

「18歳の毒りんご」
 英子は殺鼠剤を服用して自殺を図ります。父の浜田病院を引き継いだ小畑院長が治療にあたり命を取り留めたはずが、24時間後に突然心臓発作を起こして逝去。アイスクリームとミルクを食べた数時間後でした。栄子は亮と母親・捨子あてに2通の遺書を残します。栄子に遺産は与えられず、遺骨は野口家に引き取られ、婦人矯風会と廊清会に一千円(今の300万円程)ずつ寄付されます。

「恋しき亮様
私は遂に最後の手段を取りました。私は死にます。
そしてあなたに申訳を致します、考へて見れば私は何といふ不幸な女でせう。又あなたは何といふ不幸な男でせう(併し考へて見れば三年間といふものあなたから随分愛されて暮した事は幸福でした) 。母がもう少し理解に富んでいた人でしたら私共は此の様な不幸を見る事は決して決してなかった事と信じます。しかし子として親をうらむ事は出来ません。私は母には充分に同情を致します。私は此の広い世の中に心から私を理解し心から私を愛して下さった人はあなたより外に一人もありません。
私はあなたに最後の御願ひがあります。私の死んだあとは、どうぞ私の考へのシソウを世間に発表して下さいませ。そして世の中の人々に私共が如何に潔白であったかを知らせて下さいませ。後に残ったあなたはどうぞ紳士としての立派な行くべき道にしたがって下さい。さうして、私があなたを一生つれそふ夫に選んだ事に付いて裏ぎらない様にして下さいませ。又あなたに対して男子としての面目をむざむざにふみにじった尾越たちに対しても紳士といふことを忘れずに堂々たるフクシュウをして下さい。相手が如何にヒレツでもあなたは何処までも、紳士といふ事をお忘れ下さいますな。そしてあなたの年老いたる、御母様や御姉妹のことを忘れずに決して早まったことをして下さいますな。私はあなたが男らしいフクシュウが立派に出来る事と、貞淑な奥様を求められ楽しい家庭を得らるる事を神様に祈ります。あなたの将来幸多き事を祈ります。どうぞ私といふものを永久にお忘れなさらないで下さいませ。私の死体はどうぞお引取り下さいませ。私のかたみはあの指輪で御座います。どうぞ御伯母様、おとめ様、みね子様皆々様によろしく。私はあなたの温かい胸に抱かれて死にとう御座います。一人淋しく死んで行く女をあはれんで下さいませ。せめて私の冷たい死体があなたのおそばにまゐりましたらだいてやって下さいませ。
栄子
恋しき夫の君へ」

「御母様私はこの世を去ります。私は死んで御母さまへの不幸の罪と野口への申譯を致します。今さら愚痴を申すようでございますが、御母さまが私の一生のお願いを通して下さったならどんなに幸福だったでしょう。私は死ぬまで野口が立派な紳士であることを証明いたします。将来有望なる青年紳士を罪なくして両目を踏みにじった人々を私は憎みます。私は今頭が何だか分からなくなりました。私は行きましょう。御父様や愛児のそばに。御母様はどうぞ幸福にお暮しください。私の死骸はどうぞ野口にお渡し下さい。私の最後のお願いでございます。どうぞ御母様お願い致します。
栄子
御母上様 御前に」

-『恋は思案の外 : 人生哀話』(水島尺草 著 / 久盛堂1921年)
-『浜田栄子恋の哀史』(椒魚生 著 / 日本社1921年)
-『逝ける栄子の為めに』(野口亮 著 / 誠文堂1921年)

「自然界は不思議なもので、何時どんな現象がみられるか分からないと思えばなかなか観測はやめられない。」
``The natural world is a mysterious, and if you don't know what phenomena will be observed at any given time, it's hard to stop observing.''

小山 久子 女史
Ms. Hisasko Oyama
1916 – 1997
東京都 生誕
Born in Tokyo-to

小山 久子 女史は日本の天文観測者で、ガリレオに始まる400年の太陽黒点科学記録を支える巨人。およそ40年にわたって、二十世紀最大の黒点また白色光フレアを含む、1万枚以上の詳細な太陽黒点を記録します。東洋天文学会学術研究奨励賞を受賞。「小山ひさ子の太陽黒点スケッチ群」は日本天文遺産に認定。
Hisako Koyama is a Japanese astronomical observer and a giant behind the 400-year sunspot scientific record that began with Galileo. Over approximately 40 years, it will record more than 10,000 detailed sunspots, including the largest sunspots and white light flares of the 20th century. Received the Academic Research Encouragement Award from the Oriental Astronomical Society. ``Hisako Koyama's Sunspot Sketches'' has been recognized as a Japanese astronomical heritage site.

「東日天文館プラネタリウム」
 久子は22歳の霜月、日本で2番目のプラネタリウム施設として開館した、東京有楽町の東日天文館プラネタリウムを訪れます。ツゴイネルワイゼンのバックミュージックに星々の輝きが消えていくと、プラネタリウムの夜が明けていく。久子はすっかり星のとりこになります。家に帰って見上げた夜空はプラネタリウムも及ばぬ程素晴らしいことに今さらながら気付きます。1年に1度の七夕の夜にしか見えないと信じ込んでいた天の川は、夜毎に頭上を横切って白雲と見間違うばかりにくっきりと南の地平線に流れ込みます。久子は、村上忠敬氏・村上処直氏による「全天星図 (1958年) 」を手に入れると、プラネタリウムで覚えた真っ赤なアンタレスを起点として星座観察を始めます。「自然ははるかに美しい。」

「学生の科学」
 続いて久子は「科学的に星を覗いてみたい」欲望にかられて、街で1組50銭の青レンズを購入、ボール紙を説明通りに組み立てて、筒口を一番星に向けて覗きこみます。ぼーっとした丸いものが視野の中を走りぬけます。倍率変化かと思ってアイピースを伸ばしたり縮めたりして喜びますが、やがて焦点内外像だと知るように、天文知識は少しづつ増えていきます。『学生の科学』誌に老眼鏡で天体望遠鏡ができる記事を発見すると、望遠鏡好きの眼鏡屋店主の指導を受けながら、ボール紙でカチカチの美しい筒をつくり上げると墨を塗って蝋でピカピカに磨き上げ、スルスル滑らかに動かしながら倍率40倍足らずの月面の噴火口を観察します。

「凹面鏡の磨き方」
 折も折で、とも座に新星現るニュースを耳にした久子は、全天星図と筒を抱えて、人っ子一人通らぬ音一つない真夜中に新星観察に出かけます。新星が見つけることができない久子は「反射望遠鏡を作ろう」。鏡が手に入らないままで、ゴリゴリ木工工作を始めて三脚・架台・四角筒を組み立てます。反射鏡がなかなか手に入らない中、木辺成磨氏の「天体望遠鏡の作り方と観測法」の中に「屈折望遠鏡の作り方」の項目を見つけて感激。しかし「凹面鏡の磨き方」で挫折。父親にねだって口径36mm倍率60倍の完成品を手に入れ、ようやく土星の輪を目にします。太陽・月・火星・木星・星団・星雲・二十星と手当たり次第に筒鏡を向けます。「自然現象について正確に話し合いたい」

「東亜天文協会」
 夜毎増す月の噴火口に感激していた時、京都帝国大学理学部に勤務する山本一清らが設立した「誰でも参加できる東亜天文協会」の存在を耳にします。早速、月面部の伊達栄太郎氏に手紙で問い合わせると「月面観測には最低でも口径7㎝が必要でしょう。」久子は望遠鏡を太陽に向けて黒点を探し始めます。1か月近く根競べしてようやく黒点らしいものを発見、胸ときめかせてスケッチすると太陽部の山本一清氏に送ります。「観測報告有難う。これが黒点です。」これを機に、久子は黒点の毎日報告への参加を始めます。小さな望遠鏡を窓の前に置いて接眼レンズの後ろにある太陽の像を紙の上に投影、太陽の黒点とその他の注目すべき観測情報を記録、それをハガキに描いた直径10cmの南北極の切れた円内にその日の黒点をスケッチして毎日報告します。第二次世界大戦中の空襲の激しい夜でも、庭に引っ張り出した布団の下に隠れて、観測部の小牧孝二郎氏によるガリ版手引きを頼りに夜空を観察します。「がまんくらべならさしずめ優等生」。

「東京科学博物館」
 変光星の観測ノートを持ってモンペ姿で東京科学博物館(今の東京国立科学博物館)天文研究室の古畑正秋氏を訪ねた久子は、そこで口径20cmの赤道儀式天体望遠鏡と初対面を果たします。まもなく黄道光も天の川も輝くばかりに見られる焼け野原の東京で、これまでの渇きを潤すように繁々と通う久子に、専門職員観察員の話が舞い込みます。「一生の仕事にしよう。」主任天文学者・村山定男氏の研究室の一員となった久子は、毎日30分歩いて通勤すると、ドーム内の望遠鏡部屋を掃除してから、乱気流を気にしつつ、鉛筆を持つ手を凍らせたり、滴り落ちる汗を拭ったりしながら、接眼鏡を通じて直径30 cmの円として紙上に投影される太陽光球映像に黒点の詳細なスケッチとともに観測環境・観測時刻・特記事項等を書き込み、毎月の報告書をチューリッヒ天文台やベ ルギー王立天文台などの世界各地の天文台へ送ります。それから来館者に1日2回望遠鏡の構造や動きの実演、投射板に移った太陽黒点の説明する「星と太陽の先生」になります。およそ40年間に渡って、凍てつく寒さの冬もうだる暑さの夏も、毎日連続して同じ望遠鏡で一貫した観測方法で久子が残した黒点スケッチは1万枚を超えます。久子のスケッチをバックボーンとして、ガリレオ・ガリレイ、ピエール・ガッサンディ、ヨハン・カスパル・シュタウダッハー、ハインリヒ・シュヴァーベ、ルドルフ・ヴォルフら約400年にわたる太陽黒点活動の歴史が見直されています。

-『太陽黒点観測報告―1947‐1984』(小山 ヒサ子 著 / 河出書房新社1985年)
-『天文月報 1972年8月号』( 公益社団法人日本天文学会)
-『女性教養 12月(287)』(日本女子社会教育会 / 1962年)
-『季刊自然科学と博物館 48(3)』(科学博物館後援会 編 1981年)
-『女性と天文学』(ヤエル・ナゼ著 / 北井礼三郎・頼順子 訳 / 恒星社厚生閣2021年)
-「The woman who stared at the sun(太陽を見つめた女性)

田中 愛子 女史 / Ms. Aiko Tanaka

「ごはんで家族も世界も平和に」

"Peace for the family and the world with meals."


田中 愛子 女史 

Ms. Aiko Tanaka 

1925-2018 

東京都荒川区 生誕 

Born in Arakawa-Ku, Tokyo.


田中愛子女史はマクロビオティックの先駆者です。日本発世界初マイクロビオティック創始者・桜沢如一の愛弟子として、ベルギー・フランスをはじめとして25か国以上で玄米と季節の野菜と伝統発酵食を中心とする自然食品運動およびオーガニック食品運動を広めながら、王様から道端で転んでいる病気の人まで健康になるように食事療法に取り組みました。
Ms. Aiko Tanaka, as a beloved disciple of Joyichi Sakurazawa, the world's first microbiotic pioneer from Japan, dedicated herself to promoting the natural food movement and organic food movement in over 25 countries, including Belgium and France. She focused on brown rice, seasonal vegetables, and traditional fermented foods. Moreover, she applied dietary therapy to help people from kings to those suffering from illnesses on the roadside to achieve better health.

*******

「虚弱体質のお嬢様」

愛子は1925大正14)年に東京都荒川区に建設会社を営む両親のもと4人きょうだいに生まれます。砂糖漬けの毎日で虚弱体質、毎晩窓辺で飽くことなく星空を眺めて過ごします。14歳の時に許嫁を軍事訓練中に破傷風で亡くし結婚はしないと決めます。日中戦争がはじまると父親は満州・羽田の飛行場建設に没頭、その間に母親は病に倒れます。父はドイツから医師を招いたり、東西の薬を取り寄せたり、温泉療法に連れていったり、家族の努力も空しく母は3年で逝去。愛子は母の最後の夜に、桜沢如一氏と出会い食養指導を受けます。棚にはご飯茶碗とみそ汁椀と小さな漬物皿のみ、僧の様な食事で愛子はじめ家族は元気を取り戻します。父は如一の活動を支援するべくビル・土地・資金を提供。愛子は東京家政大学に通いながら、如一先生の講義を聴講しに京都に九州に出かけます。

「武者修行」

日本の敗戦間近、愛子は如一はじめ賛同者とともに山梨県にPU(Principal Unique)村を建設、晴耕雨読の生活をしながら健康を土台とした平和運動を続けます。畑を耕し玄米を育てる傍ら、野草はじめ漢方の研究に従事、次々と送られてくる病人を食事療養と手当で介抱します。その頃、愛子は父の喘息を西洋手術で治そうとする2番目の母を追い出し、食事療養で完治させます。終戦後、20代半ばの愛子はマクロビオティックを世界に広める修行に出ます。ベルギーではブリュッセルの市民広場に隣接したビルの提供を受け、茶道・華道・合気道・東洋哲学とともに自然食を広めます。ベルギー薬科学会会長夫妻、フビラオ皇帝の叔母はじめたくさんのインテリ層・富裕層の患者を治療します。フランスのパリでは貴族議員はじめ財界人、若きプリンス・プリセス、俳優また歌手・俳優を治療します。インドでは石谷上人の寺で、カースト制のもとひどい扱いを受ける孤児の世話をします。

「マクロビオティックの妖精」

帰国後、愛子は桜如一・リマ夫妻とともに食養病院に従事する傍ら、たくさんのマクロビ道場生を世界に送り出します。さらに、の廃寺を復興して欧州の麻薬中毒の若者を受け入れ治療したり、料理教室を開いたり、マクロビオティックの懐石料理を考案。如一の死去、愛子はリマ夫人とともに如一の遺言「精神文化オリンピック」開催に奔走。世界14か国100人余りの参加者と一緒に1日1ドルの予算で 禅寺に寝泊まりしてマクロビオティック菜食をしながら日本を1か月かけてめぐり、最終目的の広島まで平和行進をします。その後も、愛子はリュックサックをしょって世界を飛びまわり、具合の悪そうな人を見つけては食事を提供して元気にしてまわります。

-日本CI協会 Japan CI Association

-正食協会 Seishoku Kyokai

「人間らしさに徹底せよ!」
"Be Humane!"

緒方 貞子 女史
Ms. Sadako Ogata
1927 - 2019
東京都麻布区 生誕
Born in Asabu-ku, Tokyo-to

緒方 貞子 女史は女性初の日本女性初の国連日本政府代表部公使、女性初の国連難民高等弁務官、JICAの初代理事長、日本における模擬国連活動の創始者です。難民救済と人間の安全保障のために世界中を駆け巡りました。
Ms. Sadako Ogata was the first woman in Japan to serve as the Ambassador of Japan to the United Nations, the first female UN High Commissioner for Refugees, the inaugural Chairperson of JICA (Japan International Cooperation Agency), and the founder of Model United Nations activities in Japan. She has been tirelessly working around the world for refugee relief and human security.

********

「私の友達がいた国が何であんなことをするようになったのだろう」
 貞子は外交官の家庭に育ち、米国、中国で幼少期を過ごします。4歳のとき、曽祖父・犬養毅の突然の死をサンフランシスコで知ります。「軍部はよほど悪い人たちに違いない」。身体を動かすことが大好きなおてんばで、いちばん楽しみなのは運動会。長距離は苦手でも短距離は得意中の得意。外をたくさん走り回って活発に過ごしていると、日中戦争が勃発、勝手に歩き回ることさえできなくなります。8歳の時に一家で帰国、まもなく日米戦争が始まって空襲で焼き出され、疎開先の軽井沢で終戦を迎えます。聖心女子大学入学すると、午前中に授業をすませて午後はテニスに打ちこみます。初代学長キャサリン・エリザベス・T・ブリットから女性としてリーダーシップをとるよう背中を押され、米ジョージタウン大やカリフォルニア大バークレー校の大学院で学びます。

「一体日本はどういう国だったのだろうか、どうしてああいう戦争になったのだろうか」
 戦勝国アメリカの「自由と民主主義が勝ったんだ」という自信そして非常に寛大な精神のもと、「自分の国はこうだ、あなたの国はどうですか」いろいろな国から来ているたくさんの留学生たちと見聞を広げながら、貞子は多くの人を訪ね、中国を歩き回って、満州事変に関わる政策決定過程について論文をまとめ政治学博士号を取得します。その最中に、後の日本銀行理事・緒方四十郎と結婚。夫に伴って大阪・ロンドンで子育てに奔走、しばらくして国際基督教大学の非常勤講師として外交史の教鞭をとります。1週間に1日の講義のために、家事を終えて子供を寝かしつけた後に毎日猛勉強します。ある日、市川房枝女史が突然訪ねてきて、「どうしても行ってほしい」。強い推薦により国連総会の日本政府代表団に参加、女性初の国連日本政府代表部公使に起用されます。子育て中でためらう貞子に、「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」父と夫も全面的にバックアップします。

「かなり人権というものは政治的なものだな」
 39歳の貞子は初めて国連総会・人権委員会に日本政府の代表団の顧問として出席。繰り返し政府間の総会に出席するなかで、いろいろな立場に置かれ、いろいろな経緯がある、いろいろな思惑が交錯する、難しい政治色の強い場で人権のことを学びます。ベトナム戦争終結前後、インドシナ三カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス)からの大量難民がメディアで話題になる中、50歳の貞子はUNHCRのインドシナ難民経費の半分を引き受けた日本政府からカンボジア難民救済視察団長に任命され、タイ国境地方のカンボジア難民キャンプ150万人のもとを訪れます。インドシナ難民を助ける会、日本国際ボランティアセンターなど、生まれたばかりの日本の民間支援団体と一体になって難民救済事業に取り組みます。日本政府は1981年に難民条約に加入、翌年に難民認定制度が導入。難民の保護に関する国際的な主原則を受入れ財政的な支援等も行います。さらに、園田直外務大臣の主導のもと在日外国人に社会保障また保護措置を付与、教育・年金・児童付与手当て・ 健康保険などの保護的な原則と事業が始まります。

「人権と難民の保護・支援という人道との間には違いがある」
 60歳の貞子は国連総会・人権委員会の特別報告者として、ビルマ(現在のミャンマー)軍事政権に人権交渉に向かいます。1988年ソウマウン国軍最高司令官によるクーデター以来、非暴力のデモ隊数千人を殺害、数千人の活動家を逮捕・投獄して拷問、欧米の内政干渉を拒否して民主化指導者アウンサン・スーチーを軟禁、数千人の難民を近隣諸国に放出していた軍事政権を相手に、貞子は人権について話し合ってある程度の理解を勝ち取り、欧米による厳しい批判・制裁の中で日本が水・医療・植林・空港はじめミャンマーにとっての最大の援助国となり、豊富な天然資源・軍事戦略を活かしてASEAN(東南アジア諸国連合)と一体化できるような土台をつくって帰ります。日本からの拠出金ならびに日本人女性への期待が高まる中、64歳の貞子は1991年に第8代国連難民高等弁務官にアジア初・女性初として就任、さらに2度再任され10年間にわたって従事します。貞子は難民問題を抱える紛争地を防弾チョッキ・ヘルメットで積極的に訪れる「現場主義」を貫きます。

「一番大事なことは苦しんでいる人間を守り、彼らの苦しみを和らげること」
 貞子は1年の半分は現地で過ごしながら難民たちの声に耳を傾け、さらに地域の政治的なリーダーとも交渉します。湾岸戦争では、「内政干渉だ」と反対する各国外交官を説得して回って、トルコへの入国を拒否されイラク国内にとどまるクルド人を国内避難民として支援します。ボスニア紛争では、国連安全保障理事会から厳しい批判を浴びながらも人道支援の政治利用を断固拒否、サラエボへ食料の空輸を決行します。ルワンダ内戦では、武装集団だった人々を支援することに避難を浴びながらも、 アフリカ諸国の協力による治安維持軍を組織、「和解」と「共生」のために難民の武装解除をしながらルワンダ難民を母国に強制送還します。それから貞子はボスニアならびにルワンダで女性を中心とした様々なグループの出会いの場(難民と非難民、対立する民族同士など含む)、いろいろな職業訓練の場、ならびに新しい社会作りの中心勢力として「ボスニア女性イニシアチブ」「ルワンダ女性イニシアチブ」を組織します。

「人間の安全保障と国家の安全保障」
 アフガニスタンから難民600万人が周辺のパキスタン・イランに流出。アフガニスタン難民のための支援金が毎年減っていく中、貞子はアフガニスタンに出かけタリバンと女子教育また女性就業について交渉、パキスタンに出かけ難民の受け入れと就業支援について相談。なかなか国際的な支援が得られない中でアフガニスタンは「忘れられた国」となり、9月11日にニューヨークでテロが起こります。アフガニスタンによる攻撃が開始、相当数のタリバンが追放されてようやく難民400万人は帰っていきます。2000年に約10年間務めた国連難民高等弁務官を退任した貞子は、小泉純一郎政権下でアフガニスタン戦争後の支援政府特別代表に就任。アフガニスタンはじめにオバマ政権のアメリカまた関連諸国と話し合いを調整、2002年に東京でアフガン復興支援国際会議を開催、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)と共同議長を務めます。「復興援助をすることによって、少しでもいい生活ができる可能性を人々に分かってもらわなければならない。」2003年に新たに発足したJICAの初代理事長に就任すると、危険訓練を受けさせた若手を防弾チョッキと防弾車とともにいち早く復興支援の現場に送り込みます。タリバン政権崩壊から3年後の2004年、アフガニスタンで初めての大統領選挙が実現。貞子は晩年もテニスに打ち込みつつ世界を駆け巡りながら92歳で逝去します。

-聖心女子大学 University of Sacred Heart, Tokyo
-国連難民高等弁務官事務所 The UN Refugee Agency
-国際協力機構 JICA
-日本模擬国連 JMUN

「1人で見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる」

"A dream you dream alone is only a dream. A dream you dream together is reality. "

ヨーコ・オノ・レノン

Ms. Yoko Ono Lennon

1933- 

東京都千代田区富士見 生誕

Born in Fujimi, Chiyoda-ku, Tokyo

ヨーコ・オノ・レノン女史はコンセプチュアル・アート、マルチメディア・アートの先駆者です。1960年代初頭からニューヨーク、東京、ロンドンに住みながら、コンセプト・アート、パフォーマンス・アート、映画製作、実験音楽で世界で先駆的に活躍。日本女性で初めてグラミー賞・金獅子賞を受賞。

Ms. Yoko Ono Lennon is a trailblazer in conceptual art and multimedia art. From the early 1960s, she has been at the forefront of conceptual art, performance art, filmmaking, and experimental music, living in cities such as New York, Tokyo, and London. She has made groundbreaking contributions worldwide. She was the first Japanese woman to receive the Grammy Award and the Golden Lion Award.


おそらく自分の最初のアート作品

 安田財閥の大屋敷に洋子は誕生します。父親・英輔は日本銀行総裁の息子として横浜正金銀行サンフランシスコ支店に勤務。母親・磯子は安田財閥の孫として大屋敷で数十人もの使用人を采配して社交に大忙し。洋子は両親の愛情表現またスキンシップを受けることなく育ちますが、かつてピアニストまた画家を目指した父親また母親によってピアノまた芸術の教育を授けられます。まもなく父親の転勤に伴って、洋子は日本とニューヨークを行き来しながら育ちます。学習院初等科、ニューヨーク・ロングアイランドのパブリックスクール(公立小学校)、学習院女子中・高等科を経て、学習院大学の哲学科に入学。太平洋戦争が激しくなった折には、疎開先の田舎で自分の持ち物を食べ物と交換しながら空腹をしのぎ弟とふたりで夕食に何が食べたいかを想像して過ごします。

『踏まれるための絵画(Painting To Be Stepped On)』

 やがて敗戦後の日本でアメリカのポップカルチャーが流行する中、洋子は先進的な校風で知られるサラ・ローレンス女子大学に入学して英文学・作曲・芸術などを学びます。まもなく洋子は、ジュリアード音楽院で学んでいた前衛作曲家でピアニストの一柳慧と出会い、前衛芸術に傾倒していきます。同大学を退学して結婚すると、2人は反対する両親から離れて、バーのピアノ弾きと日本協会での事務仕事をしながら、ジョージ・マチューナスらはじめ前衛芸術家集団「フルクサス」と共に活動を開始。27歳のとき、洋子とはマンハッタンのアパートをスタジオ兼居住スペースとして借り、若手アーティストに発表の機会を与えたり、社交力を生かしてマックス・エルンスト、イサム・ノグチ、マルセル・デュシャン、ペギー・グッゲンハイムら招いてアートイベントを開催します。ここで洋子は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアルアートを発表します。さらにカーネギー・リサイタルホールで、フルクサスのメンバーと実験音楽会とアートパフォーマンスを発表します。

『カット・ピース(Cut Piece)』

 29歳の洋子は、一足先に帰国していた慧を追って日本に帰国。草月会館にて洋子は、観客に自身の衣装をはさみで切り取らせるパフォーマンスアートを発表。慧の実験的音楽作品は日本の音楽界に熱狂的に迎えられる一方、洋子は当時の日本の評論家らに執拗に酷評されます。「時代遅れ」「彼女のアイデアはすべてニューヨークの人々の借り物だ」。深く傷つき自殺未遂を起こした洋子は精神病院に入院。するとアメリカの映像作家アンソニー・コックスが毎日のように花束を持って洋子の病室に通ってきます。やがて洋子は精神病院を退院、アンソニーと結婚します。2人で東京渋谷の外人村で通訳・翻訳をしながら暮らし始め、表現活動を始めます。翌年には娘のキョーコをもうけるも、母親になることに戸惑いのある洋子は夫と娘を日本に残してひとりニューヨークに戻ります。

『グレープフルーツ(Grapefruit)』

 洋子はアメリカに亡命していたドイツ人作曲家シュテファン・ヴォルペと彼の3人目の妻で詩人のヒルダ・モーリーと親しくなります。バウハウスで学んだ2人からアートセラピーの概念を活かした進歩的な音楽また芸術教育について学びながら、詩を共作します。31歳のときに、セルフケアとしてアートを捉えなおした詩集を東京から発表。「叫びなさい。一、風にむかって二、壁にむかって。三、空にむかって。」。やがて英語版が世界中で発売されると熱狂的に受け入れられ、人々を元気づけま洋子は自分を立ち直らせるように、自ら「インストラクション・ピース」と呼ぶセルフケア・アートに傾倒、ジェンダーや人種偏見に直面しながらアーティストとしての基盤を形成していきます

『No.4 通称ボトムズ(bottoms)』

 洋子は33歳のときに、ロンドンの現代芸術協会に招かれて渡英夫のアンソニー・コックスと一緒に、ロンドンの知識人365人服を脱がせてお尻クローズアップショットを撮影1時間あまりの長編実験映画作品として発表すると、町を歩いていても通行人がヨーコヨーコと声をかけてくるくらい話題となり、家族3人でロンドンに活動拠点を移します。洋子は仕事で忙しくする中、夫と娘に「ママ、公園に一緒に行こう」と催促され仕方なしに一緒に出かけるも淋しくて退屈します。家族の南フランスへの長期休暇も洋子は仕事を優先させ、夫と「ママ、ママ」と泣き叫ぶ娘の二人だけを送り出します。

『天井の画 (Ceiling Painting/Yes Painting)』

 そんな中、ロンドンのインディカ・ギャラリーでの個展未完成の絵画とオブジェ」の準備中に訪れたジョン・レノンと出会いま。地下室の展示室に案内されたジョンは、天井に張り付けられた画を見ようと梯子を登って天井から吊された虫眼鏡を覗くと小さな「YES」という文字を見つけ大興奮。ヨーコはジョンに寄り添うように他の作品を案内して廻ります。2人は文通を始め、洋子のロンドンのリッソン・ギャラリーでの全オブジェが半分の形で展示された個展「ハーフ・ア・ウィンド・ショー」の後援をジョンが引き受けます。

『平和のためのベッド・イン(Bed in for Peace)』

 洋子とジョンはベトナム戦争に対する抗議運動を立ち上げます。洋子はジョンの妻の留守中に彼の自宅を訪れ、前衛的なテープループセレクションを一晩中録音2人の最初の共作アルバム『Unfinished Music No. 1: Two Virgins』として 2 人の未修正ヌードの表紙とともに発表します。洋子はビートルズのアルバムにも追加ボーカルまたサウンドコラージュを提供。洋子は35歳のときにジョンブラルタルの登記所で結婚式を挙げ、新婚旅行をアムステルダムで過ごしながら1週間にわたる平和のためのベッド・インを敢行。米国で入国を拒否された2人は、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルの部屋でコンサートを開催しながら『Give Peace a Chanceを録音します。プラスチック・オノ・バンドを結成して、クリスマスのロンドンでユニセフ主催『ピース・フォー・クリスマス』コンサートに参加。「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」を発表しながら、ニューヨークのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に看板を設置、ポスターまた新聞広告を出して平和キャンペーンを敢行します。

『ウィッシュツリー(Wish Tree)』

 「ビートルズを解散させた女」として数多くの非難と中傷が洋子に浴びせられる中、洋子とジョンはニューヨークに移り住みます。洋子はエバーソン美術館で回顧個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』を開催する一方で、ジョンと2人で反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモへ参加、刑務所で起きた暴動の被害者また知的障害を持つ子どものための救済コンサートに出演。そんな中で洋子は42歳で息子・ショーンを出産、ジョンは育児と家事に専念するも5年後に洋子の目の前で暴漢に射殺されます。直前に発表したジョンとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞します。しばらくして56歳の洋子はホイットニー美術館で回顧展を開催、アート活動を再開します。これまでの作品を石化したブロンズとして青銅で鋳直す一方、全白のエナメルを施し敵味方の区別のつかないブロンズのチェスセット『Play it by Trust』を鋳造します。さらに観客ひとりひとりが願い事を書いて木に吊るす参加型アートプロジェクトフィンランドから開始。近年はソーシャルメディアを活用してメッセージをさらに幅広い聴衆に伝えています。「自分を信じれば世の中を変えられる」。

-Yoko Ono via MOMA

-Imagine Peace Yoko Ono 

「下に置かれている女性は変革を求めて社会を変えていく。
男性は後から追いかけてくる。」
'Women, positioned beneath, seek to bring about change in society. Men, they come trailing behind.'"

晴野 まゆみ
Ms. Mayumi Haruno
1957 -
東京都大田区 出身
Born in Ota-ku, Tokyo-to

日本初のセクハラ裁判「福岡セクシュアルハラスメント事件」の原告。日本のすべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策を求める男女雇用機会均等法の改正を促進しました。現在、株式会社チームふらっと代表取締役社長。
Ms.Mayumi Haruno is the plaintiff in Japan's first sexual harassment lawsuit, known as the "Fukuoka Sexual Harassment Case." This landmark case prompted the amendment of the Equal Employment Opportunity Law, advocating for the implementation of sexual harassment prevention measures in all Japanese companies and public workplaces. Currently, she serves as the President and Representative Director of the company Team 'Furatto'.

「変な噂」
 まゆみは福岡の西南学院大学を卒業後、ブライダルコーディネーターの仕事をするも、3度目の転職を経てようやく希望する出版社に入社。社員3名の学生向け情報雑誌を発行する会社で、福岡のエンタメ・グルメ情報を取材・編集する仕事に打ち込んで猛烈に働きます。取材予定を度々すっぽかしたり、締め切り前の繁忙期でも家庭優先でさっさと帰宅する男性編集長をフォローしながら、まゆみは取引先との付き合いを優先して男女の別なく食事また飲みに行ったり、深夜遅くまで原稿を執筆したり、1/3の給与で3倍の仕事量をこなします。「編集長ではなく、晴野さんに取材して欲しい!」取引先からの信用が篤くなる一方、直属の上司である男性編集長から性的なからかいを言われるようになります。「結婚もせずに夜遊びか」「お盛んだな」最初は軽い冗談、くだらない冗談として受け流して平気な振りをします。変な噂を立てられても平然としていればそのうち消えるだろう。」ところが男性編集長の嫌がらせは逆にエスカレートします。ある日、会社に出入りするアルバイトの学生がコーヒーカップをまゆみの机に置きかけて言います。「おっと、汚れた女の机に置いたらいかん。」まゆみの仕事を評価する係長から昇給が言い渡されると、「男女の関係」「できとっちゃろ」男性編集長は外部に吹聴してまわります。まゆみの仕事を評価する専務が男性編集長の給与を削ってまゆみの給料を上げようとすると、「ふしだらな女」「男関係にだらしない」男性編集者は悪評を立ててまゆみの昇給を阻止します。まゆみが婦人病で入院することを伝えた直後、男性編集長は社外に電話を始め「実は晴野が入院するんですよ。男遊びが激しくて、婦人病にかかったんです。」ある時、まゆみがスポンサーの既婚男性と恋愛関係にあったときに、男性編集長に言われます。「スポンサーへのギフト代わりに、この女をだれが落とすかゲームしたんだ。」「不倫を黙っておいてやるから会社を辞めて欲しい」

「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」
 「自分の好きな仕事を失いたくない!」まゆみは、意を決して社長に直訴します。「大人の女なんだから、笑ってやり過ごしなさい」あげくにケンカ両成敗としてまゆみは即日解雇にされる一方、男性編集長は3日間の自宅謹慎。食い下がるまゆみに「女性は仕事を辞めても結婚がある。男はそうはいかない。」「君は優秀だが、男を立てることを知らない。次の就職先では男を立てることを覚えなさい」まゆみは2年半セクハラに耐え、最後の3日間会社に通って残務整理を全うします。まゆみはかつての関係者をまわってフリーライターとして生計を立てながら、「どうして女性だけが仕事を奪われ、存在価値を汚されるのか?」祖父が弁護士で法律が身近にあったまゆみは、労働基準監査局に出向いたり、民事調停に持ち込んだりします。簡易裁判所で男女の調停員は言います。「相手は優しそうで大人しそうな男性で、ひどいことを言うようには見えない。」「女は浮いた噂のひとつやふたつ流されるうちが華ですよ」「そんなことで名誉棄損で訴えるなんて前代未聞」女性弁護士に相談しても物的証拠がないと難しいと断られます。途方に暮れたころ、福岡市に「女性の女性による女性のための法律事務所」が開設されたことを知り訪ねます。代表の辻本育子弁護士は言います。「会社があなたを性差別している。訴えましょう。」「女性差別を禁じる民法の規定はないけれども、日本国憲法第14条「全ての国民は性別により差別されない」に反する不法行為にあたる」まゆみは裁判を起こす決意をします。そして、電車の中で「もう許せない!実態セクシャル・ハラスメント」という女性『MORE』の特集広告を目にします。早速雑誌を読んで、アメリカでの「雇用における性差別を禁止する」裁判判決を知ります。続いて福岡アメリカセンターで文献を調べて「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」に焦点をあて、フェミニストグループにコンタクトを取ります。

「クリーンな裁判」
 まゆみのもとに女性だけの弁護士事務所とフェミニズム団体が結集、「職場での性的嫌がらせと戦う裁判を支援する会」を結成されます。支持者を集めるために女性の知人40人からアンケートを集めると、「まだ結婚しないの?」「次の生理はいつ?」「あいさつ代わりに胸をお尻を触られる」など、全ての回答用紙に性的嫌がらせの体験が書かれています。まゆみは性的嫌がらせは全ての女性の問題として確信します。会報を刊行したり裁判資金を募ったりしながら、ようやく解雇から1年3か月後の1988年8月5日、まゆみは「原告A子」として、「元上司」と「会社」を相手に360万円を請求して福岡地方裁判所に提訴、日本初のセクハラ裁判を起こします。匿名裁判にマスコミから野次が飛び交います。「やましいことがあるんだろ?」「男関係が派手な女性らしい」「ブスでもてない女が騒ぐんだ」出版社で働いていた学生アルバイトの女性たちが証言台に立つ中、まゆみも意見陳述を代理人に任せず自分で行います。公判の席で被告側弁護士は飲酒についてしつこく聞きます。「週に何回、何時まで飲みに行っていましたか?」「あなたは、女性がお酒を飲むことに罪悪感はありませんか?世間的に恥ずかしいとは思いませんか?」。弁護団が反論します。「どうしてそれがいけないのか?」被告側証人が言い立てます「原告は男関係にだらしのない女だ」「性的な話題が好きな女だ」。まゆみが性的中傷を繰り返し受ける中、原告団から「意義あり」の声が上がらないことにまゆみはさらに苦しみ、ついにこの被告側証人を裁判所の廊下で平手打ちします。支援者はまゆみに詰め寄ります。「あなたひとりの裁判じゃない!」係争2年8カ月目の1992年4月16日、川本隆裁判長は判決文を読み上げます。「主文。被告および、被告株式会社は、原告に対し、連帯して金165万円を支払え」裁判所は元上司による性的中傷を違法と認定、会社も使用者責任としてセクハラに対応する責任があると判決を下します。

「さらば、原告A子」
 まゆみは裁判を通じて、そして男性の思い描く女性像と実際の女性との間に大きな乖離があることを痛感します。さらに、元上司は「女に負けるな」「男が上に立たなければならない」という男社会の被害者であると考えるようになります。裁判はマスコミの注目を集め社会問題として広く取り上げられる一方、バラエティ番組で「色物」として扱われたり、アダルトビデオに「セクハラもの」が制作されたり、興味本位で扱われます。まゆみが男性週刊誌から手記の執筆依頼を受けると支援団は猛反対します。「クリーンな裁判を汚さないで。」ライターであるまゆみは仮名で自分の率直な気持ちを綴りはじめ、本名で取材に応じるようになり、勝訴10年目には本名で『さらば、原告A子』を出版します。「男女を対立させるのではなく互いに理解し合って差を埋めたい。」しばらくしてまゆみが福岡の屋台で飲んでいると、「そういう言葉はセクハラになりますよ」若い男性が年配の男性に注意するのを耳にします。1997年10月改正男女雇用機会均等法21条に事業主に対してセクシュアル・ハラスメントの防止配慮義務が規定(1999年4月施行)、同年11月13日人事院規則10-10で管理者に対しセクシュアル・ハラスメントを防止する責務を定められ、すべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策が求められています。

-晴野まゆみ『さらば、原告A子 : 福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記』海鳥社
-弁護士法人女性協同法律事務所
-西南学院大学
-福岡アメリカセンター
-株式会社チームふらっと

「落ち込まない、がんばりすぎない、でもあきらめない、いつかならずできると信じる」
"Not get discouraged, not try too hard, not give up, and believe that you can do it someday."

田中百合子 女史
Ms. Yuriko Tanaka
1947 - 2019
東京都世田谷区 出身
Born in Setagaya-ku, Tokyo-to

田中百合子女史はスモン訴訟の東京地裁原告団事務局長で元東京スモンの会会長。20代でかかった薬害スモンに苦しみながら、薬害スモン訴訟はじめ薬害根絶運動・薬事法の改定と医薬品副作用被害救済基金の設立に奔走。
Ms. Yuriko Tanaka is the executive director of the Tokyo District Court plaintiff group in the SMON lawsuit and former chairman of Tokyo SMON. While suffering from drug-induced harm in her 20s, she worked hard to fight drug-induced harm, including lawsuits against drug-induced harm, to revise the Pharmaceutical Affairs Law, and establish a relief fund for victims of adverse drug reactions.

「しびれ」
 百合子はバスで通学しながら、東京オリンピックが開かれる駒沢公園の工事現場を見て通っている内に、建築家を目指すようになります。やがて武蔵工業大学の建築学科で150人のクラスでたった一人女子学生として充実して勉強に励みます。製図製作のために毎晩12時頃まで研究室に残る生活を続けるうちに、ストレスと疲労で下痢をしたり便秘をしたり血便が出るようになります。虎ノ門病院に駆け込むと、ファイバースコープで胃の検査をするも原因不明。2週間分の整腸剤キノホルム(エンテルビオフォルム)を処方されます。1日粉末3gを飲み始めて1週間目、腹部全体が腹痛に襲われ、食べたもの全てを嘔吐し便も尿も出なくなります。虎ノ門病院で緊急入院すると赤痢と疑われ隔離されます。抗生物質クロロマイセチンを注射されると症状はじきに消えて2週間ほどで退院します。担当医が百合子にたずねます。「しびれはないか?」

「スモン」
 その二年後、大学の四年生になって就職活動を始めたり、卒論を書き始めるとまたストレスと疲労が溜まって下痢に悩まされるようになります。東京都職員として就職が決まると、完治を目指して再び虎ノ門病院で診察を受けます。過敏性腸症候群と言われて同じキノホルム剤を処方されます。今度も腹痛と嘔吐がひどくなり再入院します。担当医はキノホルムを毎日投与し続け、百合子は腹部の激痛、下痢が良くなっては悪くなることを繰り返します。緑色の尿や便が出たことを医師や看護婦に報告しても何も答えてくれません。やがて足の裏からびりびりしたしびれが膝・大腿部・お腹へ・胸まで数日ごとに上がってき、突然歩くことすら困難になります。それでもキノホルムは飲まされ続け、同時にステロイドを投与されます。4ヵ月が過ぎてやっと退院する時にも、下痢ばかりして、足はやせ細り、おへそから下の足全部がしびれたまま。「一体自分は何の病気なのか?」リハビリ通院を続ける百合子はある時カルテをのぞき込むんで「スモン」の3文字を見つけます。

「辞職」
 医者にもらう薬は全く効かず、体力は全く回復せず、下痢を繰り返し、少し無理をすれば神経痛と足のしびれが強くなります。全身の疲労感と足の痛みに苦しむ百合子は就職を10月に延長してもらい、職場を都庁から自宅に近い世田谷区建築部営繕課に移動してもらいます。朝は家族に職場まで車で送ってもらい、帰りは上司の車に最寄り駅まで乗せてもらってあこがれの建築の仕事を必死で続けます。日本全国各地である日突然猛烈な腹痛に襲われて、やがて足の先からしびれて全身麻痺・失明・死亡する患者が増えて亜急性脊髄視神経末梢神経症(Subacute Myelo-Optico Neuropathy)、略してSMONと呼ばるようになっていました。そして“スモン=ウィルス説”が突然新聞で断定的に報道されます。同僚に感染を不安がられるようになり、百合子は1年半後に涙をのんで辞職します。しかしすぐにこのウイルス説は学会で完全に否定され、替わって“スモン=キノホルム説”の新聞記事を見つけた百合子は愕然とします。担当医に質問すると「キノホルムがスモンの犯人と決まったわけじゃない。勇気を出してもっと飲んだら良くなるかもしれない。」

「賠償金」
 百合子はスモン=キノホルム薬害訴訟に関わるようになり、まもなくスモン訴訟東京地裁原告団事務局長に就任します。足を引きづりながら武田薬品・田辺製薬・日本チバガイギー社に直接交渉に出かけて行ってはひと月寝込み、原稿を必死になって書いては熱を出し、「もうどうでもいい」と叫びたくなりながらも告発闘争・訴訟に体をすり減らします。「賠償金をいくらもらっても私の一生は台無しになってしまった。全国で3万人のスモン被害者全員に賠償金を払って会社がつぶれるならそれでいいじゃないか。一体どうしてそのくらいの責任がとれないのか?」「医者ははっきり責任を持って自分が投与した証明を出すべきだ。人間としてすまなかったという態度を一度として見せてもらったことがない。」「医療は人の健康を食って儲けている。社会のための人間のための医療制度がなくては。」それでも少し体調がよくなると、3万人のスモン患者にうしろめたさを感じながら20代を楽しみ、心身障害者のための住宅造りを少しづつ研究します。7年後、全国十一地方裁判所で国と製薬会社の責任が認定され、百合子はじめ約6500人のスモン患者は和解観告に応じて賠償金を受け取るとともに、薬事法の改定と医薬品副作用被害救済基金の設立を後押しします。

「ステロイド」
 友達の紹介で鍼治療を始めた百合子は少しずつ体調が安定、結婚して2児を授かります。夜もほとんど寝ないで母乳を与えて子供を育てていると、ひどい下痢が続いて全身の関節がはれ上がり、トマトケチャップのような血便と貧血に苦しみます。入院すると潰瘍性大腸炎と診断され、輸血を避けて鉄剤を注射し、鼻から胃に通した管から栄養を取ります。あまりのつらさに絵を描かきはじめます。そしてステロイド(副腎皮質ホルモン)の長期投与が始まると、ムーンフェイス・月経異常と不正出血・気管支拡張症・肋骨13カ所と脊椎腰椎3箇所の骨折・副鼻腔炎(蓄膿症)・侵出性中耳炎・日和見感染症・鬱病・多幸症・大腸がんと人工肛門手術といった考えられないような副作用に苦しみます。そんな中でも二人の子供を育て上げ、旅と絵を楽しみ、その苦労と喜びを講演また著書にまとめて発表します。「一人の人間が病気という苦境のなかにあっても、あきらめてその中に沈み込まず、命をはぐくみ、つむぎつづけて、前を向いて歩いてきた事、それがテーマでした。」

-「この命、つむぎつづけて」(田中 百合子 著 / 毎日新聞社2005年)
-「この命、つむぎつづけて」ウェブサイト
-社会福祉法人 全国スモンの会 

「私の想像するハーレムとは全然違っていた」
“It was completely different from what I imagined a harem to be like."

田中 優江 女史
Ms. Masae Tanaka
1942 -
東京都世田谷区上野毛 生誕

田中 優江女史はモロッコ国王・ハッサン2世(HASSAN II)専属マッサージ師として12年にわたって国王はじめ国王ファミリーに仕えながら、モロッコならびに日本の親善に貢献します(1987年~1999年)。
Ms. Yue Tanaka served as the exclusive masseuse of the King of Morocco, Hassan II, for 12 years, serving the king and his family while contributing to the friendship between Morocco and Japan (1987-1999).

「1億円結婚詐欺」
 優江は大地主の5女として誕生。2000坪の邸宅で裕福に育ち、結婚して娘を授かると離婚して父親の遺産で暮らし始めます。まもなく世間を賑わす1億円結婚詐欺師・クヒオ大佐に娘の将来の学費まで貢いで一文無しとなります。しばらく精神的に病んで入院するも、娘のために手に職をつけようと友人の援助を得ながらエステティシャンの資格を取ります。続いて、当時最先端のリフレクソロジーを研究するために、麻布十番にある阿部常正治療院に入門します。

「政治家のマッサージ師」
 政界・芸能界・大手企業の社長などの治療に従事する優江は、ある日モロッコ大使の平岡千之氏(三島由紀夫の弟)の指圧をしているときに「モロッコの王様が2年契約で日本人女性のマッサージ師を探している」と聴くやいなや立候補します。「私!ハーレムを見てみたい!」娘の了承を得ると、続いて常連患者・羽田孜から推薦状を書いてもらい、数か月のうちに娘と一緒に王様の誕生パーティーに出席する準備を整えます。

「王様専属マッサージ師」
 優江は国中をあげてお祝いするイルミネーションとパレードと数百mもの赤い絨毯を通り抜けてカサブランカの宮殿でハッサン2世にご挨拶。1週間後には王税の従者とともに王様のイギリス公式訪問に同行してバッキンガム宮殿でエリザベス女王夫妻とダイアナ皇太子妃にご挨拶。帰国後は季節ごとに宮殿を移動しながら、陽気なフィリピン人の同僚たちと一緒に、夫人はじめ王族たちの様々な思惑を乗り越えながら、王様ならびに夫人らのマッサージに従事します。

「モロッコ王国のハーレム」
 優江は王様から高価な贈り物はじめ信頼と支援を得て、自身の住居のランクアップと給料の賃上げの交渉をしながら、娘をアメリカ・フランス・モロッコ・日本で勉強させたり、ファーストクラスでバカンスに出かけたり、皇子と一緒に日本天皇の大喪の礼に出席したり、王様と羽田孜副総理との会談を取り持ったり、モロッコ王族と日本の宮家はじめ商社・芸能関係者との親善に貢献しながら過ごします。ある日、JICA所長から王様の逝去を知らされた優江は、国家を歌いながら行進する人垣を通り抜けて宮殿に入ると王様の棺の傍を何時間も離れずに過ごします。新国王に他の専属スタッフと一緒に即日解雇された優江は12年振りに日本に帰国します。

-『王様と母と私 モロッコ国王のマッサージ師となった母のシンデレラストーリー』(田中 由紀子著 / 幻冬舎メディアコンサルティング)

「人々に他の集団を理解してもらい、もっと敬意を持ってもらいたいのです。」
"I want people to understand other groups and have more respect for them."

にしお ちえ 女史
Ms. Chie Nishio
1930 -    
東京都 生誕
Born in Tokyo-to

にしおちえ女史は、1990 年代初頭にニューヨークのブルックリンでルバヴィッチ派・ハバッド派のユダヤハシディズム共同体の日常生活を初めて記録した報道写真家です。
Chie Nishio was the first photojournalist to chronicle the lives of the Lubavitch-Chabad Hasidim in Brooklyn, New York, in the early 1990s.


「報道写真家」
 ちえは鉄道整備士の娘として誕生。第二次世界大戦で荒廃した東京で育ちます。両親と気が狂いそうになる差別をうけながらも、大学に行く余裕がなかったためOLとして働き始めます。1960年代初頭、30代になってから写真専門学校を見つけて入学。そこで報道写真に夢中になります。男性の職業であったこの仕事で成功しようと奮闘するちえは、通信社の速報ニュースに写真を採用してもらえるように、東京オリンピックや中国の文化大革命など大きな出来事を取材して撮影します。大恐慌を記録したアメリカ人報道写真家ドロシア・ラングの作品に感銘をうけたちえは、1969年に渡米してニューヨークマンハッタンのダイヤモンド地区近くに引っ越します。毎年ニューヨークのギャラリーで作品を発表しながら、そこで彼女は「長いあごひげを生やし、黒い帽子をかぶってロングコートを着た」正統派ユダヤ教徒の男性たちを見てから、彼らに興味を持つようになります。

「ユダヤ人コミュニティー」
 やがて彼女は、コロンビアに正統派シナゴークを創設した移民のラビを曽祖父に持つユダヤ人作家ジェームズ・トレーガーと結婚。ますます正統派ユダヤ教、ニューヨークのユダヤ人コミュニティーに興味を持つようになります。無神論者の夫は信仰派の家族と分裂しているため、ちえが満足する情報を得ることができません。そこで、ウィリアムズバーグの正統派コミュニティーの写真を撮ろうとしますが、誰ともコミュニケーションが取れずにうまくいきません。友人の勧めで、部外者に対してオープンでフレンドリーなクラウンハイツ、チャバド派またルバビッチ派コミュニティーをたずねます。そこでは杉原千畝の通過ビザで渡米してきた人達が日本女性のちえに好意的で、自宅に招待し話しかけてくれます。何年もかけて粘り強く交流を深めるうちに、路上で遊ぶ子供たちから、宗教儀式、親密な家族の集まりまで、コミュニティの生活を広く撮影する機会を得ます。  

「歴史の証人」
 まもなく仕事をやめて夫の長い闘病を支えるうちに20年が慌ただしく経過。夫を見送って数年後、大切に保管してきたクラウンハイツで撮影した写真の展覧会を企画します。「私にはまた時間がある。私の時が来たのだ。」ブルックリン公共図書館で、家族、学校に通う子供たち、結婚式、正式な肖像画、儀式など、ハシディズム派ユダヤ教徒の日常生活の様子を白黒写真200 枚を展示します。日本女性として自分もアメリカで誤解されることが多かったとしながら、「私は人々に彼らが誰であるかを知ってもらいたいのです。」最後のルバビッチ派ラビの晩年を含め、歴史の証人として関心が寄せられる中、90年代初頭のクラウンハイツ暴動*は描かれていないと指摘されると、ちょうどニューヨークを離れていて立ち会っていなかったとしながらも「私のポイントでも写真の焦点でもない」。「人々に他の集団を理解してもらい、もっと敬意を持ってもらいたいのです。」

*クラウンハイツ暴動:
ユダヤ教超正統派ハシディーム派の指導者が運転する車に、黒人の少年が舗道ではねられ、現場へ急行した同派の救急隊が宗教上の理由からけがをした運転手のみを救出、少年は後続の救急隊によって病院に搬送され死亡。不満を募らせた黒人住民らはデモで抗議、その渦中でハシディーム派の学生が刺殺され、3日間にわたる大規模な民族間暴動へと発展。

-Samuel G. Freedman, "Brooklyn’s Lubavitch Community: A Culture Captured by the Ultimate Outsider" New York Times, Nov. 28, 2014
-"View From Within: Photos Documenting Chassidic Community"Chabad Org News Oct. 14, 2014

北海道 Hokkai-Do

「胸に燃ゆる烈火の焔に我身を焼き給え、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う。」
"Let my body be burned by the fierce flames that blaze within my heart, let my body be cleansed by the tears of passionate blood that well up from the spring."

知里 幸恵 女史 
Ms. Yukie Chiri
1903 - 1922
北海道登別市登別本町2丁目 生誕
Born in Noboribetu-city, Hokkai-Do

知里幸恵女史は日本で初めてアイヌの物語『アイヌ神謡集』を社会に発表したアイヌ女性作家です。
Ms. Yukie Chiri is the author of "Ainu Kamuy Yukar" (Ainu Divine Songs), the first written collection of Ainu narratives by an Ainu person.
********

「亡国のアイヌ」
 知里幸恵女史はアイヌの両親の父・高吉と母・ナミのもとに生まれます。
幸恵の父・高吉は南部藩侍の血を引き、登別温泉開発者・滝本金蔵夫妻に奉公して可愛がられ、読み書きそろばんを学んで山林や土地の払い下げを受け、知里牧場をアイヌの仲間と経営を始めます。日露戦争では旭川第七師団に入隊して203高地攻略の激戦を戦い抜いて金鵄勲章を受章するも、満足に働くことが出来ない状態になって戻ります。幸恵の母・ナミは姉のマツとともに、函館に出てイギリス人宣教師ジョン・バチラーによる愛隣学校でキリスト教や英語を学びながら伝道師の資格を得、日高の教会で伝道活動に従事していました。幸恵の母方の曽祖父・吉蔵は登別でアイヌと和人の両者に人望と財力を持ち、ジョン・バチラーの後援者として教会建設に協力するも、やがて和人に騙され全財産を奪われていました。ナミは高吉と結婚して農場の開拓に従事、重労働のできない体となった高吉の代わりに開墾・農作業など重労働を担って一家を支えます。知恵が生まれる少し前の1899年に明治政府は『北海道旧土人保護法』を制定。アイヌの土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の義務、日本風氏名への改名による戸籍への編入、など次々と実行に移され、アイヌ民族の生活・アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。
「おお滅びゆくもの・・・、それは今の私たちの名前、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。」

「アイヌ讃美歌 YESU EN OMAP」
 知恵は室蘭の登別川沿いで生まれ、6歳のときに祖母・モナシノウクと暮らす母の姉・マツの養女として引き取られます。マツは日本聖公会で布教活動をしながら日曜学校を開いてアイヌ女性に裁縫・読書・ローマ字等を教えており、幸恵も子供たちと「アイヌ讃美歌」を歌ったりしてマツを手伝います。モナシノウクは吉兆を占うアイヌの巫女、そしてアイヌの口承叙事詩 “カムイユカラ" の謡い手。幸恵はモナシノウクから自然の神々の神話や英雄の伝説を学びます。幸恵は母方の叔父・太郎が政府と直接交渉して建設したキリスト教系アイヌ学校で学びます。太郎はアイヌ学校の教師に就任するも、アイヌ自治を目指す嘆願書を国会に提出しに行く過程で行方不明となっていました。幸恵は同化教育のもと必死で日本語を勉強して、アイヌ子女で初めて北海道旭川高等女学校を受験するも不合格。その後、14歳の時にアイヌ子女で初めて旭川区立女子職業学校に110人中4番で入学。唯一のアイヌ生徒として、同級生から差別やいじめに遭いながらも、片道6kmの道のりを歩いて通いながら勉学に励みます。「私に今まで友達といふものが真にあったであらうか」。やがて、知恵は心臓病を患い学校を休みがちになります。そんな中でも、日曜学校で出会ったアイヌの青年・村井曾太郎とアイヌの将来について語り合いながら結婚を約束します。
「時は絶えず流れる、世は限りなく進展していく。激しい競争原理に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からでも、いつかは、2人3人でも強いものが出てきたら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。」

「アイヌ叙事詩」
 幸恵が15歳の時、言語学者の金田一京助が幸恵の祖母・モナシノウクを訪ねてきます。「世界五大叙事詩」と絶賛してモナシノウクの謡うユーカラを夜遅くまで熱心に聞き取って記録する金田一。幸恵は通訳を手伝いながら決意します。「私のため、同族であるアイヌ民族のため、アイヌ語を研究している金田一先生のため、学術のため、日本のため、世界万国のために私は書くのだ」。京助と手紙のやり取りをしながら、幸恵は "カムイユカラ" のローマ字筆記を始めます。心臓病が悪化する中、幸恵はノート3冊にわたって日本語に翻訳した「アイヌ伝説集」を金田一に送付します。出版を計画する金田一から上京の誘いを受けた幸恵は、反対する両親を説き伏せ、恋人・曾太郎の実家で仮祝言を挙げます。「必ず務めを果たして帰ってきます。チカップニの水辺に帰って来る渡り鳥のように」。東京・本郷の金田一宅に迎えられた幸恵は、東京で好奇の目にさらされながらも、教会に通ったり、産後鬱で伏せる京助の妻・静江と一緒に子供たちの世話をしたり、『女学世界』に寄稿したりしながら、京助と協力して翻訳・編集・推敲作業を続けます。ある日、幸恵はマツの便りで和人の女郎屋に売られた友人・やす子の死について知らされ激昂して金田一に諭されます。「だから、アイヌは、見るもの、目の前のものが、すべて呪わしい状態にあるのだよ」。上京して4か月余り、幸恵は心臓発作を起こしながらも『アイヌ神謡集』を完成させます。まさにその夜に、2度目の心臓発作を起こして19歳で死去します。
「試練!試練!!胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやきたまえ、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う」。

-『銀のしずく : 知里幸恵遺稿』(知里幸恵 著 / 草風館1984年)
-『アイヌ神謡集』(知里幸恵 編 / 郷土研究者1976年)
-知里幸恵 銀のしずく記念館 Chiri Yukie Memorial Museum
-北海道新聞 Hokkaido News

トネ・ミルン(旧姓 堀川 トネ)女史
1860 - 1925
北海道函館市 生誕
Borin in hakodate-city, Hokkai-do

トネ・ミルン女史は、日本地震学の父ジョン・ミルンの妻。函館の自由で最先端な女を貫きながら、日本ならびにイギリスにおいて夫の地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力。
Ms. Tone Milne is the wife of John Milne, known as the father of Japanese seismology. While embodying the progressive spirit of Hakodate, she supported her husband's foundational research in seismology, seismic-resistant architecture, and the development of seismographs in Japan and Britain.

「大火と文化大洪水の函館」
 トネは願乗寺(現在 本願寺函館分院)の僧侶・堀川乗経の長女として誕生します。父・乗経は、青森から小樽・函館に渡った開教開拓者で、西本願寺本山ならびに函館官吏の許可を得て、新渠を開き亀田川の水をひいて港内に転注させ、通称・願乗寺川また堀川を完成。函館市内に飲料水を供給、湿地の排水をよくし居住地を広げ、小舟運輸の便を助け、函館の発展の礎を築きます。トネ誕生の1年前には函館は国際貿易港として開かれ、各国の居留外国人との交流が盛んになり、衣食住にわたる西洋の風習が浸透します。トネは乳幼児から、近所に住むアメリカ人医師・ヘーツならびにロシア人眼科医・ゼレンスケの診療を受けすくすくと育ち、イギリス人貿易商人・鳥類学者・探検家であるトーマス・ブラキストン邸に通って英語・西洋文化を学びます。コーヒー・パン・直輸入のレコード・写真・ダイヤモンドなど日本の流行を先取りしながら、強風と大火と文化の大洪水の吹き荒ぶる港町で函館戦争・廃仏毀釈運動をくぐり抜けた12歳のトネは、ブラキストンのすすめにより、北海道の開拓を指導するホーレス・ケプロンが推進する東京府開拓使女学校に入学します。

「きかない函館女」
 東京住まいの士族出身の女生徒ばかりの中、寺の娘で口数の多いトネは蝦夷の野卑な女とからかわれます。地理・天文・化学・植物学・世界史などで良い成績を修めるものの、「夫がどんな浮気をしようとも女は決して嫉妬心を持ってはならぬ、嫉妬は女の恥じ」といった修身学の作文を断固拒否して先生たちに異端視されます。函館の自由な女のありようを貫くトネは、「卒業後は北海道開拓者と婚姻すべし」「途中退学するには官費を返納すべし」という新校則に憤慨する女生徒をまとめてストライキを起こします。まもなく皇后皇太后の行啓を理由にストライキはうやむやにされます。西洋裁縫・編み物などの展示作品作りの中で裕福な士族の娘たちは、全国平均収入20円のなか300円と高額な退学金を払って次々と退学していきます。トネは芸子代わりに着飾ってお酌をするよう強要されたり、考えもしなかった荒野の街・札幌に移転した開拓女学校で気の進まない西洋裁縫・養蚕・開墾作業に取り組まされ、やがてチフスで体調と精神を崩し「脳の病」で退学。1年後に開拓女学校は、開拓事業に教養ある女性は必要ないこと、開拓使官吏員が女生徒を襲う不祥事が後を絶たないことを理由に閉校になります。

「最先端の女」
 トネは神経症を患いながらも郷里・函館で英語塾を開こうとブラキストンのもとで再び英会話を学び始めます。その矢先、開拓使官吏との縁談を断ったことを理由に寺に集まる人々にさえ「脳病の娘」と悪評を流されます。そんな中、ブラキストンの紹介でスコットランド人のジョン・ミルンに出会います。彼は本国イギリスでスコッチと軽蔑されながらも造船所で働いて夜学に通って地質学・鉱学を学び、日本の美しい風景を支える火山・地震の研究に取り組みはじめていました。翌年トネはミルンと東京・赤坂の雲南坂教会で式を挙げ事実婚をはじめます。日本語の文献の翻訳、日本の歴史調査など、陰ながらミルンの地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力します。やがて、日清戦争の勝利に沸く中、イギリス領事官で婚姻届を提出、夫婦で南イングランドのワイト島シャイドに地震観測所と居を構えます。世界各地からひっきりなしに訪れる専門家・新聞記者たちをトネとミルンは仲睦まじく楽しくもてなします。ミルンが死去すると、第一次世界大戦を経てトネはミルンの遺髪と遺産を携えて帰郷。トネは美術好きな甥っ子を可愛がり「私が学費を出すから東京に出てデザインと建築を勉強しなさい。」

-函館市文化・スポーツ振興財団
-北海道新聞社
-『女の海溝 トネ・ミルンの青春』森本貞子(著)・文芸春秋

「結婚だけは清潔にやりたかった」

"I just wanted to keep marriage pure."


高峰 秀子 女史

Ms. Hideko Takamine

1924 - 2010 

北海道函館市若松町大手町 生誕

Born in Wakamatsu-tyo, Hakodate-city, Hokkai-do

高峰秀子女史は日本初のフリー女優第一号です。5歳から50年に渡ってたくさんの映画界の養父母に育てられながら、日本初の総天然色映画はじめ300本を超える作品に出演しました。ギャラは当時の首相・吉田茂の月給の25倍。女優引退後はエッセイストとして活躍しました。

Hideko Takamine is the first pioneering freelance actress in Japan. From the age of 5 and over the course of 50 years, she was nurtured by numerous "adoptive parents" in the film industry, all while appearing in well over 300 films, including Japan's first full-color movie. Her earnings were 25 times the monthly salary of then-Prime Minister Shigeru Yoshida. After retiring from acting, she had a successful career as an essayist.

*******

「元祖子役アイドル」

秀子は1924年(大正13年)北海道函館市音羽町(現在の若松町大手町)に蕎麦屋料亭・劇場・カフェなどを経営する裕福な地主のもと5人きょうだいとして生まれます。4歳の時に母親が結核で亡くなり、葬儀の翌日に父の妹・志げの養女となって東京に移り住みます。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚、高峰秀子の名で女活弁士になっていました。まもなく養父・市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなって家には滅多に帰らず、内職の針仕事で生計を立てる養母・志げとは母一人子一人の生活をはじめます。5歳のある日、養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行き、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションに飛び入り参加、養母・志げの芸名である高峰秀子で出演を果たします。作品は大ヒット、秀子は松竹に入社します。初任給は35円で家計は苦しく、養母は六畳一間のアパートで人形の着物を縫う内職をしたり、同じアパートに住む大学生の賄いをして暮らしの足しにします。人気子役となった秀子は、毎日のように養母と一緒に撮影所通いをはじめ、蒲田の尋常小学校に入学するも、徹夜の撮影も多くほとんど学校には通えません。10歳の秀子は流行歌手・東海林太郎に「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得され、志げと東海林家に移り住みます。次第に養女として溺愛され地方公演先まで連れ回され、レッスンはじめ志げまた撮影所から遠ざかります。耐えかねた秀子は志げを促して東海林家を出ます。12歳の秀子は溺愛される五所平之助監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役に抜擢。絹代にも可愛がられ、鎌倉山の「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになります。13歳の秀子は宝塚歌劇団入りを水谷八重子に相談、宝塚音楽学校校長の小林一三から無試験で入学を許可されます。同時に、東宝社長の植村泰二から月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校への進学を条件を提示されます。秀子は東宝に移籍、御茶ノ水の文化学院に入学します。その頃、養母・志げは函館大火で破産した実父一家を東京へ呼び寄せ、秀子の肩に9人の生活がのしかかります。東宝ではアイドルとしてますます売れっ子となり、文化学院は入学1年半にして退学を余儀なくされます。

フリー女優第1号

16歳の秀子は豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子を見てから演技と発声を学び直します。17歳のときに、山本嘉次郎監督の『馬』に主演、3年を費やす撮影中に31歳の助監督・黒澤明とスキャンダルを起こします。戦時中は千葉・館山の航空隊を慰問講演、戦後はアーニー・パイル劇場で占領軍相手の慰問公演に出演。東宝争議では日本映画演劇労働組合に反対して東宝従業員組合を脱退、他の脱退者らとともに新東宝映画製作所の専属となります。25歳のとき、島耕二監督『銀座カンカン娘』主題歌を歌ったレコードは50万枚の大ヒット。阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎と交流を始めます。その頃、20歳以上年上のプロデューサーで結婚を前提に交際していた会社の重役が後援会費を使い込んで他の女性と交際していた事が発覚、秀子は新東宝を退社してフリー女優第1号となります。26歳の時に日本初の総天然色映画で木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』に主演。留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在します。帰国後、木下惠介監督『二十四の瞳』に出演、当時の女優賞を独占します。31歳の時に木下の助監督で『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三との婚約を発表。木下が自ら報道各社に電話をして日本で初めて芸能界の結婚記者会見を開きます。40歳以降は映画出演が減少、テレビドラマにも出演するようになります51歳で自伝を出版、養母・志げを「ブタ」と罵り、同じ境遇ながらも家庭教師をつけてもらえた美空ひばりを羨む心境を吐露します。53歳のときに親族による養母・志げの「拉致」事件に巻き込まれ、双方の弁護士を介して交渉にあたります。54歳で木下監督の『衝動殺人 息子よ』に八千草薫の代役出演を最後に、女優業を引退します。引退後はエッセイストとして活動しながら86歳で逝去。

-松竹 Syotiku

-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan

「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」
「I am Mizu-no-e Ta-key, yeah!」

水の江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史
Ms. Takiko Mizunoe
1915 - 2009
北海道小樽 生誕
Born in Otaru-city, Hokkai-do

水之江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史は日本初の女性映画プロデューサーです。松竹歌劇団で男装の麗人「ターキー」の愛称で活躍後、日活の女性プロデューサーとして、岡田真澄・浅丘ルリ子・石原裕次郎ら新人の俳優また監督・スタッフを起用して70本以上の映画を企画。プロデューサーが絶対的権力を持つ構造を作り上げます。やがて甥の三浦和義の「ロス疑惑」に巻き込まれ芸能界を引退します。
Ms. Takiko Mizuno, also known by her real name Umeko Miura, was Japan's first female film producer. After gaining renown as the cross-dressing beauty "Turkie" in the Takarazuka Revue, she later became a female producer at Nikkatsu. Mizuno played a pivotal role in planning over 70 films, featuring emerging talents such as Masumi Okada, Ruriko Asaoka, and Yujiro Ishihara as actors, directors, and staff. She established a structure where producers held absolute power. Eventually, she retired from the entertainment industry, getting entangled in her nephew Miura Kazuyoshi's "Los Angeles scandal."

「ターキー」  
 ウメ子は2歳の時に家族で一家で東京の千駄ヶ谷・目黒と移り住み、ベーゴマ・チャンバラ・洞窟探検など活発に遊んで過ごします。ある日、ウメ子は姉に連れられて浅草の東京松竹楽劇部第1期生試験会場に連れ出され、言われるがままに試験に臨み合格します。10カ月あまりの基礎訓練を受け、「水の江瀧子」の芸名で浅草松竹座に出演。ウメ子の身長は163cmと当時大柄で群舞でひとり目立つため出番が与えられず度々楽屋で待機さえられます。ある時、『先生様はお人好し』で舞台装置の転換する間を繋ぐために、急遽断髪して男子学生として幕前で踊らされると大ヒット。『メリー・ゴーランド』で扮したカウボーイ「ターキー」の愛称でたくさんの女性ファンを獲得します。芸の未熟さとパーソナリティを絶賛されます。
「ガイドホステス」
 やがて不況で劇団部員の解雇が相次ぎ、待遇改善を求める劇団部員と経営陣の争議労働争議が勃発。共産党員が加わってウメ子は委員長に担ぎ出され世間の話題を集めるも解雇されます。その頃、国産航空機「ニッポン号」が難航路の北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がり、贔屓筋である外務省職員の手配により、ウメ子は「ニッポン号」乗務員を現地ニューヨークで出迎えるガイドホステスに抜擢され渡米します。ブロードウェイを観劇すると「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされます。帰国後、当時ウメ子のマネージャー兼恋人であった松竹宣伝部の兼松廉吉とともに新たな劇団「たんぽぽ」を創設。戦後も浅草を拠点に活動します。
「女性映画プロデューサー」
 ある日、兼松廉吉が借金6000万円(現在の9億円相当)を苦に自殺。ウメ子は兼松の遺書を持って読売新聞の深見和夫を訪ねます。ウメ子の今後を託された深見は、松竹・大映・日活の社長に会いに行き、ウメ子の希望する月二十万円の交渉に奔走します。ウメ子は晴れて日活の1年更新契約の日本初の女性プロデューサーになります。読売新聞の連載小説を映画化すべく、ウメ子は見様見真似でプロデューサー業を始めるも、同僚らは俳優・スタッフを囲い込み貸し出してくれません。そこでウメ子は街に繰り出し、日本劇場ミュージックホールに出演していた岡田真澄、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺、映画オーディションの新人・浅丘ルリ子、芥川賞作家石原慎太郎宅でぶらぶらしている弟・石原裕次郎を見出し抜擢、ならびに若手の監督・脚本家を積極的に起用します。ウメ子のプロデュースする映画は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価されるようになります。
「ロス疑惑」
 ウメ子は70本以上の映画を製作しながら、たびたび暴力団と交渉して横浜港にオープンセットを建てたり、浅丘ルリ子の父親の借金を半分にまけさせたり、石原裕次郎に代わって撮影妨害を止めさせたりします。監督の権力が絶大だった他の映画会社と異なり、ウメ子はプロデューサーが絶対的権力を持つ構造をつくりあげます。やがて石原裕次郎が自身のプロダクションを設立して独立すると、ウメ子は映画界から引退して大阪万博の仕事に専念しながらテレビのバラエティ番組に出演し始めます。そんな中、甥の三浦和義が保険金目的で妻を殺害した疑念「ロス疑惑」で世間が騒ぎだし、和義にウメ子が実母だとずっと信じていたと告白されスキャンダルに巻き込まれます。ウメ子は和義の父であるウメ子の実兄と絶縁、本名を水の江瀧子に改名して芸能界を引退します。

-国立国会図書館 National Diet Library

青森県 Aomori-Ken

羽仁 もと子 女史

Ms. Motoko Hani

1873 - 1957

青森県八戸市 生誕 

Born in Hatinohe-city, Aomori-Ken

「私どもは志を同じうする女性の団結によって、愛・自由・協力による新社会の建設に努力します」

"We will strive to build a new society based on love, freedom and cooperation through the unity of women."

羽仁もと子女史は日本における女性ジャーナリストの先駆けであり、家計簿ならびに主婦日記の考案者です。また、夫婦で自由学園および婦人之友社を創立。家庭と社会をつなぐ全国組織を展開します。

Motoko Hani is a pioneer among female journalists in Japan and the inventor of household account books and housewives' diaries. Together with her husband, she founded Jiyū Gakuen and Fujin-no-Tomo-sha. They developed a nationwide organization that connects women-centric households and society. 

*******

 明治時代の新しい女性文化の源泉『女学雑誌』を熱心に読んでいたもと子は、16歳で上京。キリスト教主義による明治女学校で学ぶため、築地明石町教会で洗礼を受け、『女学雑誌』主筆で明治女学校校長の岩本善治に学費の免除を手紙で懇願します。入学許可と共に女学誌の仮名つけの仕事をもらい、寄宿料に当てます。爆発的な人気を獲得した、岩本夫人である若松賤子女史による日本初訳のバーネット『小公子』は彼女が校正しています。また規則正しい寄宿舎生活は清々しく進歩的で深い印象を彼女に与えます。もと子は入学翌年に帰郷して尋常小学校や盛岡女学校の教員をします。家族の反対を押し切って結婚するもまもなく離婚。再度上京し、同窓生である女医の吉岡弥生の家事手伝いをしながら、報知社(現・報知新聞社)の校正係に応募して職を得、日本で初めての女性ジャーナリストとなります。3年後に同僚の羽仁吉一と結婚。ふたりは同じ境遇の若い家庭にむけて、家庭生活誌『家庭之友』(後に「婦人之友」と改題)を創刊。家計簿、主婦日記を創案、予定と予算で筋道の立った生活を広めます。もと子は読者に、身近な人を集めて自主勉強会・読書会を開催することを呼び掛け支援。各地に友の会が生まれ、さらにもと子を中心に「全国友の会」が設立され、農村生活改善運動、北京生活学校、終戦後の引き揚げ者援護事業、各種展覧会や講習会の開催など、社会へ向けた様々な事業を展開します。さらに娘のために文部省の高等女学校令によらない女学校自由学園を創立し、もと子は園長に就任します。詰め込み教育と子供自由主義教育を批判、本当の自由主義の教育を目指します。83歳で逝去するまでたくさんの著作を残しています。もと子の発想の実現には経営面で支える夫吉一のサポートが常にありました。

-羽仁もと子記念館 Motoko Hani Memorial Museum

-婦人之友社 Fujin no Tomo Sha

-自由学園明日館 Jiyugakuen Myonitikan

-自由学園 Jiyu Gakuen

「手に取ればこそ手になづーて遊だ神かな そもしもしらわの御本地 くわしく読み上げたのみたてまつる 昔 まんの長者とてありかの長者こと姫君一にもたせたもたのもだてたも…」(オシラ祭文)

太祖婆
Ms. Taiso-Ba
1700頃 - ?
青森県八戸市 生誕
Hachinohe-city, Aomori-ken

太祖婆は青森イタコの創始者です。江戸時代中期に青森県八戸市周辺で盲目の巫女として活躍。熊野巫女・比丘尼に学びながら、山伏惣禄・鳥林坊とその妻・高舘婆に祈祷また口寄せなど巫技を継承、盲目の女性をイタコとして組織化させました。
Taiso-ba is the founder of ITAKO in Aomori. She was active as a blind priestess in the vicinity of Hachinohe City, Aomori Prefecture, during the mid-Edo period. While learning from Kumano shrine maidens and nuns, she inherited the techniques of divination and spirit possession from Yamabushi ascetic leader Tōryōbō and his wife, Takadachi-ba. She organized visually impaired women into Itako, following their traditions.

*******

「追われた巫女たち」
 古代のシャーマンを起源とする巫女は、男性の神職による神社の組織化に比例して、社会的地位は段々と低下。神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、男子の神職によって日時と場所を一定させた儀式として行われるようになり、多くの巫女は神社を離れて古き伝えの呪術を以て世に処すようになります。民間の巫女には特に盲目の女性が重用され、太祖婆も村から村へまわって活躍します。その頃、かつて熾烈な信仰を集めていた熊野信仰にあやかって吟遊詩人のように通る道筋の村々で口寄せ呪術また地獄極楽絵を伝えながら春を売る売色比丘尼が風紀を乱していました。太祖婆は、オシラ神はじめ熊野巫技に学びつつも、性的職業婦と化した巫女の末路を憂えます。

「男性修験者の妻たち」
 一方、男性修験者は熊野の護摩ノ灰を頒布して諸国を勧進、道教・仏教を交えて神仏習合して拡張、巫女から祈祷と呪術を取り入れ、多くは巫女を妻として土着の民間信仰をも味方につけて圧倒的な支持を得ます。太祖婆は、八戸で座頭また山伏をまとめる支配頭・鳥林坊とその妻・高舘婆にこれまで培った巫技を継承、視覚障害の女性の生業としてイタコを組織化・確立させます。いたこ惣禄となった鳥林坊が代々受け継ぐ経典の最後におしら祭文が連なります。盲目の少女たちは12・3歳から師匠の師匠の家に3~5年とどまって修行します。経文(般若心経・観音経・地蔵経・民謡・祝詞・和賛など)を繰り返し暗唱して覚え、巫業の神降ろしと仏降ろし(口寄せ)を学び、厳しい入巫式を経て、死霊を招く麻糸を張った梓弓また一弦琴、神霊を招く馬と娘の一対のオシラサマ人形、両方の霊を招来する300のむくろじの実をつなぎ合わせた長い数珠、を受け渡され一人立ちします。

「おしら祭文」
 おしら祭文は、豊後の国の万能長者の一人娘とその家の名馬せんだん栗毛に例えられた血族の違う男との恋物語。16歳になった娘は馬を見たいと言い出し、女房どもの計らいで望みを叶えます。「かほど美しく名馬もさらに無し 人間の身ならば一夜の契りこめべきぞ」姫が一目ぼれした馬は馬で食べ物に口をつけなくなります。長者は驚いて博士に占ってもらいます。「国の主国の国守にこそ縁を組ませべきと思うそのあひだ、畜類の身として我が姫を縁に居るべきこと思ひもよらん」馬は河原にさらされ、菩提を弔った姫は後を追ってあの世で一緒になり、娘を取り返そうと神頼みした長者は代わりに蚕を得るのです。いたこは春に家の女たちが営むおしら講を司祭となってとりしきります。農神とも蚕神ともいわれるオシラ神体の男女2体、一尺くらいの蚕の木にオセンダク布を幾重にも重ね、オシラ祭文を詠みあげながら、正月から3月にかけてのお宣託(年占い)をききます。「手に取ればこそ手になずく、おしらいおしらい神」豊年を祈願しながら新たな幸せの訪れを待ちます。

-青森県立郷土館 Aomori Prefectural Museum
-青森県イタコ巫技伝承保存協会
-『概説八戸の歴史 上巻 第2』(八戸社会経済史研究会 編 / 北方春秋社1961年)
-『あずさ弓 : 日本におけるシャーマン的行為』 (C.ブラッカー 著 / 岩波書店1979年)
-『日本巫女史』(中山太郎 著 / 大岡山書店1930)

「わたしは母の胎を裸で出た、また裸で母の胎に戻ろう。」-ヨブ記1:21
"Naked I came out of my mother's womb, and naked shall I return there." -Job 1:21

岡見 京子 (旧姓 西田 京子)女史
Ms. Kei Okami / Nishida Keiko
1859 - 1941
青森県むつ市大畑町 生誕
Born in Ohata-machi, Mutsu-city, Aomori-ken

岡見 京子 女史は、日本で初めて米国MD(Medical Doctor)を取得した女性医師。女性宣教師メアリー・トゥルーと共に、日本で最初に看護婦派遣事業と女性による女性のための療養所を創始。
Ms. Keiko Okami is the first female doctor in Japan to obtain an American MD (Medical Doctor) degree. With female missionary Mary True, she founded Japan's first nurse dispatch business and sanatorium by women for women.

「メアリー・トゥルー」
 けいこは、全国各地からの物産の集積地である大畑の大商人の父・西田耕平と、武家の出身である母・みえの長女として生まれます。けいこは幼少時からしばしば母方の江戸藩邸で過ごしたり、父の商売相手の英国人家族と交流したりします。明治維新に、横浜で貿易業をはじめる父に従って一家で上京します。けいこは横浜共立女学校に入学すると、宣教師メアリー・トゥルーを慕って横浜海岸協会で洗礼を受けます。「自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかった時、苦痛を感じるような女性になりなさい」。竹橋女学校で英語を学んで英語教師として桜井女学校に着任。そこで宣教師メアリー・ツルーが奔走する看護婦養成事業を手伝いながら、麹町教会に通って貧民伝道活動に従事するようになります。

「ペンシルベニア女子医科大学」
 25歳のけいこは、頌栄女学校の絵画教師で中津藩江戸家老の末裔で資産家の岡見千吉郎と篤い信仰心で結ばれ結婚します。2人はアメリカ留学を計画。夫・千吉郎を新渡戸稲造とともに米国のミシガン農科大学に送り出すと、けいこも渡米して世界最初の女子医大であるペンシルベニア女子医科大学でアメリカ人はじめインド・シリア・ロシアから来た留学生らとともに学びます。後見人である富豪のモリス夫妻からは「顔色青く躰瘠て気力なく、かゝる人が学問の研究特に学問の中でも難渋なる医学を研究するは大なる誤にて、到底むつかしい事と思ひました。」と心配されるも、午前9時から夕方6時まで化学・薬物学・産科学・婦人科学・解剖学・外科学・病理学・生理学・組織学・内科学・治療学・耳鼻咽喉科学・眼科学・解剖実習・診療研修に励み、4年後には「全く変つて、顔色も充分に紅みを保ち、肉つき、実に壮運なる人となり、学問も進歩致しました。」と称賛されるほど優秀な成績で卒業します。

「女性による女性のための療養所」
 けいこは夫とともに帰国すると、日本で5番目の女医として医術開業免許状を取得。高木兼寛医師が貧民救済を目的に設立した東京慈恵医院の産婦人科主任に就任します。育児をしながら、4番目の女性医師・本多銓子はじめ女性看護婦らとともに医療活動に従事、唯一の女医養成所であった救済学舎の女子学生を支援します。ところが3年目を前にして、明治天皇が慈恵医院を行幸する際に拝謁を遠慮するよう指示する宮内省に抗議して辞職をします。けいこは赤坂の自宅で医院を開業、岡見家が経営する頌栄女学校の教頭として教壇に立ちます。まもなく恩師であるメアリー・トゥルーと一緒に、夫はじめモリス夫妻の援助のもと、新宿角筈に女性のための結核療養施設「衛生園」と看護婦養成所を開設。2480坪の敷地に2階建ての洋風建築、2階に病室13室、1階にサンルーム・ホール・食堂・診療室・薬局を置いて、一家で移り住みます。けいこは園長として予防と快復期の看護に重点を置く新しい医療に取り組みます。日本女性がゆっくり休養をとること自体に理解と認可がなかなか得られない中、けいこは看護婦の派遣事業をはじめ、赤坂病院のW・ホイットニー院長の協力のもと「赤坂病院分院衛生園」を設立。やがて経営が立ち行かなくなり13年面で閉鎖すると、けいこは岡見家の頌栄幼稚園園長を務めたり、女子学院で英語と生理学を教えながら敬虔なクリスチャンとして過ごします。

-『日本女医史』(日本女医会本部, 1962)
-女子学院
-頌栄女子学院中学校・高等学校
-東京慈恵医院
-高井戸教会

「力いっぱいの、その女の戦いの苦しさに、私はときどきわあーっと喚声をあげたくなることがある」

"In moments like these, I sometimes feel the urge to let out a heartfelt cheer for the strength and struggles of that woman's fight."


淡谷 のり子 女史 

Ms. Noriko Awaya

 1907 - 1999

青森県青森市 生誕

Born in Aomori-city, Aomori-ken


淡谷のり子女史は日本のシャンソン歌手の先駆けです。特に戦時中の弾圧下でも美しい化粧また衣装を身にまとって死地に赴く兵士また家族の心を慰めるように歌い続けました。

Ms. Noriko Awaya was a pioneering Japanese chanson singer. Especially during the wartime oppression, she continued to sing, adorned in beautiful makeup and costumes, offering solace to soldiers in the battlefield and their families.

*******

ごんぼ掘り

のり子は青森屈指の豪商の呉服屋「大五阿波屋」に2人姉妹の長女として生まれます。30人を超す奉公人を抱え店先はいつもにぎわい、のり子は当時は珍しい西洋人形や洋菓子を与えられ何不自由なく育ちます。のり子3歳の時に青森大火で店は焼失、父・彦蔵は再建を目指して商売に奔走するもまもなく店は人手に渡ってしまいます。次々と「差し押さえの紙が家財がに貼られていく中でも、のり子は気に入った布地・帯を「ゴンボ掘り」する大のおしゃれ好き。リボンをひらひらさせて女学校に通い出し始めるころ、親戚からも見放され酒と女に溺れていた父は家族を置いたまま別の女性と姿を消してしまいます。「女だって必死になったら飢え死にすることはないでしょう」黙って夫に従って耐えてきた母・みねは、故郷を離れ2人の娘を連れて上京します。のり子と妹・とし子は母の勧めで、三浦環のような歌手また音楽教師になるべく東京音楽学校(現東京芸術大学音楽課)また青山学院所学部のピアノ科に通います。のり子はクラシック音楽の基礎を徹底的に学びオペラ歌手を目指します。実家が徐々に貧しくなるとともに、妹・とし子が目を患い高額な治療費の工面に奔走します。のり子は学校を1年間ほど休学、絵画のヌードモデルを務めるなどして生活費を稼ぎます。なかでも画家・田口省吾からは学費・治療費など献身的なサポートに加え求婚を受けますが、妹・とし子の目が快復すると、のり子は復学して再びオペラ歌手を目指します。声楽の指導法を確立したリリー・レーマンの弟子でもあるソプラノ歌手・久保田稲子の指導を受け、のり子は29歳の時に東洋音楽学校を首席で卒業、声楽家としての一歩を踏み出します。「どんなに苦しくても生活に負けないことよ。本当の芸術を極めていかなかったら音楽をやった甲斐ないじゃないの。」

「からきじ」

世界恐慌が始まる頃、のり子は卒業後もそのまま母校に残って研究科に籍を置きます。母校主宰の演奏会ではクラシック歌手として活動するも、家計を支えるために「久慈浜音頭」「マドロス小唄」など流行歌も歌い、東京・浅草の「電気館」のステージに立って映画館の専属として歌います。「低俗な歌を歌った」ことが堕落と見なされ、母校の卒業名簿から抹消されます(後年復籍)。レコード会社でシャンソンのカバー曲「ドンニャ・マリキータ」「暗い日曜日」を吹き込むと大ヒット。日本にシャンソンブームを巻き起こします。続いて「別れのタンゴ」「傷心の歌」のヒットでタンゴの女王、「別れのブルース」「雨のブルース」のヒットでブルースの女王と呼ばれ、売れっ子歌手となります。レコード会社のセクハラ男達から逃げ回る中、ジャズピアニストの和田肇と結婚するもまもなく離婚。酒好きが高じて酒場を経営したり、漫才師を引き連れて上海豪遊したり、恋愛をエンジョイしながら「淡谷のり子」楽団を結成第二次世界大戦中では、どんなに婦人会はじめ軍部に強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、パーマをかけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がります。戦後は、米軍のキャンプまた将校クラブで歌い始め、妹・としこのピアノとともに各地を巡業します。レコード会社と宣伝屋のセクハラ男達による「新人あさりはじめ新人歌手による「女の切り札」が入り乱れる中、のり子は自らの楽団と舞台はじめラジオ・TVで歌い続けます。のり子は「じょっぱり」ならぬ「からきじ」気質を通して、歌手として音楽批評家として大活躍しながら92歳で逝去します。

-青森市 Aomori-city

-日本コロンビア NIPPON COLUMBIA Co., LTD 

岩手県 Iwate-Ken

「愛は寛容であり、情深い。愛は妬まない、高ぶらない、誇らない。」(新約聖書「コリント人への手紙第一」13章4-8節)
"Love is patient, love is kind. It does not envy, it does not boast, it is not proud." -1 Corinthians 13:4-8 NIV

淵沢  能恵 女史 
Ms. Noe Fuchizawa
1850 - 1936
岩手県花巻市石鳥谷町 生誕
Born in Ishidoriya-tyo, Hanmaki-city, Iwate-Ken

淵沢 能恵女史は韓国女子教育に献身した女性です。日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援のもと、李貞淑女史と協力して淑明女学校(のちの淑明女子高等普通学校)を設立・運営しながら近代韓国女性の指導者を育てました。
Ms. Noe Fuchizawa was a dedicated woman who devoted herself to women's education in Korea. She founded the Japan-Korea Women's Association and, with the support of Lady Yi Cheong-wan, the Empress Consort of the Korean Empire, she cooperated with Ms. Yi Jung-suk to establish and operate Shukmyeong Women's School (later known as Shukmyeong Girls' High School) while nurturing modern Korean female leaders.
*******

「勉強がしたい」
 能恵は奥羽の貧しい士族の8人目の娘として生まれ、口減らしのために川に流されるところを下級武士の父・武一と母・カルの養女として育てられます。幼いころは父が教える寺小屋で学んで家事をするときも本を手放さず、履物屋に奉公人に出されてからも個人宅に漢文を習いに通います。23歳で結婚するも酒癖の悪い夫とすぐに離婚、日本初の近代製鉄所で発展していた釜石にいる兄の元に身を寄せます。能恵は福沢諭吉の『学問のすすめ』『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、29歳のときにお雇い外交人鉱山技師G・パーセルのメイドになり一緒にアメリカに渡ります。5人の子守をしながらロサンゼルスで1年、さらにサンフランシスコのミス・プリンスの元で2年メイドとして働きながら、洗礼を受けて英語と家政を学びます。帰国後、同志社女学校に入学。年長の能恵は寄宿生活をしながら同期生の面倒をよくみるも、宣教師との意見衝突また学費工面のため退学。上京して東洋英和女学校、一橋高等女学校、下関洗心女学校、福岡英和女学校で教師となりますが、病気のため辞任します。

「愛くるしい朝鮮子女の為に」
 50歳の能恵は東京で塾を開きながら梅屋文具店を開店、学校運営に関わる様々な人々と人脈を築きます。55歳の時に、貴族委員でサンフランシスコ領事の子爵岡部長職夫妻と韓国視察旅行に赴き、余生を韓国の女子教育に捧げる決心をします。内房に閉じ込められて短い娘時代を過ごし、13~15才になると両瞼に蝋を塗られて嫁に出されていました。能恵は韓国皇室へ働きかけ日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援を受け、1906年明信女学校(後に明新高等女学校、淑明高等女学校と改名)を開校。韓国初の女性校長の李貞淑と相互に信頼関係を結んで学校運営を行います。能恵は学監兼主任教師に任じられ、5名から300名に増えた生徒らと寝食をともにしてキリスト教精神の下に献身的に教育に当たります。「愛は妬まず高ぶらず誇らず(コリント第1・13)」韓国併合後も、皇民化政策を拒否、3・1独立運動に参加、 抗日示威運動で連行された生徒を体を張って守ります。韓国女性の指導者を養成するための女子専門学校の設立ならびに大学課程の設置を準備をしながら86歳で永眠。淑明の校庭でキリスト教式による学校葬が行われました。 

-いわての文化情報大事典 Iwate Cultural Information Encyclopedia
-同志社大学 Doshisya Univ.
-『婦人新報』(日本キリスト教婦人矯風会 1990-04)
-『朝鮮公論』(朝鮮公論社 1914-09)

宮城県 Miyagi-Ken

「一の弓 まずうち鳴らす初音をば このむらの神々まで請じ入れ申さうや
二の弓の音声をば 所の神々まで請じ入れ申さうや
三の弓をば 日本は六十六箇国のかずのすうさく 和光同塵まで請じ入れ申さや」(神寄せ)

朝日和歌神子
Asahi-Waka-Miko
1200 頃 - 1300 頃
宮城県栗原市高清水 生誕
Kurihara-city, Miyagi-ken

朝日和歌神子は出羽奥州の神子(盲巫)の創始者です。125歳で逝去するまで、出羽奥州の盲目の女性達に祈祷また口寄せなどの巫技を伝え組織化しました。葛西氏家臣・志津川城主の千葉大膳太夫の妻となって、中世の豪族・葛西氏の滅亡に伴って盲目となった朝日姫と同一人物とする伝承も語り継がれています。

*******

「朝日姫の誕生」
 人王八十二代御鳥羽院の御治世、源頼朝公の御時、奥州大崎栗原郡高清水に比久太郎という人がいた。元は源家の侍であったが、民家に下った。富貴に暮らしていて一人の娘が生まれ、正月元旦に朝日を受けて誕生したので朝日と名づけた。7歳の頃から学問をはじめ聡明であったが、十六歳の春に盲人となり、両親は神社に祈ったが甲斐がなかった。娘は出羽奥州五国には自分のような盲目の女もいるだろう、末世に至るまで世を渡るための方法はないかと考えた。

「月山権現と梁川八幡宮の神力」
 十六歳の七月十六日、湯殿山へ行き、月山権現の御前で通夜したところ、権現が枕上に立って、四寸四方の箱の中に十二の巻物がある、急いで伊達郡梁川の八幡宮へ行き、百日通夜して渡世の道を祈るがよいと告げた。夢から覚めて枕元を見ると箱があったので、梁川の八幡宮へ行き、通夜して祈ったところ、八幡宮が枕上に立って箱を開けて巻物を取り出し、学問して法を広め渡世しなさい、座頭の妻になるがよい、朝日そうし和歌神子と名乗り、弟子を大勢取って和歌神子と名乗らせるがよいといった。

「行者修行」
 朝日は朝も夜も学問した。1の巻は心経、2の巻は錫杖経、3の巻は日本紀国がけ、4の巻は東方らく、5の巻は北方らく、6の巻は祈立、7の巻は羽黒の祓、8の巻は月山の祓、9の巻は梁川八幡の祓、10の巻はさわぐり、11の巻はもの神正し・草木揃え、12の巻は浄土さがし・地獄探し・大よせ口・小よせ口である。神子の道具である7尺3寸の弓・3尺1寸の打竹・数珠・錫杖・れい・かなまりを持った。それより空を飛ぶ鳥や地を走る獣も祈り落とす妙技を身に付けた。

「朝日和歌神子」
 朝日和歌神子は出羽奥州へこの法を広め、梁川に2人、米沢に1人、坂田に1人、秋田に2人、津軽に1人、南部に1人、弟子を持った。本国に帰っって大崎でも2人以上弟子を持った。弟子たちに和歌の法を学問させ、和歌の道具を譲り、祈念、祭礼、口寄せを習わせ、孫弟子彦弟子いずれも座頭の妻となった。和歌神子は座頭中老引きの妻となり、座頭妻を神子と名乗らせ、和歌の譲りを得るときは100日の精進、7日の断食、3度の垢離を行うこと、和歌神子代々伝えられた。

「朝日和歌神子による盲人渡世のはじまり」
 朝日そうし和歌神子は125歳で亡くなり、文禄3年7月10日に高清水の丸田沢というところの和歌神子大神宮と現れ、11月18日を知恵第一の神として祭礼を末世まで勤めさせた。朝日姫は千手観音の化身であり、衆生済度のため、盲人となり諸々の神仏へ祈り、末世に至り盲人渡世のことを願い、湯殿山、月山の神力をもつ行者となって和歌神子を名乗り給うこと、奥州栗田郡の役人国主・藤原秀衡に伝えた。秀衡は将軍頼朝公に言上し、末世に至るまで何国でも盲人は朝日和歌神子と名乗って、口寄せ、祈祷を勤めてもよいという国主秀衡殿の印紙を載いた。

-『巫女の習俗:東北地方』(文化庁文化財保護部 編 / 国土地理協会)
-八戸市・新山神社旧蔵『梓神子の由来』
-『日本巫女史』(中山太郎 著 / 大岡山書店1930)


「女子体育は女子の手で。」
"Women's physical education by women"

二階堂  トクヨ 女史
Ms. Tokuyo Nikaido
1880 - 1941 
宮城県大崎市三本木町 生誕
Born in Ozaki-city, Miyagi-Ken

二階堂トクヨ女史は、日本初の女子体育専門学校の創立者です。男性と対等であり平等である「女性」のための教育に尽力。イギリスのクリケットとホッケー、チュニックを日本に持ち込みました。
Ms. Tokuyo Nikaido was the founder of Japan's first women's physical education specialized school. She dedicated herself to education for women, emphasizing equality with men. She introduced cricket, hockey, and tunics from England to Japan.
*******

「女性教師不要論」
 トクヨは鳴瀬川の清流を前に春は菜の花畑が大地を彩り、秋は黄金の稲穂が波打つ宮城県志田郡三本木に、もと仙台藩士の父・保治と母・きんのもとにトクヨは生まれます。二階堂家が明治維新に土地・家禄を没収され開墾をはじめてから10年余り過ぎた頃でした。運動嫌いで文学少女に成長したトクヨは、15歳で准教員検定に合格すると地元の三本木小学校で准教員となります。正教員の資格を目指す矢先に、休みが多い・能率が上がらないという理由で宮城県で女性教員廃止論が持ち上がります。そこでトクヨは福島の新聞「福島民報社」に手紙を書いて福島県の尋常師範学校(現・福島大学)への斡旋を入学を嘆願します。福島民報社の社長・小笠原貞信の養女となったトクヨは、晴れて福島県尋常師範学校へ入学。高等小学校正教員の資格を得て卒業後、油井尋常高等小学校で教員になります。そこで見合い話を断ったトクヨは女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学。文科で尾上紫舟の和歌の授業に熱中しながら、チフスはじめ養父・実父の死を乗り越え、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部ならびに高等女学校の教員免許を取得して卒業します。

「女性体操教師無能論」
 石川県立高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)で国語教師として採用されたトクヨは、校長から体操を教えるよう通達され落ち込みます。当時の女性体操教員は専門外・無資格で、おもに行進遊戯を教える者が多く社会的評価が低かったのです。嫌々ながらもトクヨは体育専門学校を出たアメリカ人宣教師のもとで技術を教わり、毎朝夜明けとともに浅野川の橋のふもとで自分で号令をかけながら体操の練習に取り組みます。はじめは心身ともに疲弊するも、数か月すると心身ともに明るく元気を増していき体操に熱中するようになります。夏には井口阿くり女史が講師を務めるスウェーデン体操を受講、続いてカナダ人宣教師フランシス・ケイト・モルガン女史のもと独自の体操レッスンを受けます。ダンスに体操にスポーツに、トクヨの授業は大評判となって参観者が絶えず、学校の運動会には大勢の観客が押し寄せ、押すな押すなの大盛況。ついには石川県を回って小学校教師向けに体操の指導を行うようになります。

「女子体育は女子の手で」
 30歳で二階堂姓に戻ったトクヨは、井口阿くり女史に見いだされ母校の東京女子高等師範学校の助教授に就任します。寿退職する女史の後を継ぐべく、トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校に留学。女性参政権擁護者である校長マルチナ・バーグマン=オスターバーグ女史のもと、生理学・解剖学・衛生学の理論、教育体操・医療体操・舞踊・競技の実技、教授法を学びます。管理の行き届いた寄宿舎、1日5回の食事、動きやすいチュニックの制服、ホッケー・ラクロス・水泳・ダンスなど運動の楽しさを実感するとともに、女性体育教師の社会での活躍ぶりに驚きます。第1次世界大戦勃発とともに帰国したトクヨは母校の東京女子高等師範学校の教授に就任。当時の日本の体操界では男性教師に全ての決定権があり、女性教師は男性教師に従うものとされる中、上司の永井道明らが推し進める「学校体操教授要目」に反対します。号令と呼唱による訓練と規律、軍隊体操・行進遊戯をもっぱら重視する「男子本位に考えられた体操で女子には甚だ不適切である」。

「二階堂体操塾」
 トクヨは自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回ります。さらに女性体操教師に呼び掛け「全国体操女教員会」(後の体育婦人同志会)を立ち上げ自ら会長に就任します。「女らしい体操家が女子の世界には勝利を収めなければならない。」そして雑誌『わがちから』を創刊して、女子体育の重要性を社会に訴えます。「女子の特徴とする身體の優美、行動の雅致、精神の円滑を図ることで心身ともに美しい女性を育成しよう」。1922年41歳の時に私財を投げ打ち、女子体育の研究機関と女子体育家(女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾「二階堂体操塾」を開校します。「この学校ではチャイムがなりません。出席簿もありません。何の資格も取れません。しかし、体育の教員としての指導力をつけて卒業させることだけは、私が責任を持ちます。」トクヨは母親と二人で住み込んで校長・共感・舎監・事務員を務め、毎日滋養の有る食事と良い湯加減の風呂を準備します。1926年日本初の日本女子体育専門学校に昇格・改称。人見絹枝はじめオリンピック選手を育て上げながらも、晩年、教え子の戸倉ハルの尽力により母校・東京女子高等師範学校に体育科が設立されると大きな花束を抱えてお祝いに駆け付けます。

-日本女子体育大学・二階堂トクヨ資料展示室  Tokuyo Nikaido Memorial Museum
-「二階堂トクヨ伝」(二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿 著 / 不昧堂書店1960年)

「流行に敏感であるように。中心にいなくても、端っこにはいるように」
"Stay aware of trends. You don’t have to be in the center; just be on the edge."

土浦 信子 女史
Ms. Nobuko Tuchiura
1900 -  1998
宮城県仙台市 生誕
Sendai-city, Miyagi-ken

土浦信子女史は日本女性初の建築家です。同じく建築家の夫・土浦亀城とともにフランク・ロイド・ライトの元で修業、モダンデザインならびに都市住宅の先駆けをたくさん手掛けました。
Ms. Tsuchiura Shinko is Japan's first female architect. Alongside her husband, architect Tsuchiura Kameki, she trained under Frank Lloyd Wright and worked on numerous pioneering projects in modern design and urban housing.

*******

「吉野作造の娘」
 信子は1900年に宮城県仙台市で政治家・吉野作造の長女として生まれます。母・たまのは信子を育てながら仙台で小学校勤務を続け、父・作造が東京帝国大学で政治学を勉強するのを支えます。信子が6歳の時に、父は母と末の妹を連れて、袁世凱の長男・袁克定の家庭教師として天津に赴任、北洋法政專門学堂で教鞭を執ります。信子が10歳の時にようやく母らと再会するも父は欧米留学へ。ようやく帰国して東京大学で政治史講座を担当する父のもとに母と7人きょうだいそろって上京します。信子は東京市誠之尋常小学校、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に進学。卒業後は父の勧めでアテネ・フランセに通ってフランス語を学びます。

「フランク・ロイド・ライトの弟子」
 その頃、父・作造の講演を聞いたことがきっかけで自宅に出入りするようになっていた東京大学建築科の学生・土浦亀城と知り合います。信子は夫・亀城とともに帝国ホテル設計を任されていたフランク・ロイド・ライトの手伝いを始めます。やがて建設費の問題でライトは帝国ホテル設計の任を解かれアメリカに引き上げます。夫の大学卒業を待って結婚した信子は夫婦で渡米、カリフォルニア州ロサンゼルスとウィスコンシン州スプリンググリーンにあるライトの事務所で2年あまり働きます。信子は基本的な製図の知識と技術を身に付けながら、アメリカの文化や暮らしを夫婦で体感。大陸横断旅行を経て夫婦で帰国します。

「土浦亀城の妻」
 夫・亀城は大倉土木(現・大成建設)に勤めはじめ、信子はアメリカの通信教育で建築設計の勉強を続けます。土浦信子の名前で朝日新聞社主催「新時代の中小住宅」(1929)また『婦人之友』主催「グループ住宅懸賞」(1930年)に入賞を果たします。やがて夫婦で土浦亀城建築設計事務所を開設、自邸を含む多くの住宅を設計します。ライトの厳格なスタイルはじめ国際的・近代的なスタイルを反映、ブロック積みを木枠の漆喰パネルに置き換え、材料や間取りの標準化といった建設の効率化・経済性を通じて日本住宅全般の改善に努めます。信子35歳のときに竣工した夫婦の邸宅は、採光と換気を考慮した大きな開口部や、合理的に考えられた間取り、システムキッチン、ボイラー給湯、水洗トイレなど最先端設備を導入した住宅で、当時の雑誌記事等にも積極的に取り上げられます。

「日本唯一の女建築家」
 信子は「日本唯一の女建築家」として、蔵田周忠とブルーノ・タウトによる「世田谷等々力ジードルンク(共同住宅)」建設計画(1935年)に夫・亀城、谷口吉郎、堀口捨巳、前川國男らと一緒に名前を連ね、報知新聞社主催「山の住宅設計図」(1935年)に佐藤功一また吉川清作らと共に審査員として参加。注目を集めるとともに、主婦向けの雑誌で現代のインテリアデザインまたライフスタイルについて解説して人気を集めます。しかしながら信子はまもなく建築の仕事をあきらめ、写真・抽象画の創作活動に従事するようになります。彼女の作品のほとんどは夫の名前で登録され、信子が女性として建築分野で直面したであろう課題については何も示されていませんが、当時はまだ女性は穢れており神聖な建築現場から排除すべしという風潮がありました。

-国際女性建築家会議日本支部 Union Internationale des Femmes Architectes Japan
-『ビッグ・リトル・ノブ ライトの弟子・女性建築家 土浦信子』(小川信子 著 / ドメス出版2001年)
-土浦亀城邸
-吉野作造記念館

秋田県 Akita-Ken

「日本従来の古訓は、もっぱらに女性一般の心身に制圧を加えて、衛生的美容術を十分に講じさせなかった。身心の健康美が十分に発揮されなければ,本当の美人とは言えない」
``Traditional Japanese precepts exclusively suppressed the mind and body of women in general, and did not encourage them to take sufficient hygienic beauty techniques. If health and beauty of body and mind are not fully demonstrated, one cannot be called a true beauty. ”

井口 阿くり 女史
Ms. Akuri Inokuti
1870 - 1931 
秋田県秋田市 生誕
Born in Akita-city, Akita-ken

井口阿くり女史は日本の女子体操教育のパイオニアです。アメリカで普及していたスウェーデン体操・ダンス・バスケットボール・体操服を日本に導入・指導・実践しながら、日本の女子体育を定着させました。
Ms. Akuri Iguchi is a pioneer in women's gymnastics education in Japan. While introducing, teaching, and practicing Swedish gymnastics, dance, basketball, and gym uniforms that were popular in the United States, she established women's physical education in Japan.
*******

「錦の旗下」
 佐竹藩主のもと尊王攘夷派として、幕府側につく東北諸藩の中で錦の御旗を守って戦った久保田藩(後の秋田藩)。阿くりは、戊辰戦争に功績のある勤王士族で秋田藩士の父・井口糺と母・ミエの四女として生まれます。父は学問を好んで私塾を開き、阿ぐりを厳しく育てます。姉妹揃って近くの旭川で熱心に泳ぎ、秋田音頭が得意で、相撲や義太夫芝居が大好き、学業もすこぶる優秀、明治天皇の東北巡幸の際には朗読・手芸・席書を披露します。秋田県女子師範学校中等師範科を卒業して小学校の先生になるも、数年で秋田県尋常師範学校女子部に再入学。同級生・茂木ちえと二人で上京して東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に無試験入学。服装やことばづかいいを田舎者扱いされたことに発奮して終始一番・二番を取り続けます。卒業後は助教諭を務めながら、付属高等女学校で国語・地理を担当。やがて山口県の私立毛利高等女学校の教頭に就任します。

「ボストン体操師範学校」
 日清戦争の勝利に伴い、男性社会を支え、強い日本人を産み育てる良妻賢母教育が定着します。母校の恩師の要請で、女子高等師範学校に国語体操専修科を新設するために、阿くりは3年間の米国留学を命じられます。スミス・カレッジに入学すると、スウェーデン王立中央体操学校に学んで米国女性体育の先駆するセンダ・ベレンソンに体操科を、ブルスター博士に生理学を学びます。健康診断・姿勢教育・スウェーデン式体操を学び、バスケットボール・テニス・ボート・自転車など数多くのスポーツを経験します。設備の良い体操教室で体操服に着替えて臨み、身体の強弱に従って適当な教材を用い、熱心で注意深く指導力の高い女性教師のもと、生徒が規律よく敏捷に優美に運動を行う様子に、阿くりは日米の女子体育のへだたりを強く実感します。1年後、ボストン体操師範学校に入学。創始者で校長のアミイ・モーリス・ホーマンズ女史のもと、少数精鋭の厳しい校則と学科に耐え、入学者50人のうち卒業者20人として修了。2年間で「運動理論学」「解剖学」「生物学」「体操科」「医術体操科」「舞踏」「遊戯法」「競走運動家」「体育実地法」「心理学」「教育学」「人体測定学」を学びます。

「女子体育」
 米国各地の女学校・師範学校・体育館などを視察してまわって帰国した阿くりは、女子高等師範学校教授となり国語体操科を担当。黒のつば広の帽子に黒い絹糸のベールを顔に垂らし、ローズ色のブラウスに黒のスカートのいでたちで、自転車にのって颯爽と通勤。女学生のあこがれとなります。東京女子高等師範学校・同付属高等女学校、日本体育会体操学校(現日本体育大学)女子部、東京音楽学校(現東京芸術大学)女子部でも指導しながら、『各個演習教程』を執筆してスウェーデン体操を全国に広め、女子・男子を通じた体育教育における第一人者となります。阿ぐりが導入した、バスケットボール、全身を美しく動かすギルバート・ダンス「ファウスト」「ポルカセリーズ」、運動服としてセーラブルーマー(セーラー襟の上衣に膝下チュニック)は、阿くりの教え子達によって全国の女学校に広まります。8年間で88名の女性体育教師を育て上げた阿くりは、宮内省御掛となり皇女の体操指導をしてからまもなく、永井道明と対立しながらも二階堂トクヨを後任に抜擢、京都大学出身の法学士・藤田積造と結婚して渡米。晩年は関根ゲン・木下ツナら教え子らと東京高等実習女学校を設立して運営に奔走します。

 女子体育は「女らしくない」「出すぎる」など批判される中、阿くりは訴えました。「姿勢をよくし、身のこなしを敏捷にし、優美沈着の気を涵養するのも体操の目的である。」「人間の運動というのは3度の食事と同じようにしなければならないもので、男女の区別はない。」「女性の美は必ずしも西施や小町のような雨に悩める海棠の花といったような、優しい風情あるばかりと断言されぬものである。」「心身の健康美が十分に発揮されなければ、真性の美人とはされぬ。」「日本従来の古訓は、もっぱらに女性一般の心身に制圧を加えて、衛生的美容術を十分に講じさせなかった。」「女も進んでいかなくてはならない。一人残らず最初の十字軍にお加わりなさらねば私は承知しません。」

-「女子体育 18(5)」(日本女子体育連盟, 1976-05)
-「近代日本女性体育史 : 女性体育のパイオニアたち」(女性体育史研究会 編著 / 日本体育社1981年)
-秋田県立博物館

山形県 Yamagata-Ken

田澤  稲舟 女史

Ms. Inabune Tazawa

1874 - 1896 

山形県鶴岡市鶴岡五日町川端 生誕

Born in Tsuruoka-city, Yamgata-Ken

「男程おそろしくけがらはしきものはなし」

"Nothing is more terrifying and ugly than a man."

田澤稲舟は樋口一葉と並ぶ明治の女性作家。近代的な女性の複雑な自己主張を表現している、フェミニズム文学の先駆者です。

Tazawa Inafune is a female novelist of the Meiji period, who admired as much as Ichiyo Higuchi. She is a pioneer to expresse  modern women's desires or complex identities on literatures.

*******

錦は医師の長女として生まれるも、新聞や雑誌に投書をする文学好きでした。朝暘小学校高等科を卒業後、上京して共立女子職業学校(後の共立女子大学)図画科に入学。投稿をきっかけに山田美妙に師事、美沙の指導を受けた小説「医学修行」で田澤稲舟として21歳でデビュー。樋口一葉に続く女流作家として評判となります。続いて「しろばら」を掲載、男嫌いの変わり者のヒロインは、頼りにする乳母の手引きで華族の放蕩息子にクロロホルムを嗅がせて犯された末に投身します。近代的自我に目覚めた不幸な女性を描くも、森鷗外や内田不知庵ら当時の男性作家らからは非難を受けます。この年に2人は結婚するも、錦は夫の女性問題で苦悩します。郷里に帰って病床にありながら小説を発表します。22歳の時、肺炎と睡眠薬過剰摂取で死去。自殺未遂として新聞で報道され、山田美妙は文壇から駆逐されます。同じ年に彼女の遺稿「五大堂」が発表されます。流行男性作家が子爵令嬢と逃避、クライマックスで男は我に返って迷うも可憐な箱入り娘が物の怪のように男を死地へ誘因、二人で投身します。さらに翌年の彼女最後の遺稿「唯我独尊」では、伯爵の妻となった女が自殺を図るも愛する男による開腹手術の末にハッピーエンドで結ばれる男女を描いています。

-庄内日報社 Shonai News

佐藤 千夜子(本名 佐藤千代)女史
Ms.Chiyako Sato / Chiyo Sato
1897 - 1968
山形県東村山郡天童村(現:天童市)生誕
Born in Tendo-city, Yamagata-ken

佐藤千夜子(本名 佐藤千代)女史は、日本初のレコード歌手第1号。レコード第1号『波浮の港』『鶯の夢』、映画主題歌第1号『東京行進曲』コマーシャルソング第1号は『初恋小唄』、地方小唄第1号『須坂小唄』『三朝小唄』。
Ms. Chiyako Sato (Chiyo Sato) is Japan's first recording singer. She recorded the first Japanese record hits, "Nami Ura no Minato" and "Uguisu no Yume", the first movie theme song "Tokyo March", the first commercial song "Hatsukoi song", and the first regional folk songs "Suzaka song" and "Misasa song".

「歌行脚」
 千代は、天童屈指の問屋を営む父・吉三郎、母・マツの長女として生まれます。母親の影響で4歳の頃から天童教会の日曜学校に通って、キリスト教と讃美歌の感化を受けて育ちます。天童小学校高等科を卒業後すると上京、英語の通弁士(通訳)になるため普連土女学校(普連土学園の前身)に入学。すぐに歌や音楽の勉強をする機会を求めて青山学院に編入します。オペラを鑑賞した千代は、音楽教師の個人指導を受けて音楽の勉強を続け、4年目に念願の東京音楽学校(東京芸術大学の前身)に入学を果たします。しかし、授業は物足りなく、東京の中央会堂教会に出入りして聖歌隊員となります。讃美歌を独唱する千代は、売り出し中の作曲家・中山晋平に見出されます。詩人の野口雨情を加えて新しい歌を宣伝して周る「全国歌の旅」に参加します。全国各地で「新民謡・新童話コンサート」を開催します。「こがね虫は金持ちだ」「かねぐらたてた くらたてた」千夜子の歌をみんなが追掛けます。「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」みんなが千夜子の東北なまりの歌声と親しみやすいメロディーに熱心に耳を傾けます。

「小唄ブーム」
 ラジオ放送が開始されると、千代は29歳のときに、NHK愛宕山放送局から中山晋平作品集をラジオを通して歌います。佐藤千夜子の芸名で、日本ビクターから『波浮の港』『鷲の夢』でレコードデビュー。「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ 夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら」「梅の小枝で 梅の小枝で 鶯は雪の降る夜の夢をみた 野にも山にも雪ばかりサラ サーラと雪ばかり」レコード第1号は飛ぶように売れて15万枚の大ヒット。翌年、菊池寛原作の小説『東京行進曲』が日活で映画化され、主題歌を千代子が歌います。「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」映画主題歌第1号は25万枚を売り上げ、「歌謡曲」というジャンルを確立。次々とヒット曲を発売、全国の老若男女が千夜子の歌声を真似て口ずさみます。続いて、病薬イメージから脱却したいカルピスの社長・三浦海雲に依頼されコマーシャルソング『初恋小唄』(北原白秋作詞)を日比谷公会堂で歌唱。「いとし前髪 李(すもも)の花よ せめて初恋また一と目 汲めよカルピス 命の泉 春はみなぎる 血はたぎる」。「初恋の味カルピス」が大ヒットすると、地方観光の宣伝に『須坂小唄』『三朝小唄』をレコーデイング、地方小唄ブームを起こします。

「古事記オペラ」
 日比谷大音楽堂での講演後、楽屋の千夜子を高松宮殿下(宣仁親王)が訪ね、ドイツ語翻訳した古事記のなかの歌謡を歌唱するよう依頼されます。古事記のドイツ語訳事業の目玉、『三諸歌』プロジェクト。雅楽の造詣の深い古い神官の家系の木下祝夫(後の香椎宮)が楽譜とドイツ語訳を担当。千夜子は一世一代の名誉として、声楽の本格的な研鑽の為にイタリアに旅立ちます。現地ではオペラの勉強の一方で、日本の民謡を広めることに尽力。イタリア政府から功績を称えられます。5年後に自信満々で帰国すると、流行歌を控えて『三諸歌』の完成を待ちます。やがて戦争に突入。千代子が南方戦線の慰問をして周る間に、東京大空襲で『ドイツ語訳古事記』『三諸歌』は消失。終戦後は芸能界を離れ、荒廃した東京にオペラと歌曲の花を咲かせようと「音和会」に参加。音楽家仲間たちと無料で慰安発表会を開催してまわります。千夜子の死後7年後にようやく『ドイツ語訳古事記』が完成、さらに20年を経てオペラ『古事記』がドイツで上演されます。

-『天童市史 別巻 下 (文化・生活篇)』天童市史編さん委員会 編1984年
-『あゝ東京行進曲』結城亮一

「諸人のためとしあらば 我が身こそ 水火の中をもいとうものかは」
“If I were to serve others, would I have to endure fire and water?”

長南 年恵(本名 登志恵) 女史
Ms. Toshie Chounan / Osanami
1863 - 1907
山形県鶴岡市 生誕
Born in Turuoka-city, Yamagata-ke

長南 年恵(本名 登志恵)女史は、日本の裁判所も認めた女霊能力者。彼女の神託「霊水」を求めて日本全国から大勢の人々が押し寄せました。
Ms. Toshie Chonan (real name Toshie) is a female psychic recognized by the Japanese courts. Decent people flocked from all over Japan to seek her oracle's ``reisui.''

「極楽娘」
 登志恵は庄内藩士・長南寛信の娘として誕生。明治政府の改革の波に乗り遅れまいと苦労する家族の中で、登志恵は小学校に入学することなく、城下町長山小路(今の山王寺町)の大棚・岸本宗和のもとへ子守奉公に出されます。奉公に出て間もなく、年恵はしばしば予言めいた言葉を口にするようになります。その予言はことごとく的中し、奉公先には 評判を聞きつけた相談者がひっきりなしに訪れます。やがて周囲から「本格的に巫女として開業してはどうか」と促された登志恵は、御嶽山を信仰する御教の行者から巫術を習い「大講義」の位を授かります。まもなく鶴岡市陽光町にある橋のたもとで行屋を開きます。

「霊水」
 明治新政府が「迷信や占い、狐憑きなどの近代化を妨げるも のは厳重に取り締まるべし」という指令を出してからも、庄内地方では出羽三山信仰の影響が色濃く残り加持祈祷が盛んで、病気の際にも医者ではなく行者や巫女をよく頼ります。登志恵の行屋はたいそうな繁盛ぶりで、成人とは思えない容姿と、天真らんまんな性格から「極楽娘」「年恵観音」の名で親しまれ、評判が日ごとに高まります。なかでも「霊水引寄せ霊媒」はあらゆる病に効くとして人が押し寄せます。病人の名札を貼って持って来させた空瓶を、厳重に封をして祭壇の前に並べると、登志恵の神降ろしで瓶にすす-つと色も量も様々な水が入っていくのです。

「詐欺容疑」
 登志恵は「みだりに吉凶禍福を説き、また詐欺行為を以て愚民を惑わし世を毒するもの」として山形県監獄鶴岡支署に逮捕・拘置されます。夏の盛りで蚊がブンブン飛びまわる中、獄吏が蚊帳を持って行っても断る登志恵を蚊はいっこうに刺しません。食事を持って行っても手をつけず、排泄の形跡もなく、身体検査では一斗樽(18L)を両手に下げて歩きまわります。どこからともなく笛・ひちりき・琴・鈴・太鼓などの合奏が鳴り響いたり、縦横無尽に筆を振るって見事な書また墨絵を描きます。前署長の求めに応じて、監房内で神に願って授かった霊水1瓶・守礼1枚・経文1部・散薬一服を手渡します。「一体この娘は何者なのか」正体がわからないまま、証拠不十分でうやむやになって釈放されます。

「霊能力の証明方法」
 大阪で商売を営む実弟の雄吉は、姉逮捕の知らせを受けると鶴岡へ舞い戻って、鶴岡支署に登志恵の霊力の証明願を提出したり、京都大学で科学的に証明してもらおうと登志恵を大阪へと転居させます。妖怪を科学的に研究する哲学者・井上円了に掛け合いますが実現しません。その間も「生き神が来る」と聞きつけた人々が登志恵のもとに連日押しかけます。登志恵は信者らに取り囲まれながら伊勢神宮参りに出かけたり、信者らから逃れるように富士山に3か月こもったりします。雄吉が大阪朝日新聞の知人記者に現場取材を依頼して記事を書いてもらうと、登志恵は再び詐欺容疑で拘置されます。雄吉は拘置を不服として上告、神戸地方裁判所で再審理が行われることになります。

「御霊水裁判」
 1900(明治33)年12月14日、「この法廷でも霊水を出せるか?」「おやすいことことですが、一寸身を隠す場所を貸していただきたい。」裁判長・判事・検事・弁護士らは、新築中の電話室を丹念に調べ片づけると、登志恵を裸にして身体はじめ衣服を検査、裁判長自ら封をした2合入り空瓶を自ら登志恵に手渡します。大勢の見守る中、静かに電話室に入っていった登志恵は5分後に内部からコツコツ合図します。扉が開かれると茶褐色の液体が満たされた小瓶を裁判官の机の上に安置します。「この薬は何病に効くのか?」「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いしたわけではありませぬから。」「この薬をもらっておいて欲しいか?」「宜しうございます。」証拠不十分で早々に無罪判決が下ります。

「神様と相撲」
 翌年、騒ぎに嫌気がさした登志恵は郷里へと帰って鶴岡で巫術を続け、登志恵は訪ねてくる信者らと同じ苦痛を味わいながら一心不乱に祈祷をします。7年後に44歳の若さで逝去します。登志恵は果物と生水を常食とし、疑い深い弟に何度も湯水を飲まされて苦しんで吐血します。綱引き・腕相撲・重い物の持ち比べ競走に笑い興じ、大の男3・4人が掛かっても負け知らずで、身長140cmそこそこで酒樽を両手に持って走ります。ある寒い日の信者会で「こんなに寒い日には、甘酒でも飲もうよ」登志恵が空の茶碗を差し出すと見る間に甘酒が湧き出てきます。登志恵が信者らの為に風呂に水を張ると薪炭を火にくべることなく湯になります。山王日枝神社・大日山井岡寺・龍王尊善寳寺の参詣に度々出かけ、信者たちを待たせて奥の宮でドタンバタン「神様とすもうを取っていた」。死後、 信者らが鶴岡市南岳寺に霊堂を建立。雄吉は心霊研究家のにまとめられます。

-『山形新聞』(2015/04/26 やまがた再発見)
-『大阪朝日新聞』(1900年7月9日 女活神の真相)
-『大阪朝日新聞』(1900年12月14日 女生神の試験)
-「長南年恵物語」(浅野和三郎 著 / 日本心霊科学協会1930年)
-「心霊研究 50(5)(591)」(日本心霊科学協会1996)
-『全国長南会通信27号』(2007年1月1日 長南年恵100年祭)

福島県 Fukushia-Ken

「美徳を以て飾とせよ」
"Adorn yourself with virtue."

新島八重 女史
Ms. Yae Neesima
1845 - 1932
福島県会津若松市
Born in Aizuwakamatsu-city, Fukushima-ken

新島八重女史は幕末・明治時代に女性砲術師、女性教育者、従軍看護婦、女性茶人として活躍、新しいライフスタイルを実践しながらリーダーシップを発揮した近代女性の先駆者です。
Ms.Yae Neeshima is a pioneer of modern women in the late Edo and Meiji periods, actively engaging in various roles such as female artillery officer, female educator, military nurse, and female tea practitioner. She practiced a new lifestyle and made significant leadership. 

*******

「女砲兵隊」
 八重は会津藩の砲術師範を勤める父・山本権八と母・佐久にもとに生まれ、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示します。父はじめ兄・覚馬から洋式砲術の操作法を学び、八重は13歳になる頃には四斗俵(約60キロ)を持ち上げして22貫(約80キロ)の体に鍛えあげ、裁縫場に通っても稽古が終わるやいなら自宅に戻って射撃稽古に明け暮れ、元込式7連発スペンサー銃を操作できるまでになります。まもなく兄が江戸から招いた優秀な洋学者で藩校日新館の教授を務める川崎尚之助と結婚します。オランダ語の原書を読んで機械や弾薬の製造まで手掛ける夫・尚之助について八重はさらに砲術を学びます。やがて郷里会津は鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に新政府軍から『逆賊』として扱われ、戦火は会津各地から鶴ヶ城に広がり籠城戦となります。大砲隊を指揮する夫・尚之助に続いて八重も断髪・男装して会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持って奮戦します。城内の砲兵隊として最前線の北出丸に銃を据え、土砂を詰めたよろいびつを並べて、肉薄してくる官軍を日々撃退します。しかしながら同盟諸藩とともに会津も降伏します。

「女学長」
 敗戦後、八重は捕虜となった夫と生き別れ、夫の教え子で米沢藩士・内藤新一郎の世話で1年ほど米沢で母・佐久と兄嫁・うらとその子供たちと過ごします。あるとき薩摩屋敷に捕らわれている兄の噂話を耳にした八重は、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬からの手紙を頼って上洛します。八重は兄の勧めで英語と聖書を学び始め、靴に履き替え、京都に新設された新英学校及女紅場の権舎長・教導試補として働きはじめます。八重は機織りや礼法・習字などを教えながら、京都府知事・槇村正直のもとに乗り込んで学校運営に関して頻繁に交渉に行きます。あるとき、アメリカン・ボードの宣教師ゴードン夫妻のもとを訪ねた八重は靴磨きをするアメリカ帰りの宣教師・新島襄と出会います。やがて兄のもとに寄宿してキリスト教主義の学校建設(後の同志社大学)に奔走する新島襄に賛同した八重は洗礼を受けキリスト教式の結婚式を挙げます。八重は西洋料理を覚え、洋装に靴を履き、「八重さん」「襄」と呼び合って常に連れ添って、クリスチャンホームを実践します。八重は私塾デイヴィス邸での女子塾、同志社分校女紅場、同志社女学校、京都府看病婦学校と同志社病院の創設にも携わります。

「女茶人と看護婦」
 夫・襄が急逝すると八重は体調を崩し寝込みますが、やがて日本赤十字社の正社員となります。日清戦争が始まった年、日赤京都支部と京都看病婦学校から看護婦40 名を率いて広島第三予備病院に行き4ヶ月間の救護活動を行います。看護婦取締役として、怪我人の看護ならびに看護婦の地位向上にも努めます。その後、八重は日赤の補習科で看護を学び、 看護学修業証を得て看護学校の助教師を務めます。日露戦争時には、再び各地の病院を精力的に慰問、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間救護活動を行います。 これらの功績によって勲七等宝冠章ならびに勲六等宝冠章が授与されます。八重は女紅場で茶道教授・円能斎の母である伊藤幾久寿と知り合ってから茶道に親しみ、49歳で茶道裏千家に入門、若い女性たちに茶道を教授し始めます。さらに京都府立第一高等女学校と京都市立第一女学校に八重は「茶義科」を開設。教授に圓能斎と幾久寿を迎えます。それまで男性中心だった茶道は、女子教育の一環として復活します。86歳で逝去するまで女子教育また社会奉仕に活発に活動を続けました。

-會津藩校 日新館 Aizu-Nisshinkan
-同志社大学 Doshisha University

田部井  淳子 女史

Ms. Junko Tabei

1939 - 2016

福島県田村郡三春町出身 生誕

Born in Tamura-gun, Miharu-machi,Fukushima-ken

「女子だけで海外遠征を」

"Overseas Expeditions for Women Only"

田部井淳子女史は女子登攀クラブを設立し、女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功しました。生涯で76か国の最高峰・最高地点に登頂しながら、安全で楽しい登山の指導・山岳環境保護の啓蒙活動に力を注ぎました。

Ms. Juneko Tabui is the founder of the Women's Alpine Club and the first woman in the world to successfully climb both Mount Everest, the highest peak on Earth, and the highest peak on each of the seven continents. Throughout her life, she climbed the highest peaks and points in 76 countries while dedicating herself to promoting safe and enjoyable mountaineering, as well as environmental conservation efforts in the mountains. 

******* 

「ワァー登ったんだなぁ。

 淳子がはじめて山に登ったのは小学校4年の夏休み。山好きの担任の先生に引率されて学友4人と一緒に2泊3日で栃木県の茶臼岳1915mを大冒険。歩くうちにだんだん草や木がなくなって砂と岩だらけ。硫黄の変なにおいがして、地面がぶつぶつと煮たっている。病気がちで運動も苦手にも関わらず、わくわくどきどきしながら、先生また学友と励まし合ってゆっくり一歩一歩進んで頂上に立ちます。淳子は頂上から見下ろす風景の美しさに感動します。順位を競うこともなく選手の交代もなく、体育が得意な友だちと苦手な自分も一緒になって登り途中の風景も頂上にたどり着く達成感もともに味わう。淳子はすっかり登山に魅了されます。中学・高校の山岳部は女子禁制で入部を断念、年の離れた兄と一緒に安達太良山・磐梯山・吾妻山に登ります。
「どうしても白い山へ登りたい雪の山を歩いてみたい 

 上京して昭和女子大学の英米文学科に進学すると、寮生活のストレスで体調を崩します。ふさぎこんでいた淳子は友人に誘われて奥多摩の御岳に登ります。 ただ ひたすら一歩一歩登りながら頂上に立つと、確かな満足感と山を取り巻く自然の広がり・空気・あらゆるものが体中の臓器にしみわたります。それから友人2人で東京周辺の山々からはじめ、谷川岳・中央アルプス・八ヶ岳・北アルプス・南アルプス・北海道の山々を歩き回ります。雪山を登りたい淳子は、女性を受け入れている社会人山岳部を雑誌で探しだして入部。日本物理学会に就職して論文編纂に従事しながら、毎週末ヘルメットを被りロープを体に巻きつけて岸壁にへばりつきます。「白嶺会」では富士山での雪上訓練からはじめ冬山の五竜岳・谷川岳一ノ倉沢を目指し、「龍鳳登高会」では日本最大の岩場、谷川岳一ノ倉沢の奥壁・衝立岩、穂高岳の屛風岩を目指します。
「女同士で衝立山を登ろう」 

 本格的な登山にのめりこんでいく中、ヨーロッパ三大北壁の一つアイガー北壁をドイツ人女性が初めて登頂した話を聞きます。早速、淳子は佐宗ルミエと女性ペアを組んで谷川岳一ノ倉沢の衝立岩に雪期登攀します。女同士の登山では、歩く速度も岸壁をつかむ位置も同じ、着替えやトイレなど気を遣う面倒もない。淳子は今までにない満足感を味わいますが、数か月後、谷川岳で仲間を助けようとして転落死したルミエの訃報が届きます。淳子は登山家・田部井政伸と出会い結婚・出産。淳子は退職金で夫・政伸をヨーロッパのマッターホルンに送り出します。政伸はヨーロッパ三大北壁のグランド・ジョラス北壁・マッターホルン北壁の登頂に成功するも凍傷で足の指4本を切断します。淳子は夫とザイルを組む一方、女同士で何度も登攀合宿を行い、猛烈な勢いで山に登り続けます。

「女だけでヒマラヤへ行こう」
 1969年「女だけでヒマラヤへ行こう」を合言葉に、淳子は宮崎英子、関田美智子とともに「女子登攀クラブ」を設立。気兼ねのない女性だけの海外遠征の登山隊「アンナプルナ日本女子登山隊」(隊長:宮崎英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:平野栄子、漆原知栄子、平川宏子、佐藤礼子、真仁田美智子、山崎茂利江、 医師:大野京子)を結成。女性には登れないという世間の偏見に向き合いながらスポンサー集めに奔走、猛者達の統率に苦心しながら選出メンバーとトレーニングや登山計画を練ります。1970年、高山病・スリップ事故・荷揚げでメンバーが紛糾する中、アタックメンバーに選ばれた淳子はヒマラヤ山脈アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂を果たします。さらに、「エベレスト日本女子登山隊」(隊長:久野英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:真仁田美智子、奈須文枝、渡辺百合子、 平島照代、三原洋子、中幸子、種谷由美、塩浦玲子、永沼雅子、荒山文子、北村節子、藤原すみ子、ドクター:阪口昌子)を結成。1975年、雪崩に巻き込まれ胸部圧迫・打撲を負いながらも下山を断固拒否、アタックメンバーに選ばれた淳子は世界最高峰エベレスト(8848m)の女性世界初の登頂を果たします。
「一緒に富士山に登ろう」

 さらに淳子は女性登攀クラブを率いて、1992年女性世界初で7大陸最高峰登頂。さらに、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスとエネルギッシュに登り続け76か国の最高峰・最高地点の登頂を記録。還暦前には、キルギス共和国のポベーダ峰(7439m)・イスモイル・ソモニー峰(7495m)、レーニン峰(7134m)、コルジェネフスカヤ峰( 7105m)、ハン・テングリ(7010m)の天山・パミール高峰五座に登頂を果たし、現地で「雪豹」の称号を贈られます。東日本大震災後、淳子は故郷福島はじめ東北の高校生たちを連れて富士登山をはじめます。仲間同士で日本一の富士山に楽しく登れるように、内気な子には声をかけて疲れた子は励まして、勇気や元気を持って前に進めるように頂上に立たせます。

-田部井淳子基金 Junko Tabei Foundation

-時事通信 Jiji Press Ltd.

「中身を守るために、捨てられてしまう卵の殻になってなってもいい。」
"I'm okay to become the egg shell thrown away to protect the contents."

星 三枝子 女史
Ms. Mieko Hoshi
1949 - 1992
福島県南会津郡田島町(現在の南会津町) 出身
Born in Tajima-machi (Now MinamiAizu-machi), Fukushima-ken

星 三枝子 女史は薬害スモン闘病記の著者で薬害スモン福島の会発起人。薬害スモン闘病記録を点字で機関紙はじめメディアに寄稿して薬害スモン訴訟を牽引します。
Ms. Mieko Hoshi is the founder of the Sumon Fukushima Society for Drug Harm. She led the Sumon litigation, contributing her SUMON journey article to media.

「青春」
 三枝子は、空気は新鮮で山の緑が美しい国鉄会津滝原線終着駅の会津滝原に生まれます。中学校を卒業すると地元の南会高等洋裁学院に入学、会津若松市の呉服屋「上野屋」に就職します。20歳の三枝子は生まれて初めて親元を離れアパートで自炊しながら、客の注文服の仕立てを担当して寸法を取り裁断を仕上げます。毎日がとても充実して働くことの喜びを満喫します。従業員一同で大騒ぎして楽しんだ社員旅行から戻ると、とても暑い日が続いてアパートは蒸し風呂のようになり、水を多く飲むうちに水あたりで下痢が続いて食欲も体力も減退、仕事も休みがちになります。三枝子は近所の竹田総合病院に勤める看護婦の叔母に予約を頼んで消化器科で受診します。赤痢の検査を受けて筋肉注射と2・3日分の薬を処方されて帰宅します。薬をきっちり飲んでも下痢が続くので何回か外来に通います。赤痢ではないことが分かってほっとしますが、同じ様に筋肉注射と2・3日分の薬を処方され、同じ様に薬を欠かさず飲んでも吐き気また下痢が止まらず体は衰弱する一方。実家に戻って療養しても良くならず、入院することになります。

「しびれ」
 三枝子は病院でも点滴と同じ薬を引き続き処方されます。その夜中に歯が食いしばっているような感じがして目が覚めるも気にしないで寝入ると、翌朝口が開かない話すことができない唸り声しか出ないことにびっくり仰天します。駆け付けた医師たちはヒステリー症と診断。お昼に心配する家族に介抱されて牛乳を飲ませてもらっても唇からよだれのように流れます。吐き気をもよおして背中を叩いてもらって薬のようなものを吐き出すと歯の食いしばりが治って話ができるようになります。夕方には足のしびれを感じます。日に日に足のしびれが重くなって白く変色していきます。三枝子は回診のたびに看護婦また医師に訴えますが「気のせいだから」と言われます。歩くのが苦痛な三枝子はベッドの上で本を読んだり外を眺めて過ごします。入院して3日後、しびれは膝まで広がり足は鉄の靴でも履いているように重くなります。4・5日目にはつかまってもくにゃくにゃ座り込んでしまい歩けなくなります。排泄機能もしびれてお腹が張って苦しいのに自力排泄ができなくなり導尿を通されます。しびれや痛みは容赦なく上へ上へと広がり首に到達。全身の激痛と耳鳴りに苦しみます。

「スモン」
 入院から2・3週間目に新潟大学から医師が来て診察を受けるころには手の指を曲げて胸にあてたまま動かなくなっていました。ATP点滴をはじめると視界がぼやけ始めます。三枝子はすぐに医師に訴えますが「気のせいですよ」と言われます。三枝子は歯を食いしばって痛みに耐えながらリハビリに励みます。そんなある日、仙台市の患者から一通の手紙を受け取ります。「スモンで8年寝たきりです。あなたもスモンらしいですね。」三枝子はハンガーストライキをして医師から病名を聞き出します。「スモン(SMON)Subacute Myelo-Optico-Neuropathy:亜急性脊髄・視神経・神経症」三枝子は聞いたこともない治るのか治らないのかも分からない病名に愕然とします。「来春あたりまでには見えるようになる」祈るような気持ちで来春が来るのを待つ三枝子は、入院して3か月後の秋に完全に失明して21歳を迎えます。父親の急逝と自殺未遂を経て、母親と妹に連れられてリハビリに通う三枝子は「スモンはキノホルムが原因らしい」という報道を耳にします。通院中に1日4錠、入院してから1日6錠のキノホルム含有メキサホルムを連続投与されていたことを医師から聞き出した三枝子は愕然とします。

「卵の殻」
 全国スモンの会から手紙を受け取った三枝子は母・兄・叔父と一緒に訴訟説明会に出かけます。三枝子は同じ苦しみを乗り越えた様々な人達の話を聞いて力強く感じます。三枝子は福島県のスモンの会の発起人となって名簿を頼りに母親と一緒に手紙を送り、福島民報新聞の取材を受けます。機関紙「スモン」に闘病記録を寄稿したり、署名運動をしたり、カンパを募ったりしながら、リハビリに行ったり、点字の本を読んだり、点字を打って手紙を書いたり、編み物をしたり、長い入院生活の中で楽しみを見つけます。発症から2年後ようやくスモン訴訟第1回目の公判が始まると、三枝子は法廷での証言を務めます。「闘いはこれからだ。スモン訴訟。病気との闘い。自分自身との闘い。孤独との闘い。」病室で裁判官による臨床尋問を受けた後に、三枝子はラジオ福島のインタビューの中で「夢は何ですか」と聞かれて働いていたころに持っていた明るい楽しい夢を思い出します。「残された機能を活かして少しでも私なりの幸せをつかめるように努力したい。」母親のつきっきりの看病に支えられながらも、やがて三枝子は少し体を動かすだけでも顔をゆがめるほどの激痛に全身をさいなまれ始め、体はますますやせ細っていき、食事もほとんど咽喉を通らず、下痢や嘔吐発熱に苦しめられ、栄養注射また輸血に頼るようになります。「残る短い人生を、子供たちの為に、薬害の生き証人として、卵の殻になってもいい」。発症から10年後、東京地裁は国と田辺製薬・武田薬品工業・日本チバガイギーの責任を認定、和解が成立します。その後も三枝子はキリスト教の信仰に生き、俳句に生き、愛に生き、23年に渡る長い闘病生活の末に43歳の生涯を閉じます。「限りある命 誰がために恋しけり 愛あればこそ 我の道しるべ」

-『春は残酷である スモン患者の点字手記』(星 三枝子 著 / 毎日新聞社1977年)
-社会福祉法人 全国スモンの会 | - 小平市

茨城県 Ibaraki-Ken

山下 りん 女史 Ms. Rin Yamashita

1857 - 1939 

茨城県笠間市 生誕

Born in Kasama-city, Ibaraki-ken

「死なば死ね。生きなば、生きよ」

"If I die, die. If I live, live."

山下りん女史は日本初のイコン画家・女流聖像画家として東京神田のニコライ堂ほか各地の正教会教会堂の作品を手掛けました。

Ms. Yamashita Rin was Japan's first icon painter and female religious portrait artist. She worked on artworks for Tokyo's Nikolai-do Church and other Orthodox churches in various locations. 

*******

「家の犠牲になってたまるか」

 りんは笠間藩下級士族の父・重常と母・多重のもと兄と弟の3人きょうだいに生まれます。幕府軍と尊王攘夷派の天狗党の戦闘が繰り広げられる中、りんは寺小屋を開く祖父のもとで日本画また浮世絵を描いて過ごします。この頃、りんと同じ下級士族の娘の多くは豪農に嫁ぐも辛い生活に耐えかねて乳飲み子とともに心中していました。やがて、農家との結婚話を勧められたりんは画業を志して単身上京します。一度は家族に連れ戻されますが、夢を捨てきれずに再上京。家事雑事を一手に引き受けながら、豊原国周という浮世絵師に学び、次に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事します。日本画の落日を目の当たりにしたりんは、親戚の伝手をたよって明治政府が創設したばかりの工部美術学校を受験、見事合格すると笠間藩より月謝の支援を取り付けます。

「こんなに感動させるのはなぜだろう」

 りんは日本初となる女性美術学生6人のひとりとなって、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージの指導を受けます。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミレー、絵画の技法だけでなく反映されている西洋哲学・思想を説くフォンタネージの指導のもと、りんは新鮮な驚きまた喜びとともに無我夢中で学びます。やがて、政府の予算削減のあおりをうけフォンタネージが辞任、後任として無名の画家が雇われると学生たちは次々と自主退学して美術団体「十一会」を旗揚げします。その頃、りんは同窓生の山室政子の影響でキリスト教のロシア(ハリストス)正教に入信。来日していたニコライ神父からイコンを学ぶためにロシア留学を勧められます。

「民衆の叫びや祈りが聴こえる」

 横浜を発ったりんは香港・サイゴン・シンガポール・セイロン・アデン・アレキサンドリア・コンスタンチノープルをスケッチしながら経由、ウクライナのオデーサから入港して汽車でペテルブルクにたどりつきます。ノヴォデーヴィーチ修道院に住み込み、フョードル・イヴァノヴィッチ・ヨルダーンの指導のもとイコン制作に従事します。西洋美術の影響に葛藤するロシアのビザンチン伝統美術を目にしながら、りんは独自のイコン描画を模索します。りんは日本画や肖像画を描いて馬車台を工面、エルミタージュ美術館に通います。社会の矛盾を告発し新時代を希求する闘争が渦巻くロシアで、修道院はじめ取り巻く周囲との軋轢を体験しながら、りんは5年の留学を2年できりあげて帰国します。帰国後は日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、ニコライ堂はじめ関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残します。生涯独身をとおした山下りんは61歳の時に帰郷、81歳で永眠します。

-白凜居 山下りん記念館 Hakurinkyo Rin Yamashita Memorial Museum

「女子の地位を男子同等に進ませるの覚悟なり」
"I am determined to advance the status of women to the same level as that of men."

園 輝子 女史
Ms. Teruko Sono
1846 - 1925 
生誕地:茨城県土浦市
Born in Tuchiura-city, Ibaraki-Ken

日本初の女性代言人(今でいう弁護士)として活躍。アメリカで自伝を出版後アメリカで講演を行って寄付を募り、東京麻布で倚松園女塾を開校しました。
Teruko Sono was Japan's first female Daigennin (now called a lawyer). After publishing her autobiography in the United States, she gave speaches in the United States, solicited donations, and opened the Koshoen Jojuku school in Azabu, Tokyo.
*******

「お姫様代言」
 輝子は、医師の父のもと裕福な家庭で育ち、水戸藩士と結婚し娘を出産。まもなく離婚するも夫の酒乱がひどくなると娘を引き連れて実家に戻ります。女子学校を経営する妹・春子の指導の下、茨城で教師として働きます。まもなく娘を育てるために、明治政府下で新しく導入された代言人(弁護士)になることを決意。上京すると、親戚のつてで代書の仕事からはじめ、続いて代言人を手伝い始め、自ら弁護活動を始めます。12年目の28歳で日本初の女性代言人となって、政治家はじめ多くの裕福な顧客を持ち活躍します。小倉袴に靴で元祖束髪の輝子を見るために裁判所にはたくさんの見物客が押し寄せます。代言人を続けながら、浅草並木町で氷店を開いて顧客を広げます。この頃、代言人規則が制定され試験による免許制に、さらに弁護士法が制定され弁護士は成年男子のみとなります。

「メイド」
 39歳の輝子は福沢諭吉の勧めでアメリカで女子教育を学ぼうと決意。貯金と支援金をかき集めると単身アメリカに渡ります。サンフランシスコに到着すると銀行が破産、メイドとして働きながら小学校で英語を学び始めます。サンフランシスコ福音会の美山貫一牧師はじめ世界クリスチャン婦人矯風会WCTUの女性達に助けられ、カリフォルニア大学を卒業。自伝『テル・ソノ:日本の改革者』を出版します。サンフランシスコ婦人会(園輝会)を創立、日本にキリスト教に基づいた女子教育のための学校を建設する資金を集めるため、ボストンのWCTUはじめアメリカ国内で講演活動を始めます。さらにロンドンに移り、学術や講演活動に従事し、女性参政権新聞やサフラジェット紙と交流を持ちながら、さまざまな教会で講演を行います。さらにイギリスに渡った先で、マクレーン婦人と寄付金を巡る裁判を起こして熱弁をふるいます。

「婦人教育改革者」
 49歳で帰国した輝子は、自宅横に倚松女塾を開講。美山貫一牧師、呉大五郎、渋沢栄一がスピーチを行い、キリスト教徒はじめ津田仙・津田梅子、政治家の婦人らが来賓します。毎年 30 人の生徒を受け入れ、2 人の女性教師で、読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理、和歌及び挿花等、を教えます。この頃、女子学生のバイブルと言われた『女学雑誌』で、イギリスのマクレーン婦人との寄付金をめぐる裁判について、宗教家・軍人・政治家を巻き込んで論争が起こります。輝子は法廷に訴へ、新聞社に記事の掲載を中止させ名誉毀損の謝罪をさせます。まもなく日本のキリスト教会の指導者らと対立、アメリカ園輝会を解散され支援が途絶え、学校は閉鎖に追い込まれます。その後、輝子は伊豆伊東で伊東婦人会を結成、女性教育活動を続けます。晩年は私財を教育事業・福祉事業などに寄付、池上本門寺で出家、日輝法尼となって余生を過ごします。

-国際日本文化研究センター International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, Japan
-Tel Sono, "The Japanese Reformer", Hunt & Eato 1890

「里に入りてまた一聲(こえ)や杜鵑(ほととぎす)」
"Entering the village, another cry of the cuckoo"

奥原 晴湖 (本名 池田 せつ子)
Ms. Seiko Okuhara
1837 - 1913
茨城県古河市 出身
Born in Koga-city, Ibaraki-ken

奥原 晴湖女史は日本の代表的な男装の女流文人画家です。彼女の「詩書画一致」の作品は幕末から明治の激動の世にいきる人々に熱狂的に支持されました。
Ms. Seiko Okuhara is the most renowned female Literati Painter in Japan. Her "Harmony in Verse, Script, and Brushwork" were enthusiastically supported by the people living in the tumultuous times spanning the end of the Edo period to the Meiji. She is acclaimed alongside Noguchi Shohin as a pair of distinguished female Southern-style painters of the Meiji era.

「墨吐煙雲楼」
 せつ子は、古河藩士の父・池田繁右衛門政明、蘭学者を伯父にもつ母・きくの間に生まれます。幼い頃より男勝りの性格で、学問より柔道・剣道・絵を好みます。10歳から叔父である古賀藩家老で蘭学者の鷹見泉石のもと学問を学び、17歳から古賀藩の南画家・枚田水石に書画を学びます。せつ子は男達からの縁談また口説きを切り捨てては投げ飛ばし、名文・名画を片っ端から模写しながら生涯独身を決意。江戸で画家として身を立てようと考えるようになりますが、古賀藩は女子が単身で江戸はもとより旅に出ることを禁じていました。29 歳のとき、猛反対する家族を説得して、叔母の嫁ぎ先である奥原家の養女となって江戸に出ます。文人墨客の住む上野の下谷に居を構え、「墨吐煙雲楼」と看板を掲げ、「晴湖」と号します。

「不忍池集」
 せつ子は自筆書の扇子を名刺代わりに、先輩書家・画家らのあいさつ回りを始めます。外見の美しさと覇気縦横の筆力と談論風発の応対ぶりが評判となり、同年の暮れに不忍池の三河屋で盛大なるお披露目会を開催します。詩人の大沼枕山・鱸松塘・上村蘆洲、書家の関雪江・高斎單山・山内香溪、画家の鈴木鵞湖・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの大家の参加と合筆「不忍池集」を受けます。せつ子は他人の書画会にも努めて顔を出しながら、清の画家の鄭板橋を発掘して研究、豪快洒脱な即興書画で人気者となります。父からの支援金25両が尽きると、兄から米を送ってもらい、質屋通いをしてしのぎながら、男達と対等の交際をするための酒代にあて、せつ子は酒豪としても男子と角逐して一歩も引けを取りません。

「容堂攻略」
 明治維新の混沌時代、知識階級の中で文人画が流行。特に大権政家の山内容堂の一面風流文雅の雅宴へ参会しようと文人墨客が先を争います。せつ子もようやく招待を受けると、当日主席する先輩大家をひとりひとり手土産とともに訪ねてまわり、自分の席順を最上席にすること、ならびに自分の画を褒めるよう約束をとりつけます。会の当日、他の出席者が勢揃いして着席した頃、せつ子は鮮やかな黄八丈の2枚重ねの上に黒ちりめんの羽織とだるまがえしの粋な髪型で参上。一同のどよめきの中を最上座に着席。会が始まると、せつ子は得意の啖呵とダイナミックな筆また先輩大家の援護評価で容堂を圧倒します。容堂はじめ木戸孝允の贔屓を得たせつ子は、皇后の御前揮毫の機会を得、南画家として一躍有名になります。総勢300人以上の門人を抱えながら、鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成、文人画の研究と隆盛に尽力します。

「繍佛草堂」
 男子の断髪廃刀令が出ると、女子の断髪は禁止じられるも、44歳のせつ子は持病のためと申し立て散切り頭にします。黒羽二重で五つ紋の男羽織に仙台袴、男の様に振舞います。おびただしい数の来客と揮毫依頼に、せつ子の借家は大豪邸に、せつ子の体は相撲取りのように、せつ子の筆はますます豪宕無類となります。やがて、岡倉天心とフェノロサが始めた新日本画運動が盛り上がって美術学校創設に発展。文人画非芸術論におされ、せつ子ら文人書家・画家らは人々から顧りみられなくなります。せつ子は55歳の時に、埼玉県熊谷の草深い川上村に画室付きの住宅「繍佛草堂」を建て、同じく散切り頭の女弟子・晴嵐(せいらん)と共に隠棲します。2人で長期にわたって北越方面松島、東北方面、関西方面を旅をしながら風光また名書画を研究の資とします。日露戦争がはじまると、せつ子のもとに俄かに揮毫依頼や訪問客が増え、門前の草は踏み絶やされます。一変して神韻で雄渾蒼潤な書画を描き続けながら、せつ子は77 歳の生涯を閉じました。

-古河歴史博物館/鷹見泉石記念館・奥原晴湖画室

「おいしいワインを造るには、善い人間にならないと」
“Good wine, Good person.”

ラドクリフ・小林 敦子
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi
? -
茨城県下妻市
Born in Shimotuma-city, Ibaraki-ken

ラドクリフ・小林敦子女史は日本女性初の醸造家でワイナリー経営者。醸造コンサルティングを介して日本ワインの基礎を築く。2013年にオーストラリ ア・アッパーハンターバレーにてワイナリー「Small Forest」を設立。
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi is Japan's first female winemaker and winery manager. Build the foundation of Japanese wine through brewing consulting. In 2013, she established the winery "Small Forest" in Australia's Upper Hunter Valley.

「日本発の女性ワイン醸造家」
 敦子は当時話題のバイオテクノロジーの道に進むべく東京農業大学に進学、長い伝統と発酵という生物学的作用で生み出される日本酒の研究を何となく始めたところ、深い関心を抱くようになり、大学卒業後は日本酒醸造の道に進みたいと考えるようになります。しかし当時の日本酒業界に女性が進むのは難しく、協和発酵に入社して新商品の試験・日本酒やワインなどのサンプル分析などを担当します。やがて友人が経営する栃木県のワイナリー「ココ・ファーム」に転職。知的障害者厚生施設「こころみ学園」の親たちが立ち上げたワイナリーで障害者と一緒に生活しながら、ワイン造りに本格的に携わり始めます。経験と知識を得るため、カリフォルニア州のナパやソノマに何度も出掛けます。「日本初の女性ワイン醸造家」 としてメディアなどで取り上げられてから3年後、同業の友人達と醸造コンサルティング会社を起ち上げます。都農ワイン・シャトー酒折・安曇野ワイナリー・奥出雲ワインで、ワイン造りのための機器選定・テストラン・新しいワイナリーの起ち上げの支援などを行います。女性という外面にばかり注目が集まり仕事の中身を見てもらえずフラストレーションがたまる中、取引先また先輩醸造家に「あの底抜けに明るいワイン造りを見てきたら」。敦子はワイン造りの本場フランスのボジョレー・ミュルソー・ボルドーを回ります。フランスで子供を育てるように愛情をかけてワインを造る人たちの生き方に感銘を受けます。さらに世界の先端をいくオーストラリアに渡ってヴィンテージワイン造りを学びます。やがてオーストラリアを代表するワインの製造会社ロー ズマウント社に入社。敦子は価格帯の高いワインのブドウから瓶詰めまでの工程管理を担当。畑とセラーを出入りして3万樽のワインの面倒をみながら、1日に200〜300樽の試飲をしてブレンドします。収穫時期には他州また海外から集まる300人を超える従業員とチーム一丸となって、ジュースや発酵中のワインで服や髪をベタベタにしながら24時間2交代体制で3カ月以上かけてワインを造ります。「日本の小規模なワイナリーでやっていたのはいったい何だったんだろう。」

「日本初の女性ワイナリー経営者」
 ダイナミックなワイン造りに魅せられ7年後、他社との合併によりローズマウント社は本拠点アッパーハンターバレーから撤退、オーストラリアの鉱山会社マラバー社がワイナリーの土地を買い上げます。敦子はロー ズマウント社を退社。浦霞醸造元から誘いを受け、1年半の間だけ宮城県塩竈市で念願の酒造りに携ります。大先輩2人と酒造りの工程の各部署を1週間ずつ経験する研修を経て、日本酒の「酒母」を造る担当「モト屋」に。敦子は、東北の短い夏・厳しい冬の寒さ、そこに住む住民の格別な温かさ、新鮮な魚介類や豊富な野菜をあつかう商店、信仰のもと「塩竈神社」などから本当の豊かさを実感します。「このような環境で生活している人たちが造るから、この日本酒はこういう風においしいのだ」「ワインは所詮、ただの飲み物でしかない。飲みやすい。おいしいをつくろう」酒造りの経験をきっかけに、ロンドンのワイン・コンペ「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」で日本酒のジャッジを任され、ワインのジャッジも始めます。一方、アッパーハンターバレーでは、鉱山会社マラバー社は環境影響の調査ならびにブドウ栽培農家はじめ地元住民との調整を経て、「露天掘り」ではなく「地下堀り」で炭田開発を行って地表でワイナリーの継続を決定、日本人の敦子に白羽の矢が立てられます。オーストラリアのワイン発祥の地アッパーハンター・バレーはローズマウント社の撤退を皮切りに、最盛期8社あったワイナリーは撤退や閉鎖を余儀なくされ2社に激減。「地域に貢献できるのでは」と考えた敦子は「スモール・フォ レスト」を起ち上げます。マラバー社とリース契約を結び、前のオーナーが残していったワイナリーの設備を受け継ぎ、ワイン原料のブドウをマラバー社の農園から購入します。内陸部からやってくる夏場の嵐・ヒョウ、-3~45℃の気温変化、山火事・野焼の煙害など、9月(発芽)~11月(開花)~1月(収穫)の間ブドウの品質管理から目が離せません。「醸造はその時にしかしてあげられないことの連続。毎日愛情をかけ、細かい部分に気を配って、小さなことでもやれることはすべてしてやることでワインは素晴らしいものに仕上がっていくのだという確信がある。」失敗また試行錯誤を経てようやく自社畑のブドウで仕込みをすることができるようになると、オリジナルブランド「By Atsuko」でインターナショナル・ワイン・チャレンジで銀賞を受賞します。

-SMALL FOREST
-International Wine Challenge

-都農ワイン

-シャトー酒折ワイナリー

-安曇野ワイナリー

-奥出雲葡萄園

群馬県 Gunma-Ken

向井千秋 女史 

Ms.Chiaki Mukai

1952 -  

群馬県館林市

Born in Tatebayashi-city, Gunma-ken

「好きなことを好きと言える社会の空気を醸成したい。」

"I want to foster a social atmosphere where people can say Like what they like."

向井 千秋女史はアジア人初の女性宇宙飛行士です。1994年にスペースシャトル「コロンビア号」に搭乗、ライフサイエンスや宇宙医学などに関する実験を実施しています。

Ms. Chiaaki Mukai is the first female Asian astronaut. In 1994, she flew aboard the Space Shuttle Columbia, where she conducted experiments related to life sciences and space medicine. 

*******

彼女は幼いころ母親が営むカバン店の売れ残りのモスグリーンのランドセルあてがわれ学校でいじめられます。「どうして私だけ緑なんだろう、嫌だ」。ところが、ある時ふと気づきます。「みんなのランドセルは黒と赤なのに、緑は私しか持っていないじゃない?」自分のユニークネスに気づいたらなんだか自信が持てるようになったと言います。休みの日には中学校の理科教師である父親と一緒に学校に行って実験器具を用意する手伝いをしたり、冬には学校がある日でも家族でスキーに出かけます。弟の足が悪くてみんなにいじめられていたため、「病気などを理由にいじめられる人がいるならその病気を治してあげたい。みんなで楽しく生きていきたい。」と医師を目指します。弟の通院する東京大学病院を目指し、両親のつてを頼り都内に下宿。猛勉強の末、慶應女子高校に入学、慶應義塾大学医学部医学科に合格。またスキー部に所属、東日本医学部スキー大会の回転部門で優勝、大回転部門で3位の成績を収めます。慶應義塾大学出身者として女性外科医第一号となり、石原裕次郎の担当医の一人を務めています。

日本人宇宙飛行士募集の記事を目にしてすぐに応募、1次書類選考を通過すると、仕事帰りに毎日プールで1時間泳ぎ、英会話教室に通います。筆記試験と心理検査、医学検査と負荷検査、米航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターでの最終選考をクリア、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS、搭乗科学技術者)の3人に採用されます。訓練を開始して4カ月後に米スペースシャトル・チャレンジャーが爆発、7人の乗組員が死亡する大惨事が起きます。スペースシャトルの打ち上げ再開に日本人は選ばれず、4年後のエンデバー号には毛利衛氏のみ選ばれ、向井氏は後方支援部隊に配属されます。彼女は次のスペースシャトルに搭乗するために、各国の研究者のもとへ足を運んで面談、自分に投票してもらえるよう交渉、現地の技術者と一緒に実験に取り組みます。毛利衛氏の帰還後1週間でスペースシャトル・コロンビア号への搭乗が決まります。1994年、ペイロードスペシャリストとして参加、女性の宇宙最長滞在記録を更新しながら宇宙酔いにも睡眠障害にも悩まされることなく、各国の研究者から託されたやり遂げます。特に「宇宙メダカ」の誕生は話題になります。さらに帰還4年後2度目のスペースシャトル・ディスカバリーに搭乗。

帰還後に宇宙教育プログラムを独自に開発。「夢実現のツール」教育活動に従事しています。ならびに東京理科大学副学長として、国際化・女性活躍・宇宙教育プログラムなどの推進に貢献。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の技術参与として、宇宙の平和利用や国際関係の調整に奔走。日本学術会議副会長を務めています。

-日本宇宙航空研究開発機構 JAXA

「私は指図がましいことをさせられない時に、最も能く私の義務を果たすことができる」
``I am able to fulfill my duties best when I am not told to do anything.''

原口 (旧姓 新井)鶴子 女史 
Ms. Tsuruko Haraguchi / Arai
1886 - 1915 
群馬県富岡市一宮町 生誕
Born in Tomioka-city, Gunma-ken

原口鶴子女史は日米女性初の心理学博士Ph.D。精神疲労に焦点をあてた産業心理学の先駆け。心理学はじめ新しい家庭の実践について執筆活動を行って日本における女性権運動に影響を与えました。
Ms. Tsuruko Haraguchi is the first woman to recieve a Ph.D. in psychology, and a pioneer in industrial psychology that focuses on mental fatigue in Japan and the United States. Her writings on psychology and new family practices influenced the women's rights movement in Japan.
*******

「工女たちのための精神医学」
 豪農でコメ・肥料・線路枕木・養蚕の商いを営む父・新井廣三郎と母・たねのもと4人姉妹の次女として生まれます。鶴子は富岡製糸場に集う工女たちの過酷な長時間労働・劣悪な労働環境を幼心に悲しむようになります。一ノ宮尋常高等小学校に入学すると「医学博士になってきちがいの学問をする」とまわりに宣言します。群馬県高等女学校(現在の群馬県立高崎女子高等学校)に進学すると、草履にたすき掛けと茶色の袴をつけてテニスを楽しみながらも飛び級をして、精神医学を目指して日本女子大学英文学部に進学します。

「心理学」
 試験もなく成績表もなく落第もなく卒論だけという、自由を重んじた校長・成瀬仁蔵の自主自学の教育方針のもと、鶴子は水を得た魚のように教師また学友と滔々と弁論をして一歩も譲らず、運動会でバスケットボールのチャンピオンになって教師たちにしつこく体育教師に勧誘されます。日清・日露戦争と続けざまに戦争を経験して動揺する中、日本最初の心理学実験室を東京帝国大学に開設した松本亦太郎心理学教授が赴任してきます。鶴子はその魅力的な心理学の方法論に意欲をそそられ講義に欠かさず出席するようになります。

「M.A.(修士)から Ph.D(博士)」
 日露戦争後の不況で女子高等教育が無用また有害とされる誹謗中傷が台頭する中、鶴子は研究を続けるために松本亦太郎教授ならびに学監・麻生正蔵の推薦を得ると、英国に帰国する英文学部教授ミス・フィリップに伴われて渡米します。コロンビア大学の著名な心理学者で女性心理学者の育成に力を注ぐソーンダイク教授をたずねた鶴子は、「M.A.(修士)」を「Ph.D(博士)」に書き換えられて恐る恐る入学手続きを済ませます。ソーンダイクはじめ、アメリカ最初の心理学者キャテル、新進ウッドワースらの発達心理学・実験心理学・生理心理学の講義また演習を受け、ゼミでは一生懸命に単語を聞き取ってノートを取ります。

「米国男性も失神するタフな疲労実験」
  鶴子は5 年かけて博士論文「Mental Fatigue(精神的疲労)」を完成させます。4桁と4桁の乗算暗算を朝11時から夜11時まで12時間行うのを4日間続け、前後に疲労転移を調べる英語と同義の独語の記憶テストを行うというタフな実験を自ら被験者となって実施。問題を解くのにかかる時間の長さが徐々に増加する疲労曲線がきれいな曲線を描いて100%となり、被験者群に2時間行った同様のテストの24%と差異を提示。後に産業心理学の始祖と呼ばれるミュンスターバーグをも驚嘆させ、産業心理学の基礎を切り開きます。鶴子の追試実験を実施した研究者は疲労でしばらく意識を失った上に、4桁の計算が出来なくなると3桁と3桁の計算もできなくなったと結論します。

「日米初の女性心理学博士」
 鶴子は厳しい口頭試験に合格して晴れて日米初の女性心理学博士となります(1912年)。卒業式に出席した鶴子は、コロンビア大学神学長のブラウン博士宅にて、学位論文を書き上げる途中で体調を崩した鶴子を献身的にサポートした神学留学生の原口竹次郎と結婚式を挙げます。イギリスを旅行してまわったのち帰国。腎臓結核を発病して療養・手術しながら、日本で初めて設立された心理学学会で講演を行い、母校で教壇に立ち、『心理研究』誌に「心的作業及び疲労の研究」を、『児童研究』誌に「精神薄弱児の心理学的研究」を、『女学世界』『新婦人』などに「楽しき思いで出」を、『婦人画報』に「日々の暮らし方の改良」を執筆。夫と2人の子供と一緒に新しい家庭像を提案しながら、帰国後わずか3年後の29歳で夭折します。

-「原口鶴子 : 女性心理学者の先駆」(荻野いずみ 編著 / 銀河書房1983年)
-日本女子大学心理学科 Japan Women Univ.
-Teachers College, Columbia University
-Psychology's Feminist Voices

「自然水陸にめでる草花は数々あるが、私は泥から生えて泥に染まらず清水の浄めを受けても素朴さを保ち、遠ければ遠いほど香り漂い、けっして近寄れない蓮が好きだ。」 -周敦頤『愛蓮説』
"There are many flowers that prosper both in water and on land, but I admire the lotus, which grows from the mud yet remains unstained by it. It receives the purification of clear water and retains its simplicity. The farther it is, the more its fragrance wafts, and I am fond of the lotus that one can never approach." -"The Discourse on Loving the Lotus" by Zhou Dunyi


島 隆 女史
Ms. Ryu Shima
1823 -
群馬県桐生市梅田町一丁目 生誕
Born in Kiryu-city, Gunma-ken

島隆女史は日本最初の女性写真家です。江戸で夫・島霞谷とともに様々な西洋の知識はじめ写真技術を身に付け、女性として写真師の活動を開始。彼女の作品はフォト・アートの先駆けと言われています。
Ms. Ryu Shima is the first female photographer in Japan. Together with her husband, Kasumiya Shima, she acquired various Western knowledge and photography techniques in Edo. She began her activities as a female photographer, and her works are considered pioneers in the field of photo art.

「大奥の秘書」 
 隆は、桐生の旧家・岡田家に9人きょうだいの長女として生まれます。徳川幕府の大奥秘書を務めた田村梶子の主宰する「松声堂塾」に6歳の時に入塾、読書・書道・和歌・作法を学びます。15歳で父を19歳で母を亡くした隆は20歳で決められていた婚約を蹴って、菜の花の咲くころ馬に乗って単身江戸に出て、師匠の推薦により一橋家の書記係として奉公をはじめます。やがて、そこで通訳として同家に出入りしていた島霞谷と出会い結婚します。隆33歳、霞谷は29歳の再婚でした。

「和製ダビンチ」 
 夫・霞谷は、時の将軍・家定の御前揮毫により注文が殺到する南画家となりながら、横浜で西洋人からオランダ語・英語・写真技術・油絵・音楽を学び、時の将軍・慶喜の湿板写真を撮影して幕府の洋学研究所に入所。オランダ語文献を翻訳しながら天文学・医学・地理学など西洋の研究に没頭します。夫婦で好奇心と向学心を共有しながら、やがて江戸下谷久保町に写真館を開業します。ガラス板の表面にコロジオン溶液をむらなく塗り、硝酸銀溶液に浸して感光性を持たせホルダーに装填、構図やピントを調整したカメラに設置、レンズを開いて数十秒露光、乾かないうちに撮影・現像をその場で行う、という薬剤調合の知識また現像処理の繊細な作業が求められる「湿板写真」をまもなく身に付けた隆は写真師を名乗ります。多忙な夫に代わって写真店を切り盛りします。

「フォトアーティスト」
 幕末の戦乱を生き延びた二人は自宅に活版製造所を開設。夫・霞谷は自ら発明した活版印刷用鉛活字で医学書を大学東校(現在の東京大学医学部)から刊行して、わずか1か月足らず43歳で死去します。隆はしばらく東京で写真業を続けながら身辺整理をして55歳で郷里に戻ります。「近頃写真師は多くなったが、技術にはそれぞれ優劣がある。」「私は写真技術を極めているので、情感ある奥深い仕上がりになる。私の写真館に確かめに来て!」隆は自信満々の広告文を出して写真館を開業します。高額でなかなか繁盛しないものの、江戸の人脈を活かして後輩を育成したり、小口の金融業を営んだり、和歌・書・琴を友としたり、村議会に減税を求めたり、用水路開墾に反対したりし、マンガン160俵を東京に売りに行ったりしながら、77歳で他界。隆が肌身離さず持ち歩いていた、カボチャを掲げて扇子を広げて笑う霞谷をカメラに収めた隆の作品は、フォトアートの先駆けと言われています。

-群馬県立歴史博物館 Gunma Museum of History
-桐生タイムス Kiryu Times

澤 モリノ(本名 澤 千代)女史
Ms. Morino Sawa
1890 - 1933
群馬県前橋市 生誕
Born in Maehashi-city, Gunama-ken

澤モリノ(本名 澤千代)女史は日本初のバレエダンサーです。帝国劇場歌劇部第1期生として「天国と地獄」のキューピッド、「猟の女神」の女神ダイアナ、「瀕死の白鳥」などを踊り、モダンダンスはじめ浅草オペラが盛んになる中でもクラシックバレエにこだわって踊り続けます。
Ms. Sawa Morino (Sawa Chiyo) is Japan's first ballet dancer. As a member of the first generation of the Imperial Theater Opera Department, she danced Cupid in ``Heaven and Hell,'' Diana in ``The Hunting Goddess,'' and ``The Dying Swan,'' and even though modern dance and Asakusa Opera were becoming popular, she kept dancing classical ballet. 

「音楽家の父と母」
 千代は東京音楽学校出身の両親である父・深澤登代吉と母・たけ子の長女として生まれます。一家で音楽修行のために渡米、カリフォルニア州サンフランシスコに移ります。妹・美代が生まれると夫婦仲が悪くなり母は幼い姉妹を残して家出。父は2人の子ども千代・美代を抱えて帰国。地方の師範学校や女学校の音楽教師を務め、作曲しながらピアノ・ヴァイオリンを演奏して生計を立てます。後に軍歌「日本陸軍」のオリジナルメロディーが話題になりますが、千代が11歳の時に無名のまま没します。ほどなく再会した母親は再婚しており、遺された姉妹は日本橋の問屋に引き取られます。お茶の水高等女学校を卒業したた千代は21歳のときに、開設したばかりの帝国劇場歌劇部に応募。親類・恩家の反対を押し切って、応募数400名のうち選抜15名の研究生に加入します。千代は自分の名前に妹の美代の名を合わせた美代を芸名に決めます。

「帝国劇場歌劇部」
 イタリア人舞踏家で振付師のG・V・ローシーにクラシックバレエの才能を認められ「澤モリノ」の芸名を与えられた千代は、喜歌劇「天国と地獄」のキューピッド、夢幻的バレー「猟の女神」の女神ダイアナ、「瀕死の白鳥」などの公演で次第に舞踏家としての頭角を現します。千代は、帝国劇場管弦楽部で第一ヴァイオリンを弾く小松三樹三と結婚、子供にも恵まれます。帝国劇場歌劇部が解散すると、早々にローシーの元を離れてモダンダンスに取り組んでいた石井漠・伊藤道郎らの「新劇場」、ローシーが赤坂に会場させた「ローヤル館」、高木徳子と伊庭孝の「歌舞劇協会」の公演に参加。続いて、石井漠らの「東京歌劇座」旗揚げに参加、浅草の日本館を拠点に活動を始めます。メンバーは舞踊組に石井漠、澤モリノ、河合澄子、服部清子、内山惣十郎、歌唱組に小島洋々、杉寛、天野喜久代、千賀海寿一、宇和間百合子、桂弥太郎、小知情吉ら。千代は3週間の旗揚げ公演で、ミュージカル「女軍出征」、オペレッタ「目無し達磨」、ミジカルコメディ「海辺の女王」に出演。人気に火が付くと、熱狂的な男子学生らが千代はじめ女優の後援会を結成、浅草の興行師らも次々とオペラ公演を始め、千代30歳目前で浅草オペラが幕を開けます。

「瀕死の白鳥」
 ローシーを師として仰ぐ千代はモダンダンスに目もくれずにクラシックバレエに邁進します。しかし公演中に千代の子どもは病気で夭折。さらに夫までも急な病気で世を去ります。千代の不幸な私生活が世間に広く知られるに従って、千代はますます真面目な求道者として観客を引き付けます。関東大震災を経て浅草オペラは終焉を迎え、千代は旅周りの一座に加わって踊り続ける中で俳優・根元弘と再婚して子供をもうけます。ところが旅役者の夫は生まれてすぐの子どもを次々と他人の手に渡し、40を過ぎた千代を捨て満州に渡ります。千代は何とか息子・弘文を取り戻して東京に戻ると、浅草の舞台仲間を頼って浅草式レビューや喜劇の悪ふざけに耐えながら舞台に立ちます。それを見かねた石井漠が千代のために後援会を発足して引退公演を主宰。千代は「瀕死の白鳥」「アヴェ・マリア」を踊ります。まとまった生活資金も集まり、石井漠の研究所の教師として息子と暮らす手はずを整えた矢先、突然夫が現れて千代を大連公演に誘います。千代は妹に預け7・8人で一座を汲むと周囲の反対を押し切って満州へ渡ります。満州事変間もない大連は客入りが悪く、朝鮮の平壌に渡って松竹映画館の舞台金千代座で興行を始めます。その初日の「瀕死の白鳥」を踊るうちに心臓麻痺で倒れて息を引き取ります。享年43歳。

-『浅草オペラの生活』(内山惣十郎 著 / 雄山閣出版1967)
-『私の舞踊生活』(石井漠 著 / 大日本雄弁会講談社1951年)
-『女盛衰記 : 女優の巻』(三楽流子 等著 / 日本評論社1919)
-『歌劇と歌劇俳優』(藤波楽斎 著 /文星社大正1919)

栃木県 Totigi-Ken

石塚 倉子 女史

Ms. Kurako Ishizuka

1686 - 1758 

栃木県栃木市藤岡町富吉 生誕

Born in Totigi-city, Totigi-ken

「吹き送る 風のたよりも 誰が里の庵に匂ふ 梅の初花」

"blow off A scent from Whose village first flower of plum"

近代前期の代表的な在野の女性歌人です。家督を継ぎながら、和歌や紀行文を綴り、『室八嶋』『花短冊』を華麗に上梓しました。江戸期の浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」で紹介されています。

Ms. Kurako Ishizuka is a representative out-of-field female poet of the early modern period. While taking over the family estate, he wrote waka poems and travelogues, and published "Muroyashima" and "Hanatanzaku" brilliantly. Introduced in Edo period ukiyo-e artist Utamaro Kitagawa's "modern seven-year-old female poetry".

********

 倉子は江戸時代中期舟運でにぎわう巴波川下流の豪農の家に生まれます。先祖は皆川藩主(栃木県)の和歌の朋友になるほど代々和歌に通じ、倉子も若い時から和歌や文章を綴り親しんでいます。ならびに、実家は江戸の文人や画家がたびたび宿泊していたことから江戸花壇の重鎮荷田在満や儒学者の服部南郭などと親交を深め、多くの作品を残しています。六人兄弟ながら、兄の貞基と倉子の二人を残して兄弟は若死にし、兄も家督を倉子に譲り佐渡に渡って没します。倉子は二十二歳で鈴木度易を婿に迎え、家督を継ぎながら、「春秋亭」と号して季節のうつろいを歌い続けます。36歳と37歳のときに旅日記、『日光 紀 行 妙義紀行』を書き残します。70歳の時に「室八嶋」を出版、水墨画の挿絵が添えられ、序文には荷田在満から田舎で和歌の道に励んだ才女を称賛する言葉が寄せられています。晩年の作品「花短冊」は和歌とともに春夏秋冬四季折々の花や鳥を色鮮やかに立体的にあしらった華麗な作品を出版。後に浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」に「下野室八嶋倉子女」の美人画とともに倉子の和歌「吹き送る 風のたよりも 誰が里の 庵に匂 ふ 梅の初花」が添えられて残されています。

-栃木市藤岡町歴史民俗資料館 Tochigi-Fujioka Historial Museum

-栃木市教育研究所 Tochigi municipal institute for education research

-NHK・ETV特集「告白 満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)

『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』
"In exchange for the maiden's life, in order to stop Team's suicide, the Manchurian Pioneer Team sacrificed the human pillar of a young girl."

安江 善子 女史
Ms. Yoshie Yasue
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1924 - 2016

佐藤 ハルエ 女史
Ms. Haure Sato
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1925 - 2024

安江 善子 女史ならびに佐藤 ハルエ 女史は、これまでタブーとされていた満州開拓団での戦時下性暴力を日本で初めて証言。日本で唯一の引揚げ時の性暴力被害を伝える慰霊碑「乙女の碑」を建立。
Ms. Yoshiko Yasue and Ms. Harue Sato are the first women in Japan to testify about wartime sexual violence in the Manchurian Reclamation Group, which had been considered taboo 70 years after the war. They erected "Maiden Monumen", the only memorial monument in Japan, to commemorate the sexual violence suffered during repatriation.

「タブーとされてきた引揚時の性接待」
 89歳の善子と88歳のハルエは2013年、長野県阿智村に日本で初めて開設された満蒙開拓団平和記念館の「語り部講演会」でそれまで秘めてきた元岐阜県黒川開拓団の満洲地域からの引揚体験について語ります。「自分の命を捨てるか、開拓団の子ども、皆さんをお救いするかは娘達の肩にかかっている。なんとしても日本へ帰りたい。命を救いたい。」「私どもは悲しかったけども、開拓団の命を救うために娘たちは皆泣きながら、ソ連の将校の相手をしなければいけないことになって。そんな目にあって帰ってきたハンデはボロボロになって、心の中に寝ても覚めても忘れられない。時々夢にうなされ飛び起きる。」「犠牲になった私は生きていますけれども、亡くなった人たちはどんなに苦しい悲しい思いをしたやろうか。」と証言します。

「大陸の花嫁」
 世界恐慌で不況のどん底の日本から「満州農業移民百万戸移住計画」のもと、善子とハルエは家族と一緒に郷里・岐阜県黒川村から吉林省の鉄道京浜線の陶頼昭駅付近に入植。合計129世帯661名の黒川開拓団は、中国現地住民から強制的に家や畑を安く買い上げて使用人として使い、関東軍の保護下で暮らします。また、「大陸の花嫁」である女性たちの養成所「女子拓殖訓練所・開拓女塾」では、開拓の心構え・農業・裁縫・手芸・家事と並んで「日本人女性として恥じないように最後を務めよ」と教えられます。「王道楽土」の暮らしは長くは続きません。やがて中国大陸と太平洋での戦線が激化、多くの関東軍や成年男子団員が根こそぎ徴兵され、老人・女性・子どもが残されます。遂に日本は敗戦。関東軍の主力部隊は開拓団を見捨てて逃走、開拓移民は置き去りにされます。中国現地住民の襲撃の恐怖と食料難に襲われる中、両隣の広島県髙田村開拓団と熊本県来民村開拓団が集団自決します。黒川開拓団も生か死かの選択を迫られ、「どうかしてここを切り抜けて日本へ帰らなきゃならん」。陶頼昭駅付近に駐在するソ連兵に警護を頼み襲撃を逃れます。ところが、ロシア兵から女性を要求されます。関東軍が連れていた慰安婦は関東軍の武装解除とともにいなくなっていました。開拓団長は徴兵に取られて不在、副団長はじめ男性幹部、さらに外部から避難に合流した医師とロシア語通訳者で話し合います。「第1次世界大戦後のベルリンに処女なしと言った。敗戦に女性の犠牲はつきものだ。」「私が性接待後の避妊また洗浄の方法を指導しよう。」

「開拓団の犠牲」 
 開拓団の独身女性15人は広場に集められます。「全員を内地に連れて帰るまでその身を預けて欲しい。みんなの将来は必ず面倒を見る。」「どうか頼む。奥さんは頼めん。(夫が)兵隊に行って一人でも頼めん。けどあんたら娘だけはどうか頼む。あんたら10人ほどは犠牲になってここを守らにゃならん。」。20歳のハルエは副団長である父親に説得されます。「命があって日本へ帰らないかん。辛くても頑張れ。」出征兵士の妻よりも下に置かれた独身女性たちの無駄な抵抗はどうにもなりません。「悔しいけれどどうしようもない」。「悪いけど出てくれ」呼び出し係の男性の合図で、女性達は開拓団が避難所にしていた国民学校の裏に設けた広い板の間に布団がずらっと並べてあるだけの「接待所」または陶頼昭駅近くのロシア部隊キャンプ場に代わる代わる毎晩連れていかれ、性接待を強いられます。性接待の意味が分からない10代の少女たちはウォッカを飲まされ、互いに手を握り合って耐え忍びます。「泣いても叫んでも誰も助けてはくれない。お母ちゃんお母ちゃんと声が聞こえる」。泣きながら帰ってくる女性たちは接待所近くの零下30度の医務室で、軍隊のうがい薬を冷たい水で薄めた洗浄液をホースに流して体を洗浄され、開拓団から用意された風呂と餃子鍋を食べながら「がんばらなね」「我慢しなね」涙を流して励まし合います。両親があまり裕福でなく開拓団内の地位が低い最年長21歳の善子は、4歳年下の妹ひさこを守るため他の女性よりも多く接待を引き受け、「お嫁に行けなくなる」と泣きじゃくる年下の少女たちを気丈にひとりひとり抱きしめます。「結婚できなかったら日本に帰ってみんなでお人形の店を出そうね」それでも、一度だけやけ酒を飲んで「ひさこを殺しても私も死ぬ」妹を追い回します。ソ連兵相手の「性接待」は二か月近く続きます。からかったり高圧的な男性団員もいる中、「性接待」を強いられた15人の女性達は次々と性病また発疹チフスに感染、うち4人は苦しみながら亡くなります。

「汚れた娘」
 翌年春にソ連軍が撤退すると、黒川開拓団は二百余名の同胞の亡骸を大陸の土に埋め、生ける者で引揚げを開始します。共産党軍と公民党軍の戦火を潜り抜ける中、鉄橋を破壊された松花江で中国兵達に船を出す代わりに女性を要求されます。開拓団の男性幹部たちは言います。「もうソ連兵に犠牲になってるから、ここを渡るためにあんたら頼むよ」。中国兵たちは川のほとりに並ぶ日本人の中から、小学校高学年から中学生の若い女性達を選んで兵舎に連れて行きます。5人の少女達が泣く泣く連行される中、日本人男性は沈黙します。徳恵から列車に乗った一団は、新京の旧陸軍宿舎で難民生活を送りながら引揚げ手続きを済ませ、葫蘆島から米国船で博多港に向かいます。陶頼昭を出発して1か月半後、黒川開拓団の661人のうち451人は日本の地を踏みます。辿り着いた「性接待」を強制された女性達は博多港近くの診療所で性病治療また中絶手術を受けます。引き揚げ者のみんなは自分の生活で精いっぱい。村に戻って隠れて病院に通う善子またハルエたちには悪い噂が流れます。「満州帰りの人はろくなことがない。女はいろいろなことにあっとる。」ハルエの弟さえ「ふるさとでは満州から帰ってきた汚れた娘は誰ももらってくれん。」ハルエはふるさとを離れ人里離れた山奥で山林を開拓します。まもなく満州帰りの男性と結婚。夫婦で酪農を始め4人の子どもを育て上げます。「外国であんな目にあったらここでどん底まで落ちたって苦しいとは思いません」。善子は満州で両親を失い、洋裁の仕事できょうだいを育て上げると、満州帰りの男性と結婚。すぐにこどもができないことが分かり妹から養子を迎え入れて大切に育てます。「前向きに生きていくことが幸せに生きる一つの道しるべ。私の大切な家族を暗い家庭に育てたくない。」

「乙女の碑文」
 「性接待」を強いられた女性達は、あれだけ苦しい思いをしながらタブーにされるどころか、「ソ連兵と仲良かったな」「使っても減るものじゃない」元開拓団男性幹部に冷やかされるようになります。被害女性達はトラウマに悩み、ひっそり集まっては涙を流して酔いつぶれます。「なかったこおとにはできない」日中国交正常化を経て陶頼昭を再訪した善子とハルエたちは、「性接待」当事者女性の集い「乙女の会」を結成。戦後40年を経て強硬に反対する遺族会に強く働きかけ、由来が隠された「乙女の碑」建立にこぎつけます。そして戦後70年を経て、長野県阿智村に日本で初めて満蒙開拓団平和記念館が開設されると、善子とハルエは証言を決意。「本当に悲しかったけれども鳴きながらソ連将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら情けない思いをしながら自分の人生を無駄にしながら。」「伝えて欲しい。そういうことがあって生きてきたんだって。平和平和できたんじゃない。」聞いていた人たちが話が終わったとたんに寄ってきて握手を求めたりねぎらいの言葉をかけてきます。取材や講演依頼が相次ぎ、全国に大きな波紋を広げる中、まもなく善子は92歳で逝去。NHK「告白 満蒙開拓団の女たち」で92歳のハルエは実名で証言。「ソ連兵にひっぱりまわされました。めちゃくちゃ頭の中めちゃくちゃ。」「どんどんな苦しい思いしても悲しい思いしても生きなきゃと思いました。」黒川開拓団女性達の性接待が全国に知れ渡り、遺族会の中でもようやく「乙女の碑」の碑文をつくる動きが起こります。黒川開拓団のこどもたちは全員が全員世間に広めて欲しい人ばかりではない中で、ハルエは訴えます。「若い人に知って欲しい。伝えていかなきゃならん。」。戦後80年を前にして碑文に記されます。『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』『私たちがどれほどつらく悲しい思いをしたか、私らの犠牲でかえってこれたということはお終えておいて欲しい』。

-満蒙開拓平和記念館
-NHK・ETV特集「告白 満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)
-「封印された記憶 岐阜・満州開拓団の悲劇 」(『岐阜新聞』連載2018年4月24日~11月 19日)
-「満蒙開拓団 “戦争と性暴力”の史実を刻む 語り継ぐ “戦争と性暴力”」(ANN2020年3月9月)

埼玉県 Saitama-Ken

「医は女子に適せり。只に適すというのみあらず、むしろ女子特有の天職なり。」
"Medicine is suitable for women. It's not just suitable for women, it's a calling unique to women."

荻野 吟子 女史
Ms. Ginko Ogino
1851 - 1913 
埼玉県熊谷市俵瀬 生誕
Born in Kumagaya-city, Saitama-ken

荻野吟子女史は、近代日本における日本人女性初の国家資格を持った医師であり女性運動家です。
Ms.Ginko Ogino is a physician and women's rights activist, becoming the first Japanese woman to hold a national medical license in modern Japan.

*******

「奥原清湖」
 吟子は裕福な庄屋・萩野綾三郎と母・嘉代のもと7人きょうだいに生まれます。幼いころから向学心旺盛で寺小屋に学び、私塾・両宜塾で儒学を身に付けますが、吟子の意思と関わりなく17歳で豪農・稲村貫一郎に嫁ぎます。すぐに夫に淋病を移されると、元夫の妹となって両家の仲を保ちつつも離婚。吟子は順天堂大学病院に入院、複数の男性に囲まれ下半身を晒す恥辱的な診察を経て女性医師になることを決心します。退院した吟子はその足で、尊敬する女性文人画家・奥原清湖を訪ね助言を請います。協力者を得た吟子は、郷里で療養しながら、両宜塾に通って漢方医学書物を読み漁ります。父が逝去した年に母親と家督を継いだ兄を説得して22歳で上京。奥原清湖の推薦を得て、国学者で皇漢医の井上頼圀に師事します。一回り年の離れた師匠の求婚を固辞すると、甲府で私塾を開く内藤満寿子女史の助教を勤めます。

「女学雑誌」
 やがて女子教員養成学校である東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が創設されると、吟子は一期生として入学します。地理・歴史・物理学・化学・数学・修身学・経済学・体操などを5年かけて学び成績優秀で卒業。母校の恩師のつてにより、宮内省侍医・高階経徳が教える私立医学校・好寿院に特別入学を果たします。男性に混じって3年の修養後、抜群の成績で卒業すると、32歳の吟子は東京府に「医術開業試験願」を提出します。試験に備えて準備する吟子のもとに「願書却下」の通知が届きます。納得できない吟子は翌春の受験に向けて再び東京都と郷里・埼玉県に「医術開業試験願」を提出するもまたもや「願書却下」の通知が届きます。吟子は『女学雑誌』に投稿して訴えます。「進退これ谷(きわ)まり。百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れ果てて心身いよいよ激昂す。」

「令義解」
 実業家の高島嘉右衛門ならびに恩師・井上頼圀の協力を得た吟子は、奈良時代から女医が存在していた事実を示す文献『令義解』を探し出し、内務省衛生局局長の長与専斎の支援を取り付け、女性の医術開業運動を始めます。奈良時代の法令解説集・令義解には「女医」の二文字が記され、8世紀前半には女医を養成する「女医博士」という職種が設けられていたことが伝えられています。2年後に公許女医が認められ、ようやく室町時代から封建制度の下で禁止されていた女医が解禁されます。前期試験の物理・化学・生理・解剖、後期試験の内科・外科・産婦人科・眼科・薬理衛生・細菌学を突破、吟子は34歳で公許女医第1号となります。郷里で母・嘉代の埋葬を済ませた吟子は、東京湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業します。

「産婦人科荻野医院」
 「日本最初の女医」として新聞・雑誌で連日取り上げられ、吟子の医院にはたくさんの女性が詰めかけます。翌年下谷に移転する頃には、女医志望者がにわかに増え、吟子の自宅にも複数の女医学生が下宿するようになります。「医は女子に適せり。只に適すというのみあらず、むしろ女子特有の天職なり。」診療を続けるうちに、次から次に押し寄せる婦人病患者が語る体験談、診療を受けることさえできない女性たちの実情に、吟子は女医の限界を感じます。吟子は本郷の教会でキリスト教の洗礼を受けます。矢嶋楫子が主導する日本基督教婦人矯風会の創設に参加、風俗部長として診療活動に加え衛生教育を広めます。そんな中、吟子が通う本郷教会の牧師のもとでキリスト教伝道に従事する志方之善と知り合います。40歳の吟子は27歳の志方之善と結婚すると、キリスト教による理想郷の建設を目指す夫を北海道に送り出し、開拓資金を送り続けます。

「インマヌエル」
 診療の傍ら明治女学校で校医を兼ねて生理学・衛生学を講じるようになり、知的障害児教育の先駆者・石井亮一に賛同して荻野医院を子供たちに開放すると、明治女学校の舎監となって学校内に移り住みます。夫から待ちに待った救援要請の手紙を受け取るやいなや、43歳の吟子は未亡人となった義姉の娘・トミを養女にすると、再び奥原清湖を訪ね助言を請い、夫が奮闘する北海道の開拓地インマヌエル(現在の瀬棚郡今金町神丘)に向かいます。久遠郡瀬棚町に診療所を開設すると、往診の傍ら吟子は村長婦人や警察署長婦人などを集め「淑徳婦人会」を結成。自ら会長となって女性達に応急処置医療を教えたり、不作のときに義援金募集を行ったり、女性の予防医療はじめ女性運動の推進に努めます。続いて「瀬棚日曜学校」を創設。キリスト教の布教に力を入れながら、子どもたちに勉学を教えたり、村の人徳の高揚に努めます。まもなく同志社大学に帰学して牧師となった夫・之善と伝道自給の生活に励みます。夫・之善が逝去して数年後、54歳の吟子は東京の墨田区小梅町で「婦人科・小児科 萩野医院」を開業、晩年まで診療を続けます。「人その友のために己の命を捨てる。これより 大いなる愛はなし」(『聖書』ヨハネ伝第15章13節 )

-荻野吟子記念館 GInko Hagino Memorial Museum
-『萩野吟子』(荻野吟子女史顕彰碑建設期成会(編)/ 瀬棚町1967年)

千葉県 Tiba-Ken

佐藤 志津 女史

Ms. Shizu Sato

1851-1919 

千葉県佐倉市 生誕

Born in Sakura-city, Tiba-ken

「医術も美術も同じく人の心を癒します」

Both medicine and art heal people's hearts. 

佐藤志津女史は、現在の女子美術大学の基礎を築くとともに、その経営に才腕を発揮しました。

Ms. Shizu Sato laid the foundation for the current Joshibi University of Art and Design, demonstrating her talent for its management.

*******

 志津は、佐倉の蘭医学塾・順天堂第二代堂主となる佐藤尚中の娘として生まれ、幼いころから漢籍・国学・薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めます。家に忍び込んだ盗賊を追い払った逸話が評判になり、佐倉藩主の娘・松姫の女中として採用され、城中で武家子女としての素養も身につけます。母の危篤により、父の愛弟子・高和東之助(後の佐藤進)を婿に迎え、第三代堂主・佐藤進の妻となって家業を支えます。戊辰戦争で夫は新政府軍の軍医となり、明治以降ドイツに留学。志津も日本赤十字社の活動を通じて婦人会活動にも積極的に参加、女性の自立支援を積極的に行いました。女性医師の高橋瑞子や吉岡弥生を支援します。父・尚中が亡くなると進が順天堂病院院長に就任、院長夫人となった志津は翌年に開館した鹿鳴館で社交性を発揮して人脈を広げていきます。さらに、私立女子美術学校創設者である横井玉子を支援、財政難で廃校の危機に瀕していた女子美術学校の校主となって経営建て直しに奔走します。「芸術による女性の自立と女性の社会的地位の向上を目指す」理念に共感した志津は、自ら教壇に立って修身や礼儀作法を教えます。まもなく校舎・寄宿舎が全焼する大事件がおこるも、事後処理に全力を尽くし翌年には新たに本郷区菊坂に新校舎を建て授業を再開します。さらに志津は私立女子美術学校を専門学校に引き上げるべく学則を改正、美術教師養成のための高等師範科を設けます。学生の作品が評価されるようになり、志津の死後から10年後に女子美術専門学校に昇格します。

-女子美術大学歴史資料室 Joshibi University of Art and Design History Museum 

「正解はひとつではない 」
"The answer is not singular."

山崎(旧姓 角野) 直子
Ms. Naoko Yamazaki / Sumino
1970 -
千葉県松戸市 生誕
Born in Matsudo-city, Tiba-ken

日本女性2人目の宇宙飛行士。宇宙飛行士の訓練ならびに子育てのマルチタスクをこなしながら、世界各国と連携して宇宙ステーションでの様々なミッションを成功させました。
The Second Japanese Woman in Space. Juggling astronaut training and parenting, she successfully collaborated with nations worldwide, accomplishing various missions on the International Space Station.

「私が宇宙船を造る!」
直子は自衛官の父と専業主婦の母と兄と一緒に、幼いころから星の観察会またプラネタリウムに出かけたり、宇宙戦艦ヤマト・銀河鉄道999・スターウォーズなどSFアニメや映画を見て宇宙にあこがれます。女性高校教師で宇宙飛行士のクリスタ・マコーリフさんの宇宙授業を楽しみにしていた直子は、1986年スペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げから1分で空中爆発する報道を見て、「私が宇宙船を造る!」と決意。

「私が宇宙飛行士になる!」
直子はお茶の水女子大学附属高校に進学、次に東京大学工学部で女子3人のみの航空学科を専攻。自然科学系の実験をこなしながら機械操作の技量を磨きます。卒業研究では、円形に並べた客室を回転させ人工重力を楽しむ宇宙ホテルを設計。さらに航空宇宙工学修士課程に進んで宇宙ロボットの自己学習機能ソフトを研究します。湾岸戦争を理由に猛反対する両親を1年かけて説得、1年間を宇宙ロボットの研究が盛んなアメリカのメリーランド州立大学にも留学します。直子は留学先で70代の現役ヘリコプター操縦士の女性に出会い、「私も宇宙飛行士になる!」決意します。

「宇宙飛行士ママと呼ばないで」
大学院卒業後、当時のNASDA(宇宙開発事業団)、現在のJAXA(宇宙航空研究開発機構)に就職。エンジニアとして、米国やロシア・カナダ・欧州諸国の様々な分野の技術を一つのシステムにまとめ上げます。3年目に「宇宙飛行士候補者」に応募。つくば宇宙センター内専用施設で1週間外部から遮断され、ライバル8人で共同生活しながら試験官が繰り出す課題に取り組みます。2回目で合格すると、訓練期間中に妊娠・出産を経てマルチタスクをこなしながら、11年目にようやくスペースシャトルのディスカバリー号に乗り込みます。

「日本から宇宙へ扉を開く!」
秒読み終了後、すさまじい轟音とともに8分30秒で地上から高度400kmの宇宙に到達。体がふわっと浮き上がって、塵や埃までもが宙に浮き美しく光に照らされます。直子は、地上管制官のサポートのもと、イタリア製・多目的補給モジュール『レオナルド』を、カナダ製・ロボットアームを使って、国際宇宙ステーション内アメリカの実験棟『デスティニー』に接続する作業を成功させます。地球帰還後は、宇宙での滞在経験を踏まえて、宇宙旅行の実現はじめ、常識を疑い発想の幅を広げながら多様な分野で多様な人々と宇宙への道を開拓し続けています。

-スペースポートジャパン
-JAXA

「自分に似合う服、日本の女性に似合う服をつくりたい」
"I want to create clothes that suit me and Japanese women."

杉野 芳子 女史
Ms. Yoshiko Sugino
1892 - 1978
千葉県山武郡横芝光町 生誕
Born in TYokoshimahikari-machi, Sanbu-gun, Tiba-ken

杉野芳子女史は日本初のファッションデザイナーです。日本で最初にファッションショーを日比谷公会堂で開催、日本女性に洋裁技術ならびに洋装文化を広く普及させました。「ドレメ式洋裁」の創案者、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者。
Ms. Yoshiko Sugino is Japan's first fashion designer and held the first fashion show in Japan at Hibiya Public Hall, widely promoting Western dressmaking techniques and culture among Japanese women. She is the creator of "Doreme-style Western-style dressmaking," the president of Sugino Women's University, and the founder of the Sugino Academy Dressmaker School.
*******

「新しいもの珍しいもの美しいものを心ゆくまで知りたい見たい」
 芳子は地主の家に生まれ、婿養子の父親を離縁した母親のもとで育ちます。6歳の芳子は近所の遊び仲間が学校へ行くようになったのがうらやましくてたまらず、親にねだって教科書を買ってもらって、まわりより2歳早く小学校に通いはじめます。山の中の田舎ののんびりした寺小屋式の小学校で、たった一人の先生が村の子供を集めて教えてくれます。先生は小さな芳子をおんぶして山にの登って海を見せてくれます。果てしなく広い太平洋、その向こうにたくさんの国がある、何という不思議。芳子はアメリカやヨーロッパの事を想像しては胸がうずくように楽しく憧れるのです。芳子は人形づくりや東京土産の西洋童話に熱中しながら、村で一番えらい人・先生になろうと考えて、年齢が足りないところを頼み込んで隣村の千葉高等女学校を卒業に進学。女学生のあこがれ海老茶袴を大得意で身に付けて学校へ通います。「新しいもの珍しいもの美しいものを心ゆくまで知りたい見たい」芳子は鉄道省初の女性職員となり、その後3年間小学校教師として働きます。

「アメリカへ行けば何かあるに違いない」
 1913年に念願叶って着物に袴姿で単身渡米します。芳子はニューヨークで自分に合う服をつくろうと決意、洋裁技術ならびに活動的で手軽な洋装生活を身に付けます。やがて自分で作ったドレスを着た芳子は建築家・杉野繁一と出会い結婚、夫と共に帰国します。関東大震災を経て、女学校の制服また女子の職場の制服に洋服が取り入れられるようになると、主婦業に専念していた芳子は日本女性に洋装の楽しさを教えたいという思いが日々募ります。夫をやっとのことで説得し、1926年3人の生徒から洋装塾・ドレスメーカースクールを自宅で始めます。それぞれの体型に合う洋服を仕立てる芳子の技術が評判を呼んで生徒が押し寄せるようになります。ドレスメーカー女学院の教師また経営者として苦労する芳子を、夫が理事長として学校運営を担って助けます。

「日本と欧米のファッションの架け橋」
 芳子は「ドレメ式原型」を開発、洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使ったセミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育します。1926年から読売新聞家庭面に子供また婦人の服・小物などの「型紙」付き記事を34回にわたり連載。1936年日本初のファッション専門誌『D・M・J会誌』(ドレスメーカー女学院会誌)を創刊。1935年日本で最初のファッションショーを日比谷公会堂で開催。やがて太平洋戦争が始まると、校舎は国に接収され分校舎も空襲で焼失、戦時下の物資不足の中でも芳子は様々なデザインを提案、国家が強制する更生服でもファッション展覧会を開催します。終戦後、再び自宅から授業を再開すると入学希望者が最寄りの駅まで長蛇の列をつくります。1957年ベニスで行われた「国際コットン・ショー」で日本人デザイナーとして初めて海外進出した芳子は、ピエールバルマン、クリスチャンディオール、ジャックファットなどに学院生のデザイン審査を依頼するなど親交を持ち、日本と欧米のファッションの架け橋を務めます。

-杉野記念館  Sugino Memorial Museum
-ドレスメーカー学園 Doress Maker Gakuin
-『娘の頃 : 女性はいかに生きるべきか』(宝文館1952年)
-『自伝 炎のごとく』(杉野芳子 著 / 講談社1976年)

「大和撫子の真価を世界に広めましょう。日本女性の海外勇躍の時勢を。」
``Spread the true value of Yamato Nadeshiko to the world. This is a time for Japanese women to venture abroad.'' 

黒田 雅子 女史
Ms. Masako Kurota
1912 - 1989
千葉県君津市久留里 生誕
Born in Kimitu-city, Tiba-ken

黒田 雅子 女史は幻のエチオピア王妃。エチオピア皇族リジ・アラヤ・アベバ王子と婚約するも、イタリアのエチオピア占領により破談に。
Ms. Masako Kuroda is the phantom queen of Ethiopia. She was engaged to Prince Rigi Alaya Ababa of the Ethiopian royal family, but the deal broke off due to Italy's occupation of Ethiopia.

「久留里藩主の娘」
 雅子は、旧久留里藩主・黒田広志子爵の次女として誕生。父親の事業の悪化により、久留里尋常高等小学校5年時に北海道の竹下浩(北海道拓殖鉄道創立委員長)の養女となって、山鼻尋常高等小学校、私立藤女学校、帯広大谷高等女学校に進学。海外経験のある養父の影響で、雅子は海外に興味を持つようになり英語学習に力を入れます。全国中等学校英語大会に唯一の女学生として参加を果たします。16歳で東京の両親のもとに呼び戻されると、親戚の松平浜子が創立した関東高等女学校を卒業します。「意義のある結婚をしたい」と日頃から言い続ける中、エチオピア王子の来日に伴って「神秘帝国」「ライオン帝国」エチオピアブームで日本中が沸き立ちます。

「ライオン帝国の王子」 
 ヨーロッパ植民地に囲まれ独立を脅かされていたエチオピアと日本は使節団の派遣を介して修好通商条約を締結。日本公使がエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の戴冠式へ参列、外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)率いるエチオピア使節団が来日します。天皇裕仁に謁見後、2か月に渡って日本に滞在します。欧米経由の野蛮で獰猛な黒人像とはほど遠い、教養高い使節団はじめ同行するリジ・アラヤ・アベバ青年王子の品の良い動静が雑誌・新聞の紙面で詳細に報道されます。ハイレ皇帝から贈られたライオン・キリンのいる上野動物園に人々が押し寄せ、大学ではアフリカ研究会が発足、エチオピア貿易を促進する民間団体が誕生します。早速、雅子は図書館でエチオピアの地理風俗について調べ始めます。

「日本人エチオピア妃の募集」
 ヘルイは帰国後に「光の場所 日本という国」を出版。「日本には製糸、製紙、機械、製造、飛行機製作、造船、兵器、新聞及び印刷等数え切れぬ程の大小工場がある。」「日本人は快活で勤勉で意志が強い。真面目で正直で皇室をあがめ老人や目上のひとを尊敬する。非常に向上心に富み、忍耐強く勇敢で、いったん緩急あれば義勇に奉じる念をだれでも持っている。」日本でも翻訳本「大日本」が刊行され話題になる中、アラヤ王子は新聞広告で日本人花嫁を募集します。「エチオピア皇帝の従弟が妃に日本人を希望」「淑やかな日本婦人をお妃にご所望。エチオピアの若き皇族」花嫁の条件として①美人で英会話ができること②年齢19歳から21歳までの2点。縁談がまとまり次第、支度金一切を送金の上で王子自ら花嫁をジブチまで出迎えること、皇帝から広大な土地を下賜され新居の設計中であること、結婚式は来年早々を希望する書簡が公開されます。雅子は頑迷に反対する両親を説き伏せ応募します。

「妃修行」
 「ひとずれしない素直な、まるで童話の中に出てくる王子のよう」「エホバの神に誓ってアラヤ殿下の純情には駆け引きが無い」身内の同意を得た申込者が20名に達し、中には女官でもよいと言うもの、血書を送りつけるものもあります。結婚仲立ち人で、汎アジア主義者・頭山満の顧問弁護士・角岡知良の訪問を受けた雅子は答えます。「海外雄飛へ先達をつけるべく、日本とエチオピア両国の契りとなり国際的に活躍し、両国の幸福のために尽くしたい。」エチオピア王妃として正式な決定が下されると、アラヤ王子の礼装姿の署名入り写真が雅子の許に届けられます。黒田家はアラヤ王子の再来日に備えて宮内省また外務省との打ち合わせを重ね、世田谷区の住居を引き払って芝白金に居を構えます。雅子は妃修業に邁進しながら、グラビア雑誌に登場したり、座談会に引っ張りだこになります。

「ワルワル事件」
 ところがなかなかアラヤ王子は来日せず、電報が途絶えます。そんな中、毎日新聞の夕刊一面トップ「黒田雅子嬢との縁談エチオピア側で解消 怪・某国の干渉の魔の手」で大騒ぎとなります。同紙朝刊では某国をイタリアと名指し、エチオピアを巡って錯綜するイタリア・フランス・イギリス参加国の利害関係を報じます。雅子は「取り消しが事実となってっも落胆はしません。日本女性の海外勇躍の時勢だということをはっきり日本女性に認識してもらっただけでも意義がある」と心境を述べます。すると一転して、解消劇ばかりか婚約そのものにまで非難の声が上がるようになります。イギリス人に嫁いだ恒子・ガントレット夫人は「一種の英雄的憧れ」、青鞜社員・神近市子は「あまりに軽率」。雅子は「御伽話のような国の王妃を夢見たのではない。国際的センセーショナルの犠牲となって今度の結婚話に敗れるのなら本望です。」まもなく、イタリアは「ワルワル事件」を起こしエチオピアへ派兵して占領。日本は満州の利権の代償にイタリアのエチオピアでの利権を認め、雅子はエチオピアの幻の王妃となります。

-「明け行くエチオピア」(黒田雅子 著 / 国際経済研究所 1934)
-『マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃』(山田一廣、朝日新聞社 1998)

「STAP細胞研究の進展がいつか正当に科学論文の最前線に戻り、私たち全員が恩恵を受けるようになること、私の心からの願いです。」
"It is my sincere wish that STAP cell progress research will someday rightfully return to the forefront of scientific publications, so that we all may benefit."

小保方 晴子 女史
Ms. Hruko Obokata
1983 -
千葉県松戸市 出身
Born in Matsudo-city, Tiba-ken

小保方晴子女史は世界で初めてSTAP細胞(STAP Cells)を発見した女性科学者です。刺激惹起性多能性獲得(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency)は世界中の研究者らを驚かせながらも、数か月のうちに論文の不正をインターネットの科学コミュニティで指摘され、のちに特に日本のマスメディアで不当にバッシングされ、十分な検証実験の機会を与えられることなく1年足らずで博士号取り消し・理化学研究所を退職に追い込まれました。
Ms. Haruko Obokata is the world's first female scientist to discover STAP cells. Her proposed Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency surprised researchers around the world, but within a few months, fraud in the paper was pointed out on the Internet Science Community, and later, especially She was unfairly bashed in the Japanese mass media, and was forced to have his doctoral degree revoked and resigned from RIKEN in less than a year without being given a sufficient opportunity to conduct verification experiments.

「再生医療への道」 
 晴子は会社員の父親と心理学者の母親のもと、幼い頃から研究者を志し、特に再生医療に強い興味を持ちます。「創成入試(Admissions Office入試)」(現在の特別選抜入試)により早稲田大学理学部応用化学科に入学。「子宮を病気でなくして出産できなくなった人を救えるような技術を開発したい」再生医療研究への意欲を語ります。常田聡教授の指導のもとバクテリアを分離培養する開発方法に取り組みます。帝京平成大学学科長を務める母親を介して、組織工学の研究・事業化に取り組む大和雅之教授ならびに岡野光夫教授の知遇を得た晴子は大学院では再生医療の研究に転身。早稲田大学と東京女子医科大学による日本初の共同大学院・先端生命医科学センター(TWIns)で、患者から採取した生きた細胞を培養・増殖させてシート状にしたものを患部に貼って治療に用いる「細胞シート」の研究に従事します。岡野光夫教授が設立して代表を務める株式会社セルシードから「細胞シート」資材の提供を受けながら、大和雅之教授の指導のもと、研究論文 "Subcutaneous transplantation of autologous oral mucosal epithelial cell sheets fabricated on temperature-responsive culture dishes" をまとめ 『Journal of Biomedical Materials』誌に発表。博士課程に進学するとともに「日本学術振興会特別研究員DC1」に選ばれ、月額20万円の研究奨励金を3年間支給され、年間150万円の科研費を獲得。さらに、文科省グローバルCOEプログラムで半年の短期語学留学として渡米。大和雅之教授の手配でハーバード大学医学大学院教授であるチャールズ・ヴァカンティ医師の下で働きはじめます。

「チャールズ・ヴァカンティ氏 x 組織工学」
 チャールズ・バカンティ教授はハーバード大学病院などで麻酔医師として勤務しながら、同じ医師の兄ジョセフ・バカンティ氏と一緒にいち早くティッシュ・エンジニアリング・ソサイティを設立、人工皮膚・人工骨・人工軟骨・人工心筋シートなど生体組織工学に関するたくさんの技術・特許を発表する一方、「胞子様細胞(Spore-like cells)という生物の成体に小さなサイズのごく少数の細胞が休眠状態で多能性細胞として存在する」という仮説を提唱。すっかり魅せられた晴子は、200本を超える文献を読み、「黄金の手」と呼ばれるほど研究室のあらゆる機械と方法を習得。初期化誘導遺伝子Oct4が働くと緑色蛍光タンパク質(GFP)が発現するよう遺伝子操作した生後1週間のOct4-GFPマウスから様々な組織を採取、ガラスの極細管に通して小型細胞を分離して培養する実験に取り組みます。あるとき培養中に塊ができることに気が付き、その中から緑色に光る塊を見つけます。繊細な作業を黙々とこなすうちに、「小さい細胞を取り出す操作をすると幹細胞が現れるのに、操作しないと見られない。幹細胞を取り出しているのではなく、操作によってできている」。晴子は興奮しながら様々な細胞に様々な方法で刺激を加える実験を繰り返して幹細胞が出現するかどうかを探ります。中でも、脾臓由来のリンパ球をガラスの極細管に通して取り出し、30分ほど弱酸性のアデノシン三リン酸(ATP、通称「細胞のエネルギー通貨」)溶液に浸して刺激を与えた後で培養を続けると、多くの細胞は酸の刺激で死んでしまう中、2日後から生き残った細胞(約25%程度)のなかに緑色に光る細胞(約30%程度)が安定して現れ始めます(全体の7~9%程度)。その細胞は元のリンパ球の半分程度に小さくなってお互いにくっつきながら、7日ぐらい経過すると数10個から数1000個の塊をつくるようになり、試験管のなかで環境を整えて培養すると確認神経・筋肉・腸管上皮など三胚葉のさまざまな組織の細胞に分化するのを確認します。晴子は同僚の小島宏司医師と一緒に検証実験を行い、STAP細胞の原型を作り出すことに成功します。マウスの生体内に移植して多能性の強力な証明であるさまざまな組織を含む奇形種・テラトーマを形成させます。バカンティ医師の希望によって半年の留学期間は1年6ヶ月にも及びます。「感性が鋭く、新しいことにどんどん取り組むハルコがいなかったら、この研究は達成できなかった。」

「若山 照彦 氏 x 体細胞クローン技術 」
 帰国した晴子は、晴子は研究論文 "The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers" にまとめ上げ、2年ごしで『Tissue Engineering 誌』に発表。早稲田大学にも博士論文として提出して工学博士を取得します。晴子はSTAP細胞の万能性(多機能性)を証明するために、大和雅之教授、常田聡教授、小島宏司医師と一緒に神戸市にある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)を訪ね、マイクロマニピュレータの名手で世界で初めてクローンマウスを作製した若山照彦教授に実験協力を求めます「STAP細胞由来のキメラマウスを作ってほしい」。「私はそういう不可能な実験が好きです。」それからの晴子は、アメリカのハーバード大学にポスドクとして在籍しつつ、東京の東京女子医科大学・大和研究室と神戸の理研CDB若山研究室を新幹線で往復しながら、若山研究提供のマウスからSTAP細胞を作っては、若山研究室に運びこんでキメラマウスづくりに挑戦する日々が続きます。晴子はキメラマウスづくりの技術習得を希望しますが、「嫌だ。ノウハウを教えたら僕達を頼ってくれなくなる」。約2年間、晴子は失敗すればするほどさらに膨大な実験を積み重ね失敗の原因を突き詰め、次の作戦を持って行きます。「次は絶対いけますので、実験、御願いします!」若山氏も試行錯誤しながらSTAP細胞20個ほどの小さな塊を慎重にマウス受精卵に注入、仮親マウスの子宮に移植して20日後、帝王切開すると緑色に光る胎児と胎盤に「おおっ!」みんなで歓声をあげます。胎盤組織に分化しないES細胞・iPS細胞の多機能性を超えた証明に、晴子は泣いて喜びます。しかし、あるときキメラが異常な兆候を示し晴子が分析しようとすると、若山氏は「母ネズミが子ネズミを食べたことにしましょう」と言ってそのデータを破棄します。やがて若山氏は、増殖能を備えたSTAP幹細胞(STAP─SC)の樹立が不可欠であると主張し始めます。まもなく、晴子から渡された細胞の一部を採取し特殊培養液で細胞の増殖に成功させた若山氏は、驚く晴子に幹細胞株の特許収益を51%を自分に、39%を晴子に、バカンティ氏と小島氏にそれぞれ5%を分配することを提案します。晴子は何度試してもSTAP細胞株を作成できず、自分で作り方が分からない幹細胞株の研究に抵抗しますが、若山氏は晴子にSTAP細胞株の研究の手伝いをするよう強制します。そして若山氏は晴子の指導のもとで脾臓からSTAP細胞を作る技術を習得すると、山梨大学に教授として招聘されます。

「笹井 芳樹 氏 x ES細胞(胚性幹細胞)」
 晴子は早速「ネイチャー」「セル」「サイエンス」といった科学雑誌に論文(共著者:チャールズ・バカンティ医師、マーティン・バカンティ医師、若山照彦教授、大和雅之教授、小島宏司医師など)を投稿するも、「あなたの論文は過去何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している。」、3誌とも査読者にリジェクトされます。自信を失いつつあった晴子は、山梨大学に移動が決まった若山教授から報告を受けた理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の竹市雅俊センター長ならびに西川伸一副センター長から非公式に研究ユニットリーダー(研究室主宰者)応募の打診を受けます。山中伸弥教授のノーベル賞受賞の興奮が冷めやらぬさなか、晴子はCDB人事委員会による面接に臨みます。「STAP細胞は必ず人の役に立つ技術です」。研究ユニットリーダーとして5年契約で給与とは別に総額1億円の研究予算と実験棟が与えられます。さらに晴子は、半世紀にわたる発生学の謎である神経誘導因子「コーディン」を解明し、ES細胞から神経細胞・視床下部・脳下垂体・網膜の形成を成功させた気鋭の研究者である新CDB副センター長・笹井芳樹氏との知遇を得て、論文投稿ならびに国際特許出願のためのサポートを得られることとなります。晴子の論文を読んだ笹井氏は「まるで火星人の論文だ」。笹井氏ならびに丹羽仁史プロジェクトリーダーの実験指導のもと論文を修正するため、晴子は両研究室メンバーと一緒にライブ・セル・イメージング(顕微鏡下での細胞の自動録画)を実施。分散したリンパ球から万能性遺伝子が活性化して細胞が緑に光り始め、やがて塊を作っていく様子に「おおっ!」「驚くほど高頻度に(変化する細胞が)出現し、感動的だ」歓声が上がります。「STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)」と命名、 "Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" 、"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" にまとめネイチャー誌に再投稿します。穏やかなストレス要因であるATPをより刺激の強い塩酸に置き換えた改訂プロトコルを組み込み、若山氏の作成した幹細胞株について説明した別の論文も加えられます。続いて国際特許 ”GENERATING PLURIPOTENT CELLS DE NOVO” を出願。厳重にデータ管理しながら、ネイチャー誌からの厳しいコメントや追加データの要求をクリアするために、膨大な追加実験を積み重ねること1年弱、ようやく『ネイチャー』誌に論文が採択されます。

「山中伸弥教授 x iPS細胞(人工多能性幹細胞 )」
 2014年1月28日神戸市ポートアイランドにある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の記者会見会場に、新聞・テレビ16社から約50人の記者やカメラマンが集まります。晴子はCDB副センター長・笹井 芳樹氏教授ならびに山梨大学に移動した若山照彦教授と共に臨みます。「体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発⾒」「細胞外刺激による細胞ストレスが⾼効率に万能細胞を誘導」晴子は、新たな生物学的メカニズムの発見と新規の医療技術の開拓に貢献すると強調します。「細胞核の情報の自在な消去・書き換えを可能とする革新的技術。細胞の分化状態を自在に操作できるようになる」「例えば、生体内での臓器再生脳力の獲得・がんの抑制技術・細胞老化からの解放(若返り)などが可能になる」。翌日から日本のメディアは異様な盛り上がりを見せます。「万能細胞 祖母のかっぽう着姿で実験」「泣き明かした夜も STAP細胞作製の30歳女性研究者」「「間違い」と言われ夜通し泣き、デート中も研究忘れず」「論文一時は却下…かっぽう着の「リケジョ」快挙」「研究室の壁紙はピンク色・黄色、あちこちにムーミングッズ」「お風呂でもデートでも四六時中研究のことを考え」「記者会見にはヴィヴィアン・ウエストウッドの指輪」。一方、 iPS細胞(人工多能性幹細胞 )を発見した山中教授から晴子は呼び出しを受け薫陶を受けます。「iPS細胞が8年前に生まれた時、「こりゃすごい。”小学校一年生”で遠投百メートル投げるものすごい子供がいる」、今度は「”小学校一年生”で時速100キロで投げるやつがいる。また驚いた」。心から誇りに思っています。すごい素質をもった”小学生”をどう育て、どう順調に記録を伸ばしていくか。これがとても大切。」

「ストレステスト1 メディアバッシング」
 STAP論文の発表は世界中の研究者に衝撃を与え、2週間も経たないうちに科学論文のオンライン・フォーラム『PubPeer』から「論文掲載画像の重複と切り貼りがある」、他の幹細胞研究室からは「再現できない」と報告が相次ぎます。『ネイチャー』誌ならびに理化学研究所で調査が始まると、晴子はじめ日本人論文共著者らのもとに若山氏から「STAP論文撤回」を提案するメールが届き衝撃が走ります。同時にNHKのトップニュースで「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在するのか確信がなくなった」と若山氏が独断でインタビューに応じます。すぐに晴子は若山氏に話し合いを求めて電話をかけるも電話に出てもらえず、笹井氏も取り合ってもらえず、丹羽氏は山梨まで出向きます。「STAP細胞疑惑 理研の“勇み足”と追い込まれた「リケジョの星」」「唯一の味方ハーバード大教授も怪しい実績!捏造にリーチ!「小保方博士」は実験ノートもなかった!」「乱倫研究室」「「リケジョの星」転落全真相 小保方晴子さんを踊らせた“ケビン・コスナー上司”の寵愛」「STAP細胞「小保方晴子」高校時代は中の中でちょっとイタい子!」「一途なリケジョ”小保方晴子さんの初恋と研究」。晴子はNHK記者に突撃取材で女子トイレまで執拗に追い回され、転倒させられ全治2週間のケガまで負います。新聞社・テレビ局・週刊誌など記者らが晴子の携帯電話はじめ自宅マンションのインターホンを連日鳴らします。笹井氏のもとには「返事をしなければこのまま報じますよ」という脅迫めいた取材メールの対応に連日追われ研究ができなくなります。

「ストレステスト2 NHK偏向報道」
 理化学研究所の調査委員会の発足により、晴子はじめ笹井氏・丹羽氏はサンプルに触れることも禁じられます。一方、調査対象のサンプルを作製し保存していた若山氏本人は自由にサンプルを再解析し、山梨大学から自分の意見を社会に向けて発言し始めます。「若山研究室に保存してあるSTAP細胞株を第3者に簡易遺伝子解析したもらったところ、若山研究室がSTAP細胞を作るために小保方氏に提供したマウスとは系統が異なることが判明した。」「STAP細胞とされてきた物が別の万能細胞である「ES細胞」だと考えると説明しやすい。」まもなく『NHKスペシャル/調査報告/STAP細胞不正の深層』(2014年7月27日)に理化学研究所の遠藤高帆研究員が登場「小保方のSTAP細胞にはアクロシンGFPという遺伝子が組み込まれている。」、続いて若山氏が登場「理研にいたときに若山研究室の留学生がアクロシンGFPを組み込んだES細胞を作製していた」、そしてそのES細胞が晴子の理研研究室の冷凍庫から見つかったイメージ映像が流され、さらにその元留学生が匿名で証言「何でそれが小保方氏の研究室に在るのか考えられない。」。続いて、理化学研究所OB石川智久氏が「ES細胞を盗まれた」として晴子を兵庫県警に刑事告発します。「小保方元研究員は名声や安定した収入を得るために、STAP論文共著者の若山照彦教授の研究室からES細胞を盗み、STAP論文をねつ造改ざんした」。

「ストレステスト3 記者会見」 
 晴子は弁護士と共に反論会見を開きます。「STAP細胞は捏造」という前提に立つヒステリックな報道記者達の質問に、「論文の提示法について、不勉強で自己流にやってしまったのは申し訳ございませんとしか言いようがない。」「研究室ではES細胞のコンタミ(混入)は起こり得ない状況を確保していた。」「ライブ・セル・イメージングで光ってないものが OCT4 陽性になってくる。そして、その光が自家蛍光でないことも(研究チームで)確認している。」「現在あるSTAP幹細胞は、すべて若山先生が樹立されたもの。若山先生の理解と異なる結果を得たことの原因が、私の作為的な行為によるもののように報道されていることは残念でならない。」一週間後、笹井芳樹理研CDB副センター長の記者会見が開催されます。STAP現象の場合の反証仮説①「ES細胞の混入」と②「自家蛍光現象の見間違い」を挙げ、①「ライブ・セル・イメージング」と②「FACS」装置で検証済みであると答えます。さらに、STAP細胞はES細胞と形状も性質もが異なるので専門家が見ればその違いが分かると指摘。そのうえで「STAP現象は有力な仮説であるといえる。それを前提にしないと、説明できないことがある。有望ではあるが、仮説に戻して検証し直す必要がある。」と結論付けます。「小保方さんは、たしかに実験面での天才性と、それに不釣り合いな非実験面の未熟さ・不注意が混在したと思います。かといって、研究を良心的に進めていたことを否定するのは、アンフェアであると思います。」晴子はじめ若手研究者を育てる必要性を主張します。

「ストレステスト4 検証実験」
 調査委員会の一方的な調査結果に対して晴子は不服申し立てを行い、2014年4月1日相澤慎一特任顧問の下でSTAP細胞の検証実験が晴子を除いて実施されます。さらなる晴子の不服申し立てにより、文科省の『研究不正に関するガイドライン』が示され、7月から晴子も検証実験の参加を認められます。11月末日を期限に、あらかじめ研究不正再発防止改革推進本部が指名した者の立ち会いの下で、論文に書ききれない実験のコツ・こだわりなどについて一切認められない厳しい制約のもと実施されます。検証実験は①マウスの脾臓のリンパ球からSTAP細胞を作り、②そのSTAP細胞からSTAP幹細胞とキメラマウスを作製します。①を晴子と発生・再生科学総合研究センター(CDB)丹羽仁史チームリーダーが別々に担当、②を検証実験への参加を拒否するキメラづくりの名手・若山氏の代わりに、ライフサイエンス技術基礎研究センターユニットリーダー・清成寛研究員が代わりに担当します。晴子は、24時間のビデオ監視の下、壁にあった小さな釘穴さえも埋められた部屋で、ポケットのない服を着させられ、監視員にエプロンを毎日締めつけられ、試薬瓶を自由に手に取ることもできず、作成したSTAP細胞を自分で解析することも許されず、実験がうまくいったかどうかさえ分からず、犯罪者のように扱われながら毎日同じ作業を繰り返し行います。満足のいく結果が得られないまま数カ月が経過、健康状態も悪化していきます。【◎晴子による検証結果:弱塩酸処理を行った場合の多くにSTAP様細胞塊が形成されることを確認。出現数は論文よりも少ないものの、緑色・赤色蛍光顕微鏡・定量 PCR法・免疫染色によ多機能性マーカー遺伝子の発現を確認。◎ 丹羽氏による検証結果:酸処理を行った細胞を培養すると特異的に細胞塊が出現、FACS解析においてOct3/4-GFP 遺伝子発現に由来する特異的な緑色蛍光を発する細胞の存在をごく少数確認。肝臓由来の細胞をATP処理するとSTAP様細胞塊の出現を優位に確認、定量PCR法・免疫染色法によりOct3/4の優位な発現を確認。 ◎清成寛研究員による検証結果:STAP細胞株の樹立・ならびにキメラマウス形成は得られなかった。】

「STAP HOPE」
 2014年12月19日に情報システム研究機構理事で国立遺伝学研究所長でもある桂勲調査委員長は記者会見を開き「STAP現象を再現できなかった」「STAP幹細胞は残存試料を調べた限りでは、すべて(若山研究室が保有する)既存のES細胞に由来していた。STAP細胞からつくったキメラマウス、テラトーマ組織もその可能性が非常に高い。故意か過失か、だれが行ったかは決定できない。」検証実験の打ち切りを発表。しかしながら、ある記者の質問に桂委員長は答えます。「ES細胞からキメラマウスを作り、そこからSTAP細胞を作れば、かなり似たものができる(元のES細胞の遺伝子とほぼ一致する)。」さらに記者の質問に桂委員長が答えます。「不思議です。STAP細胞ができたというのは、小保方氏以外で操作してできたというのは、我々の確認している限りでは、この若山氏の1回だけです。」続いて2か月後、理化学研究所の野依良治理事長が記者会見で「論文の取り下げを(著者らに)勧告する」と発表します。晴子は「体細胞が多機能性マーカー遺伝子を発現する細胞に変化する現象」という未知の現象は確認され間違いがないと主張するも、STAP研究費用のうち論文投稿費用60万円のみ支払いに応じ、論文撤回に同意、理化学研究所を退所します。晴子はアメリカ『ニューズウィーク』誌のインタビューに答えます。「私はスケープゴートにされた。日本のメディアはすべて、若山先生が犠牲者で、私がまったくの極悪人と断定した。」「ほとんどの人がこの話を信じています。なぜなら、これは日本人にとって最も単純で、興味深く、楽しい話だからです。」

-文部省『研究活動における不正行為への対応等に 関するガイドライン』
-理化学研究所STAP細胞に関する情報・取り組み
-STAP HOPE PAGE

STAP論文共著者の主要インタビュー
-Interview with Dr. Teru Wakayama on STAP stem cells
-"Stress Test" The New Yorker 21th Feb.2016

STAP細胞論文
-"The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers"
(共著者:中島宏司、カレン・ウェスターマン、大和雅之、岡野光夫、常田聡、チャールズ・A・バカンティ)
-"Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" Nature vol505, p641–647 (2014)
(共著者:小島宏司、マーティン・A・バカンティ、丹羽仁史、大和雅之、マーティン・A・バカンティ)
-"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" Nature vol 505, p676–680 (2014)
(共著者:笹井芳樹、丹羽仁史、門田満隆、ムナザ・アンドラビ、高田望、野老美紀子、小島宏司、マーティン・A・バカンティ、大和雅之、寺下愉加里、米村重信 、チャールズ・A・バカンティ、若山照彦)。

STAP細胞特許
-“Generating pluripotent cells de novo WO 2013163296 A1"
(出願人:ブリガム・アンド・ウィメンズ病院 / 発明者:チャールズ・バカンティ、マーティン・バカンティ、小島宏司、小保方晴子、若山照彦、笹井芳樹、大和雅之)
-"Methods relating to pluripotent cells"
(出願人:Vセル・セラピューティック / 発明者:チャールズ・バカンティ、小島宏司)

STAP事件関連書籍
-『あの日』(小保方晴子著 / 中央公論新社2018)
-『小保方晴子日記』(小保方晴子著 / 講談社2016)

STAP細胞類似研究
-"Modified STAP conditions facilitate bivalent fate decision between pluripotency and apoptosis in Jurkat T-lymphocytes"
-"Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells"
-Kuroda, Y. et al. Unique multipotent cells in adult human mesenchymal cell populations. Proc Natl Acad Sci U S A 107, 8639-8643, (2010).
-Wakao, S. et al. Multilineage-differentiating stress-enduring (Muse) cells are a primary source of induced pluripotent stem cells in human fibroblasts. Proc Natl Acad Sci U S A 108, 9875-9880 (2011).

神奈川県 Kanagawa-Ken

和田 カツ 女史

Ms. Katsu Wada

1906 - 1993

神奈川県小田原市 生誕

Born in Odawara-city, Kanagaw-ken


「感謝と奉仕と愛の祈りの商人の道」

"A Merchant's Path of Gratitude, Service, and Love Prayers"

日本スーパーマーケット業界初の国外進出を果した八百半デパート創業者。TVドラマ「おしん」のモデルと言われています。

katsu Wada is a founder of Yaohan, the first Japanese supermarket industry to expand overseas. She is a model of Oshin. 

*******

「子供のために生きる」

カツは小田原の八百屋「八百半」の長女として生まれます。店の台所仕事を引き受けるかわりに、高等小学校から小田原高等女学校(後の神奈川県立小田原城内高等学校)へと進学、当時では数少ない女学生となります。教員に就職するか会社員や銀行員の妻となることを夢見るも、父親の一存で従業員の和田良平とカツを結婚させられ、夫妻で八百屋を継ぎます。カツは泣く泣く子供を立派に育てることを生きがいにすると決意、子供を大学に行かせたい一心で、朝5時に起き夜12時まで働きづめで積極的に働きます。24歳の時に熱海市銀座の旅館の軒先を借りて「八百半熱海支店」を開店。リヤカーを引いて得意先の旅館への野菜を卸しに行きます。熱海には町一番の八百屋があってトラック1台分の野菜を収納できる冷蔵庫を備えているのに対抗、カツは夜間も野菜を店に並べたままにして夫と交代で販売を始めます。夜露で野菜の新鮮さは増す上に、映画館やダンスホールなどで遅く帰宅する人々が店に寄るようになり、芸妓を連れた男性が見栄を張って高級な物をたくさん買うなど大繁盛します。平均睡眠4時間の生活が、十数年続きます。店もようやく軌道に乗り始め、生活も安定してきた矢先夫が倒れ長女が2歳で早世、息子達の子育てに苦悩します。カツは新宗教団体「生長の家」に入信し熱心な信者となります。

「感謝と奉仕の商売道」

「熱海大火」で20年かけて築いた八百半商店が一夜にして全焼。得意先である旅館の好意で、店の再建まで旅館の軒下を売り場として借りながら、さらに仕入先の好意で勘定をツケにしてもらいながら商売を継続します。カツは考えます。旅館相手の野菜卸事業は売上の割に資金繰りが苦しい。御用聞き・配達の手間の割に未回収金も板前への賄賂も負担が大きい夫を引き連れて、現金正札販売で有名なベニマル(現在のヨークベニマル)を福島県郡山まで見学に行きます。そこでは八百半の10分の1の広さの店舗に客が押し寄せ2倍以上も売り上げていました。早速、株式会社八百半食品デパートとして再出発、主に一般消費者相手に食料品の現金正札販売を始めます。品物を安く販売して世界一物価の高い熱海の住民たちの大評判になります。仕事が多忙を極める中、一部の従業員がストライキを起こして旅館に立てこもる事件が発生。カツは新宗教団体「生長の家」を取り入れた社員教育に力入れて社員を一つにまとめあげようとします。退職した女子社員の再雇用・育児休業・育児短縮勤務を業界でいち早く導入する一方で、信仰を受け入れない従業員は解雇していきます。まもなく長男事業を譲ると、カツは日本流通業初の海外進出を果たしたヤオハン社員の教育のために精力的に、シンガポール、コスタリカ、アメリカ、香港、マレーシア、タイ、中国、マカオ、イギリス、など16か国450店舗を飛び回ります。バブル崩壊と時を同じくしてカツが死去するとヤオハンも1997年に倒産します。

-静岡新聞 Shizuoka News

-NHKテレビ小説 おしん NHK TV drama OSHIN

「民事にしても刑事にしても、裁判というものは男と女の両方の正しく見た目で決められていかなければならない。」
``Whether in civil or criminal cases, trials must be decided based on the correct appearance of both men and women.''

「社会全般のことは男女双方の立場から観察・考慮して初めて円満な解決が得られます。」
``Amicable solutions can only be reached when issues in general society are observed and considered from the standpoints of both men and women.''

石渡 満子 女史 
Ms. Mitcuko Ishiwata
 1905 - 1974
神奈川逗子市 生誕
Born in Zusi-city, Kanagaw-ken

石渡満子女史は日本初の女性裁判官です。婦人法曹普及会はじめ婦人人権擁護同盟を組織して、戦後の日本の女性の社会的自立をバックアップしました。
Ms. Mitsuko Ishiwata was Japan's first female judge. She established organizations such as the Women's Legal Profession Propagation Association and the Women's Rights Advocacy Alliance to support the social empowerment of women in post-war Japan.

*******

「離婚裁判」
 満子は横須賀市桜山(今の逗子市)に、農学博士で養蚕産業を指導をする官吏の父親のもと4人姉妹の長女として生まれます。東京女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学)卒業と同時に婿養子を迎えて結婚するも8年後に離婚。結婚生活の不幸、人間の精神的な悩みというものについて、裁判官とか検察官が非常に冷たいもの厳しいものであるというように感じます。「正しい考えというのは男女に違いがあるのではないか。」女性は司法試験に合格しても弁護士以外にはなれず、裁判官・検察官といった司法官に女性がいないことに、満子はひそかに憤慨します。法律を調べてみると、女が裁判官・検事になってはいけないということはどこにも書いていない。女の進出を阻むものは何にもないはずであるのに実際にはなれない。「女性の問題に携わって、人情をもって暖かい気持ちをもって同じ様なことで苦しんだ女性の相談相手になりたい。」

「女性裁判官第1号」
 満子は30歳を過ぎて法律の勉強を始め、女性のための法律専門学校を設立していた明治大学に進学します。戦争が激しくなる中も勉学に励み、39歳で卒業、40歳で敗戦後に最初に実施された司法試験を受験して合格。新しく新設された2年間の司法修習を受けて一本立ちします。その中で唯一の婦人であった満子は新しく明記された男女平等の法律のもとで、裁判官を志望して44歳で採用されます。戦後の不況による失業者の増大・生活苦による追い出し離婚の増大・少年少女の人身売買・地方婦人労働者の酷使が激増します。満子は女性弁護士らと婦人法曹普及会を結成、生活に直結した法律講座を開催します。さらに家事調停員また人権擁護委員らと協力して婦人人権擁護同盟を組織、実態調査・法律相談・訴訟・啓蒙活動を行います。女性を受けつけぬ暗黙のルールが存在する中に45歳で女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。56歳で判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任。定年退官後は弁護士となり第二東京弁護士会に所属して、家庭裁判所を中心とした婦人・青少年問題に奔走します。69歳で逝去。

-明治大学 Meiji Univ.
-『法律のひろば 3(1)』(ぎょうせい 編 / 1950年)
-『人事院月報 : 公務員関係情報誌 23(5)(231)』(人事院総務課 編 / 日経印刷1970-05)

「女性は35歳以上年を取らない」
"Women don't get old after 35"

山野 千枝子 女史
Ms.Chieko Yamano
1895 - 1970年
神奈川県横浜市掃部山 生誕
Born in Yokohama-city, Kanagawa-ken

山野 千枝子 女史は日本の美容家の先駆者。日本にマーセルウェーブならびに美容法を広めた草分け。国産の化粧品・パーマネント機械・美顔機械を開発。ファッションモデルの前身である「マネキンクラブ」を創設。ファッションショーまた美人コンテストを全国で開催しながら最新の髪型・服飾・美容術を普及させます。
Ms. Chieko Yamano is a pioneer of Japanese hairdresser and cosmetologist, who spread Marcel Wave and beauty methods in Japan. She developed domestically produced cosmetics, permanent care machines, and facial beauty machines. She founded the ``Mannequin Club,'' which was the predecessor to fashion modeling, and held fashion shows and beauty contests all over the country to popularize the latest hairstyles, clothing, and beauty techniques.

「横浜」
 千枝子は、鉄道役人の父・三沢覚蔵と、甲斐の豪農の娘である母・ハマのもと5人兄弟の中でただひとり娘として生まれます。白鳥の様に美しい外国の貿易船、貿易美術雑貨また洋装を手掛ける兄たち、山の手にある異人館など、港横浜のエキゾチックな空気に刺激された智恵子は海外へのあこがれと興味を抱きます。戸部小学校の上級生になる頃には、英語の単語帳をいつも懐に忍ばせ、平沼高等女学校への進学を目指します。父親の失業により、鎌倉の師範学校で教員試験を受けたり、三井物産横浜支店の女性事務員の採用試験を受けたりしますが、千枝子は兄に頼み込んで、神戸家政女学校に進学。助手として教壇に立ちながら、大好きな英語の勉強に専念します。まもなく、アメリカの家政総支配人を名乗る山野末松との縁談話を持ち込まれます。「徒手空拳で10万円(現在の1億円)をつくった人です」千枝子は両親の反対を押し切って神社で式を済ませると、アメリカに渡ります。

「アメリカ修行」
 全荷物を盗まれ、千枝子は文字通り裸一貫でサンフランシスコの地に降り立ちます。ニューヨークに着くと、夫は白い台所着を着てせっせと水仕事を始めます。千枝子はトイレに駆け込んでひとしきり泣いてしまうと、アメリカ人銀行家の小間使いの1人として素直に働き始めます。千枝子は寝床の準備と子供の世話を担当。月曜と水曜は洗濯、火曜と土曜はアイロン掛け、木曜は大掃除、金曜は裁縫、家政の日課に従って専門家が見事な腕を揮うのを、千枝子は積極的に学びます。夫と共にブルックリン・ニューヨークを転々としながら生活を築き、神戸の兄の援助を得て美術商雑貨の店「ジャパニーズギフトショップ」を開きます。子育てのかたわら、女性雑誌『婦女会』に寄稿したり、アパートを在留日本人に貸したり、社交クラブでお茶をたてたり日本舞踊を‏披露したりしながら資金をためると、千枝子は世界中の女子が集まるニューヨークのワナメーカービューティースクールに入学。1年かけて卒業すると、メトロポリタンはじめ劇場から回されてくる鬘の手入れに追いまくられながら、師匠の技術を盗み見て最新のカットはじめパーマネントやマーセルウェーブを習得。同僚と独立して化粧品工場に通ったり毛製術・美顔術の勉強会に参加しながら美容院経営を学びます。

「日本の美容開発」
 まもなく千枝子は『婦女会』の婦人会の伝手で、帝国ホテルで海外観光団相手の美容室を開業する約束を取り付けます。ところが帰国すると帝国ホテルは火災にあって計画は白紙に。打ちひしがれる千枝子に『婦女会』社長・戸川竜氏の資金援助が舞い込み、東洋一の丸ビル内でアメリカ式美容院を開業します。当時の日本髪50銭(今の1000円)に対し、マーセルウェーブ・フェイシャル(美顔術)・スキャルプトリートメント(頭皮マッサージ)・マニキュアは1円(2000円)均一、カラー・パーマネント5円(10000円)。着物に調和するマーセル・ウェーブは大流行。芸能人はじめ日本中の女性たちの評判となり廊下は連日見学客で人だかりになります。千枝子は渋谷区に山野美容研究所を創設。浅草橋の日本理髪器具株式会社と協力して、美容器具の国産生産に取り掛かります。続いて、桃谷順天堂はじめ小林コーセーの化粧品開発の顧問を引き受けます。千枝子は日本で初めて紹介した、クレンジング化粧法・アストリンゼント(収れん)化粧水を紹介します。そして、発明家・久和原悦山氏の協力のもと国産パーマ機械・ジャストリーを製作。さらに眼科医・安達八乙氏の協力を得て赤外線美顔術を確立。日本の美容に革命を起こします。

「山野千枝子ビューティー・サロン」 
 千枝子は、1日中幕無しのファッション・ショーとしてマネキン・クラブ(ファッション・モデルの前身)を創設して百貨店協会に派遣をはじめます。左翼運動家の女性に潜入され分裂工作を受けたり、モデルの自殺未遂事件を新聞で非難されたり、自信が尽力した「東京婦人美容協会」から除名されたりしながら、全国各地でファッションショーならびに美人コンテストを開催しながら、髪型・服飾・美容術の講演また実演を広めます。次々と開発する美容技術・美容製品の権益争いに巻き込まれるうちに、戦時中のパーマネント排斥運動を経て敗戦。千枝子は焼き野原になった銀座つづいて横浜で、外国人に慣れた美容家を集めて、アメリカ占領軍婦人たちのための美容室を開業します。すると千枝子は世界一大好きなアメリカ人達の横流しと横領の隠ぺいの為にあらぬ嫌疑をかけられ美容室を追い出されます。千枝子は奮起して、第6回国連総会にオブザーバーとして参加、パリの最新美容を研究して周ります。新橋に「山野千枝子ビューティー・サロン」を開店。続いて渋谷に東京高等美容学校を設立。月に100万円以上を稼ぎ出す女性美容家たちを次々と全国に送り出します。

-『光を求めて―私の美容三十五年史』山野千枝子、サロン・ド・ボーテ1956年
-住田美容専門学校


新潟県 Niigata-Ken

「返らぬ少女の日のゆめに咲きし花のかずかずをいとしき君達へおくる」
"I send to you, my dear ones, a bouquet of flowers that bloom in the dream of a girl who will never return."


吉屋 信子 女史 

Ms. Nobuko Yoshiya

1896 - 1973

新潟県新潟市営所通り 生誕

Born in Eisyo-Street of Nigata-city, Nigata-ken


吉屋 信子女史は少女小説・同性愛文学の草分けです。代表作『花物語』『良人の貞操』で女学生はじめあらゆる世代の女性を魅了しました。当時の女性観・女性蔑視・女子教育の実態を描きつつ、日本の父権社会また男女間の恋愛への懐疑ならびに女性の同性愛を正面から論じたフェミニズム文学の先駆者です。

Nobuko Yoshiya is a pioneer in girls' novels and homosexual literature. Her masterpieces ``Flower Story'' and ``Good Man's Chastity'' captivated women of all generations, including schoolgirls. She is a pioneer of feminist literature, portraying the reality of women's views, misogyny, and girls' education at the time, as well as squarely discussing Japan's patriarchal society, skepticism about love between men and women, and female homosexuality. 

*******

「人のために働いた偉い人」

信子は5人兄弟の唯一の娘として新潟県庁官舎で生まれます。父・雄一と母・マサの兄弟5人の中で唯一の女児として生まれます。父・雄一は新潟で県警に務めた後に郡長となって一家で佐土・新発田・真岡・下都賀郡に移り住みます。信子は真岡小学校に入学。近くにキリスト教会があり、信子は牧師の娘たちと親しくなって日曜学校に熱心に通い始めます。この頃、父・雄一は渡良瀬川鉱毒問題にあたり、政府側(古河財閥の足尾銅山側)と農民側の間に挟まり苦悩します。吉屋家には農民側がをしばしば訪れたり、田中正造が直接交渉に赴いたり、緊迫したやり取りを信子は目撃します。やがて、父・雄一度重なる政府への上申も空しく、谷中村を水底に沈めるため強制土地買収・強制立ち退きの執行官吏として現地に派遣されます。母は家族のすべての荷を引き受け、信子の幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥り、父は弟が亡骸となってやっと帰宅するも家屋取り壊しのために谷中村に引き返します。これら一連の出来事は信子に強烈な記憶を残します。

良妻賢母となるよりも

信子は栃木高等女学校(現在の栃木県立栃木女子高等学校)に入学。新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ」という演説に感銘を受け、少女雑誌に短歌や物語の投稿を始めます。信子は日光小学校代用教員となって家計を助け、まもなく兄弟の就職の目処が立つと父母の許しを得て上京、東京帝国大学に通う兄・忠明宅に身を寄せ作家を志します。信子は山田嘉吉・わか夫妻の「語学塾」「読書会」に参加して『青踏』のメンバーたちと交流を始めます。兄・忠明が外国に旅立つと東京四谷のバプテスト女子学寮に入り、近くの教会に通って婦人問題に関心を深めます。日曜学校の手伝いとして子ども相手に話した童話を集めた『赤い夢』を幼年雑誌「良友」に送り採用されてから、「良友」「幼年世界」に寄稿を続けて稿料を得るようになります。20歳で「少女画報」編集部に送った「鈴蘭」が採用され『花物語』の10年に渡る連載開始女学生から圧倒的な支持を受ける人気作家となります。神田の基督教女子青年会(YWCA)の寄宿舎に移り、津田塾や女子美術の学生たちの人脈を広げる中、父が逝去。信子は父の喪中に『屋根裏の二処女』を執筆、YMCAでの同性愛体験を基にしたで自らの同性愛体験を明かします。

新しい女たちの世界

大阪朝日新聞の懸賞小説の応募するため、信子は北海道に勤務する兄・忠明宅に3月間こもって「地の果てまで」を執筆、24歳で文壇デビュー。秘書として採用した、お茶の水大学数学科卒業の才媛・門馬千代と相思相愛となり、作家が集う下落合に新居を建設して同居を始めます。29歳のときに個人雑誌『黒薔薇』を刊行、女性の同性愛を正面から論じます。信子と千代は多額の印税をもとに2人で神戸港から満州、ソ連、ドイツを経由して一年近くフランスのパリに滞在、さらにアメリカ経由で帰国します。40歳で『良人の貞操』で男性の貞操ならびにジェンダーをめぐって大反響、映画・舞台でもブームを巻き起こします。戦時中には『主婦之友』特派員として中国から、「ペン部隊」女性役員としてインドネシア・ヴェトナム・タイなどから、従軍ルポルタージュを発表。並行して東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載小説『女の教室』を執筆、戦争を介して古い男たちの世界を乗り越え、新しい女たちの世界を実現する様子を描きます。戦後は自然豊かな鎌倉に新居を建てて門野千代と晩年を共に暮らしながら、『徳川の夫人たち』『女人平家』など女性史を題材とした長編時代小説を執筆。77歳で死去します。

-吉屋信子記念館 Nobuko Yoshiya memorial Museum

「次の世には虫になってもいい。明るい目をもらって生きたい。」
``I don't mind turning into a worm in the next life. I want to live with bright eyes.”

小林 ハル 女史
Ms. Hru Kobayashi
1900 - 2005
新潟県三条市三貫地新田(当時の南蒲原郡井栗村三貫地) 生誕
Born in Sanjyo-city, Niigata-ken

小林 ハル 女史は、最後の長岡瞽女。5歳から瞽女修行を初めて、73歳で廃業するまで、新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県南会津地方を巡業してまわります。無形文化財「瞽女唄」の保持者に認定。黄綬褒章を授与。
Ms. Haru Kobayashi is the last Nagaoka Goze. She began training as a Goze at the age of 5, and toured throughout Niigata Prefecture, the Yonezawa and Oguni regions of Yamagata Prefecture, and the Minamiaizu region of Fukushima Prefecture until she retired at the age of 73. Recognized as the holder of the intangible cultural property "Goze-uta". Awarded the Medal with Yellow Ribbon.

*******

「寝間に閉じ込められた良い子」
 ハルは26件軒しかない小さな村の農家に生まれます。両親は田畑をたくさん所有する庄屋で小作人と使用人を抱え、船大工をする親戚は村の区長を務めます。生後3か月の時に白内障を患い両目の視力を失い、2歳で父親が逝去、喘息持ちの母親は大叔父と同居します。「お前は良い子だから寝間でおとなしくしているんだぞ。ハルと呼ばれなかったら声を出すんでないよ。」と言い聞かせられ、家の一番奥の寝間に閉じ込められ、年の離れた兄姉たちはハルを相手にしてくれず、家の者はどこへも連れて行ってくれません。祭りの太鼓の音が聞こえても、子供のお遊ぶ声が聞こえても、ハルは言いつけを守って寝間で大人しくしています。

「瞽女に弟子入り」
 やがて、瞽女宿をしていたハルの家族は、村を訪れる瞽女・樋口フジのもとへハルを弟子入りさせる段取りをつけます。5歳のハルは母親から礼儀作法や編み物、縫い物、着物の着方や風呂敷を使った荷造りの仕方、荷物の持ち運び方などを厳しく仕込まれます。7歳になると、瞽女・樋口フジから自宅で唄と三味線を習います。朝8時から11時まで、昼1時から4時まで、フジが後ろからおんぶする様にハルの指をしっかり押さえながら「岡崎女郎衆~岡崎女郎衆は良い女」と歌いながら3日かけて三味線を覚えます。歌の意味が分からないまま夢中で習います。「松がつらいとおおみなおしゃんすけど しのぶ松よな楽しみに せめて松よ二葉の松よ 中に小松と思えども ああそれそれそうじゃいな」12月の1か月間は朝晩の寒稽古が加わります。朝5時から7時までと夜6時から11時まで、さらしの下着1枚に赤い木綿の腰巻をつけ、ネル生地の単衣とカッパを着て、素足に草鞋を履いて、家の前を流れる信濃川の土手に上って、雪の中で杖につかまって唄います。「黒髪のむすぶ おれいたる想いには とけて寝る夜の枕とて 一人寝る夜のあだ枕 夕べの夢の今朝覚めて ゆかしなつかしやるせなさ 積もるとしらで 積もる白雪」

「厳しい子弟律」
 9歳になったハルは、母親と一緒に着物を着て子ども三味線を担いで杖をついて歩く稽古を始めます。表に出て村の子供たちと遊びます。「小鳥の鳴き声がいっぱいする」「空気がうまい」「表に出るのはいいもんだ」秋には、師匠の樋口フジと姉弟子のコイ25歳ならびにクニ21歳とともに初めて巡業に出ます。片目の見えるクニの手引きで列をなして村々で門付けをして回ります。道中も唄の稽古は途切れることなく続き、急な山坂を荷物を担いで登るときには一番難儀な唄を練習させられます。6月になると、八十里越と呼ばれる難所を越えて会津へ向かいます。両手で木や石につかまって這って歩き、はるか下でゴオゴオ川音のする橋を光明真言を唱えながら渡ります。会津は余り米が無いところで、師匠・フジの定宿では滅多にご飯は食べられず、芋やとうきびをもらったり、麻の糸揃えや蚕の葉もぎを手伝ってしのぎます。ご馳走に預かってもご飯とみそ汁と漬物以外のおかずに手を付けることを許されず、口答えをして杖で突き飛ばされたり、宿探しに失敗して独り村はずれの御堂で寝かされたり、師匠が教えない歌を歌って山中に置き去りにされたり、撥を踏んで三味線なしで町に立たされたり、師匠の教えられた通りに歌えないと手をついてあやまりあやまり、ハルは14歳で紙張りの二丁三味線と木の撥を許されます。

「長岡の瞽女組織」
 まもなく姉弟子のコイならびにクニは嫁入り、師匠・フジは目の見えるキイと組んで、ハルは巡業から外されます。その年の長岡の瞽女屋敷での妙音講に参加したハルは、2階建ての大広間に360人の親方衆が勢揃いする中、大親方・山本ゴイの許可を得て、実家がお菓子屋を営む盲目のハツジサワに正式に弟子入りをします。15歳のハルは瞽女名「チヨノ」を授けられます。「本当の親子だと思って心を合わせて暮らせられればそれでいいんだわね」
目が少し見える9歳のハツイを手引きに、師匠・サワと巡業に出ます。米を出して宿泊したり按摩の仲間宿に止まったりしながら、昼は門付け、夜は宿屋・芸者屋・飲み屋・女郎屋を軒付けをして流して回ります。サワの馴染みの富豪宅では立派なお膳とお菓子をみんなで楽しみます。越後では瞽女は縁起がいいめでたいとされ何人でもまとめて泊めてくれ、米沢では子供連れで歌を聞きに来て夜になると女の年寄りだけが残って宴会が始まり瞽女を大事にしてくれます。

「革張りの三味線とべっ甲の撥」
 やがて師匠・サワが体調を崩して寝込むようになり、18歳の時にサヨという男好きでろくに唄も歌えない目の見える瞽女と巡業を始めます。長岡組出身のサヨは、もと三条組出身のハルを下方下方と馬鹿にします。長岡組は男と酒の座に就いたり、男の盛る盃に口をつけることも許されず、三条組・白根組・新津組・新潟組の下方の組は金さえ出せば男を持つことも許されていました。旅中でハルはサヨに陰部を杖でめった刺しにされる暴行を受けても師匠に黙って唄い続けます。ハル22歳のときに師匠・サワが38歳で逝去。妹弟子で盲目のハナヨ12歳を抱えて途方に暮れるハルは、「親方無しのはみだし」「下方のあまり」と馬鹿にされる長岡の瞽女組織を出て、最初の師匠・フジの弟子で目の見えるキイに弟子入りをして巡業に出ます。まもなく23歳のハルは、師匠のキイから革張りの三味線とべっ甲の撥を許されます。

「搾取される親方」
 34歳のハルは独立して親方になります。かつての師匠・サワの友人で盲目の瞽女・長谷川スギと組んで、盲目のハルエとシズエ、目の見えるテルヨならびにミドリの妹弟子を伴って巡業に出かけます。ところが、仲間宿としていたスギの夫の60歳近い按摩仲間らがテルヨとミドリをそそのかし妾にします。ミドリが他所に嫁入りしたのを見届けたハルはテルヨを養子として、按摩師・仙吉と正式に結婚させます。スギらと巡業に出ては、夫の按摩仲間にご飯炊きをするテルヨのもとに稼ぎを運びます。仙吉の元妻に家を明け渡すと、仙吉の按摩仲間らとともに女川に移ってスギらと巡業に励みます。39歳のハルはテルヨとの同居を諦め、長岡に戻って天理教の教会に身を寄せます。天理教信者の瞽女と巡業して稼ぎを女川に送ります。やがてアメリカ軍の空襲で大工町の瞽女屋敷が焼失。廃業を余儀なくされる瞽女が相次ぐ中、ハルは盲目の瞽女セツと目の見える少女キミを引き受け、相変わらず稼ぎを女川に運びます。59歳のハルは出湯の華法寺に身を寄せ、女川の仙吉と正式に縁を切り、セツと一緒に家と畑を借りてキミを養女にして楽しく暮らし始めます。やがて74歳のハルは『葛の葉子別れ』を唄い納めて三味線を置きます。「ものの哀れを尋ぬれば  芦屋道満白狐 変化に葛の葉子別れを 事細やかには読めねども 粗々読み上げ奉る」(『葛の葉子別れ』)

-『次の世は虫になっても : 最後の瞽女小林ハル口伝』(桐生清次 著/ 柏樹社1981年)
-瞽女唄ネットワーク

「花の活ける力の経験は私自身の第2の誕生と言ってもよいでしょう。」
"The experience of the power of flowers is my own second birth."

飯田 深雪 女史
Ms. Miyuki Iida
1903-2007
新潟県妙高市(旧 新井市) 生誕
Born in Myoko-city(Arai-city), Nigata-ken

飯田美雪女史は料理研究家ならびにアートフラワー創設者です。
Ms. Miyuki Iida is a culinary researcher and the founder of Art Flower.
*******

「花が友達」
 美雪は平壌に病院を開く医者であり芸術に造詣が深く食道楽であった父の影響を受け、幼児より洋式の生活に親しみます。深雪の生母は埼玉県の下蕨(しもわらび)に300年続く豪族板倉家の出で深雪をお姫さまのように大切に育て、田舎の出ながら常上華族に見習いに勤めた深雪の継母は深雪に行儀見習いはじめ料理を教えます。深雪は旧家の大旦那である祖父についてまわって先々で和食・洋食のご馳走にあずかります。幼少期の深雪はお手伝いさんに見守られながら、古い屋敷の中で落ち椿をつないだり、木蓮の樹の下で実を集めたり、門外の菜の花道を歩いたりして、花を唯一の友達として育ちます。大きくなるとレストランのシェフに家庭出張してもらったり、この頃はじめて出版された西洋料理の本を手本に料理に熱中します。

「神経症」
 やがて外交官の夫と結婚。アメリカ・イギリス・インドなどで暮らしながら、不幸な結婚により立ち上がれないような心の苦しみを抱きながらも、料理を研究したり造花を製作し始めます。まもなく敗戦、深雪は廃墟と化した東京の家の焼け跡に呆然と立ち尽くします。戦後の混乱で財産を失ってバラック小屋生活を始める深雪は、ある日、神経症に苦しみながらビロード生地で赤いけしの花をつくります。幼い日を過ごした故郷の土蔵の傍らの木蓮、門外の野原で駆けめぐったスミレやタンポポ、ツクシやレンゲの花々、ロンドンの家で育てたラベンダーや木苺、ヒマラヤ奥地の雪の谷間からあでやかな紅の石楠花の大木が無数の花をくす玉の様に咲かせる壮観な姿を思い浮かべながら、黙々と布で花を作り続けるうちに花の生きる力と希望を取り戻します。

「アートフラワー」
 深雪は海外の文化経験を活かして料理や菓子を復興局へ売って生計を立てます。続いて知人の子女等を対象に自宅から西洋料理教室とアートフラワー教室を開きます。評判になると戦後NHKテレビ「今日の料理」に草創期から講師として出演。日本における西洋料理の普及に力を尽くします。アートフラワーは、絹や木綿などの布を染めこてを使ってつくりあげる柔らかくて優しい花で、各国元首夫人を魅了します。イギリスエリザベス女王2世来日の際に迎賓館内の国賓御私室をアートフラワーで装飾、モナコのグレース王妃から招待されモナコ国営展示場で大規模な展覧会を開催。フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章シュバリエを授与されます。100歳を超えても精力的に料理やマナーなどの講演を続けます。

-深雪アートフラワー Miyuki Art Flower
-『偽らざる心の歩み』(飯田 深雪 著 海竜社1981年)

山本 ごい 女史

Ms. Goi Yamamoto

1700頃 - ?

新潟県長岡市 生誕

Born in Nagaoka-city, Niigata-ken

山本ごい女史は長岡地方の瞽女頭となって、格式と規律を重んじる瞽女集団を統率、江戸から明治にかけての長岡瞽女の繁栄の基礎を築きました

Ms. Gozen Yamamoto became the leader of the blind female performers in the Nagaoka region, guiding a group of blind performers who upheld formality and discipline. She laid the foundation for the prosperity of blind female performers in Nagaoka during the transition from the Edo period to the Meiji era.

*******

山本ごいは長岡藩主・牧野氏の息女、照姫として生まれます。生まれつき目が不自由だったため、生まれを隠して家老の山本家へ養女に出されます。成長したのちに牧野家から土地扶持米を給せられて長岡の柳原町へ分家、牧野家ゆかりの地域の古志・三島・刈羽・魚沼・頸城五郡内などの瞽女頭となって格式と規律を重んじる瞽女集団を統率していきます。通称を「山本ゴイ」と定め、その後の代々の山本ゴイは長岡系の多数の瞽女の中から、全盲で品行端正の老齢者が選ばれ受け継がれます。「山本ゴイ」を頂点に親方資格を得た師匠が自宅で弟子を取るという、茶道や華道に見られる家元制度をが作り上げられます。瞽女の弟子入り修業は年期制で二十一年、男子禁制化粧またおしゃれ厳禁・年功序列などの制約また掟があり、違反すると年期を戻されたり仲間から外されます。説経系・祭文系・心中物・情事物・滑稽物・風刺物・唱導物・義太夫・長唄・端唄・常磐津・清元・新内・各種のはやり唄・民謡・万歳・門付け唄など、お客に所望されて何でも歌えるよう師匠から厳しく唄の稽古をつけられます。瞽女の主な稼業は「門付け」で、目明きの手引きに先導され列をなして村々町々を渡り歩き、昼は民家の戸口戸口に立って唄を歌って米銭を乞い、夜は泊まり宿で近所の人たちを相手に好みの唄を披露して代償を得ます。瞽女の巡業地また瞽女宿は先祖師匠から開拓された数十年来の縁故をもち、甲信の一部から関東一円・東北の福島・山形・秋田・宮城まで及びます。特に農村地方では瞽女に対する民間信仰が篤く、瞽女は安産・子育て・治病・生業増産の信仰の対象として大切にもてなされます。瞽女は人々に・綿の種に麦の種に蚕棚の蚕に向かって唄い、もてなす人々は瞽女のもらい集めた米を煮て食べたり、瞽女の着物をもらって着たり、瞽女の使い古した三味線糸を結びつけてお守りにしたり、薬にして飲んだりします

-新潟県立歴史博物館 Niigata History Museum

-新潟日報 Niigata News

「新しい東京を建設する者は吾等である。家や街が新しいばかりでなく其処に住む人の心が新しくありたい。今流行語の新しい人でなく真の新しい人、新しい溌剌たる精神に充たされた人。永遠より永遠にいますキリストを内に持つ人。」
"We are the ones who will build a new Tokyo. We want not only new homes and new towns, but also new hearts for the people who live there. Not just new people as a trendy term, but truly new people, with a new and lively spirit. The one who has Christ in him from eternity to eternity.”

高橋 久野 女史
1871 - 1944
新潟県佐渡市 生誕
Born in Sado-city, Nigata-ken

高橋久野女史は日本初の女性牧師。佐渡教会・青山教会・足洗教会にて献身的に伝道に従事する一方、東京の青山女学校・台湾の淡水高等女学校の教壇に立って女子教育に生涯を捧げました。
Ms. Kuno Takahashi is Japan's first female pastor. While devoting herself to evangelism at Sado Church, Aoyama Church, and Senzoku Church, she also taught at Aoyama Girls' School in Tokyo and Tamsui Girls' High School in Taiwan, dedicating her life to the education of girls.

「米騒動」 
 久野は佐渡河原田造り酒屋を郵便局を経営する裕福な家系に生まれます。幼少のころから寺の住職から手習いを受け、分家の漢学者・高橋又二郎と婚約します。又二郎のすすめで上京した久野は明治女学校と東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)で学びます。度々帰郷して富士見町教会に通うようになっていた久野は、米騒動で実家また親戚の家が五千人もの人々に襲われるのに遭遇します。兄・元吉は町長や県会議員を勤め、甥・又三郎は自由民権運動に従事していました。卒業して帰郷した久野は富士見町教会の牧師・植村正久より洗礼を受けます。河原田小学校で教職についた久野は復二郎と結婚生活を始めますが、まもなく夫は急逝してしまいます。

「伝道」
 号泣して2年を過ごした久野は再度上京して、青山学院女子部の国語教師を務めながら、夏季休暇には郷里の富士見町教会で日曜学校・礼拝を献身的に手伝い、青山教会や洗足教会の設立に貢献します。40歳を過ぎると、植村正久が起こした牧師養成学校・東京神学社(東京神学大学の前身)へ入学。
2年の研鑽の末に富士見町の伝道師に就任します。良家の子女の家庭教師をして生計を立てながら、婦人伝道会を設立して黒い和服に身を包んで家庭訪問・病人の見舞などの奉仕を行い、台湾・満州・米国西海岸の伝道に赴きます。 関東大震災の翌年、久野は53歳で日本基督教会の教師試検に臨みます。

「キリストを内に持つ人」
 久野は「婦人の正しき権利と位置はキリスト教においてのみ認めらる」と論じ、「新しい東京を建設する者は吾等である。家や街が新しいばかりでなく其処に住む人の心が新しくありたい。今流行語の新しい人でなく真の新しい人、新しい溌剌たる精神に充たされた人。永遠より永遠にいますキリストを内に持つ人。」と説教します。女性伝道師となった久野は富士見町教会・洗足教会での伝道活動に熱心に取り組み、62歳で佐渡伝道教会の主任伝道師として按手礼を受けて日本初の女性牧師となります。島中の農村をくまなく駆け巡り伝道に献身した久野は70歳で牧師を辞任、戦時下の台湾台北で伝道活動に苦心する養子・恭次郎のもとに赴いて淡水高等女学校で教壇に立ち続けます。

-お茶の水女子大学
-東京神学大学
-日本基督教団佐渡教会
-日本基督教団洗足教会
-青山教会
-青山学院
-私立淡水高等女學校 - 臺灣記憶- 國家圖書館

富山県 Toyama-Ken

「お年寄りも障害者も誰も排除しない」
"Nobody excludes the elderly or people with disabilities."

惣万 佳代子 女史
Ms. Kayoko Soman
1951 -
富山県黒部市生地町 生誕
Born in Kurobe-city, Toyama-ken

惣万佳代子女史は日本で初めて、高齢者・障がい者・児乳児が一緒に過ごす共生型福祉施設を開設。今では市民はじめ行政の賛同を得て「富山型デイサービス」と呼ばれ全国に展開しています。
Ms. Sayoko Soman established Japan's first inclusive welfare facility where the elderly, people with disabilities, and young children can spend time together. This model of care, known as the "Toyama-style Day Service," has gained support from both citizens and local authorities and has expanded nationwide.

*******

「畳の上で死にたい」
 佳代子は富山県黒部市生地町に生まれ、富山赤十字高等看護学院を卒業後、富山赤十字病院に看護師として20年勤務します。内科病棟、小児病棟、内科病棟で息を引き取る患者を何人も看ます。患者は人工呼吸器などいろんな機械に管理され、医師や看護師、家族までも心電図ばかりを見ているという不自然な光景に疑問を持つようになります。「これでいいのか。」入院患者は佳代子に泣いて訴えます。「自分の家ながにどうして帰れんがけえ。畳の上で死にたいと言うとるがに」一方、佳代子の母親は半年間の余命宣告を受けながら自宅の居間にベッドを置いて、孫たちに囲まれながら15年間一緒に暮らしました。

「地域の人を応援しよう」
 1993年富山赤十字病院を退職した佳代子は、同僚に声をかけて看護師3人でデイケアサービスの開設に向けて準備を始めます。「小さい頃は、地域にはちょっと違った人、いわゆる知的障害者とか、困った婆ちゃんもいて、近所の人たちも自然に付き合っていた。」「治療を目的とする病院では死は「敗北」でも、生活の場からみたら、老人の死は自然のことではないだろうか。」いつの間にか失われつつあるそうした地域の風景を取り戻すように、高齢者だけでなく子どもや障がい者などの誰もが利用できる施設を目指します。「そうだ、地域の人を応援しよう」。

「このゆびとーまれ」
 早速、設立資金準備段階で壁にぶつかります。行政の補助金を申請すると「高齢者か子どもか障がい者か、どれかに絞らないと補助金の対象にならない。」銀行に融資を申し出ると「病院を退職しているので融資はできない。」そんな中、事業に賛同する商工会議所の後押しで国民金融公庫から資金を借り、佳代子たち3人の退職金の一部をつぎ込んで、富山県で初めての民営デイケア ハウス「このゆびとーまれ」開設にこぎつけます。1日の利用料は2500円(食事込み3000円)。まわりの特別養護老人ホームの約5倍。最初の申し込みの電話が入ります。重い障がいをもった3才児の母親で、「この子が生まれてから一度も美容院に行ったこと がない。今日、パーマをかけてきます」

「このゆびとーまれ」2
 利用者の少ない日々が続く中、富山県内はじめ全国から寄せられた寄付金で運営をまかないます。1998年NPO法成立を受け、「このゆびとーまれ」も富山県ではじめてのNPO法人認証を受けます。マスコミにも取り上げられ注目される中、富山県から全国で初めて高齢者と障がい者の壁を打ち破って年間360万円の補助金交付を受けます。2000年介護保険制度が施行すると、NPO法人「このゆびとーまれ」も介護保険制度の指定業者になり、1日の利用料1300円程度(食事・入浴・送迎込み)を実現、利用者は徐々に増えます。或る日、町内会から一人暮らしの認知症のお年寄りを「施設に入れて欲しい。困っている。」お年寄りが地域で一人暮らしができるように佳代子たちが支援をはじめると、地域住民も送迎のための道を除草また除雪するなど手伝い始めます。「やがて、おら達も体が弱ってもずーっと家でねばるちゃ。」

「はたらくわ」
 2006年障害者自立支援法の施工後に開所した就労継続支援B型「はたらくわ」は福祉推進特区として認められ、全員が他のデイサービス施設で働いています。B型就労の工賃(給料)の全国平均は月に平均1万6,500程度のところ、はたらくわの工賃(給料)は月に4万~4万5,000円。「障害年金と合わせて自立できる額」「作業のための作業でなく、日常生活に役立つ仕事」を確保するために佳代子らは模索しながら奔走します。2015年、佳代子は赤十字国際委員会よりフローレンス・ナイチンゲール記章を受章します。
老人たちは「この子達といると気が晴れる」「子どもに見られていると思うと、背筋を伸ばし、 シャンとして歩く」。子供たちはたくさんのお年寄りの死を怖がらずに見送り、施設で働く障がいをもつお兄ちゃん・お姉ちゃんたちと遊び、迎えに来た保護者たちは「将来こんなふうに働いて役に立てたらいいね」と子どもに語りかけます。

-デイサービスこのゆびとーまれ Konoyubitomare-Daycare Service
-富山型デイサービス -Toyama-Daycare Service

「私が尊敬する人は、ガンジーとタゴール、親友はネールと李徳全女史」
``The people I respect are Gandhi and Tagore, and my best friends are Nehru and Ms. Lee Dek-quan.''

高良(旧姓:和田) とみ 女史 
Ms. Tomi Kora / Wada
1896 - 1993
富山県高岡市桜馬場 生誕
Born in Takaoka-city, Toyama-ken

高良(旧姓:和田)とみ女史は日本ならびにアジアの平和運動の先駆者。心理学研究者・平和運動家・戦後初の女性国会議員として、女性解放と平和運動を実践しながら、日本・アメリカ・インド・ソ連・中国はじめ世界にのびやかに多彩な活動と交友の輪を広げました。
Ms. Tomi Kora (maiden name: Wada) is  Pioneer of the peace movement in Japan and Asia. As a psychology researcher, peace activist, and the first female member of the Diet after the war, while practicing women's liberation and the peace movement, she freely expanded her circle of diverse activities and friendships throughout the world, including Japan, the United States, India, the Soviet Union, and China.

「英語の武器」
 北陸有数の桜の名所を有する桜馬場に、とみはアメリカ帰りの土木技師官僚である父・和田義睦と、婦人運動家である母・邦子の長女として誕生します。父の転勤に伴って宮崎・新潟・東京・群馬・兵庫など転居を繰り返しながら誰とでもすぐに友達になれる溌溂さを身に付けます。県立第一神戸高等女学校(後の兵庫県立神戸高等学校)に入学すると、神戸教会で洗礼を受けます。「世界中どこへ行っても世の中がどんなに変わろうとも役に立つ」と母に助言され日本女子大英文科に進学します。勉学に励む中で、とみは一生を決定づける出来事に遭遇します。はじめにコロンビア大学で心理学Ph.Dを取得した原口鶴子の葬儀に参加して、アメリカで心理学を学ぼうと決意します。続いて、軽井沢での夏季修養会に参加して成瀬仁蔵校長が招待したラビンドラナート・タゴールの説く平和活動を志します。

「飢餓と戦争」
 アメリカに留学したとみは原口鶴子の博士学位論文「心的疲労」を指導したコロンビア大学ソーンダイク教授(E. L. Thorndike)のもとで心理学の基礎を学んで修士号を取得すると、飢餓と戦争の関係を研究するためにジョンズ・ホプキンズ大学のリクタ ー(P. Richter)教授のもとで実験を重ねて博士論文 "An experimental study of hunger in its relation to activity(飢餓状態の体と心理の活動についての実験的研究)" を書きあげph.D博士号を取得します。とみは旅行先のヨーロッパで、婦人国際平和自由連盟大会に出席して女女性平和運動家であるジェーン・アダムズたちと交流を深め、第一次世界大戦後のウィーンの飢餓と貧苦の姿について日本の雑誌また新聞に記事を寄せます。

「女性平和運動」
 帰国後、とみは九州帝国大学医学部精神科に帝国大学発の女性教員(助手)に着任。4年ほどで助教授に推薦されると東京大学教授・美濃部達吉の強硬な反対にあい、母校・日本女子大学家政学部の教授に就任。15年にわたって女子教育に従事します。戦時色が強くなる中、とみは女性の自立による平和をめざして女性平和運動家ジェーン・アダムズの来日講演に奔走したり、日本の婦人参政権獲得運動に参加、インドならびに中国の婦人平和会議の実現に奔走します。さらに、非暴力による和解と平和の実現を目指して新渡戸稲造が設立した日本友和会に参加すると、上海で魯迅と会談、インドのダゴールとマハトマ・ガンジーを訪問して日本と中国での平和講演を依頼、ダゴールの来日公演を手配します。

「鉄のカーテンと竹のカーテン」
 日中戦争が勃発すると、とみは夫で精神科医の高良武久また3人の娘にさえも恐ろしいほど暗く不機嫌になって、銃後を守るべく戦争協力に転じます。やがてとみは大政翼賛会を離脱、母校の教授職を辞任、良心的兵役拒否「石賀事件」で憲兵隊本部で連日の尋問を受け、疎開先の家を憲兵隊に没収されて敗戦を迎えると、平和活動を再開。呉市の非公式市長助役として占領軍との折衝はじめ復興予算獲得に活躍。翌年には参議院に当選して、日米安全保障条約に反対票を投じます。インド・ネルー首相に招待されて世界宗教者平和会議に出席、ローマ法王に面会して戦犯の減刑を請願、国交成立前のソ連に渡って国際経済会議に日本代表として参加・シベリア日本人捕虜と面会、国交回復前の中国に渡って日中民間貿易協定を締結・在華邦人の帰国交渉を牽引。日本婦人団体連合会を結成させて副会長に就任したとみは、12年の議員生活を終えてもなお世界各地の平和会議に精力的に参加してまわります。

-「非戦を生きる 高良とみ自伝」(高良とみ 著 / ドメス出版1983年)
-日本女子大学成瀬記念館
-日本友和会
-日本婦人団体連合会(婦団連)

石川県 Ishikawa-Ken

天野 文堂 女史

Ms. Tnnobundo

1896 - 1952 

石川県輪島市 生誕

Born in Wazima-city, Iashikawa-ken

「男ができることを女ができないことはない」

"There is nothing that a man can do that a woman cannot do."

天野文堂(本名 住谷わかの)女史は情熱と技術の鍛錬によって女性で初めて沈金の彫りの道を切り拓いた、日本女性初の輪島漆芸作家です。優れた画技と雅趣あふれる沈金の作風で、輪島漆芸女性作家として初めて日展の特選を受賞。

Ms. Amano Bundo (Wakano Sumiya) is a pioneering figure in Japan as the first female artist to venture into the art of sunken gold carving through a combination of passion and skill. She was a renowned Wajima lacquer artist. With her exceptional painting technique and the elegant style of sunken gold carving, she became the first female Wajima lacquer artist to receive the prestigious award at the Nitten Exhibition."

*******

「女はノミを持つな」 わかのは輪島女児尋常高等学校を卒業後、男性が絶対的優位性をもっていた輪島漆器界に入って、沈金師・坂上藤太郎のもとに弟子入りします。輪島塗は分業制で、木地職人、下地職人、塗師と、多数の職人の手を経て作られ、漆を塗っては研ぐ作業を繰り返すことで、漆特有のつやが出て、美しい輪島塗ができあがります。輪島塗は下地が厚く、器の表面に沈金ノミで絵柄を彫り込み、溝となった部分に漆を接着材として塗り重ね、金箔や金銀粉また色粉を沈めて、模様を描き出す「沈金」が発達します。当時、沈金の世界では女の仕事は箔置きと決まっていましたが、わかのは彫りを望み、女性には創造性が無いという封建的慣習を打ち破って1年後には師匠からのみを持つことを許されます。「新境地」 親方が死去すると、日本画を学んだ雅趣あふれる沈金の作風で知られる、藤井観文の門弟となります。彫りの技術をみとめられて最初からのみを持たせてもらいます。6年間修業を積み、年季が開ける3年後に、蒔絵師・天野三郎と結婚。師匠観文の厳しい指導と夫三郎の温かい理解のもと、沈金と蒔絵の技術の総合化を試み新境地を開きます。家庭や出産・育児の役割分担を一方的に負わされる制度的制約を打ち破って、わかのは師匠から「文堂」号をもらい、28歳のとき輪島漆器業界で女性としてはじめて弟子をとります。35歳のとき帝展初入選以来入選を重ね、戦後は日展で活躍、特選を受賞します。

-石川県輪島漆芸美術館 Wajima Museum Urshi Art

「意識せぬうちに男性の中に女性の人格への軽蔑また無関心がもぐり込んでいる。女性自身の消極的女性蔑視の醸す害毒は人々の持てるよきものをも窒息させて尚余ある。」
"Unbeknownst, contempt or indifference toward the feminine personality has subtly infiltrated within the male consciousness. The toxic effects stemming from passive denigration of women stifle the inherent goodness that people possess for even more harm to flourish."

高橋 文 女史
Ms. Fumi Takahashi
1901 - 1945
石川県かほく市木津 生誕
Born in Kahoku-city, Ishikawa-ken

高橋 文 女史は日本女性初の哲学者です。戦争による国家主義・民族主義が高まる中、叔父の哲学者・西田幾多郎の影響のもと日本とドイツの相互理解に努めながら、個人の人格レベルでの男女不平等観について研究しました。
Ms. Fumi Takahashi is the first female philosopher in Japan. Amidst the rise of nationalism and militarism due to the war, influenced by her uncle, the philosopher Ikutaro Nishida, she dedicated herself to promoting mutual understanding between Japan and Germany. Simultaneously, she conducted research on gender inequality at the individual level.

「結婚よりも勉強」
 ふみは6人きょうだいの真ん中に生まれ、幼いころから「私は木津の学校から金沢の学校に行き、東京の学校へ行き、それから外国の学校に行く」と宣言します。父・由太郎は織物業・羽二重工場を営み村長を務めるなど裕福な名士で、母親・すみは「善の研究」などで知られる哲学者・西田幾多郎の妹。ふみは良家の娘として地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学。なりふり構わないさっぱりした性格で、思ったことは何でもずけずけ言う男勝りぶりで強烈な印象を残しながら、百数十人いた卒業生の中で唯一女子大に進学します。とはいうものの、父親はすでに逝去しており、花嫁修業を求める母をふみは半年かけて説得。「女は結婚しても苦労するし勉強を続けるのもそれ以上に厳しい。同じ苦労をするのなら勉強を続けたい。」と独身を通す決意を貫きます。

「男尊女卑」
 ふみは横須賀の姉宅に身を寄せ受験勉強に励み、設立2年目の東京女子大学高等学部へ入学を果たします。ふみははじめ国文学科に所属するも叔父・幾太郎を度々訪ね薫陶を受けると、母校に哲学科を創設させます。さらに25歳のふみは叔父・幾太郎のすすめで、唯一女性に哲学の門戸を開く東北大学法文学部・哲学倫理学科に進学します。母性保護論争に始まる女性の労働問題また教育問題について活発に議論が交わされる中、ふみは東北帝国大学を卒業すると宮城県立女子師範学校の嘱託講師を2年間務めるも再び上京。羽仁もと子が創立した自由学園の国語教師として教壇に立ちます。5年間勤める中で、ふみは男女共学を推進する座談会に熱心に参加します。「女性と男性の精神構造の中に「男尊女卑」という考え方が存在する。」

「東西の男女不平等観」
 35歳のふみは日本を離れドイツへ向かい、ベルリン大学とフライブルク大学で倫理・哲学を学びます。ふみはハイデッガーのゼミに参加、最新の哲学・現象学を見出し実存主義の息吹を吸収します。ナチス統治下のドイツで、ふみはベルリンオリンピックで日章旗を仰ぎながら涙したり、下宿の婦人はじめ大学のゼミ仲間と様々なトピックについて熱心に討論します。日本でもドイツでも民族意識・国家意識が高揚する中で、ふみは叔父の著作を紹介してまわりながらも、ドイツと日本の文化・習慣の違いからくる個人の行動また感情の落差について、また夫婦の在り方・男女関係のありかたの著しい相違について論争してまわります。「何でもいいからドイツ文化を吸収したいが時間が足りない。人が公に話さないことについて知りたい。」

「アメリカの自由主義」 
 「日本の立場を正義化することはなかなか難しい。」ふみは叔父に手紙を送る一方、「叔父は学者としては偉いのかもしれないが、家庭をすっかり不幸に陥れている、人間としてはなっていない」日本人の男性の友人の前で叔父を批判すると逆に叱責されます。「そういう批評は女性的な角度からの批評で大きな眼でみなければ駄目だ。」ナチスによるズデーデン併合・ポーランド侵攻と世界情勢が切迫するなか、結核を患ったふみは3年半後に引き揚げ船で帰国します。東京の診療所に入院しながら、叔父の著書『真善美の合一点』と『形而上學的見地より見た東西古代の文化形態』をドイツ語翻訳します。やがて郷里で療養しながら希望者に叔父の『日本文化の問題』を講義します。ドイツの敗戦を聞いたふみは「ドイツはもうだめだ。元気になったらアメリカへ行こう」と家族友人に語り44歳で逝去します。

-西田幾多郎記念哲学館

福井県 Fukui-Ken

「鍛冶屋の長女」
 むめおは裕福な鍛冶屋の長女として生まれます。低賃金と長時間労働で苦しむ機織り工場で働く女工たちがあふれる町で、むめおは教育熱心な父・和田甚三郎のもと『青鞜』創刊号はじめたくさんの本を与えられ、福井師範附属小学校、県立高等女学校、日本女子大学へ進学します。母・はまは封建的な家族制度のもとで忍従しながら生きた日本の伝統的な母親で、学問が無くとも家業を助け、使用人の世話をし、7人の子どもを産んで33歳の若さで早世します。むめおも幼少期から朝暗いうちから夜遅くまで使用人とともに家事労働に従事します。女子大では図書館で哲学書を読みふけり、寮生活で料理の腕を上げて先輩・小橋三四子の『婦人週報』の料理記事担当として手伝います。

「賃金奴隷からの解放」
 卒業後のむめおは、鎌倉で豪農の娘の家庭教師の仕事に就きながらお寺で座禅体験三昧。東京へ戻ったむめおは、無政府主義や労働問題、哲学や人芸術論などの学習会に参加。むめおは郷里で挨拶を交わしていた女工たちに深い関心を寄せるようになり、『労働世界』の記者として横浜の富士瓦斯紡績工場への潜入。幼い少女たちが大きな機械にひきづられて立居眠りしながら徹夜で作業する様子などを発表して、「賃金奴隷」である労働・職業婦人の解放を訴えはじめます。24歳で詩人・奥栄一と結婚。翌年、同窓生である平塚らいてう、市川房枝、坂本真琴らと婦人団体・新婦人協会を設立。平塚と市川が運動から離れた後も、機関誌『女性同盟』の編集を引き継ぎ、子連れで国会議員に対する請願運動を継続。男子同様女子が政治集会に参加する自由と権利、ならびに花柳病男子は全治するまで結婚を禁止する法律を実現します。

「家庭奴隷からの解放」
 離婚をして母子家庭となったむめおは、政治活動に参加する暇もゆとりもない忙しく貧しい主婦たちに関心を寄せるようになります。「家庭奴隷」である無産家庭婦の開放を目指し、消費生活協同組合の新居格や産業組合の千石興太郎から消費組合運動などについて学びはじめます。28歳のとき「職業婦人社」をあらたに旗揚げ、雑誌『職業婦人』(後に『婦人と労働』『婦人運動』と改題)を発刊。女性が自由に社会活動また社会形成に参画できるように、家庭生活・消費生活の合理化・共同化のための最新情報をかみ砕いて紹介します。都市中間層の中産階級から地方の一般無産階級の女性まで、女性運動の羅針盤また購読者同士の交流のよりどころになります。続いて「婦人消責組合協会」を立ち上げ、今まで婦人運動でなおざりにされてきた家庭婦人の日常の問題、物価値下げ、不正商品の摘発、児童福祉、母性保護、学校教育の改善、税制改革、社会的福利施設の増設などの解決を目指します。

「働く婦人の家」
 戦時下の勤労奉仕として女性たちが農村へ工場へ社会事業施設へ加わっていく中、むめおは託児所兼集会所『婦人セツルメント』(後の『働く婦人の家』)を設立。託児保育、こどもの健康指導、婦人の性教育・妊娠調節・授産指導、夜間女学部での家政はじめ学問また芸術講義、資格・職業斡旋、物資の共同購入、共同炊事・洗濯、懇親会、少年少女会、などの社会事業を全国展開します。勤労婦人たちの連帯と憩いと社会学習の「家」となります。敗戦後、52歳のむめおは第1回参議院議員通常選挙に出馬して当選。消費者のための省庁・「生活省」の設置を目指して3期18年務めます。議員活動の傍ら新団体「主婦連合会」の会長に就任。エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や『主婦の店』選定運動を全国展開。消費者・婦人運動を終生指導し続けます。

-『新女性の道』(奥むめお 著 / 金鈴社1942年)
-『野火あかあかと : 奥むめお自伝』(奥むめお 著 / ドメス出版1988年)
-主婦連合会 Association of Consumer Organizations

山梨県 Yamanashi-Ken

小川 正子 女史
Ms. Masako Ogawa
1902 - 1932 
山梨県東笛吹市(旧 山梨郡春日居村) 生誕
Born in Fubuki-city, Yamanashi-ken

「梅雨の洗った空気の様に、幾百の幾千の病者が流す涙、血族が流す忍苦の流涙の幾十年。それがすつかりと拭はれて、はればれとした日の、その日の夕映えの色が想はれてならなかった。」
"Like the air washed by the rainy season, the tears of hundreds, thousands of patients, the tears of blood relatives enduring pain for decades. All of that was completely wiped away, and the vivid colors of the evening sun on that day, on that day, were remembered."

小川正子女史は戦時下に国家事業である救癩事業の現場で活躍、女性として慈愛に満ちた手記『小島の春』を発表します。文部省の推薦図書に選ばれ、貞明皇后の「恩愛」の「代行者」とされ、長きにわたりブームならびに論争また闘争を巻き起こします。
Ms. Masako Ogawa played an active role on the frontlines of the state project during wartime, the leprosy relief program. As a woman, she published the compassionate memoir "Spring at Kojima." This work was selected as a recommended book by the Ministry of Education, positioned as a "proxy" for Empress Teimei's "benevolence and affection," sparking long-lasting trends as well as debates and struggles.

*******

「オジャッカビク」
 正子は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)で製糸業を営む素封家の四女として生まれます。父・小川清貴は200人を超える従業員を抱える養蚕工場を経営しながら山梨県会議員も務め、母・くには山梨師範学校ならびに東京女子高等師範学校を卒業した才女で子供たちを熱心に教育します。正子は幼少時から読書が大好きで、少女雑誌から新聞までトイレに中から鍵をかけて読破します。春日居小学校ではオジャッカビク(お転婆娘)として腕白小僧・片倉肇(後の有泉肇)と毎日けんかしながら過ごします。正子は甲府高等女学校に進学。数学の授業とテニス部また談話部で活躍しながら、クリスチャンの母親の影響で内村鑑三全集に没頭。卒業すると、尊敬する母親の勧めで遠縁にあたる一回り年上の樋貝詮三(後の第3次吉田内閣の国務大臣・賠償庁長官)と結婚します。

「どちらが先に世に出るか競おう」
 官僚の地位が上がるにつれ女関係が次々にできる夫を、正子は慣れない東京で体重また髪の毛の量を減らしながら夜遅くまで待ちます。「どちらが先に世に出るか競おう」およそ2年で協議離婚します。正子は妹の化学・物理学の教科書を借りて猛勉強をして、22歳で東京女子医学専門学校に入学を果たします。熱心なクリスチャンの級友・大西文子と一緒に歌舞伎や市ヶ谷教会へよく通いながら、5年間の学生生活を送ります。正子は、病院見学で訪れた東京都東村市ハンセン病療養所の多摩全生病院で、ハンセン病研究の第一人者である光田健輔と出会い、ハンセン病患者救済を決意します。卒業後、光田健輔を訪問するも開業できる腕になるまで修行するよう促され、東京市立大久保病院で内科と細菌学の臨床研究に従事、泉橋慈恵病院で小児科を担当します。1907年からハンセン病患者の絶対隔離を強制していた「らい予防法」

「長島愛生園」
 まもなく国立ハンセン病療養所として瀬戸内長島に長島愛生園が設立され、光田が初代園長に就任。正式辞令を受けた大西文子の後を追って、30歳の正子は手荷物一つで押しかけ翌日から医務嘱託として勤務します。「具合はいかがですか?」患者の手を取って知覚検査の針で皮膚を刺しながら誤って自分の皮膚を刺しそうになって妙な気持になったり、結節だらけの手で首へまつわりついてくる子供の患者に顔を曇らせて悔いたり、患者に笑いながらわざと勧められる菓子を一緒に食べられないことを反省したり、「畜生め!貴様たちは人間ではない鬼だ!」患者に殴りかかられ追いかけられ窓から逃げ出したり、独房で監禁処分を受けた患者を見回っては壁をつかみむせび泣く姿に同情したり、「崩れ行く肉体の中で死ねない生と絶望とが闘っているのだ」、神経痛でモルヒネ中毒の患者が備品を投げ壊して独房で監禁処分中に自殺したのを悼んだり、「汝は縊れて死にしかど生きてありけり」。

「小島の春 」
 不妊手術はじめ解剖が患者また家族の同意がないまま行われるのが当然だという意識の医療最先端の現場は男性に独占される一方、救癩事業の現場では女性の慈愛に満ちた活躍を大いに求めらます。「ライの伝染と予防思想を山の中に吹き込んでくるように」光田の命を受けた正子は地元の役人また巡査と一緒に、船でバスで徒歩で精力的に瀬戸内の島々また四国の山あいの村々を巡って、ハンセン病患者を説得して収容、残された家族はじめ住民を啓蒙、検診の記録を残し続けます。映画「夢に見る母」を上映して「癩病は血統ではなく伝染する。」「早期治療すれば完治する」と教え込み、「だから病気の人は病院に行かねばなりません。みんなして奨めねばなりません。」正子は絶叫します。「可哀そうだけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しく広い人類全体の幸福の為に、私は病気の父親を妻から子からその愛着から奪って連れて行かねばならなかった。」「そうして次の世代にはもう2度と悲しいこうして泣く人たちのない国を善い世界を皆が持つことのできる為に、この辛い仕事をして歩くのが私の使命なのだ。」

「長島事件」
 患者らが待遇改善や患者自治を求めて暴動が勃発(長島事件)。予算の倍の入所者を抱える長島愛生園は、入所者の食費を削る一方、施設内作業はじめ道路掘削作業など重労働を課し、治療を怠ります。「飯は米が三分に麦が七分で副食物は毎日イモに菜っ葉に、顔のうつるような味噌汁に玉葱かカボチャ。」「患者は社会から島に捨てにくる犬や猫を殺して食って仕舞ふ有様」「労働は強制的に朝9時から午後4時まで7時間労働」「病気が重くなったり、負傷して動けなくなると、国家の寄生虫だの、国賊だのと全くひどい待遇をする」事件を受けて、入浴も治療も行なわれない特別刑務所「特別病室(重監房)」が群馬県草津町に設置されます。そして、正子の敬愛する長島愛生園長・光田健輔の先導によって、日本は世界に先駆けてハンセン病患者を「絶対隔離」、患者は強制的に収容され強制労働を課せられ死ぬまで外に出られず、男性は輸精管を切断して生殖能力を奪われ(断種)、女性は強制的に中絶・堕胎されます。

「無癩県運動」
 これに京都帝国大学医学部皮膚科特別研究室の小笠原登は強硬に反対し、癩病はビタミンA・Dの補給など栄養状態の改善で予防でき完治しうると学会で主張、通院治療を実施します。光田健輔自身も「癩菌に抗抵する強弱は箇人的に千差万別である」ことを認め、医学的には絶対隔離が必要ないことを理解しながらも優生思想から絶対隔離に固執します。そんな中、36歳の正子は結核を発病、島で闘病生活を送りながら『小島の春 ある女医の手記』をまとめ上げます。園で診療のかたわら短歌を指導する医師・内田守の尽力により、長崎書店より出版されると著名人らから文部省推薦図書に選定され販売部数30万部を超えるベストセラーに。翌々年には映画化され大ヒットします。正子の小説は「無癩県運動」のプロパガンダとして活用され、小笠原の学説は政治的に葬りさられます。ハンセン病患者の偏見・差別を増幅させ、 残された家族は婚家からは離縁され、就職先からは解雇され、世間の白眼視に耐えかねて夜逃げ・一家心中も頻繁に起きるようになります。正子は印税をすべてハンセン病患者のために寄贈。40歳で郷里で療養に専念するも翌年死去します。

「感傷主義の終わり」
 皮膚科医師で文学者でもある太田正雄(木下杢太郎)は「らい病根絶の最上策は隔離ではなく化学的治療である。決して不可能ではない。『小島の春』を感傷時代の最後の記念作品として、感傷主義を終わりにしなければいけない。」と勇気ある発言をしています。1943年にアメリカで開発された治療薬プロミンが戦後から国内でも使用され始めると、患者たちはプロミンをすべての療養所の入所者が使えるように予算化を求め療養所の自治会の全国組織をつくります。日本は国際学会またWHOから解放治療・外来治療を何度も勧告を受ける中、小笠原の助手を勤めていた大谷藤郎の尽力により、1996年に「らい予防法」が89年ぶりに廃止、2001年には国家の損害賠償が認められます。正子の『小島の春』は、ハンセン病患者発の文学、明石海人『白描』、北條民雄『いのちの初夜』、藤本とし『地面の底がぬけたんです』、 塔和子『塔和子全詩集』、村越化石『村越化石自選八十句』、 中山秋夫『一代樹の四季』などと一緒に、偏見と闘争の遺産と記憶として語り継がれています。

-『小島の春』(小川正子 著 / 長崎書店1938年)
-『小川正子と『小島の春』』(清水威 著 / 長崎出版1986年)
-『隔絶の里程 : 長島愛生園入園者五十年史』(長島愛生園入園者自治会 編 /  日本文教出版1982年)
-小川正子記念館 Masako Ogawa Memorial Museum
-国立療養所「長島愛生園」歴史館  The National Sanatorium Nagashima Aisei-en


「我を信じる者は我が如きことを成さん」
-『ヨハネによる福音書』14:12
"Truly, whoever believes in me will do the works I have been doing."
-"John 14:12, Gospel of John"

古屋 登世子女史
Ms. Toyoko Huruse
1880 - 1970
山梨県甲府市桜町
Born in Kohu-city, Yamanashi-ken

古屋登世子女史は、日本女性初の通訳で女子英語教育家。結城無二三の長女。山梨英和女学校から東洋英和女学校に転じ、1902(明治35)年に文部省中等教育検定英語に合格。1917(大正6)年大阪に古屋英学塾を創始。近親者の裏切りによる塾乗っ取り・精神病院収監を乗り越え、25年間の英育事業の間に、国賓の英語通訳をしたり、英語劇の舞台に立ったり、ラジオで英語講座を始めたりしながら女性の社会進出を引っ張ります。
Ms. Toyoko Furuya is the first female interpreter and a pioneer in English education for women in Japan. She was the eldest daughter of Ninzo Yuuki. She transferred from Yamanashi Eiwa Jogakuin to Toyo Eiwa Jogakuin, passing the Ministry of Education's English proficiency test in 1902 (Meiji 35). In 1917 (Taisho 6), she founded the Furuya English School in Osaka. Overcoming the takeover of the school and confinement in a mental hospital by close relatives, she led the way for women's social advancement throughout her 25-year English education career. During this time, she served as an English interpreter for state guests, performed in English plays, and even initiated radio English programs.

「新選組参謀長の娘」
 登世子は3・4歳ころから分厚い大学の書を抱えて兄と一緒に寺小屋の漢学講義に通います。「天の命ずる~之を性と謂う~」昼間は先生について子守歌でも歌うように漢文を読み上げ、夜は二尺差しを構える母の横で声を張り上げ復習と予習を詰め込まれます。6歳から通い始めた村の小学校ではキリスト教を叩き込まれます。「神は天地の主催者にして、人は万物の霊長なり。」夜は父が話す古今の武勇伝に熱中します。9つになると、登世子は次々に子供を産み育てる母を手伝って流行りの編み物の内職をはじめます。登世子の両親は甲府で放牧を手飼いして牛乳屋を営みながらキリスト教に帰依、兄弟は宣教師の支援によって山梨英和学校・女学校ならびに東京の東洋英和学校・女学校に入学を許されます。

「白蓮と村岡花子の先生」
 登世子は東洋英和女学校で厳格なピューリタン生活をしながら、寄宿舎で怪談話に興じたり、週末は兄と一緒に様々な著書を読み漁ります。卒業後、兄は国民新聞の記者に採用され、登世子は金沢市のミッションスクール、母校の東洋英和女学校、高知県立高等女学校で教鞭を執ります。教え子に若き日の白蓮・村岡花子が並びます。英国夫人矯風会ストラウト女史の通訳で東京・関西・九州を回るなど、充実した日々を送るも結核に伏します。医者からも見放される中、療養中に訪れた木曽福島の森の中で、私塾を開いて育英事業に余生を捧げようと決意。まだ英語熱の低い大阪天王寺の破れ工場を改修して「古屋女子英学塾」の看板を掲げます。外国人への日本語教授、雑誌への寄稿を運営費にあて、中学教頭を務める夫に家計を支えてもらいながら、英語の他のあらゆる科目を受け持ち、タイプライター、編み物、聖書、春の七草摘み、すき焼き実習など膝を交えながらの寺小屋英語塾から最初の6名を送り出します。

「日本初の女性通訳者を襲う悲劇」
 まもなく登世子は大阪新聞社から依頼され、基金募集で来阪した熊本回春病院のミス・リデルの講演通訳を、さらに米国女流飛行家ルース・ロー夫人の同時通訳を依頼され阪神中を回ります。続いて大阪放送局といっしょにラジオの英語講座を全国に先駆けて開始。さらに坪内逍遥の高弟で気鋭の演出家・古川利隆氏を招いてシェイクスピアの講義・英語劇の指導を始めます。すると大阪でも英語教育が過熱、「古屋女子英学塾」は夜間部を設ける盛況ぶりに、登世子は無理が高じて入院します。それでも登世子は新校舎を建て、「雙葉英語会」を市内の各所に設立、教え子を教師に派遣します。ある日、歴史家グリフィス氏の夫人と会場に移動する走行中の車から転げ落ちた登世子は、仕事を全うできなかったことを恥じて通訳業を引退。再び結核はじめ内臓の病で倒れ闘病する中、夫が逝去。登世子は体に鞭打って、再び英国飛行家ブルース夫人の通訳はじめ英語塾での指導を始めます。その矢先、信頼する兄妹ならびに理事会のメンバーに「古屋女子英学塾」の財政を掌握され、登世子は大阪大学石橋分院精神に病室に強制収監されます。

「北京へ」
 登世子は毎日薬を投与され朦朧としながらも、病院内外に味方を見つけます。精神病院を退院した登世子は、設立者変更届の不正な公正詔書・塾長交代の捏造文書ならびに証人を探し出し、大阪地方裁判所に契約無効と貯金通帳・校舎物件・学生名簿また成績表などの引き渡し請求の民事訴訟を提起します。日を経月を淳々と重ねた法廷尋問の末、和解朝調停により「古屋女子英学塾」を3年ぶりに取り戻します。登世子は丸髷をバッサリ切り、国際都市・神戸に進出、ガイド・通訳者養成の方向に転換を計ります。思わぬ人気を呼び、夜間は銀行会社員のためのビジネス会話、アメリカ日系2世のための日本語教室を開講するも、英語の先生が升で計れるほど増えてきた神戸を後にします。登世子は手に心に日章旗を振りかざし、北京へ飛び立ちます。

-『狂乱から復活へ』『苦闘10年』『女の肖像』古屋登世子 著

「正しい瞑想をして愛と平和の人になって。」
“Make sure you meditate properly and become a person of love and peace.”

相川圭子女史
Ms. Keiko Aikawa
1945 -
山梨県甲州市 生誕
Born in Kouhu-city, Yamanashi-ken

相川圭子女史はヨガ・瞑想指導の世界第一人者。女性で初めて究極の悟り(サマディ)に達した世界に2人の「ヒマラヤ大聖者」。「ヨグマタ(ヨガの母)」として、世界各都市で愛と平和の輪を広げる運動「ワールドピースキャンペーン」を推進中。
Ms. Keiko Aikawa is the world's leading yoga and meditation instructor. There are two Himalayan great saints in the world who are the first women to reach ultimate enlightenment (samadhi). As a ``Yogmata (mother of yoga),'' she is currently promoting the ``World Peace Campaign,'' a movement that expands the circle of love and peace in cities around the world.

「普通の女になりたくない」
 圭子は7人兄弟の末っ子として生まれ、農家の母子家庭で育ちます。勉強好きで地元の工業高校に入学、就職しても辞めて大学に行き直します。「何者かになりたい。技術を身に付けたい。」まもなく結核にかかったことをきっかけに、踊りにヨガに体を動かすようになります。すると探究⼼に火がついて関節の動かし方や呼吸法のひとつひとつをほとんど独学で勉強。続いてボディーワーク・健康法・⾃然⾷・ヒーリング・心理学・精神分析などインド・チベット・中国・アメリカなどの道場で本格的な研究に取り組みます。

「真理を知りたい」
 圭子はプラナディヨガ(ソフトヨガ)やヨガダンスなどを考案し「相川圭⼦総合ヨガ健康協会」を創設。評判が評判を呼んで、東京はじめ全国のNHK⽂化センター・読売⽇本テレビ⽂化センターなどでヨガの教室を開講また監修・指導を⾏い、本を書くようになります。やがてテレビの取材で来⽇したインドで最も⾼名なヨガ・瞑想の指導者パイロット・ババジに出会い、ヒマラヤ修⾏に招待されます。体を治すありとあらゆるテクニックを学んで柔道まで習おうとしていた圭子はヒマラヤ行きを決意します。

「サマディ」
 圭子は⾼度5000mを超える氷河近くのヒマラヤの奥地で、伝説の⼤聖者・ハリババジのもと命を賭けた幾多の厳しい修⾏に挑みます。太陽・月・音・光などの修行を経て、瞑想秘法伝授(ディクシャ)を受けた圭子は、身体の動きや心理を一つずつチェックして研究するのではなくて、自分が愛を持つことで皆が癒される、究極の悟り(サマディ)にたどりつきます。さらに7年間ヒマラヤ秘境の洞窟でサマディを深め、完全に密閉された神聖な地下窟に72〜96時間とどまる公開サマディを毎年実施して人々を祝福します。

「愛と平和の人」
 インド政府ならびに聖者協会から「シッダーマスター」「ヨグマタ(ヨガの⺟)」の尊称を受け、インド最⼤の霊性修⾏の協会「ジュナ・アカラ」より、最⾼指導者の称号「マハ・マンダレシュワル(偉⼤なる宇宙のマスター)」(仏教でいう⼤僧正)を⼥性として史上初めて授与された圭子は、国連で瞑想の指導をしながら、世界各都市で愛と平和の輪を広げる運動「ワールドピースキャンペーン」を推進中。「個人の国の社会のカルマを見つめて気づいて愛で理解して溶かして空っぽになれば、違いにこだわらない調和の取れた世界になる。一人一人が自分の中に静寂と調和と愛を取り戻していくと、世界は平和になる」

-『慈愛に生きる-ヒマラヤ大聖者 相川圭子自伝』(相川圭子 著 / 中央公論新社2022年)
-『Short Cut to Nirvana: Kumbh Mela』(アメリカ映画2004)

長野県 Nagano-Ken

「あはれ蒙古の土に我が蒔きし日本の草花の数々は、今も同じ色香に匂うらんものを。願わくば永久に栄えて、日本の色香に蒙古を飾りてよ。」
"How touching it is that the Japanese flowers I planted in the Mongolian soil still seem to bloom with the same colors and fragrance. I hope they will flourish forever, adorning Mongolia with the charm of Japan."

河原 操子 女史
Ms. Misako Kawara
1875 - 1945
筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)
Born in Matsumoto-city, Nagano-ken

河原 操子 女史は、中国とモンゴルで女子教育を創始した日本の女性教師。下田歌子のもと清国上海で務本女学堂を、善坤王妃のもと内蒙古カラチンで毓正女学堂を創設。女子教育に従事するかたわら、日露戦争の最中に諜報活動にも従事。
Ms. Asako Kawahara was a Japanese female educator who pioneered women's education in China and Mongolia. Under the guidance of Shimoda Utako, she worked at Muto Girls' School in Shanghai, Qing Dynasty China. Later, she established Yuzheng Girls' School in Kalachin, Inner Mongolia, under the patronage of Princess Zhenkun. In addition to her work in women's education, she was also involved in espionage activities during the Russo-Japanese War.

「日支親善」 
 操子は父・忠と母・しな子の長女として誕生。河原家は祖父の曾一右衛門以来、代々藩儒をつとめ、父の忠は松本藩で子弟に教えていましたが、廃藩置県により失業。私塾を開いて漢学を教え、板場支校(四賀)に招かれて教師となります。裁縫を教えていた母を14歳で亡くすと、後妻を娶らず孤独を守り通す父から「国家百年の計は教育にあり、国を富ますも、強くするも、根本は教育だ」「日本と支那とが互に手を握り合わなければ、東洋の平和は得られない」という教えを受けて育ちます。加えて、近所に住む父の幼馴染・福島安生からはシベリヤ単騎横断の話を聞かされ「日支親善」に感化されます。操子は11歳で開智学校4年に編入、16歳で長野県師範学校女子部に進学。長野で小学校に勤めるうちに日清戦争が始まると、操子は中国理解のために学問を希望して、21歳で県知事推薦を受けて東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学します。しかし勉強の無理がたたって体をこわし、翌年に中退。郷里の父のもとで静養して回復すると、24歳で新設された長野県立高等女学校で教職に就きます。

「下田歌子」
 操子25歳のとき、日本の女子教育界の第一人者・下田歌子が講演旅行で諏訪を訪れます。歌子は早くから中国問題に関心を寄せ、革命家の孫逸仙また西太后と交流、北京語の研究会を創始、自身が創設運営する実践女学校で中国人留学生20名を受け入れ、清国派遣女教員を養成、東洋婦人会を創立していました。操子は憧れの下田歌子を旅館まで訪ね、清国で女子教育に従事したい希望を伝え助勢を嘆願します。まもなく歌子の推薦で横浜の清国人居留民子弟のための大同学校(名誉校長は犬飼毅)に赴任。教壇に立ちながら、放課後に鐘教頭から北京語を学びます。操子は清国の女生徒たちから信頼を得るようになると、清国の家庭事情を見聞してもっと理解を深めたいと考えるようになります。「家庭にて非常に勢力を有する婦人たちと、女同士の親交を重ね」「内外協力して国運の伸長と人類の平和を増進せばや」。2年後には再び歌子の推薦で、清国上海の務本女学堂に初めての日本女性教師として赴任します。清国で初めてできた女学校で、8歳の幼児から30歳の母親までの入学者45名と、操子は寝食を共にして上海語で語り合いながら熱心に指導します。纏足で縮められた足で運動が思うようにできない女生徒達は、操子の大きな足を羨むようになります。

「コードネーム・沈」
 日清戦争後の日本では、対露戦に備え情報収集に力を尽くします。歌子と中国駐日公使の推薦を受けた28歳の操子は、父から贈られた懐剣と、参謀本部の軍人を伴って、9日間のラバ轎の旅を経て内蒙古(モンゴル)の喀喇沁(カラチン)王府に到着。善坤王妃と共に新設した毓正女学堂の教師に就任します。王妹と後宮の侍女、官吏の子女60名の女生徒たちと、日本語、蒙古語、漢語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌、体操の教育活動に従事。語学に堪能で勉強熱心な女生徒たちに、西洋列国ならびにロシアの脅威を教え込みます。翌年、日露戦争が始まると、操子はカラチン王府内の親露勢力の動向を探る諜報活動に従事。しかし秘密通信をやり取りしていた横川省三また沖禎介ら特別任務班はシベリア鉄道爆破に失敗して処刑され、操子の後任として考古学者・鳥居龍蔵の妻・鳥居きみ子が赴任します。日露戦争が終結すると、操子は毓正女学堂の女生徒を伴って4年ぶりに帰国。何薫貞・干保貞・金淑貞の3人を実践女学校に留学させると、自身は横浜正金銀行ニュ―ヨーク副支店長・一宮鈴太郎と結婚して渡米します。晩年、かつて北海道札幌試験場から贈られて操子が植え付けた撫子の花が、カラチン王宮で今でもかわいらしく咲いていると伝え聞きます。「あはれ蒙古の土に我が蒔きし日本の草花の数々は、今も同じ色香に匂うらんものを。願わくば永久に栄えて、日本の色香に蒙古を飾りてよ。」

-『カラチン王妃と私:モンゴル民族の心に生きた女性教師』(河原操子 著 / 芙蓉書房1969)

「私はただ私として生きて行きたいと思うのです」
"I just want to live as myself."

松井 須磨子 女史 
Ms. Sumako Matsui
1886 - 1919 
長野県長野市松代町清野 生誕
Born in Nagano-city, Nagano-ken

松井須磨子女史は日本初の新劇女優であり、日本初の美容整形女優、日本初の歌う女優、日本初のスキャンダル女優の異名を持っています。新劇の大衆化ならびに新しい女の道を開きました。
Ms. Sumako Matsui holds the distinction of being the first western-style actress in Japan, as well as the first actress known for undergoing cosmetic surgery, being a singing actress, and being involved in scandalous affairs. She helped popularize shingeki and paved the way for new women.

*******

「信州の山から来た女」  
 須磨子(本名・小林正子)は士族の父・小林藤藤太と母・いしのもと九人兄妹の末っ子として生まれます。6歳の時に用品店を営む長谷川家の養女となって上田尋常高等小学校を卒業。器量が良いわけでも学業ができるわけでもなく、負けず嫌いで勝ち気でよく暴れて同級生の女の子を泣かせる「ずない女」。養父が亡くなったため実家に戻ると、実父も遺言を残して亡くなります。「東京に出ることだ。」17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学します。すぐに親戚の世話で千葉県木更津の旅館兼小料理屋・鳥飼万蔵と最初の結婚をするも、病気がちを理由に舅に疎まれ1年で離婚。さらに万蔵から性病をうつされ病院通いをしますが、そこで家庭教師をしていた婚約者のいる東京高等師範学校の学生・前沢誠助と知り合い、略奪再婚。夫が東京俳優養成所の日本史の講師となったことから、正子も女優を志願するようになります。その頃、東京では新しい演劇「新劇」運動が興って女優解禁になり、演劇が最先端の芸術として注目されていました。「まあちゃんを女優に!」

「最先端の女」 
 正子は最先端の女になるべく坪内逍遥主催の演劇研究所に応募するも、美貌と学歴の欠如を理由に拒否されます。そこで正子は夫はじめ東京俳優養成所で教える夫の友人たちから指導を受け、さらに当時の最新美容整形技術である鼻筋に蝋を注入する隆鼻術を実行、逍遥に熱心さを買われ入所を果たします。「女優としては只たくましい体躯を採るべし」学期試験を落第するも夫の嘆願で復帰、毎日納豆かけご飯と鯛焼きだけで稽古に明け暮れます。2年の修養期間を経て『ハムレット』オフェリア役に抜擢、25歳で松井須磨子として帝劇デビューします。家事を放棄して稽古に明け暮れ、口論の末に夫を追い出すと、「大衆なくして芸術なし」をモットーとする演出家で早稲田大学教授で妻子ある島村抱月と一緒に『人形の家』の主人公ノラの役作りに没頭します。「思い切って小娘になれ」「天真爛漫に」評判になって地方各地で巡演を行って大絶賛されます。「先生、おしろいを頸に塗って頂戴よ、ねえー。」直後に島村抱月との不倫スキャンダルを起こし、恩師逍遥はじめ仲間を裏切って演劇研究会を解散に追い込みます。「須磨子は全く僕のノラでマグダだ!」

「新しい女」
 2人は沢田正二郎を加えて芸術座を旗揚げすると同棲生活をはじめます。須磨子は誓約書を交わして抱月に妻との離婚を迫ります。須磨子は『復活』のカチューシャ役で劇中で接吻・抱擁を披露。劇中歌『カチューシャの唄』は大ヒット。続く『生ける屍』の劇中歌『今度生まれたら』は文部省による猥褻発禁レコード第一号を記録。須磨子は座員たちを口汚く罵って喧嘩が絶えない上に、抱月が他の座員の育成に取り掛かると妬みからさらにわがままを言ったり他の役者を罵倒します。スペイン風邪で抱月が体調を崩すと須磨子は泣いて入院を反対します。「家の人たちが来て自分は仲を裂かれる!」抱月が急逝すると、須磨子は通夜の席で抱月の妻を指差してののしり、また抱月の娘たちが芸術座へ生活費を受取りに来ると門前払いにして水を浴びせようとします。須磨子は松竹合同会社の大谷竹次郎に自分を売り込みに行ったり、妻子持ちの翻訳脚本家の楠山正雄を頼り始めたり、混乱に陥った芸術座は解散。「煙草のめのめ室まで燃やせ どうせこの世が癪の種 煙よ煙ただ煙 一切合切みなけむり」カルメンを演じた須磨子は抱月の後を追います。自由奔放に生きる須磨子は女性達の既存の常識・道徳意識を大きく揺さぶり、新劇の大衆化ならびに新しい女の道を開きました。

-新国立劇場 National New Theater Tokyo
-『随筆・松井須磨子 : 芸術座盛衰記』川村花菱 青蛙房 1968年

防須 俊子(旧姓 相馬 俊子)女史
Ms.Toshiko Bosu / Ms. Toshiko Soma
1898 - 1925
長野県安曇野市穂高 生誕
Born in Azumino-city, Nagano-ken

防須 俊子(旧姓 相馬 俊子)女史は、相馬愛蔵・黒光の長女でインドの亡命志士ラス・ビハリ・ボース夫人。画家・中村彝「少女裸像」「少女」のモデル。
Ms. Toshiko Hosu (maiden name: Toshiko Soma) is the eldest daughter of Aizou Soma and Kuromitsu and the wife of Rash Behari Bose, an exiled Indian patriot. Model for painter Takashi Nakamura's ``Nude Girl'' and ``Girl.''

「母親の身代わり」
 俊子の両親である相馬愛蔵・良夫妻は信州穂高村から上京、東大赤門前のパン屋・本郷中村屋を買い取り、「クリームパン」「クリームワッフル」発売して大ヒット。次々に新製品を発売しながら、食堂や喫茶室などを開設して店を拡大します。敏子は穂高村に残され子供のいない叔父夫妻に溺愛されて暮らします。父・愛蔵は養蚕業のため春と秋に郷里に戻るものの、母・良は農村での生活を嫌って東京から戻りません。商売が軌道に乗って新宿に本店を移す頃、ようやく敏子も上京。女子聖学院に入学して寄宿舎に入り、週末の金曜日に帰って両親のところで暮らす生活を始めます。

「家父長的母親」
 両親と同郷の気鋭の彫刻家・荻原守衛(碌山)は、ニューヨークまたパリ留学を経て新宿西口にアトリエ「オブリビオン(忘却庵)」を建てて創作活動のかたわら、新宿中村屋に毎日通って店を手伝ったり子どもの世話を買って出たりしながら、若い文士・芸術家たちが集う一大サロンを形成します。母・黒光は自分を「かあさん」「シスター」と呼ばせ、若い芸術家たちを「ブラザー」といって馴れ親しみます。碌山の「文覚像」「デスペア」「女」は傑作と評価される一方で、父・愛蔵の不倫に失望する母・黒光への碌山の苦しい思慕が世間で噂されるようになります。まもなく母・黒光の轟惑的な振る舞いに絶望した碌山は吐血して他界。「寸分も身動きが出来んよ、追い詰められたよ」新宿中村屋の奥の壁を真っ赤にします。俊子は体調を崩し寝込む母・黒光を看病します。

「悩み荒ぶる娘」
 碌山が後輩の為に店の裏に建てたアトリエで、敏子は新進の画家・中村彝のモデルをつとめるようになります。敏子は週末に帰ってくると彝のアトリエに直接向かって掃除をして花を生けて彝のモデルをつとめた後、中村屋の表口に回って黒光に「ただいま」と言います。俊子がモデルの「少女裸像」は東京大正博覧会美術展で、半着衣の「少女」は第8回文展で物議を醸すものの大好評。まもなく彝が結核にかかると、母・黒光は敏子と彝を遠ざけます。俊子は駆け落ちの計画を母・黒光に白状すると、「彼に走るのか家に留まるのか2つのうちどちらを取る」二者択一を迫られた俊子は泣きながら「家から出るようなことはしません」。俊子は女子学院に進学して寮生活を始めます。「一体お母さんはいつでも物欲しそうな顔をしているのが嫌いだ。」彝は中村屋の外にアトリエを構え俊子の来訪を待ち続けます。

「母親の犠牲」
 インドからの亡命したラス・ビハリ・ボースが中村屋にかくまわれ、英語が堪能な俊子が連絡係に選ばれます。数か月後経った頃、敏子は世話役の頭山夫妻はじめ両親からボースに嫁いで身辺を守るよう打診されます。1か月思案した挙句「行かせてください」。犬養毅と後藤新平を保証人として、頭山邸で盃ごとをして直ぐに潜伏生活を開始。外部からの襲撃に備えて、なるべく高い塀の陰とか崖の下とかうす暗い家を求め、1年経つと夜の間にこっそりと他に移るという風で6年間で17回転居。母・黒光が自宅を解放して朗読会・演劇を催して文学・演劇・政治の支援活動に精を出す間に、敏子はほとんど太陽を見ることなく昼も夜もボースの身辺を守りながら正秀と哲子を出産します。第1次世界大戦が終結して日英同盟廃棄されると、ボースは大使館に出頭して日本に帰化。青山隠田に太陽の光が十分に入る家を建て健康的な生活をはじめる矢先、敏子は肺炎に倒れ28歳で逝去します。

-新宿中村屋
-『黙移』相馬黒光 法政大学出版局 1977年
-『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』中村屋 1968年

岐阜県 Gifu-Ken

女性の清らかな徳性とゆたかな情操をもって社会の弊を正し、広く世人に至福をもたらせ」
"With their pure virtues and rich emotions, women can rectify the ills of society and bring happiness to people in the world."

下田歌子 女史
Ms. Utako Shimoda
1854 - 1936 
岐阜県恵那市岩村町 生誕
Born in Iwamura-machi, Enashi-city, Gifu-ken

下田歌子女史は日本の女子教育の先覚者です。彼女は明治天皇の皇后に明治の紫式部と称えられ、華族女学校の教授と学監に就任。さらに女性の自立自営をめざして、一般女子のための私立実践女学校(現在の実践女子大学)また女子工芸学校、さらに勤労女子のための夜間学校を設立。さらに学校に通うことのできない女子に対する通信教育事業を開始。その後も裁縫学校や夜間学校を各地に設立するなど、毀誉褒貶に動じることなく新しい時代の女子教育に一生を捧げました。女学生用制服の海老茶袴、メイポールダンス、自転車、体育を取り入れました。
Ms. UtaKo Shimoda is a pioneer in women's education in Japan. She was hailed as the "Murasaki Shikibu of the Meiji Era" and served as a professor and superintendent at a noblewomen's school. Furthermore, she aimed to promote women's independence and self-employment by establishing the private Jissen Women's School (now known as Jissen Women's University) and the Women's Craft School. She also founded a night school for working women and started a correspondence education program for girls who couldn't attend school. Undeterred by praise or criticism, she dedicated her life to modernizing women's education. She incorporated maroon hakama, Maypole dancing, bicycles, and physical education into the female students' uniforms.

*******

「明治の紫式部」
 歌子は進歩的な学者である父・平尾鍒蔵と、母・房子との間に長女として生まれ鉐(せき)と名付けられます。儒学者である祖父・東条琴台は藩学と袂を分かち江戸に去り、勤王運動を支持する父は藩から蟄居謹慎の咎めを受け家禄は停止。家計は苦しく、鉐は幼い時から糸引きや縫い物などの内職はじめ家庭菜園で野菜づくりで家計を支えながら、同時に祖母また母から読み書き・和歌・俳句・漢詩・日本画・薙刀を習います。10歳の鉐は、男子が次々と藩校に入学する中、藩校の窓外から講義を聞きます。時代は江戸から明治へと移り、父は上京して明治政府に出仕、鉐は家族と晴れて上京を果たします。「綾錦 着て帰らずば 三国山 またふたたびは 越えじとぞ思ふ」。祖父・琴台ならびに父はじめ宮内省歌道御用掛である八田知紀のもとで和歌・漢学・古典などの教養に磨きをかけた18歳の鉐は、八田の推挙を受け女官として宮中へ出仕します。貧乏学者の娘ながら、まもなく優れた歌才を昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜り、 宮廷で和歌を教えるようになります。「手枕は 花のふぶきに 埋もれて うたたねさむし 春の夜の月」。

「桃夭女塾」
 宮中の歌子は、昭憲皇太后の学事に陪席しながら、加藤弘之ならびに福羽美静に和漢洋学を、フランス人セラゼンにフランス語を、御書物掛として数々の貴重な書籍に学びます。25歳の歌子は周囲から惜しまれつつ宮中を辞し、剣客として知られる下田猛雄と結婚します。ところが夫はまもなく胃病を患い、長く病床の人に。歌子は看病のかたわら自宅で上流子女のための『桃夭女塾』を開講。当時の明治政府高官の妻の多くは芸妓や酌婦であり正統な学問のない彼女らに国文漢学の講義・習字ならびに和歌の指導に力を注ぎながらも、アメリカ留学から帰国したばかりの津田梅子を英語担当教師として迎え入れ、自らも英語を学びます。生徒数5・60名を数えるようになる頃、夫が病死。30歳の歌子は塾の実績と皇后の推薦により、上流女子教育機関として開設された華族女学校(後の学習院女学部)の教授ならびに学監に就任。宮中の袴をもとに歌子が考案した海老茶色の女袴は女学生の制服としてあこがれの的になります。

「ビクトリア女王」
 39歳の歌子は明治天皇の皇女ご教育係の内命を受け、2年間にわたって欧米諸国の上流階級はじめ一般の女子教育また家庭教育のありかたをつぶさに視察して周ります。英国王室の女子教育を視察したい歌子は、ロンドンで下宿して私立女学校に通い英語を猛勉強、上流階級との交際を重ねて女王女官との知遇を獲得。そして日清戦争での日本勝利のニュースが後押しして、歌子は垂髪袿袴でバッキンガム宮殿でビクトリア女王に謁見を果たし、女王の常住するウィンザー宮へ午餐を招待されます。王室女性の教育水準の高さと馬術・ボートなどの健康教育に驚き、工業化が進む社会で一般女性が職務に励む姿に目を見張ります。女子教育や生活習慣の基盤となっているキリスト教信仰の自主独立と慈善博愛の精神、家政学・看護学・生理学・自然科学など最新の学問、女性教育者の教育に対する高い理念に深く歌子は感銘を受けます。

「実践女学校」
 帰国後44歳の歌子は宮中の派閥争いに巻き込まれ醜聞を書き立てられる中、帝国婦人協会を設立。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」。これまで上流階級に偏っていた婦人団体を広く全国的な組織とし、一般女性に教養と自活の機会を授け、精神的自立・地位向上・生活改善をはかるべく全国を講演して周ります。翌年、機関誌「日本婦人」創刊。続いて、中流階級の婦女子育成を目的として実践女学校(現在の実践女子学園)および女子工芸学校を創立。裁縫伝習所(現在の新潟青陵学園)、順心女学校(現在の順心広尾学園)、明徳女学校、淡海女子実務学校(現在の淡海書道文化専門学校)、さらに各地で夜間女学校の設立に携わり、校長を兼任。大日本実修女学会を設立、「実修女学講義録」を刊行するなど通信教育事業を開始します。「私は今日の女性めいめいが、何んでもいいから自分で働くこと、働かねばならぬと信ずること、さういふ頭の生徒を作つてゆくことを、まづ第一の急務だと思ひます。」それでも「女性は艶麗であれ」。

-実践女子大学香雪記念館 Jissen Women's University Kosetsu Memorial Museum
-学習院女子大学 Gakushuin Women's College

「ジェンダー視点による労働問題の分析,それは21世紀における男女にとって,人間として尊厳ある生き方・働き方を追求する理論だ」

"Analyzing labor issues from a gender perspective, it's a theory that seeks dignified ways of working and living for men and women in the 21st century."


竹中 恵美子 女史 

Ms. Emiko Takenaka

 1929 - 

岐阜県大垣市 生誕

Born in Ogaki-city, Gifu-ken


竹中 恵美子 女史は日本における女性労働研究の第一人者です。

Ms. Emiko Takenaka is a leading expert in the field of women's labor research in Japan.

*******

 恵美子は太平洋戦争中に岐阜県立大垣高等女学校で「軍国少女の人生を変える僥倖」、教員から河上肇の『貧乏物語』の話を聴きます。経済学へ関心を持って大阪府女子専門学校(現・大阪府立大学)経済科に入学。近隣の男子学生とも議論を交わす中で、さらに大阪商科大学(現・大阪市立大学)経済学部へ進学します。「経済学とは金儲けの学問ではない,経世済民の学である」のもと卒業論文「男女賃金格差と男女同一労働同一賃金原則についての一考察」を書き上げます。 22歳で助手として採用され、女性労働研究の道を邁進し始めます。そんな中、恵美子は在日朝鮮人で歴史学者の姜在彦と結婚します。周囲の差別にさらされながら親戚家族の援助もなく、家事・育児・研究に奔走。一人の働く女性として結婚生活での男性と女性の役割・分業について葛藤しながら、それらをかたちづくる社会の問題に向き合います。恵美子は、無視され続けてきた女性の経験を労働問題として論じるために、非正規労働を多く占める女性の統計データを集めはじめます。西口俊子と一緒に、様々な仕事の現場で働く女性たちを丹念に取材し『女のしごと・女の職場』を共著で発表。雇用方法・勤続期間・ 仕事の種類・昇進方法など、女性労働者の実態・問題を明らかにして女性たちに衝撃を与えます。ならびに「男女賃金差別撤廃」を目指す労働組合運動また論争を盛り上げます。さらに恵美子は久場嬉子と一緒に女性の家事を調査、社会的に必要な家事労働として評価します。「見えない労働」で女性を労働市場から分離し抑圧してきた家父長制構造の弊害を明らかにするとともに、社会保障・社会福祉はじめワークシェアリングなど多様な社会システムの議論を広げています。

-大阪市立大学 Osaka City Univ.

-明石書店 Akashi Books Shop

-大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)Dawn Center

静岡県 Shizuoka-Ken

「私は、はじめて医者になってから男性を詛ひました。そしてわれながら世の男性が無情であり無反省な態度に憤慨もいたし、一面では家庭婦人の無智なのに驚きました。」

"I found myself cursing men for the first time after becoming a doctor. I found myself indignant at the heartless and unreflective attitudes of men in the world, while at the same time, I was astonished at the lack of wisdom in some homemakers."


吉岡 彌生 女史

Ms. Yayoi Yoshioka

1871 - 1959

静岡県掛川市 生誕

Born in Kakegawa-city, Sizuoka-ken


吉岡彌生女史は日本で初めて女性医師専門養成所・東京女医学校を創設(現在の東京女子医科大学)、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力しました。

Mis. Yayoi Yoshioka was the founder of the first women's medical school in Japan, the Tokyo Women's Medical School (now known as Tokyo Women's Medical University). She dedicated herself to the training of female physicians and the promotion of education and research in the field of medicine.

*******

「女性も男性と同じように社会に出て活躍できるはず」

彌生は遠江国城東郡土方村(現:静岡県掛川市)に、漢方医の父・鷲山養齋と、大家族の中で家事に追われる母・みせのもと9人きょうだいの二女として生まれます。女医第一号として活躍する荻野吟子に憧れ、彌生は医師を志します。父は猛反対、彌生はそれにめげることなく、医学校へ入学するための準備を独学で進めます。18歳のときにようやく父の許しを得て、兄達の通う医学校「済生学舎」に入学します。済生学舎は、医術開業試験(現:医師国家試験)を目指す女子が入学できる唯一の医学校でした。男子学生のいじめを跳ね返しながら21歳で内務省医術開業試験に合格。弥生は帰郷して大坂村と大須賀村(横須賀)にある父の病院の分院を手伝い、内科・外科から歯の治療までさまざまな患者を診ます。

「女性医師の道を閉ざしてはならない」

彌生はドイツ留学を目指し再び上京。本郷区東片町(現在の文京区)で開業のかたわら、私塾「東京至誠学院」でドイツ語を習います。そこで佐賀から上京してかつて医学の道を志していた同学院院長の吉岡荒太と結婚。彌生は病身の夫を支えながら、高等予備校の実務面はじめ、大学に行かずに医師を目指す人のための「医書独習講義録」刊行を手伝います。この頃、母校の済生学舎が、風紀を乱すという理由で女子の入学を拒否するようになります。この知らせを聞いた彌生は夫の協力のもと現在の千代田区に「東京女医学校」の看板を掲げます。医院の一室に粗末な机と椅子を並べた教室で、生徒はたった4人からのスタート。夫また郷里の父に支えられながら、7年後にようやく医師を送り出し、12年後に東京女子医学専門学校に昇格、20年後に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになります。

「医学医術は女性に適している職業である」

その一方で、女性の社会的地位を向上させるべく、さまざまな婦人団体に関わり、1928年ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席します。日中戦争開戦の年に女性初の内閣教育審議会の委員に任命され、太平洋戦争がはじまると国民精神総動員中央聯盟はじめ、婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員、大日本連合女子青年団長、大日本婦人会顧問などに就任。彌生はナチス政権化のドイツに渡って最新医学はじめ、家政倹約・母親支援・就労女性の子供の世話・病人看護・近隣互助活動など銃後の女性組織を積極的に導入しようとします。さらにナチス・ドイツ女医会と積極的に交流しながら戦時下での女性医師の地位向上を目指します。戦後は、戦争協力に指導的な役割を果たした廉で教職ならびに公職を追放され、戦争責任ならびに民主化実現を求める労働組合運動を受けて学内から去ります。まもなくGHQの赤狩りにより労働組合が解散に追い込まれると、1952年新制東京女子医科大学の学頭に就任。79歳で勲四等宝冠章。88歳で死去。遺体は遺言により解剖に付されます。

-掛川市吉岡彌生記念館 Kakegawa City Yayoi Yoshikawa Memorial Museum

-東京女子医科大学 Tokyo Women Medical Univ.

「音楽で大冒険」

"Hiromi’s Sonicwonderland"


上原 ひろみ 女史 

Ms. Hiromi Uehara

1979- 

静岡県浜松市生誕

Hamamatsu-city, Shizuoka-ken

上原ひろみ女史は日本で初めてグラミー賞を受賞したジャズピアニスト・作曲家です。超絶テクニック、エネルギッシュなライブパフォーマンスで知られ、世界中の様々なジャンルの音楽家と共演しています。

Ms. Hiromi Uehara is the first Japanese jazz pianist composer and awarded Grammy. Renowned for her extraordinary technique and energetic live performances, she has collaborated with musicians from various genres worldwide.


ハノンをスウィングして弾いてみたら?

ひろみは母のすすめで6歳よりヤマハ音楽教室に通ってピアノを始めます。ピアノの基礎練習ハノンに眠くなるひろみに、ジャズ好きの疋田範子先生は「ハノンをスウィングして弾いてみたら」。自分で和音をつけたりして遊ぶようになりま。さらに五線譜の上にじょうずにオタマジャクシを載せるようにして毎週1曲ずつ作曲を始めます。小学校の音楽会では音楽室の楽器をクラスメイトに振り分けてみんなを猛特訓、組曲「踊るポンポコリン」三部作をプロデュースします。高校時代は、エントランスホールに置かれたグランドピアノを独占。ホールに集まる友達のために即興でBGMをつけるように弾きます。

「セッションしよう!」

来る日も来る日もピアノを弾き続け、17歳のときに東京のヤマハまでレッスンを受けにいった先で、ひろみは同じビルのスタジオで翌日のコンサートのリハーサルをしているチック・コリアを見つけます。早速、スタジオに押しかけてオリジナル曲を披露。「じゃあ、即興しよう」スタジオにあった2台のピアノでセッション演奏をはじめます。そのまま翌日の彼のコンサートに誘われ、大手町の日経ホールで、聴衆の前で披露します。高校卒業後は大学に通いながらライブ活動を始めます。知人に誘われCM音楽を作るようになると、いろんな楽器について勉強するために大学を中退して渡米します。

「音楽の冒険」

ひろみはマサチューセッツ州ボストンのバークリー音楽大学でピアノを弾きながら作曲を猛勉強。英語がほとんど話せないひろみはピアノが弾けると友達ができるということを実感。世界中から集まってきた国籍も肌の色も違う人たちと24時間音楽漬けで過ごします。卒業試験の課題として提出した曲を作編曲科の先生が絶賛ジャズピアニストであるアーマッド・ジャマルの紹介を受け、ジャズの名門レコード会社「テラーク」からアルバム『Another Mind』で世界デビューします。さらに再会したチック・コリアとアルバム『Duet』を発表、ソロ・ピアノ作品『Place to Be』をリリース。2011年にはスタンリー・クラークとのプロジェクト作『スタンリー・クラーク・バンド フィーチャリング 上原ひろみ』で第53回グラミー賞にて「ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム」を受賞。その後も世界中の新たな仲間たちとピアノを弾き続けています。

-Hiromi Uehara WEB

-YAMAHA音楽教室

愛知県 Aichi-Ken

市川 房枝 女史

Ms. Fusae Ichikawa

1893 - 1981

愛知県一宮市中島郡明地村 生誕

Born in Itinomiya-city, Aiti-ken

「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」

"No peace without equality, no equality without peace"

市川房枝女史は日本の婦人参政権運動を主導者です。戦時中に戦争継続のための様々な銃後支援を女性たちに押しつけて公職追放女性第一号となるも、戦後参議院議員として金権政治の打破、女子差別撤廃条約の早期批准に尽力しました

Ms. Fusae Ichikawa was a leading figure in Japan's women's suffrage movement. During the wartime, she played a significant role in urging various forms of back-home support from women to sustain the war effort, which led to her becoming the first woman to be banned from public office. However, in the post-war period, she worked as a member of the House of Councillors to dismantle political corruption and strive for the early ratification of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women (CEDAW), working towards women's empowerment and gender equality.

*******

房枝は愛知県中島郡明地村に農家の7人きょうだいの3女として生まれます。父親は自分の生業の農業に否定的で子供たちに対して教育熱心。兄は小学校の教師から東京の政治学校の学生さらに米国大学の留学生に、姉は奈良県の女子師範学校生に、妹は名古屋市の淑徳女学校に進学。房枝は勉強嫌いで学校をサボることが多く、アメリカにいる兄を頼って単身渡米を試みたり、家業の農業を手伝います。三輪田高等女学校を受験するも不合格、近所の知人の口利きで女子学院を紹介され受験。矢嶋楫子面接で「手織りの着物に田舎丸出し」の房枝ほめ入学を許可します。房枝は祈祷会をさぼり、夕方からは国語伝習所に通って万葉集や十八史略などの講義を受けます。地久節に何ら行事を行わない女学院に不満、加えて上京する際に持参した生活資金も少なくなりアメリカの兄からの送金は途絶え、3ヶ月で退学して帰郷。15歳萩原町立萩原尋常小学校の代用教員として採用、勤務のかたわら準教員講習会を受けて教員に合格すると岡崎の愛知県第二師範学校に通い、さらに名古屋に新設された愛知県女子師範学校に移ります。新校長の良妻賢母教育に反発して同級生28名とストライキを実施、東京女子高等師範学校を受験するも不合格。朝日尋常高等小学校の訓導として教員生活を始めます。20歳のとき名古屋市第二高等小学校に転任、弟妹と3人で暮らし始めますが、闘病生活の上で退職。就職口を探してあちらこちらの講習会に顔を出しているうちに、哲学会を主宰する組合教会の牧師・金子白夢により洗礼を受けて日曜学校の教師に、また教会の縁をたよりに主筆の小林橘川を訪ねて24歳で名古屋新聞(現中日新聞)の記者になります。1年で退職して上京、兄の恩師である山田嘉吉の開く英語塾に通いはじめ、そこで出会った平塚らいてう、また奥むめをらと共に日本初の婦人団体新婦人協会を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。房枝が27歳の時にアメリカで婦人参政権が実現すると翌年に渡米ベビーシッターやハウスワークをしながらアメリカ各地の婦人運動、労働運動を見て回る中で、全米婦人党の指導者のアリス・ポールやキャリー・チャップマン・キャットと面会します。「女は女の問題に専心すべし。いろいろのことを一時にしてはいけない」アドバイスを受けます。帰国後、「婦選獲得同盟」に参加婦人参政権運動に専念します。戦時中、婦人に関する研究会を次々に発足して盛り立てていきます。しかしながら房枝は政治的発言権と引き換えに戦争遂行へ協力、「婦選獲得同盟」は「大日本婦人会」へ統合され国民統制組織「大政翼賛会」を中心とした翼賛体制に組み込まれます。房枝は「大日本婦人会」の審議員ならびに「大政翼賛会」調査委員会の紅一点の委員となり、さらに言論統制団体「大日本言論報国会」の紅一点の理事に就任、東条内閣のもとで一党独裁を目指す翼賛選挙運動に参加。「女子挺身隊」「従軍慰安婦」「産業慰安婦」「大陸の花嫁」「傷痍軍人の花嫁」「早婚多産」「優生手術」を奨励、「女性の自由」を批判・弾圧しながら戦争継続のための銃後支援を女性たちに呼びかけます。終戦後、連合国軍(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサー5大改革に「参政権賦与による日本婦人の開放」が盛り込まれ、まず勅令により治安警察法が廃止女性の結社権が認められ、さらに改正衆議院議員選挙法公布によって女性の国政参加が認められます。房枝は参院選の立候補を前にして、GHQにより軍国主義の廉で日本女性第1号の公職追放を受けます。婦人団体はすぐに追放解除を求める17万の署名を集めます。3年7か月後の追放解除で房枝は57歳でようやく解放され、日本婦人有権者同盟の会長に復帰。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」を提唱しながら、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組みます。1975年の国際婦人年には、全国組織の女性団体に呼びかけ「国際婦人年日本大会」を開催。さらに参議院議員として「金のかからない選挙・政治」を実行。国会において超党派の女性議員を組織して、国連の女子差別撤廃条約(Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women – CEDAW)の日本政府早期批准を求めて活動し続け、 87歳で逝去する2ヵ月前まで、プラカードを持ってデモの先頭に立ります。

-市川房枝記念会女性と政治センター Ichikawa Fusae Center for Women and Governance

「私は道場にただの習い事をしにきたのではありません。私が目指すのは、黒帯、世界初の女流柔道家なのです。」
"I don't come to the dojo just for a hobby. What I aim for is a black belt, the world's first female judoka."

「烈風に吹かれてもつれ月光にきらめく柳の風情を自分自身の身体で表現出来るようになろう」
``Let's be able to express with our own bodies the elegance of a willow tree blown by a strong wind and twinkling in the moonlight.''

小崎 甲子 女史
Ms. Katsuko Kosaki
1908-1997
愛知県名古屋市伊勢町 生誕
Born in Nagoya-city, Aichi-ken

小崎甲子女史は日本女性初の柔道の有段者(黒帯)で、女性初の柔道錬士。武徳会において男性と同じ条件で昇段試験を突破、追って講道館も初段を授与。柔道のジェンダー概念を覆す快挙は、女性柔道家の道を切り開きました。
Ms. Katsuko Kosaki is the first woman in Japan to achieve a dan rank (black belt) in judo and the first female Judo Renshi. She successfully passed promotion examinations on equal terms with men in the Butokukai organization, and later, Kodokan awarded her the rank of Shodan (first-degree black belt). This groundbreaking achievement challenged the gender norms in judo and paved the way for female judo practitioners.

*******

「柔道大学」
 甲子は名古屋市伊勢町(現在の中区丸の内)の美術商「清源堂」を営む父・小崎天大の次女として誕生。幼少期から活発で金城女学校在学中は様々なスポーツに打ち込みます。金城学院高等女子部を卒業後は実家の美術商にて家事手伝いをしながら、家事や稽古事を習いつつ縁談を待ちます。そんな折、古書店で偶然手に取った柔道の解説書『柔道大学』に感銘を受け、柔道修行を志します。最初は鶴舞公園の近くにあった大日本武徳会愛知支部の道場を稽古のない時間に借りて『柔道大学』を教本に一人稽古を行います。3か月程繰り返すうちに道場主に認められ、19歳で武徳会愛知支部への入門を果たします。武徳会愛知県支部は、一般の町道場とは違って全国大会での優勝者や柔道専門学校の卒業者も在籍し、近在の道場主や学校の体育の先生たちも集まるような、いわば専門家や名手の多い別格の道場でした。女性の相手は一人もおらず、紅一点で男性の間に只一人交じって修行を続けます。昼夜2部に皆勤し、新進気鋭の柔道家また大島耐二・長谷川泰一はじめ壮壮たる高段者の先生方の指導をどんどんお願いし、一寸の間休んで呼吸を整えるとまた次の練習に移ります。2年間の稽古を経て、さらに柔道に専従する意志を固くし、大阪府柔道連盟会長かつ天神真楊流師範にして『柔道大学』の著者・戸張滝三郎八段に手紙で弟子入りを請い、大阪の戸張の道場「尚武館」に内弟子として入門を許されます。昼間は戸張の経営する接骨院で下働きをしながら、夜間に他の門人と共に稽古に励みます。道場が休みの日にはその日稽古をしている町道場を訪ねては猛練習に明け暮れます。疲れという言葉は全く無縁で、一夜熟睡すれば爽快そのもの。

「柔道の虫」
 甲子は男性に混じって分け隔てなく乱取稽古などを行うことを認められます。茶色帯がぼろぼろになって芯の白地が勝ってきた頃、昇段の望みを抱くようになります。師の戸張は小崎の希望を酌んで大阪有段者会の会合はじめ中央の講道館に交渉に当たると共に、甲子は休みの日に積極的に他の町道場へ出稽古に赴くようになります。前代未聞の女性の柔道昇段試験に先生らも当惑した結果、甲子23歳のときに、武徳会大阪支部にて男性相手に男性と同じ基準での昇段審査を認められます。甲子は眠られぬ夜が続きます。「女性が力で頑張ったところでたかが知れている。」長いトンネルの遠方に小さな光をみつけます。「連続技だ。これよりほかに道はない。もう迷いはない。」それからは猛練習あるのみ。機先を制して相手の十倍も動き廻り、相手をきりきり舞いさせておいて最後に得意技で仕止めます。甲子は24歳5度目の挑戦で男性3名を破って大日本武徳会初段を認められます。女性として初の柔道黒帯取得者を許されると、うれし涙で黒帯がみえなくなりました。当時、柔道段位は講道館と武徳会の二か所から発行されており、東京で嘉納治五郎が開いた講道館も追って甲子に講道館初段を認可。講道館も否応なく女性の段位規則の制定を進めることとなり、芥川綾子と森岡康子が初段に、乗富政子が初の女子二段になります。29歳で甲子は師の戸張の後援を得て大阪市天王寺に道場「清源館」を開設、女性初の柔道道場主となり、31歳で武徳会から女性初の柔道錬士となります。父の死を受けて道場を畳んで名古屋に帰郷、母と共に2代目清源館ならびに清源館道場を開き、名古屋大空襲を乗り越え73歳で講道館五段。日本女子柔道会最高名誉顧問、愛知県柔道連盟参与などを歴任して88歳で逝去。「烈風に吹かれてもつれ月光にきらめく柳の風情を自分自身の身体で表現出来るようになろう」と「柔道の虫」になりながら、生涯を通じ1万人の教え子を育てます。

-武徳会 Dainippon Butokukai
-講道館 Kodokan
-International Judo Federation
-「柔道 53(3)」(講道館1982年)
-「柔道 50(11)」(講道館1979年)

三重県 Mie-Ken

吉田 沙保里 女史 

Ms. Saori Yoshida

1982 -

三重県津市 生誕

Born in Tu-city, Mie-ken

「そうなんです、自由なんですよ、私。」

"Yes, I am free."

吉田沙保里女史は世界大会16連覇、個人戦206連勝の記録を持つ、世界初の女子レスリング選手です。

Ms. Saori Yoshida is the world's first female wrestler with a record of 16 consecutive world championship victories and 206 consecutive individual match wins. 

*******

吉田沙保里女史は3歳から元レスリング選手の父親の指導の下、兄2人と共にレスリングを開始。小学生に入ってからは、休みはお盆とお正月の2、3日ずつだけで、平日も土日も休みは無く道場で練習するか、出稽古に行くか、試合に出るか、とにかくレスリング漬けの毎日。友達と遊べないのが嫌で、レスリングをやめたいと何度も思いつつも、吉田家は父親が言うことは絶対、逆らうことはできません。中学生の時にアトランタオリンピックで田村亮子選手が戦っている姿をテレビで観ていると、父から「いつかきっと、女子レスリングもオリンピック競技になるから頑張れ」、積極的に練習に打ち込む始め国際大会に出場するようになります。父親の選ぶ地元の高校また大学に入学、放課後は部活動の練習、帰宅後は自宅の道場で父親から指導を受けます。2002年レスリング世界女子選手権にて優勝、翌年全日本選手権にてライバルの山本聖子選手と延長戦を繰り広げ初めて勝利します。初めてレスリング女子が正式競技として採用されたアテネオリンピックの代表選考試合である全日本選手権でライバルの山本聖子選手に圧勝、2004年のアテネオリンピックで金メダルを獲得。以後「吉田沙保里のレスリング」で連勝記録を更新し続けます。2012年9月の世界選手権において、 男女通じて史上最多となる世界選手権10連覇および世界大会13大会連続優勝を達成、男子レスリング王者カレリン選手の 記録を更新します。2014年父の逝去の翌年、世界大会決勝戦でスウェーデンのソフィア・マットソンと苦戦の末に勝利。翌年のリオデジャネイロオリンピック決勝戦にて、ソフィア・マットソンを倒したアメリカのヘレン・マルーリスに逆転負け。世界大会の連覇記録は16連覇、個人戦は206連勝でストップします。現役を引退後はレスリング女子日本代表コーチに就任、後進を育てています。

-日本レスリング協会 Japan Wrestling federation

滋賀県 Shiga-Ken

「西方有國金銀爲本 目之炎耀種種珍寶多在其國 吾今歸賜其國」
"There are countries in the West whose foundation is gold and silver. There are many treasures that make your eyes shine. I now give them to them."

神功皇后 / 息長帯比売の尊 / 息長帯比売の天皇
370 - 470 頃
滋賀県米原市顔戸 生誕
Born in Yonebaru-city, Shiga-ken

 息長帯比売(おきながたらしひめ)こと神功皇后は日本初の女帝また摂政として約70年間最高権力者として君臨。仲哀天皇崩御後に皇后自ら将軍となって熊襲討伐・三韓征伐を主導。香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)たちを勦滅、実子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)を応神天皇として即位させ、自ら摂政となって国内外で政治手腕を発揮。卑弥呼から1世紀ぶりに中国王朝に遣使して「倭国王」を復活。朝鮮半島南部を軍事支配しながら大陸貿易を促進、鉄素材はじめ軍事物資・技術・先進文物を導入、30氏ちかい帰化人の専門家また技術者集団をとりまとめ日本列島を文明開化させます。
Okinaga Tarashihime, Empress Jingū, stands as Japan's first empress and regent, reigning supreme for nearly seventy years as the paramount authority. Following the demise of Emperor Chuai, she took the helm herself, leading campaigns against the Kumaso and expeditions to the Korean Peninsula. Empress Jingū orchestrated the demise of her own stepsons, Prince Kagosaka and Prince Oshikuma, and ensured the ascension of her son, Homutawake, as Emperor Ōjin. Empress Jingū, assuming the role of regent herself, showcased her political prowess both domestically and abroad. For the first time in a century since Queen Himiko, she dispatched envoys to the Chinese dynasties, thus reviving the title of "King of Wa." While exerting military control over the southern Korean Peninsula, she simultaneously fostered trade with the mainland, introducing various military resources, technologies, and advanced cultural artifacts, starting with iron materials. She consolidated a group of specialists and technicians from nearly thirty immigrant clans, She spearheaded the civilization and modernization of the Japanese archipelago.

「神懸りと熊襲征伐」
 卑弥呼の死後から約120年後、気長帯比売(おきながたらしひめ)は第九代開化天皇の4世の孫である父・息長宿禰王と、天日槍(あめのひぼこ)の5代の孫である母・葛城高額比売(かずらぎのたかぬかひめ)のもと長女として生まれ、幼少のころから聡明で容貌も美しく育ちます。やがて景行天皇の孫であり日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である仲哀天皇の皇后となります。
 朝鮮半島で大陸交易の同盟国である百済・伽耶の要請により大量の兵を派遣する一方、国内では新羅の後ろ盾を得た九州の熊襲の叛乱が勃発。皇后は仲哀天皇の九州の熊襲征伐に随伴、穴門豊浦(下関)に皇居を興します。すると新羅の塵輪(翼のある鬼のような人々)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せます。皇軍は大いに奮戦するも、宮内を守護する阿倍高麿・助麿の兄弟まで相次いで打ち死に、天皇自ら弓矢をとって交戦して撃退します。皇后は天皇ならびに皇軍とともに筑紫の橿日宮(香椎宮)へ移動して神託を行います。仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)として神の言葉を通訳します。皇后に神懸かり「西のほうに国がある。金銀をはじめ、目をかがやかせる種々の宝物が多くある。私がいまその国を与えよう。」仲哀天皇は琴を押し退けて答えます。「高いところに登って西のほうを見ても国は見えない。ただ大海だけだ」皇后に神懸かり「すべてこの国はお前の治めるべき国ではない。お前はこの世の人が行くべきただひとつの道、すなわち死の国へ行け。」武内宿禰が言います。「おそれ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」仲哀天皇は琴をすこし引きよせてしぶしぶ弾くと、まもなく琴の音が聞こえなくなり不思議なことに天皇は崩御。皇后は天皇の喪を匿したまま武内宿禰に豊浦宮で殯斂させ、自ら小山田邑(福岡県粕屋郡)につくらせた斎宮に入ります。吉備鴨別を派遣して熊襲征伐を続行。皇后自ら層増岐野で強健な熊鷲一族を討ちとり、さらに筑後川下流域の山門県で土蜘蛛族の女酋・田油津媛を討ちとります。

「大祓と三韓征伐」
 皇后は神をなだめるために国中で大祓を行います。豊浦の殯宮に坐して、更に國の大幣を取りて,生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸の罪(農耕・共同体社会の妨害)、上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚・の罪(反社会的な性関係)の類を種種求めて国中を清めます。そして武内宿禰を審神者として伴って再び神託を請けます。皇后に神懸ると「すべてこの国は皇后の御腹においでになる御子が治めなさい」「我らは住吉三神。あの国(新羅)を求めるならば、天地・山海河の神にもれなく幣帛を奉り、わが御魂を軍船の上に祭り、真木の灰をひょうたんに入れ、箸と皿を数多く作って大海に浮かべ散らしてから渡りなさい」。すぐさま皇后は西諸国から船舶と兵士を集め、軍規と褒賞を定めて士気を高めます。角髪を結って男装、妊娠中のお腹に石を当ててさらしを巻き(月延石・鎮懐石)、自ら斧鉞を取って将軍となり兵を率います。筑紫から玄界灘を渡り、軍の船団は海に満ち、旌旗は日に輝き、鼓吹の音山川をことごとく震わせながら山に登らんばかりの勢いで攻めます。新羅王は降伏、微叱己知波珍干岐を人質として差し出し、船の腹また舵を乾かすことなく、馬・馬繰り工人はじめ金・銀・彩色のもの、綾織・羅織・縑の絹、男女を八十艘の船に載せて貢ぐことを約束します。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、持っていた矛を新羅の王の門にたてて宗主の印とます。百済も直支王の人質はじめ七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上、朝貢を約束します。皇后は新羅に馬飼部(馬の供給先)、百済国に渡屯家のちの内官家(外交・交易部門)を定め、海表の蕃屏(海外の属国)とします。

「忍熊王との戦い」
 帰国後、皇后は筑紫・宇美で誉田別尊を出産します。仲哀天皇と大中姫命の長男次男である麛坂王・忍熊王らは、播磨・赤石に仲哀天皇陵を造営するとして、船団を編成して淡路島に乗り入れ、石を運び出す屈強な男達をもれなく兵に取り立てて皇后を待ち構えます。麛坂王・忍熊王ら東国の挙兵の動きを察知した皇后は、強健な西国の兵を集めつつ一計を案じます。御子は既に崩じてしまったとの噂を流し、葬船を仕立てて帰途につきます。軍勢が待ちうけるたところに到着した葬船から兵を降ろす意表をついて戦闘開始。まもなく武内宿禰や武振熊命を派遣して、皇后は崩御したとして偽りの和睦を申し出ます。皇后軍兵に弓の弦を切らせ剣を捨てさせます。敵軍が応じると、再び号令をかけて予備の兵器で反撃、逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追い詰め討ち取ります。都に帰還した皇后は、祝いの酒宴を催します。「この神酒は私は作らず、奇しき酒の司、常世に坐す少名御神が祝い狂い、祝ぎ回り、 進呈され届いた神酒です。飲み干しなさいませ。さあ。」建内宿祢命は返歌を詠みます。「この神酒を醸した人は、臼を鼓にして打ち、歌いながら醸したかも。 舞いながら醸したかも。この神酒で、まことに歌を楽しもう。さあ。」皇后は磐余若桜宮に遷都、誉田別尊を太子とし、自ら摂政となります。

「広開土王との闘い」
 新羅王は倭に使者を派遣して、 先に人質とした微叱許智伐旱の一時帰国を請わせます。皇后はこの申し出を受け入れ、武内宿禰の息子・葛城襲津彦を付き添いとして派遣するも、新羅の使者は密かに別の船で微叱許智伐旱を新羅に逃がします。やがて新羅は拝朝せず、高句麗の広開土王(好太王)の庇護を求めます。皇太后は葛城襲津彦を新羅に派遣、高句麗軍5万の騎馬兵に押され任那・加羅まで敗退するも、同盟国の安羅軍らが逆を突いて新羅の王都を奪取します。それでも新羅は倭国に朝貢せず、皇太后は葛城襲津彦(沙至比跪)を派遣すると、新羅が用意したハニートラップにかかり、あろうことか同盟国である加羅国を伐ちます。加羅国王は人民を率いて百済に亡命。皇后は木羅斤資を派遣、新羅と葛城襲津彦(沙至比跪)を討ち、兵を加羅に集めて国を再興します。再び高句麗の庇護を得た新羅は、今度は朝貢の際に百済の貢物を奪います。皇后は、将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣、ならびに百済の将軍木羅斤資・沙沙奴跪・沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を再び征伐します。続いて高句麗の領土の一部である帯方界に攻め入り、広開土王の5万の歩兵・騎馬兵と激戦を繰り広げます。比自㶱、南加羅、㖨国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七カ国を平定。さらに西方に軍を進めて、比利、辟中、布弥支、半古の四つの邑を落とします。

「倭国王の復活」
 421年(永初2)皇后は中国新王朝・宋に遣使、応神天皇こと倭王・讃は「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を願い出るも「安東将軍・倭国王」の官爵号を授けられます。3世紀の卑弥呼の「親魏倭王」以来1世紀ぶりに「倭国王」が復活。続いて、高句麗王や百済王とともに将軍に任じられた倭王・讃は将軍府を設置、長史(文官)・司馬(軍事) ・参軍を置きます。以降、倭王・讃はじめ倭の五王(倭王讃=応神天皇、倭王珍=仁徳天皇、倭王済=允恭天皇、倭王興=安康天皇または木梨軽の皇子、倭王武=雄略天皇)らは、宋の皇帝の忠実な藩臣として、高句麗の勢力を背景に、外交・交易の拠点である伽耶・百済を中心とする南朝鮮の軍事領土・支配権の交渉のため遣使を続けます。
 皇后は制圧した伽耶から、それまで輸出統制されていた馬具・甲冑・武器はじめ製鉄技術者・金属加工者・馬具職人・陶質土器職人を大量に導入。さらに皇后は平定した慶南・全南地域を百済に与え、この地域勢力たちの仲介のもと交易を始め、大陸の先進文物を取り入れ、有能な人材をこぞって抜擢。列島内また朝鮮半島内で政治・文化・言語・宗教・民族の混血また融合を進めて紛争・戦闘を抑えます。ならびに、百済から服飾工女、馬飼の阿直伎、漢文博士の王仁、養蚕・織絹の職人集団を束ねる弓月君(秦氏の祖)、他にも葛城・巨勢・蘇我・平群・紀・東漢氏など27氏を帰化人とし、帰化人とその子弟・子孫たちを官僚や有力豪族の部下に採用、政治はじめ養蚕業・農業・土木建築・医薬などの産業の先端を担わせます。やがて儒教や仏教の伝来をはじめとする海外文化の大きな恩恵を受けながら、律令制度を整え統一国家の基礎を固めていきます。
 1910年に日本は韓国を併合。そのころ神功皇后の「三韓征伐」をたたえる教育が盛んになるも、1926年の皇統譜令に基づいて皇統譜の歴代天皇から外され、第15代天皇・初の女帝(女性天皇)の記述も抹消されます。

-『新唐書』列伝第145
「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」

-『宋史』列伝第250
「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」

-『常陸国風土記』
「息長帯比売の天皇」

-『扶桑略記』
「第十五代天皇」「神功天皇」「女帝これより始る」

-『住吉大社神代記』
「是の夜、天皇忽ちに病発りて崩りましぬ。是に、皇后と大神(おおかみ)と密事有り。俗、夫婦の密事を通はすと曰ふ。

-『広開土王碑文』
「倭人は、新羅の国境に満ちていた。400年、好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。高句麗軍がいたると、倭賊は退去した。しかしその4年後の404年、倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(現在の京城以北)に侵入した。」
「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、(高句麓軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。407年、好太王は、軍令を下し、歩騎五万を派遣して、合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」

-『日本書紀』「神功皇后紀」
「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上した。」
「新羅の王、波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐をもって質とした。」
「仲哀天皇九年、爰(ここ)に新羅の王・波沙寐錦(はさむきむ)、皍ち 微叱己知波珍干岐(みしきんはとりかんき)を以て質(むかはり)として、仍りて金・銀・彩色、及び綾(あやきぬ)・羅(うすはた)・縑絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘の船に載れて、官軍に從はしむ。」
-『日本書紀』の「応神天皇紀」
「百済の第十六代の王で、直支王のまえの代の阿花王(阿萃王)が、なくなると、阿花王(阿萃王)の長子の直支王は、人質として日本に来ていたが、応神天皇は、「お前(直支王)は、国(百済)にかえって、位をつげ。」と命じた。」
「応神天皇(倭王讃)は東晋の安帝に使いを出した」

-朝鮮歴史書『三国史記』「新羅本紀」
「実聖尼師今元年(402年)3月に、倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「列伝」
「実聖王元年壬寅の年(402年)に、倭国と講和を結ぶとき、倭王は奈勿王の子、未斯欣を人質にしたいと請うた。王は、かつて奈勿王が自分を高句麗へ人質として送ったことをうらんでいたので、そのうらみを、その子ではらそうと思っていた。そこで、倭王の請いを断わらずに、未斯欣を派遣した。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「百済本紀」
「王は、倭国と友好関係を結び、太子の腆支(直支)を人質にした。」
「阿萃王十四年・腆支王元年(405年)腆支は倭にあって(阿萃王の)訃報をきき、哭泣しながら帰国を請うと、倭王は、兵士百人をもって護送させた。」
「腆支王12年(416年)東晋の安帝は、使臣を遣わして、(腆支)王を冊命して、『使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王』にした。」

-『晋書』安帝紀
「義熙9年(413年) 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。」

-『宋書』「夷蛮伝」「百済国」
「義熙12年(416年)、以百済王余映、為使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」
-『宋書』「夷蛮伝」「倭国伝」
「高祖の永初二年(421年)詔して曰く。「倭讚万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」」
「太祖の元嘉二年(425年)、讚又司馬曹達を遣わして表を奉りて方物を献ず」
「建元元年(479年)が死んで弟のが立った。使いを遣わして貢献した。みずから使持節・都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、上表して除正されるよう求めた。詔してともにゆるした。」

-『梁書』「倭伝」
「晋の安帝(396-418年在位)のとき、倭王があった。が死んで、弟のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで弟のを立てた。斉(南朝斉)の建元中(高帝479-482年)を、使持節・(都)督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除した。 高祖(南朝梁の武帝、502~549年在位)が即位した。を進めて征東大将軍と号させた。」

「これからやりますよ、わたしは生まれかわったのだもの!」

"I'm starting from now on, I've been reborn!"


久野  久 女史

Ms. Hisako Kuno

1886 - 1925

滋賀県大津市馬場 生誕

Born in Otsu-city, Shiga-ken


久野 久子女史日本のみならず朝鮮・中国・オーストリアのウィーンで演奏を果たした日本初のピアニスト。べートーヴェンを得意として、鍵盤は血に染まり髪を振り乱し簪は飛んで着物は着崩れて汗が迸る情熱的な演奏はたくさんの人々を感動させました。

Ms. Hisako Kuno is the first Japanese pianist who has performed not only in Japan but also in Korea, China, and Vienna in Austria. She specializes in Beethoven, and especially impressed many people with her passionate performance, in which her keyboard was stained with blood, her hair was disheveled, her hairpin flew off, and her kimono was torn and dripping with sweat.

*******

日本初のピアニスト

 久子は質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれ何不自由なく暮らすも、3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負います。芸事の好きな母の勧めで京都に出て琴と三味線とを習ひ、琴は生田流で三百曲以上を修め奥許取ります。やがてと、東京の大学に通う兄・弥太郎の勧めで15歳で東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学、日本クラシック音楽の草分けである幸田延女子に師事してピアノを学ぶびます。当初は成績不振で退学を勧告されるも久子は土下座して残留を頼み、猛練習の末に首席で卒業、卒業式で演奏します。「鍵盤を叩きつける指先から鮮血が散り」「髪を振り乱して簪が飛ぶ」「着物の裾がはだけて太ももがあらわになる」など情熱的で官能的な久子の演奏は、日本初のピアニストとして絶大な人気を誇るようになります。24歳で東京音楽学校の助教授に就任。日本女子大学でも教鞭をとりはじめます。国内はじめ満州、朝鮮で演奏会を開催して大反響を呼びます。久子のもとには森鷗外の娘・茉莉はじめ東京の上流階級の子女が押しかけます。

「事故」 

 ところが久子は29歳で自動車事故に巻き込まれて頭部を強打、半年入院した後で数か月に渡り湯治にでかけます。翌年復帰するも「愚痴をこぼしたり何んでもばつばつと口外する様になつたり」「余りに痛ましい気がする演奏」久の演奏はじめ精神と行動はすっかり不安定となります。東京音楽学校は教授として小倉末子をアメリカから呼びよせます。末子はベルリン王立音楽院(現、国立ベルリン芸術大学)でハインリッヒ・バルトに師事、アメリカのメトロポリタン音楽学校教授を務める最先端のピアニスト。同年、東京音楽学校の演奏会で久子は末子と同じ舞台に立つと音楽評論家に酷評されます。久子は評判を取り戻そうと、日本女子大学校櫻楓会主催で復帰記念演奏会を東京音楽学校奏楽堂にて開催。ところがショパン・ピアノ協奏曲第1番の第2ピアノを担当する東京音楽学校同僚のショルツに演奏をボイコットされます。31歳で教授へ昇格した翌年、久子は負けじと日本女子大学校櫻楓会主催慈善音楽会「ベートーヴェンの午后」でソナタ5曲を東京・上野の東京音楽学校奏楽堂で3時間にわたって演奏。「美しい輝く情熱と讃嘆すべき力」「倒れるまで弾きつづけようとする必死の努力」が評判となり、白樺同人会はじめ全国の音楽会に招待されます。しかしながら、ベートーヴェン生誕150年を祝う東京音楽学校奏楽堂での音楽会でピアノを演奏したのは小倉末子でした。

「芸術家の苦しみ」

 久子は37歳で文部省の海外研究員に選ばれます。「真剣な努力に努力を重ね二年あまりの日には再び演奏をお聞きに入れ御同情を頂きたく存じます。どうかお忘れないで下さいませ!」日本女子大学櫻楓会主催で渡欧告別演奏会「ベートーヴェン後期ソナタ演奏会東京音楽学校奏楽堂で開催ののち出発、上海でもコンサートを開催します。ベルリンで留学生活を開始するも、久子は浴衣のまま浴槽に使ったり、劇場で突然床の上に座つて日本式のお辞儀をしたり周囲を驚かせます。大使館を出て着物で自炊生活を始めます。指を痛めピアノが弾けない日々が続く中で、名ピアニストのコンサートに通って演奏を研究します。「左手と右手の調和と、ペダルの使い方の上手なこと」。久子はベルリンのコンサートで感銘を受けたエミール・フォン・ザウアーをウィーンに訪ね、最も得意とするベートーヴェンの月光ソナタを演奏。ザウアーに絶賛され、入門の許しを得ます。早速ザウアーの住むウィーン郊外バーデンに移住してレッスンを受け始めます。まもなく「奏法の間違いを指摘され基礎からのやり直しを言い渡されたという噂話が、レッスンに同行してドイツ語通訳を務めた大島浩駐独日本大使夫人の口からたちまちウィーン中に広まります。久子がヘルツホフホテルから身を投げたのは4月20日の日本女子大学校の創立記念日でした。久子の死は当時の日本の芸術論と一緒くたになって物議を醸します。

-国立国会図書館 National Diet Library, Japan

京都府 Kyoto-Fu

「なにをして過ぎつるかたの月日ぞと さらにおどろくとしのくれかな (世の中に翻弄されているうちに一生が終わってしまう。何とかして自分らしく生きたい。)」
“My whole life ends while I'm at the mercy of the world. I want to live my life somehow.”

祥子内親王 
Princess Syoko / Sachiko
1320頃 - ?
京都府京都市上京区京都御苑
Born in Kyoto Imperial Palace

祥子内親王は日本史上最後の斎王。後醍醐天皇の皇女として、戦乱で途絶えていた天武天皇朝から600年続く斎宮制度を復活させようと、太平の世を祈って伊勢神宮に百首歌を奉納します。
Princess Shoko was the last Saio in Japanese history. As the princess of Emperor Go-Daigo, she dedicated 100 poems to Ise Grand Shrine in hopes of restoring the 600-year-old Saigu system since the Emperor Tenmu dynasty, which had been discontinued due to war, and praying for a world of peace.

「後醍醐天皇の皇女」
 祥子内親王は父・後醍醐天皇ならびに母・阿野廉子(新待賢門院)の皇女として誕生。異母きょうだいの皇子17人・皇女15人のうち、中宮・西園寺禧子(後京極院)の娘・懽子内親王とともに、後醍醐天皇に溺愛されて育ちます。父・後醍醐天皇の仲の良い同母きょうだいである獎子内親王が官人・官女・勅使など500人を伴う伊勢神宮への群行を前に斎王を退下してから23年後、16歳の懽子内親王が卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占いの儀式で祥子よりも先に斎王に選ばれます。大内裏内の初斎院に入って忌み籠り、翌年秋に都郊外の野宮に移り1年間清浄潔斎生活を重ねて身を清め、伊勢神宮に向けて出発する朝に葛野川(現在の桂川)で禊を行います。まさにその時に、鎌倉幕府から六波羅探題の兵が宮中に押し寄せます。父・後醍醐天皇は京都を脱出して挙兵するも籠城先の笠置山で捕らえられ隠岐ノ島に流されます。

「最後の斎王」
 きょうだいたちが流罪になったり他家へ預けられたりする中、13歳の祥子内親王は沖ノ島の後醍醐天皇に随行した母親と離れ、斎王を退下した懽子内親王とともに獎子内親王のもとに身を寄せます。まもなく鎌倉幕府が光厳天皇を即位させると、懽子内親王はその後宮に入り皇女を出産。15歳の祥子内親王は、隠岐の島を脱出して帰京を果たした父・後醍醐天皇のもと卜定で斎王に選ばれます。野宮で清浄潔斎生活を続ける中で、父・後醍醐天皇についていた足利尊氏が謀反を起こして戦乱が再開。伊勢への群行を果たして太平な世のために天照大御神に仕えたい祥子内親王は夢にお告げを受けて伊勢神宮へ百首歌を奉納します。「いすず川たのむ心はにごらぬを などわたるせの猶よどるらん(五十鈴川の水は澄んで濁っていないのに なぜこの世はこんなに澱んでいるのだろう)」。祈りも空しく奈良吉野に逃れた父・後醍醐天皇は崩御、きょうだいたちは次々と戦死。祥子内親王は斎王を退下して懽子内親王とともに保安寺で出家します。時局をしっかり見据えて批判しながらも美しい恋歌・月歌・四季歌の数々を残します。

-「斎王の歴史と文学」(所京子 著 / 図書刊行会2000年)
-斎宮歴史博物館

「今日の婦人が無力である最も大きな理由は、経済力に乏しいという点です。自ら事業の経営者となって、系統的に組織的に、経済的に、これを発達させていくことが必要だと思うのです。」
"The main reason why women are powerless today is their lack of economic power. I hope every woman to become a business owner herself and develop it systematically and economically."

「婦人問題の解決はイエスによってのみ与えらるるのである」
"The solution to women's problems can only come through Jesus."

広岡 浅子 女史
Ms. Asako Hirooka
1849 - 1919
京都府京都市 生誕
Born in Kyoto-city, Kyoto-fu

広岡浅子女史は日本女子大学創設者ならびに大同生命創業者です。さらに女性の貧困問題を解決するための教育事業・社会事業に奔走、愛国婦人会大阪支部また大阪YMCAにて、学び舎また賄い付きの裁縫訓練学校兼作業場、寄宿舎また夜間女学校を伴うタイピスト・秘書養成学校を発案・支援しました。
Ms. Ayako Hirooka is the founder of Japan Women's University and the co-founder of Taiyo Life Insurance Company. Additionally, she passionately dedicated herself to educational and social initiatives aimed at addressing women's poverty issues. She played a crucial role in the establishment and support of various institutions, including learning centers, sewing and vocational training schools with provisions, workspaces, dormitories, and evening schools for women, typist and secretary training schools, within the Osaka branch of the Patriotic Women's Association and the Osaka YMCA.

*******

「四書」
 浅子は山城国京都(現・京都府京都市)油小路通出水の小石川三井家の四女として生まれ、三味線・琴・習字・裁縫といった商家の女性に必要な教養を身につけます。維新の大改革を前に兄弟が学ぶ「四書(大学・中庸・論語・孟子)」に強い興味を持ってこっそり書物を引っ張り出して読み始めます。「女に教育は不要」「男子のすることを真似てはならない」13歳の頃には、一切の読書を禁じられます。「女性と言えども人間である。学問の必要がないという道理はない。」17歳で許嫁になっていた大坂の豪商・加島屋の次男・広岡信五郎と結婚します。「女史を器物同様に親の手から夫の手に渡すというのは何という不当なことだろう。」支配人任せで謡曲・茶の湯に没頭する夫のずさんな経営を目にした浅子は、独学で九九算から始め、算盤の稽古、簿記、そして屋敷の帳面や書類を習得、さらに夫と一緒に漢学儒学の勉強を始めます。「一朝事あれば双肩に担って自ら起たなければならぬ。」20歳で明治維新の廃藩置県を迎えると、浅子は諸大名家をまわってはタフな交渉を重ねて加島屋の立て直しに奔走します。

「ピストル」
 35歳の浅子は周囲の反対を押し切って、夫の代理人として吉田千足とともに「広炭商店」を設立、炭坑家・帆足義方が所有する筑豊の炭鉱から産出された石炭の国内販売また海外輸出を始めます。輸出コストを解決するために、長崎港よりも筑豊に近い門司に新たに税関を設置し港の整備を進めます。続いて帆足義方の炭鉱自体を傘下におさめ、石炭の産出から販売までを手掛ける商社「日本石炭会社」を設立します。まもなく日本国内がデフレ不況になり石炭の価格が暴落、4年で解散となります。苦境に陥った廣岡家が三井銀行に不動産担保融資を依頼する最中、浅子は護身用のピストルを懐に、手元に残った潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の二瀬炭鉱)に自ら単身乗り込みます。筑豊最深の竪坑を開墾中に、洋服で竪坑からケージに乗って坑内に下って炭鉱夫らを監督。炭坑主任・長網好勝はじめ現場監督また納屋頭らの協力を取り付けて優良炭鉱へと生まれ変わらせます。浅子の資金繰の甲斐あって、加島銀行の設立、さらに大阪商業界発の紡績事業への参加と実を結びます。続いて、浅子は相互扶助の精神を基調とする社会公益事業に共感、浄土真宗を基盤とする真宗生命保険会社の経営を支援、事業改革を進め朝日生命を創業します。明治民法下で法律行為を行う権限がない妻の浅子は、あくまで夫・信五郎の代理人として、夫の深い理解と協力に支えられていました。「我が国婦人が屈辱の生涯を送っている」「如何にもしてその地位を高めなければならない」

「聖書」
 47歳の浅子は、大和吉野の林業家・土倉庄三郎を介し、梅花女学校の校長で女子大学設立を目指す成瀬仁蔵の訪問を受けるとともに著書『女子教育』を手渡されます。「少女時代から寸時も念頭を離れなかった我が国女子の哀れな境遇から救わんとの熱望を果さるべき光明」強く共感した浅子は、すぐに成瀬と行動を共にして政財界の有力者を説いて協力者を募り、1年足らずのうちに大隈重信また近衛篤麿らを来賓として総勢三百四十名の政財界の有力者を発起人会に集結させ、経済恐慌で資金集めが停滞すると広岡家・三井家一門に働きかけて目白台の土地を寄付させます。7年目にしてようやく日本初の女子高等教育機関、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)が開校。「女子の進歩を希むならば、自ら先に修養しなければならない。」浅子は女生徒たちと一緒に成瀬校長の実践倫理を学び、長井長義博士らのもと科学を学びます。夫の死去を機に事業を娘婿に譲った浅子は、心友である奥村五百子の愛国婦人会を支援、大量のミシンを購入して警察・郵便・電気局・軍人など公共団体の制服を受注してまわって職業訓練学校兼作業場を整えるとともに、女性やこどもに国語はじめ算数や道徳を教える時間をつくります。「神の御命を離れては何事も為すまじ」がんの手術と愛弟の逝去を克服した浅子は、宮川経輝牧師のもとキリスト教の洗礼を受けます。大阪YWCA創立準備に奔走し、寄宿舎と夜間女学校を備えたタイピスト・秘書養成学校を設立します。浅子は婦人運動や廃娼運動に参加、女性雑誌に論説を寄せ、若い女性を集めた合宿勉強会を主宰、71歳で逝去します。

-日本女子大学 Japan Women's University
-大阪YMCA Osaka YMCA
-大同生命 DAIDOSEIMEI
-『一週一信』(広岡浅子 著 / 婦人週報社1918年)

「私は、女の世界から見た真実な女の姿を、自分の人生観とともにくまなく描きたい」

"I want to thoroughly depict the true image of women as seen from a woman's perspective, along with my own worldview."


坂根 田鶴子 女史

Ms. Tazuko Sakane

1904 - 1975 

京都府京都市上京区 生誕

Born in Kamigyo-ku, Kyoto-city, Kyoto-Fu


坂根田鶴子女史は日本最初の女性映画監督です。代表作品は「初姿」「開拓の花嫁」です。

Ms. Tazuko Sakane is Japan's first female film director. Her representative works include "Hatsu Sugata" and "Bride of Pioneer." 

*******

「女万丈の映画を」
田鶴子は、京都の縮緬織りの織元で発明家の父・坂根清一と丹後の旧家出身の母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれます。田鶴子は2歳で跡取りのいない母方・佐久間家の当主となり、中立売小学校、京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)、同志社女子専門学校英文科(現在の同志社女子大学)へ進学。やがて19歳で自主退学して病に伏せる母・志げを看取り、母の遺言に従って産婦人科医と見合い結婚するもうまくいかず、出戻った田鶴子に後妻・大定ツルはじめ周囲の目は冷たく刺さります。「発明推奨映画」の製作に関わっていた父・清一の口利きで、1929年日活京都太秦撮影所に入社。監督助手として溝口健二監督の組に配属され、小道具、シナリオ速記、記録、フィルム編集、台詞指導など、「男装」しながら映画作りに携わります。
1935年溝口組とともに第一映画に入社、助監督を務めます。1936年小杉天外原作の『はつ姿』を映画化『初姿』を監督します。溝口組は女優・入江たか子ぷろだくしょんのもとで評判となりながらも、屈辱を感じて実体のない名前だけの「溝口プロダクション」を列記して体面を保っていました。田鶴子は女のシナリオライターやカメラマンといったスタッフと共に、男では描けない女万丈の映画を作りたいと思うも監督する機会に恵まれません。

「真実な女の世界を」
溝口夫妻を実家で世話するうちに、田鶴子は健二から求婚され、妻・千枝子は発狂して精神病院に収容されます。その頃、日中戦争が泥沼化する中で映画法が施行、情報宣伝と言論・思想統制のための文化映画を劇映画と併映することが義務付けられます。彼女は映画を監督する機会を求めて1940年に理研科学映画研究所(理研)に入社。北海道に赴いてアイヌの暮らしをテーマにしたドキュメンタリー『北の同胞(アイヌ)』(1941年)を監督します。さらに、国策として設立されアジア随一の施設を持つ満洲映画協会に1942年に入社。『勤労的女性』、『健康的小国民』、『開拓の花嫁』、『野菜の貯蔵』、『暖房の焚き方』、『室内園芸』、『春の園芸』、『救急ノ基本』、『基本救急法』などを監督します。敗戦翌年1946年京都に引き揚げ、再び溝口組として松竹に入社しますが、監督ではなく編集課記録係として採用されます。溝口は田鶴子を冷遇する中で、千枝子の妹を後妻にしながら女優・田中絹代と事実婚状態にあり、かつての雇い主・入江たか子を化け猫女優としていじめぬいて引退させます。田鶴子は戦争未亡人を題材とした映画の企画に取り組み始めますが、再び映画監督となるチャンスは得られませんでした。1961年に松竹を退職後、大映京都撮影所でアルバイトの記録係として働き続けました。『開拓の花嫁』は坂根 田鶴子作品のうちフィルムが現存する唯一の作品であり、プロパガンダ映画でありながら、ドラマまた空間の表現力、当時の日本社会に対する批評的視点など、近年高く再評価されています。

-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan

「とんでもないものが好きになってしまった」
"I've fallen in love with something incredible."

西原(旧姓 今井)小まつ
Ms.Komatsu Nishibara / Imai
1899 - 1984
京都府福知山町 生誕
Born in Fukuti-machi, Kyoto-fu

今井小まつ女史は、日本女性初の二等飛行機操縦士となった女性パイロットの草分け。雲井竜子の筆名で航空小説や随筆を執筆。元財団法人日本婦人航空協会(現・一般社団法人日本女性航空協会)理事長。
Ms.Komatsu Imai is a trailblazing female pilot who was the first Japanese woman to obtain a second-class pilot's license. She wrote aviation novels and essays under the pen name Tatsuko Kumoizumi. Former chairperson of the Japan Women's Aviation Association (now the Japan Women's Aviation Association, a general incorporated association).

「私にだってできる!」
 17歳の小松は、アメリカ人女性パイロットのキャサリン・スティンソンの華々しい活躍ぶりに「私にだってできる!」。両親の猛反対にあい再三家出を繰り返しながら、ようやく東京・赤羽の民間飛行場にたどり着き、パイロットに頼み込んで初めて飛行機に乗ります。「とんでもないものが好きになってしまった」。まもなく小松は女学校卒業後2年目の20歳のときに結婚。夫と奉天に渡り薬屋を営みます。小松は商売そっちのけで、地元の新聞にペンネーム「覆面の女」で評論や小説を書いては投稿します。やがて男の子が生まれると、結婚3年目で夫と子供を残して実家に戻ります。夫はじめ親戚から復縁を求められるも断固拒否。小松は単身で静岡県の福長飛行機研究所に出かけます。所長の福長浅雄に頼み込んで男性に混じって住み込みで飛行機開発を手伝いながら飛行機の操縦を学び始めます。

「飛ばない鳥は鶏である」
 小松は有力な実業家・西原亀三に嫁いだ姉の協力のもと、軍から払い下げられた飛行機・中島式五型ホールスコットを手に入れます。愛機で訓練に励み、小松は24歳のときに兵頭精に次いで女性として2番目に三等飛行機操縦士となります。さらに曲芸飛行などの厳しい訓練を経て、26歳で女性として初めて二等飛行機操縦士となります。やがて小松は同期生の根岸錦蔵とパートナーとなって、飛行機を使った新しいビジネスを始めます。再び姉の協力のもと、魚群捜査飛行を目的とする飛行場を静岡県清水港三保につくります。2人は軍から払い下げられた飛行機で長距離飛行をしながら、上空からカツオやマグロの大群を見つけては漁船にメモを投下して位置を知らせます。八丈島にも基地をおきますが、まもなく魚群探査の仕事を日本航空学校に仕事を奪われます。やがて銀蔵は5000m上空での気象観測、さらに北海道女満別での流氷観測また千島列島での霧観測に乗り出します。小松は一等飛行機操縦士としての銀蔵への嫉妬心にかられながら、雲井龍子のペンネームで航空小説や随筆を執筆し始めます。29歳のときにパイロットを辞めて静岡市内でバー「つばさ」を開き、38歳で姉の逝去にともない西原亀三の後妻となって中国へ渡ります。

-一般社団法人日本女性航空協会 Japan Women's Association of Aviation
-日本航空協会 JAPAN AERONAUTIC ASSOCIATION

「全てのものは宇宙と調和している。芸術家の役目はそれを見つけ出すことです」
"Everything is in harmony with the universe. The artist's role is to uncover it."

大竹 富江 女史
Ms. Tomie Ohtake
1913 - 2015
京都府京都市 生誕
Kyoto-city, Kyoto-fu

大竹 富江 女史はブラジル文化勲章を受章したブラジル移民1世の美術作家。50歳から幾何学模様と色彩、動き、平和の心を組み合わせながら、ブラジルはじめ世界の展覧会で活躍し始めます。ブラジル史上初の女性大統領ジルマ・ヴァナ・ルセフからブラジル文化勲章を受章。
Tomie Ohtake is a first-generation Japanese-Brazilian artist who was awarded the Brazilian Cultural Order. Starting at the age of 50, she began to make her mark in exhibitions around Brazil and the world, combining geometric patterns with color, movement, and a spirit of peace. She was awarded the Brazilian Cultural Order by Dilma Rousseff, the first female president in Brazilian history.

「空気が黄色いブラジル」
 富江は京都で材木商を営む両親のもと、6人きょうだいの末っ子として誕生。幼いころから絵が好きで、京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)、同志社大学文学部と進学しながら、クレヨンや水彩で具象画を描き続けます。女流画家が活躍するのを憧れの目で見つめます。23歳の富江は「どうしても行きたい。1年で帰るから。」ブラジルに移住してタクシーの運転手で生計を立てていた4番目の兄を頼って、満州で新聞記者をしていた5番目の兄と一緒にブラジルのサントスに渡ります。「空気が黄色い!」ブラジルに降り立った富江は色と明るさに打たれます。兄たちと貿易商を営み始める中、まもなく日中戦争が勃発、5番目の兄は徴兵されて帰国、富江は4番目の兄の友達と結婚してリオで暮らし始めます。やがてブラジルも太平洋戦争に参戦、サンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に収容されます。大戦が終結してまもなく解放されるものの、全資産を没収されます。日本のポツダム宣言受諾後も、多くの日本人移民や日系ブラジル人は日本の敗北を信じず、日本人移民および日系ブラジル人社会が分裂。「日本にはもう帰れない。ブラジル人になりましょう」富江は子供たちを日本人が一人もいないキリスト教系学校に通わせます。家事に子育てに軍事政権下でのデモに奔走するかたわら、毎月日本から「美術手帳」「アトリエ」などの雑誌を取り寄せては熱心に読みます。

「リベルダーデ」
 38歳の富は、三岸節子の夫・菅野圭介のサン・パウロ個展を見に行きます。「私も描きたい!」ギャラリーに滞在していた菅野氏は「子供なんて放っといても成長する。好きな仕事をしなさい。」息を強くした富江は、早速翌日に絵具とキャンパスを買い求めて描きはじめます。富江は子供たちに宣言します。「もう大きいのだから自分で考えて、自分が良いと思うように生きなさい!」菅野氏を自宅に招いて、知り合いの主婦を集めて絵画教室を始めます。3か月の間に、静物デッサン、裸体デッサン、サントス港への写生などを学びます。所属する日系画壇「聖美会」では間部学や福島近らブラジル抽象画家らが活躍し始めます。富江も抽象画に惹かれて描き続け、サンパウロの近代美術館で10数点の小さな個展を開きます。評判になって、他の美術館の展覧会に出展したり、大きな作品を油絵で描くようになり、海外の美術館に出展するようになります。最初は白と黒そしてベージュなどの色の無い作品から、四角や円いろんな形がはっきり出てきて様々な色を使うようになります。海に浮くオブジェや、高速道路のオブジェ、ビルの壁画を手掛けます。富江は「リベルダーデから遠い」閉鎖的なコロニアからブラジル社会に進んで分け入り、有名無名の若手ブラジル人アーティストの展示会に顔を出したり、日本人がブラジル美術界に入れる窓口を作ります。

-Tomie Ohtake Institute
-『日系新聞』2021年11月20-28日
-『海外移住 9月(595)』(国際協力機構2000-09)

兵庫県  Hyogo-Ken

「笑わせなあきまへんで」
"Let's make them laugh"

吉本  せい 女史
Ms. Sei Yoshimoto
1889 - 1950 
兵庫県明石市 生誕
Born in Akashi-city, Hyogo-ken

吉本せい女史は吉本興業(現・吉本興業ホールディングス)創業者。大坂はじめ京都・名古屋・東京に「笑い」をもたらした女性。
MS. Sei Yoshimoto is the founder of Yoshimoto Kogyo (now Yoshimoto Kogyo Holdings), who brought laugh to Osaka, Kyoto, Nagoya, and Tokyo.

*******

「これはおまけね」
 せいは兵庫県明石市東本町で太物屋(木綿と麻の織物商)の12兄弟の次女して生まれます。せいが幼い頃に一家で大阪に移り米穀商をはじめると、せいの愛嬌と気転の利いた店番で大繁盛します。彼女は米升に親指を突っ込んで計量して客に渡す米を減らして一握り元に戻しながら「これはおまけね」。小学校を卒業するとせいは12歳から商売名人の米穀仲買人・島徳蔵宅のもとで女中奉公しながら、花嫁修業はじめ商売について学びます。22歳のとき両親の進めで荒物問屋(家庭用の雑貨店)主人・吉本吉兵衛(泰三)と結婚します。夫の泰三は家業をほったらかしでひいきの芸人に入れあげて金を浪費、自分でも芝居や剣舞に凝って舞台に上がったり地方巡業に加わったり、多大な借金を抱えて店は倒産します。「そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤを持ちまへんか?」そんな中で夫の泰三は経営不振で倒れた寄席を購入する話をつけてきます。せいはあちこちを奔走してお金をかき集めますが、舞台に上がる落語家は一人も見つかりません。すると泰三は「浪花落語反対派」を主催する岡田政太郎と提携、ものまね・音曲・剣舞・曲芸・講談・軽口・怪力・琵琶・義太夫など無名の大道芸人を集めて舞台に上げます。「あんたきょう手ぬいたやろ。お客はんぼやいてはたった。」「なにが真打や。あいつ芸を投げよった。」せいは芸人の育成と発掘に精を出します。「カネかかる芸人が上手いとは限らんで。どんな場末にもいい子はおる。はよ探してこい。」入場料は他の寄席の半額以下、さらにせいの愛嬌と機転の利いた店番で大繁盛、泰三は次々に経営不振の寄席を買収していきます。

「花と咲きほこるか、月と陰るか」
 せいは法善寺にある大阪を代表するコヤ・金沢亭の買収に乗り出します。高齢化で経営不振が続くとはいえ、大阪を代表する桂派の根拠地・金沢亭の所有者・金沢利助はなかなか首を縦に振りません。「法善寺横丁がさびれてもよろしおますか。水掛不動はんが泣いてまっせ。」胸にグサッときたところで2万円から1万3千円に値切ります。30歳のせいは命を懸けた大勝負「花月亭」で創意工夫を大発揮。花のれん・扇風機・ゴロゴロ冷やし飴・フットライト。お客さんを出迎えるのは、亭主持ちは丸髷で若い人は新蝶々のお茶子さん。「愛嬌のあるスカっとした人がよろしい。万事きれいごとで頼みまっせ。」向かいに並ぶのは料理屋に飲み屋。「こっちがもっさりしていては興ざめだす。向こうはお酒。こっちは芸。これも一つの競走でっせ。」客たちの下足・靴の汚れを雑巾で拭わせたり、平日の昼間には、表芸に尺八・裏芸にハエ取りを得意としながら、池坊と裏千家の心得のある芸人につかせてお茶と生け花を習わせます。敵は紅梅亭を中心に新町の瓢亭・御霊のあやめ館・北の新地の永楽館など一流の座で洗練された落語を売りにする三遊派。「紅梅亭が35銭なら、うちは20銭。」入りを気にする芸人たちにせいは思い切って前金で給金を手渡します。順調に客足が伸び、今夜は客が詰っかけるなあという日には「お一人20銭」の木戸札をくるりと裏返して「お一人30銭」。紅梅亭がますます本格的落語を目指し60銭に値上げすると、永楽館の眼と鼻の先の映画館・北陽館を買い取って北陽花月と名付け、得意の大衆と安値で対抗します。2年後には永楽館は吉本に屈し、三遊派の中心・桂春団治を吉本の所属とします。

「女今太閤」
 1913年日本で最古の芸能プロダクション「吉本興業部」を設立します。せいは芸歴問わず芸人発掘に努め、公衆便所にまで待ち伏せして金包みを渡して人気のある真打を獲得。火事や水害が起きると芸人をボランティアに送り出し宣伝に努め「ヨシモトが来ましたで」、関東大震災では焼け野原を探し歩いて東京の芸人を慰問して大阪の舞台に呼び出します。大阪・京都・名古屋・横浜・東京に寄席小屋を広げる中、夫・泰三が愛人宅で急死、35歳のせいは実弟の正之助に経営を執らせます。せいは山口組興行部・山口登の仲介で浅草の浪花家興行社・浪花家金蔵と交渉、二代目広沢虎造の興行権・映画出演権を獲得します。続いてせいは大阪府議会議長・辻阪信次朗の協力を要請、アメリカの「マーカス・ショー」を招聘します。さらにせいは阪急電鉄・小林十三の「P・C・L映画製作所」「東宝映画配給株式会社」と提携、映画制作に乗り出します。安来節、漫才、ラジオ、映画、雑誌、ショーでファンを開拓していきます。やがて、知事まで顎で使う権勢を振う辻阪信次朗が脱税汚職容疑で逮捕されると、多額の寄付者であったたせいも逮捕されます。信次朗の獄中死により事件が終結すると、以後46歳のせいは経営から身を引いて慈善事業また経営不振の大阪のシンボル・通天閣の買収にお金を投じます。「人を殺すタマにならんでほんまよかった」せいが後継者として溺愛して育てていた息子・穎右が亡くなるとせいも3年後に死去します。「若くして後家になって、後家を通しもって仕事してきたけど、そのことが、わてには一番しんどいことやった。」

-吉本興業 
-『花のれん』(山崎豊子 著 / 中央公論社1958年)
-『大阪の女たち 』(西岡まさ子 著 / 松籟社1982年)
-『大阪弁 第5輯』(大阪ことばの会 編 / 清文堂書店1950)
-『笑説法善寺の人々』(長谷川幸延 著 / 東京文芸社,1965)

"それでよろしい。"
"That’s Fine."


鈴木 よね 女史

Ms. Yone Suzuki

1852 - 1938

兵庫県姫路市 生誕

Born in Himeji-city, Hyogo-ken


鈴木よね女史は、鈴木商店を日本一の総合商社へと導き、日本の現在の大手産業企業の礎を築きました。さらに日本国内初の公立女子商業学校である神戸女子商業の設立ならびに臨済宗祥龍寺の再興を支援しました。
Ms. Yone Suzuki led Suzuki Shoten to become Japan's top comprehensive trading company, laying the foundation for the country's current major industrial enterprises. Furthermore, she established the establishment of Kobe Women's Commercial School, Japan's first public commercial school for girls, and supported the revitalization of the Rinzai Sect Shoryuji Temple.

*******

「店をやめるって言えなんだ。」

 よねは姫路市米田町の仏壇の漆塗り師の7人兄弟姉妹の三女として生まれます。三味線・茶の湯・裁縫をたしなつつ、兄と一緒に鮒釣りに出かけるなど幸せな子供時代を過ごします。父の師匠筋に嫁ぐも両家の争いに巻き込まれてまもなく離婚。26歳の時に、神戸に出て洋銀両替商として名を成していた実兄・西田忠右衛門からすすめられて、砂糖商の鈴木岩治郎と再婚します。夫・岩次郎は激しい気性で店員を大声で叱責してはそろばんで頭を殴ります。よねは男児3人を育てながら、店員の衣食の面倒を見るのはもちろん、店を出奔する店員を慰めたり、注文取りで夜遅い店員をねぎらったり、店の奥向き一切を細かく配慮しながら気難しい夫を補佐します。夫・岩次郎は洋糖輸入商で培った外国商館との取引から独自の取引網を拡げ、樟脳・薄荷の取り扱いを開始、神戸石油商会を設立、神戸有力八大貿易商として活躍しますが、突然病に倒れ急逝してしまいます。43歳で寡婦となったよねは、親戚筋からは廃業を勧められるも、存続を希望する店員のために、自ら女主人となって事業を守り継ぐ道を選びます。

これからは女も経理ができなくては

 よねは当座帳で2万円(今の8千万円相当)の寄付から1円の瓦せんべいの代金まで記録、店員と一緒に寝起また家事炊事をして同じ三食のご飯を食べ、外食を禁じて手製のおやつをこしらえます。あるとき、全面的に信頼する金子直吉と柳田富士松の二人の番頭が張り切りすぎて店を危機に追い込むも、よねは小言一つ言わず慰めつつ、実兄また兄妹店のカネタツ藤田商店さらに大阪辰巳商店と前後策を協議。奮起した店員達と協力して危機を脱すると店員達から絶対的な信頼を得るようになります。鈴木商店は、日清戦争終結後に台湾に進出して樟脳油の販売権を獲得、樟脳・薄荷製造所ならびに製粉所・製糖所を創設。さらに日露戦争終結後に重工業分野に進出、製鋼・造船・化学繊維・塩・タバコの製造事業を開始。やがて鈴木商店が売上高日本一の商社になった年に、よねは女子の経済的自立はじめ実業界での活躍を願って神戸女子商業(現・神戸市立神港高校)設立のために多額の寄附を行い、卒業式には全員を自宅に招待してお祝いします。

それでよろしい。」 

 よねは毎日出社して全ての会議に参加、店員たちに自宅で育てた花や野菜はじめ手縫いの幾何模様の雑巾を配り、店員の妻たちには揃い紋付の着物を送って懇親会を開きます。よねは溺愛する孫・千代子、鈴木商店ロンドン支店の駐在員・高畑誠一に嫁がせます。高畑は英国の政府関係者との人脈を築き、第一次世界大戦が始まると英国ならびに連合国を相手に鋼材・銑鉄の買い付け、船舶・小麦など食糧品の売り込みに活躍。鈴木商店は戦時需要に乗って莫大な利益を得ながら、ソーダ・ゴム・非鉄金属・油脂・セメント・合成アンモニア製造事業に進出。やがて世界金融恐慌で業績が悪化する中、借り入れが拡大する台湾銀行から融資を打ち切る代わりに新鋭を中心とした株式経営を迫られます。75歳のよねは、最大功労者である金子に再建を促しつつ鈴木商店の幕を下ろします。鈴木商店は80にも及ぶ事業会社を興し現在に残しています。晩年のよねは和歌に熱中する日々を送る中で、廃寺となっていた神戸の臨済宗「祥龍寺」再建費用を喜捨。86歳で逝去。

-鈴木商店記念館 Suzuki Syoten Memrial Museum

-双日歴史資料館 Sojitz History Museum

-祥龍寺 Shoryuji Temple

「女性の想いに言論の武器を与えよ、政策決定の足場を与えよ!」
"Empower women's voices with the weapon of expression, provide the foundation for policy decisions!"

土井たか子 女史
Ms. Takako Doi
1927- 2014
兵庫県神戸市林田区(現・長田区) 生誕
Born in Kobe-city, Hyogo-ken

土井たか子女史は、日本女性初の政党党首で野党代表ならびに衆議院議長です。憲法を愛し、国民主権・平和主義・基本的人権を問い質し続けました。今までで最も首相に近づいた女性政治家で憲法学者です。
Ms. Takako Doi, a trailblazing figure in Japanese politics, made history as the first female leader of a political party, serving as both the opposition leader and the Speaker of the House of Representatives. With a deep appreciation for the constitution, she consistently questioned the principles of national sovereignty, pacifism, and fundamental human rights. As one of the most prominent female politicians to come close to the position of Prime Minister, she was not only a politician but also a constitutional scholar.

「神戸っ子」
 たか子は内科開業医の父と、女学校卒業後に教会で幼稚園の先生をしていた母のもと5人きょうだいの次女として生まれます。人見知りをして隅の方で黙って人の話を聞いてる大人しい幼少期から、だんだんと髪を短く刈り上げて男の子の遊び仲間を引き連れるようになります。仲間外れにされている男の子をブランコまで引っ張って行って泣かせたり、手足が不自由な女の子をかばって男の子と取っ組み合いのけんかをして不登校にしかけたり。授業中いつもおしゃべりしながらも正解を答えて先生の癪にさわったり。「落ち着きがない」「一つのことに集中できない」と注意を受けるたか子が唯一じっくり落ち着けるのは読書、それから学校帰りに市電の停留所をどんどん海岸まで下りて蟹を採ったり貝殻を拾ったりする須磨の輝やく海。女学校に入学すると学徒動員で工場に通って弾薬を詰める麻袋を縫ったり、ベアリングの玉磨きをします。やがて焼夷弾尾直撃を受けて家が全焼、家族とともに火の海の中を必死に逃げます。たか子のまわりでたくさんの女性が子供を探しに、あるいは食料をとりに家に戻って亡くなります。逆に、たくさんの男性がいざというときに女性をかばうことなくさっさと一人で逃げ出します。「人間はひとりなのだ。自分自身の生き方を持たなくては!」たか子は強く感じます。

「遅れてきた胸躍る青春」
 敗戦を迎えたたか子は思いっきり勉強をしようと京都女子外国語大学へ入学。無傷の京町で加茂川に復活した花火がドカン・ヒューヒュー異様な音を上げて女友達が学生寮の欄干に駆け寄る傍で、たか子は反射的に目を閉じて耳を押さえます。お昼に鳴るサイレンの音を怖がるたか子を女友達は「けったいやねー」。たか子は寄席「富貴」で桂春団治に魅せられ、洋画専門館で見た「若き日のリンカーン」に震えるほど感動します。合唱にテニスに打ち込みながら、やがて同志社大での講演会「平和主義と憲法第9条について」と、石碑「良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらんことを」で、たか子は弁護士になろうと決めます。親の決めた結婚のために泣く泣く進学を断念する女友達を見送りながら、同志社大法学部入学を果たします。最後の学園祭で手相を見てもらうと、「あなたは男運が悪い。いかず後家になる」「いかず後家って何ですか?」「生涯独身の女ちゅうこっちゃ。」「男の場合は?男やもめにうじがわく言うでしょ?」「寡婦(やもめ)も女のこっちゃ。可哀そうになあ。」「・・・」「あんたは気が強い。自分の意思を通すことですな。」たか子は知らぬ間に女性代表として同志社大の自治会委員に選出され、女子控室・更衣室の確保、学内食堂の自主管理権の獲得、学費の値上げ阻止など学内闘争の指導にあたります。学生運動で火炎瓶が飛び交う京都の町で、たか子は自治会室にこもって口に泡して激論を交わします。

「野に放たれるトラ」
 司法試験のための法学研究科に所属するも「女性だけ離婚後6か月空けないと再婚できないのはおかしい!」「妻の相続分が1/3だけなのはなぜ?」周りを巻き込んで立法政策論に脱線します。学費値上げ反対のために試験ボイコットをして単位に苦労しながらいよいよ卒業間近になると、田畑忍教授が唱える「非武装中立論」にすっかり魅せられます。「理想論」とあざ笑う人を横目に、「現実に追随してパワーポリティクス(力の論理による政治)に屈服するのか、困難はあっても平和憲法を拠り所に世界の現実の方を変革して人類の恒久平和を作り出すのか。」たか子は「国会両議院における国政に関する調査権」を修士論文テーマに選んで5年かけて大学院を卒業。恩師・田畑教授の憲法研究所を補佐しながら、同志社大はじめ関西学院大学また聖和女子大学で憲法学の講義を受け持ちます。須磨の西の裏山で削られた土砂がベルトコンベヤに乗って海を埋め立て、神戸港のふ頭の東にポートアイランド建設が進む中、たか子は神戸市で全国で初めての女性人事委員に任命されます。ある日、神戸市職員の採用試験に立ち会ってカチンときたたか子は、男性受験者に質問します。「結婚しても出産しても辞めませんか?」すぐに貴重な女性の法律研究者として方々の青年婦人部から呼ばれて話をしたり、KBS京都また毎日放送のTV番組に出演したりするようになります。まもなく恩師を通じて社会党から衆議院選挙の立候補を促されると、たか子は平和憲法を徹頭徹尾訴えて当選します。

「おたかさん旋風」
 早速、たかこは唯一の立法機関である国会のありかたについて問い質します。「どうして政府に法案提出権があるのですか?」「主権者は国民であるがゆえに議会制民主主義が重要であるという基本的なことが無視されて、憲法を変える手続法案が与党と霞が関のお役所でつくられて野党不在で強硬採決されている!」すると与党の自民党理事からひとこと「慣例です」。続いて、草の根運動に関わる人々と現地でコミュニケーションして、騒音・振動公害・大気汚染・石油コンビナート災害・食品公害の訴えをすくいあげます。そして女性問題を追求します。「老人問題は女性問題である!」「母系を認めない国籍法は憲法違反だ!」「生活保護費を男女の食費で差をつけるのはおかしい!」「家庭科は男女共修に!」「公害認定患者の医療保障費を、男女の平均賃金で格差をつけるのはおかしい!」「男女雇用機会均等法は、家庭ならびに職場における男女の協同と共生である!」世論の支持を得るとともに法律改正に大きく貢献します。さらに、たか子は国際反核女性フォーラムの実行委員長を担いながら、外務大臣から「非核三原則は国是である。」「核兵器は憲法上持てぬ」という答弁を引き出し、神奈川県非核県宣言はじめ全国の反核運動の気運を広げます。たか子が国会で答弁する間はやじがぴたりと止み、傍聴席は女性が押しかけ超満員。女性運動・市民運動・平和運動などに取り組む女性達が地方議会議員になって政治に直接結びつく大きなうねりが出来ます。

「山は動いた」
 61歳のたか子は女性初の社会党委員長に選ばれます。中曽根康弘首相の軍拡路線を「必要最小限の自衛力が必要最大限の軍隊へ変貌をとげるのは時間の問題」と問い質すも、「防衛費1%枠(防衛費は国民総生産GNP比の1%以内とする政府方針)」は撤廃されます。しかしながら、公約違反をして押し付けようとする売上税導入を「ダメなものはダメ」と徹底批判して廃案に追い込みます。続く、竹下登首相で消費税導入が強硬されると、政府高官の汚職はじめリクルート事件をたゆまず追求、関係した政府高官を処罰して宮澤喜一大蔵大臣を辞任に追い込み、竹下内閣を退陣させます。たか子の指導のもと社会党は全国の女性運動・市民運動・平和運動などと連携して大衆の支持を獲得、参議院議員選挙にこれまでで最多146人の女性候補者を送り込んで大勝利を収めます。参議院の女性議員比率は初めて10%を超え13.1%に。参議院で首班指名を受け、たか子は日本初の女性首相に近づきます。いてもたってもいられないたか子はイラクへ出かけて、サダム・フセイン大統領に平和憲法の大切さならびにクウェートからの撤退が平和的解決であると繰り返し話しますが、3日後に湾岸戦争が開始。海部俊樹内閣の「国際連合平和協力法案」を「平和協力隊という美しい衣装を自衛隊に着せ、併任というこそくな手法で海外に派兵する内容」と批判しながら、「日米安保条約の第一条と第七条には国連中心主義と国連憲章優位が明記されている。しかし、アメリカは国連を無視し、そのアメリカを総理が支持された今、日米同盟は国連中心主義を逸脱している。」問い質して廃案に追い込みます。バブル好景気中の消費税廃止を訴える総選挙では議席を伸ばせず、宮澤喜一内閣に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法案」を強行採決されます。

「山を動し続ける力」
 たか子は党首を辞任するも女性初の衆議院議長に選ばれます。自民党と連立政権を組んだ社会党委員長・村山富市首相は「自衛隊合憲・日米安保体制堅持」を表明、沖縄米軍基地の再編強を推進、海上基地建設の道を開きます。その過程を議長として複雑な思いで見守るたか子は「300万人の同胞が死に、アジア全体で2000万人が死んだ戦争への深刻な反省の結晶が平和憲法であるにも拘らず、政府の指針にはアジア国民の目を顧みる気配が感じられない。」と問い質し、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を採択させ、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させます。湾岸戦争へ参戦したり軍隊内で男女平等待遇を求めるアメリカ女性兵士の報道が続いて「女性=反戦=平和主義」の観念が崩れる中、たか子は求心力を失った社会党を引き受け社民党に改変して党首に就任します。冷戦終結にともなって日朝友好外交窓口が野党の共産党・社会党から与党の自民党にとって代わり、アメリカのブッシュ政権による反テロ戦争にともなって日朝国交正常化交渉がはじまる中で、「北朝鮮労働党から、拉致という事実はないと言われ続けてきたことに対して、社会党・社民党自身がさらに追及をして十分な形で努力してこなかった。」たか子は謝罪会見をします。世論を味方につけた小泉純一郎首相が有事関連法案を提案しながら「憲法論争のような神学論争はやめて常識で行こうじゃないか」「憲法前文と9条の間に隙間がある」「備えあれば憂いなし」と言い放つのに対してたか子は問い質します。「憲法9条は変えなくても解釈で運用面を広げて変えていけばよいということでは憲法は有名無実になる。」「日本の平和にとっての最大の備えは、憲法九条である。卑屈なアメリカ追従外交から抜け出して国際協調によって平和を維持する、自主・自立の平和外交への転換を図ることこそ21世紀に日本が生きる道がある。」

「憲法行脚の旅」
 さらに小泉政権はイラク戦争での米国支援と拉致問題解決を同時に議論する「イラク・北朝鮮連絡協議会」を発足。北朝鮮拉致被害者の家族会・救う会の「日本が危機に陥っている」「米国との協力が必要」の声がイラク戦争とともに大々的に報道される中、有事関連三法(「事態対処法」「安全保障会議設置法の一部改正法」「自衛隊法等の一部改正法」)、続いて有事関連七法(「米軍行動関連措置法」「改正自衛隊法」「外国軍用品等海上輸送規制法」「特定公共施設利用法」「国民保護法」「国際人道法違反処罰法」「捕虜等取り扱い法」)が次々と成立されます。「憲法を日米安保条約を踏み破った超憲法的な法律。民主主義の保証がくずされた。」「戦時立法だ。国民の手足を縛らなきゃ毛頭できない中身を決めている。」たか子は問い質すもやがて選挙に落選。「主権者である国民自体に憲法に対する認識が無かったら、不断の努力で憲法を活かす意味がなくなる。」たか子は憲法行脚の旅に出ます。憲法第9条の「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」は幣原喜重郎首相の平和主義の信念から出たもので、マッカーサー原案にもなかった。日本国憲法には人類の努力が凝集しており、世界のあらゆる近代的な憲法と並ぶきょうだいである。そして、敗戦の翌年1946年の初めての総選挙で総勢466名中39名の女性が衆議院議員となり、今の日本国憲法が草案の段階で議会で審議される場所に女性も参加して、「この憲法を制定しても後に日ならずしてこの憲法を見直そうという自主的判断こそ必要」「この憲法が国民に保証する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と合議している。たか子は憲法の製作経過ならびに憲法の意義について全国各地で問い質して周ります。たか子はベアテ・シロア・ゴードン女史と対談します。「あなたが弁護士じゃなかったから “女性の権利” について書くことができたんだと思います。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった。」

-日本国憲法の製作過程に関する資料
※土井たか子女史は、今の日本国憲法の草案について審議する論争の中身を国会内文書から社会に公表しはじめました。
-『土井たか子マイウェイ』『土井たか子政治とわたし』『We Love 憲法 おたかさん憲法を語る』『Peaceful Japan 土井たか子 女の時代・女の政治』
-衆議院
-社民党

「天国にいる方々に約束します。永久に、清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを。」

"I promise to those in heaven. To eternally dedicate myself to the pure, righteous, and beautiful reconstruction of Takarazuka."

春日野 八千代 女史

Ms. Yachiyo Kasugano

1915 -  2012

兵庫県神戸市 生誕

Born in Kobe-city, Hyogo-ken

春日野八千代女史は宝塚歌劇団伝説の男役「白薔薇のプリンス」として、戦前・戦中・戦後の女性達が夢見る「永遠の二枚目を生涯現役で演じました。一番最初「宝塚歌劇の殿堂」入りを果たします。

Ms. Kasugano Yachiyo is a legendary male role performer in the Takarazuka Revue, known as the "Prince of the White Roses." She portrayed the eternal romantic hero that women dreamed of, both before and after World War II. She continued to perform in this role throughout her career, remaining active until the end. She was the first to be inducted into the "Takarazuka Revue of Fame."

*******

お気に入りはフレッド・アステアと十五代目市村羽左衛門

春日野八千代こと石井吉子は1915年に兵庫県神戸市に生まれ、父の仕事の関係で横浜、神戸、大阪、岡山県高梁と移って大阪の九条第五尋常高等小学校を卒業。昭和初頭の不景気の中にあって、宝塚少女歌劇団は歌が好きな良家の少女水準以上の俸給で募集音楽教育以外に人間教育やにも責任を持つことで人気でしたさらに良子の父親は宝塚少女歌劇団の創始者小林一三をたいへん尊敬していて、ならびに吉子の虚弱体質を心配する母親は宝塚歌劇団のダンスや日本舞踊の科目に関心を持ちます。吉子は宝塚音楽歌劇学校に入学して予科を修了後、16歳の時に花組で初舞台を踏みます。吉子は声楽・ダンス・演技を学びながら、映画館・劇場に足しげく通って洋画・オペラ・歌舞伎から男役の芸を研究します。お気に入りはフレッド・アステアと十五代目市村羽左衛門。さらに日本舞踊の稽古に通い花柳流の名取になります。少女歌劇団は大正デモクラシー時代の新たな娯楽・慰安としてたくさんの観客を魅了しますが徐々に戦時色が強い演目が増えます。太平洋戦争がはじまると、やがて宝塚大劇場及び劇団施設は海軍に接収され予科練兵舎に、東京宝塚劇場は陸軍に接収され風船爆弾の工場に用いられます。その最後の舞台『勧進帳/翼の決戦』に吉子は主演を務め、ファンが押し寄せ劇場から宝塚南口駅まで約1キロの長蛇の列を作ります。さらに吉子はじめ生徒またスタッフらはめげることなく「移動演劇隊」として日本全国の軍需工場や病院ならびに北京や満州などの戦地を慰問のために巡演します。

「白薔薇のプリンス」

終戦後はGHQに対して嘆願書ならびに慰問公演を行い、宝塚大劇場を取り戻します。吉子は『カルメン『春のをどり・愛の夢の再開の舞台の壇上で挨拶します。「天国にいる方々に約束します。永久に、清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを」。さらに、長い間タブーとされていた『源氏物語』の劇化が解禁され、歌舞伎の市川海老蔵、映画の長谷川一夫、宝塚歌劇団の春日野八千代とで源氏の君を競い合います。白薔薇のプリンスとして、糸井しだれ、深緑夏代、月丘夢路、浅茅しのぶ、朝倉道子、新珠三千代、桜町公子、由美あづさ、南悠子、八千草薫、有馬稲子、鳳八千代、浜木綿子、扇千景、加茂さくら、梓真弓、上原まり、松本悠里、乙羽信子、故里明美、明石照子、寿美花代、淀かほる、那智わたるなど、70人余りの女役と舞台上で愛を語りながら、生涯現役を貫きます。宝塚市文化功労賞、宝塚市名誉市民、兵庫県文化賞、紫綬褒章、勲四等宝冠章など授与され、96歳で逝去。宝塚市において歌劇団葬が営まれファンや卒業生など約1000人が参列、一番最初に「宝塚歌劇の殿堂」入りを果たします。1958年花組公演中に舞台装置の不備で非業の死を遂げたタカラジェンヌ・香月弘美さんの慰霊祭と慰霊碑のために歌劇団ならびにOGを取りまとめたと語り継がれています。

-宝塚歌劇団 Takarazuka Revue

-タカラヅカ・スカイステージ Takarazuka Sky Stage

「私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」
"Within the mud of 'me,' faith may be lurking like the ancient seed of a lotus."

須賀 敦子 女史
Ms. Atusko Suga
1929 - 1998
兵庫県芦屋市翠ヶ丘 生誕
Born in Ashiya-city, Hyogo-ken

須賀敦子女史は教会社会活動またイタリア文学に従事したエッセイストです。カトリック左派運動の活動拠点「コルシア書店」に参加したり、カトリックの社会支援活動「エマウス運動」に従事したり、イタリア語の講師・翻訳家として活動しながら、61歳で作家デビューしました。
Ms. Atsuko Suga is Miss Atsuko Suga is an essayist engaged in church social activities and Italian literature. She has participated in the "Corsia Bookstore," a hub for the Catholic left movement, and has been engaged in the Catholic social support movement known as the "Emmaus Movement." While working as an Italian language instructor and translator, she made her debut as a writer at the age of 61.

「キリスト教」 
 淳子は須賀工業の創業家に生まれます。淳子の祖父・豊治郎は大阪に私設水道工事店「須賀商会」を創業、建築家ジョサイア・コンドルの知遇を得、次々と新式の輸入衛生器具を扱って衛生工事・衛生設備設計のパイオニアになります。淳子の父・豊治郎は日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加。日本で待つ淳子たちのもとに欧米各地の珍しいお土産が次々と届きます。ある日、敦子は一緒に登下校する友達から宣言されます。「春になったら洗礼を受けるつもり。」衝撃を受けた敦子は戦後の混乱のなかで両親の反対を押し切って洗礼を受け、教会活動に打ち込みます。聖心女子大学で学び、慶應義塾大学で社会学修士課程に進学。さらにフランス神学にあこがれてパリ大学に留学します。パリでは言葉また思想の壁が敦子を苦しめます。そこでイタリア人女性・マリア・ボットーニの紹介で夏休みにペルージャでイタリア語を学ぶ機会を得ます。マリアは若いころ、イタリア共和国大統領となるレジスタンス頭領と一緒にドイツの収容所で過ごしていました。敦子はマリアが頻繁に寄こす細かい字の葉書に触れるとともに、イタリアの言葉と文化にひかれはじめます。

「コルシア書店」 
 敦子は一旦日本に戻ってNHKで翻訳の仕事をしながら、マリアと手紙のやり取りを続け、3年後再び奨学金を得てローマに渡ります。マリアの紹介で、ミラノの「コルシア・デイ・セルヴィ書店」通称「コルシア書店」に出入りする様になります。「コルシア書店」は反ファシスト・レジスタンス活動に身を投じる2人の神父によって設立された、新しい信仰と教会のあり方を考えるカトリック左派運動の活動拠点でした。「コルシア書店」での活動に生きるエネルギーを注ぐ敦子は、やがてジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)とウディネの教会で結婚します。ミラノに居を構え、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組み始めますが、わずか5年でペッピーノが急逝。敦子はまもなくミラノの家を引き払って15年に渡るヨーロッパ生活を終えて日本に帰国します。42歳になっていました。

「エマウス運動」 
 日本に帰国した敦子はカトリックの社会支援活動、「エマウス運動」に熱中するようになります。「エマウス運動」はフランスのピエール神父が1949年に始め若者・学生が多く参加した宗教的社会活動で、大戦後に生活の手段を失った人々に住まいと廃品回収による生活基盤の提供を目指していました。敦子は日本の活動拠点である神戸のヴァラード神父を訪ね、2年後には練馬区にエマウスの家を設立し責任者となります。敦子は「エマウス運動」に熱中するかたわら、母校で講師として学生を指導しながら博士論文にも取り組み始めます。やがて敦子はイタリア経験を題材としたエッセイを執筆し始め、61歳で「ミラノ 霧の風景」で作家デビュー。女流文学賞・講談社エッセイ賞を受賞すると執筆依頼が殺到、「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」など相次いでエッセー集を出版。母校の修道女・オディール・シュレベールを主人公とする小説「アルザスの曲りくねった道」を執筆する中で病に倒れ享年69で逝去します。

-兵庫県立美術館 ネットミュージアム兵庫文学館
-イタリア文学館 須賀敦子文庫

清子 アル=サイード /  旧姓 大山清子
Ms. Kiyoko Al-Sayed / Ms. Kiyoko Oyama
1916 - 1939
兵庫県加古郡稲波町
Born in Kako-gun, Hyogo-ken

大山清子女史は日本初オマーン国王夫人。オマーン元国王タイムール・ビン・ファイサルとの間にブサイナ・ビント・タイムール王女(日本名 節子)をもうけます。
Ms. Kiyoko Al-Sayed (Ms. Kiyoko Oyama) is Japan's first Wife of the former Sultan of Oman. She bore Princess Busayna bint Taimur (Japanese name: Setsuko) with the former Sultan of Oman, Timur bin Faisal.

「シンデレラ」
 清子は兵庫県加古郡の農家に生まれるも、2歳の時に父が急逝。母・しげのは清子を連れて神戸市で大工を営む大山勘治のもとに嫁ぎます。3人の妹もうまれ、家計はなかなか苦しく、年頃になった清子は神戸市生田区三宮のダンスホール「キャピトル・ホール」へダンサーとして働きに出ます。まもなく父親と同年代の中東の男性、タイムール・ビン・ファイサルに出会います。何度断っても3か月にわたって猛烈にアプローチをされ続け、3ヶ月後には求婚されます。第一次世界大戦の特需景気で沸く日本人の1か月の給与を一晩で使う豪遊っぷりと、日本人にない紳士的な態度に清子も折れます。日中戦争前夜の米国・英国との対立が強まりつつあるときで、清子の両親は大反対。清子とタイムールは日本永住を約束することでようやく両親も折れます。半年後、日本式の結婚式をあげると、清子はイスラム教に改宗。清子19歳、タイムーン50歳は葺合区中尾町の坂の上の真新しい洋館に新居を構えます。オマーン人の料理人やメイドに家事を任せ、清子は高価な宝石やドレスを身に付け、タイムーンと一緒に食事にダンスに出かけシンデレラの様な生活を送ります。やがて一人娘・節子(ブサイナ)を授かります。

「前オマーン国王夫人」 
 するとタイムールの子供たちが自宅を訪ねてくることとなり、ここではじめて清子はタイムールがオマーン王国の元国王であり、第1夫人との長男サイードに王位を譲渡したこと、清子は第4夫人であることを明かされます。オマーン王国の真っ赤な国旗と日章旗を掲げて、清子とタイムーンはタイムールの長男でオマーン国王であるサイードとその弟ターリックならびに7名の従者を迎えます。サイードは清子の5つ上でした。神戸の青谷に300坪の土地を購入、「2人の愛は永遠。ここを永住の地と定める。」と石垣に刻んで本格的な新居の建設に取り掛かった矢先、清子は結核に侵され病院に入院します。ゆっくり療養する暇もなく、すぐに昔のダンサー仲間らがタイムールにあの手この手で近づこうとする話が清子の耳に入ってきます。清子はタイムールと節子と側を離れたがらず何度も病院を飛び出します。困ったタイムールは節子を清子の母に預けてしばらく日本を離れます。清子とタイムールは何通もの手紙を交換しながら回復を待ちますが、数か月後に清子は逝去します。太平洋戦争の始まる直前、清子の郷里・稲美町で「前オマーン国王夫人 清子 アル=サイード 23歳」と墓石に刻んだタイムーンは、王族の財産を継がせるために節子を連れて日本を後にします。

「オマーン初の日系王女」
 節子(ブサイナ)は父・タイムーンの第1夫人に預けられると、30年間の幽閉生活を強いられます。イギリスなど西洋諸国の政治干渉と借款に対抗する中でオマーン国内退去を条件に王位を退位していたタイムーンは、インドのボンベイから節子に頻繁に手紙を送ります。「日本は世界一礼儀正しい国。日本の女性ほど夫に従順でよく使えることを知っている女性は世界にいない。」「お前は私のたったひとりの娘。兄弟はすべてお前の召使だと思いなさい。」召使に傅かれながらも学校に通うことなく、道の歩き方も知らず、女性の従妹から家で読み書き・算数・料理・裁縫・刺繍などを教わって過ごします。父・タイムーンの逝去の知らせを受けて数年後、サイードの息子カーブースの起こした宮廷クーデターにより新国王カーブースが即位。軟禁を解かれた節子(ブサイナ)は自分の邸宅を構え、召使・運転手付きの専用車・料理人・侍女を抱え、従妹たちと農園・オアシスへピクニックに出かけます。医療検査と手術のためにボンベイ・ロンドン・ハンブルク・ベイルートなど初めて外の世界を見て周ります。病院で母親と死別した孤児をもらい受け養子にして可愛がります。41歳の節子(ブサイナ)はようやく日本を訪れ母親・清子の墓参りを果たします。

-『アラビアの王様と王妃たち』(下村満子, 朝日新聞1974)

「すべてはこどものために」
"All for Children"

坂野(旧姓 佐々木) 惇子 女史
Ms. Yoshiko Banno / Sugino
1918 - 2005
兵庫県神戸市 生誕
Born in Kobe-city, Hyogo-ken

坂野(旧姓 佐々木) 惇子女史は子供服「ファミリア」創業者。欧米の合理的な育児法を紹介したり、「子供服研究所」を設立しながら、日本の子供服業界を牽引しました。
Ms. Atsuko Sakano (nee Sasaki) is the founder of the children's apparel company ``Familiar.'' She led Japan's children's clothing industry, introducing Western and American rational childcare methods and founding the Children's Clothing Research Institute.

「レナウン創業者の娘」
 惇子は、京都に12代続く豪商で舶来雑貨商を営む父・佐々木八十八と母・倆子の裕福な家庭に育ちます。惇子が甲南高等女学校を卒業する頃には、大阪府多額納税者・貴族院多額納税者議員となった父親が高級メリヤス製品の製造業「レナウン・メリヤス工業株式会社」を創業。 惇子は山口銀行総理事の子息・坂野通夫と結婚。長女を出産した惇子はフランス製の刺繍糸、英国製の毛糸・刺繍用布地・洋服地を買い集め、外国村で活躍する外国人専門ベビーナース・大ヶ瀬久子から欧米の育児法を学びます。まもなく夫が海軍に徴兵されインドネシアに赴任、神戸大空襲で資産を失って疎開籍の岡山県で敗戦を迎えます。

「手芸品販売店」
 預金封鎖や財産税などを受けて実家も苦境に陥ります。生活のあてもなく途方に暮れる惇子に、沖縄戦から復員して「レナウン」再建に奔走する幼馴染の尾上清は「もうお嬢さん生活じゃダメだよ。自分の手で働く、一労働者にならんといかんね」。惇子は家で育児をしながら近所の人に子ども服を仕立てたり、自宅で刺しゅうや編み物を教え始めます。ある日、まっさらのハイヒール半ダースを抱えて、実家に出入りしていた靴職人・元田蓮をたずねると、好意で陳列棚の提供を受けます。早速、惇子は女学校時代の友人・田村江つ子、田村光子、村井ミヨ子の4人に声をかけ手芸品の販売をはじめます。

「ベビーショップ」
 やがて惇子たちは「せっかく覚えた新しい育児経験をもとに、あかちゃんや子どものためのかわいい良いものを作って売ればどうかしら」と思いついて「ベビーショップ・モトヤ」を神戸三宮センター街のモトヤ靴店の一角で開業します。縫い目を外側にして赤ちゃんの肌に触れないようにした肌着・ベビー服、アップリケや刺繍付きのよだれかけ・エプロン・子供服、手編みのレギンス・サックコートなどは、外国製の良質な刺繍糸・毛糸・生地を使用して手間暇かける丁寧なつくりでたちまち大評判となります。1年後、熱心に事業化を勧める元田蓮から角地の店舗の提供を受けることになります。

「ファミリア」
 惇子たちは「全国のお母さんから本当に愛されるベビー用品のパイオニアになろう」と「ベビーショップ・ファミリア」を創業します。六甲山の麓に「子供服研究所」を設立、「自分の子どもに着せたい」丁寧な服作りに取り組みます。また、外国人専門ベビーナース・大ヶ瀬久子の相談会を実施したり、欧米の育児法・育児知識などを「ファミリア・ガイド」にまとめて配布します。開業1年のうちに阪急百貨店の梅田本店(大阪)に、5年後には数寄屋橋阪急(東京)に直営店をオープンさせ、9年目には皇太子妃美智子妃殿下の御用達を仰せつかります。その後も、日本で初めて「スヌーピー」商品を販売、東京・銀座に子供用品だけを扱う日本初のデパート「銀座ファミリア」を開店するなど、日本の子供服業界の代表的企業に育て上げます。

-familiar
-甲南女子学園

大阪府 Osaka-Fu

与謝野 晶子 女史

Ms. Akiko Yosano

1878 - 1942

大阪府堺市 生誕

Born in Sakai-city, Osaka-fu

「山の動く日来る、全て眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」

"The day of the moving mountain arrives, all sleeping woman, now awaken and move."

与謝野晶子女史はロマン派女性歌人の草分けです。歌集『みだれ髪』で若い恋愛・性愛をおおらかに歌って一世を風靡しました。評論家また日本初の女性童謡作家として活躍。母性保護論争の後、女性の完全な個人を目指して文化学院を創立しました。

Yosano Akiko was a pioneering female poet of the Romantic movement. In her poetry collection "Midaregami," she openly and generously sang about youthful love and passion, captivating a generation. She also excelled as a critic and became Japan's first female writer of children's songs. After the debates on maternal protection, she founded a cultural institute, aiming for women to pursue their complete individuality.

*******

晶子(本名 鳳志やう)は、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町)で老舗和菓子屋「駿河屋」の8人兄弟姉妹の三女として生まれます。9歳から漢学・琴・三味線を学び、堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学。店番をしつつ和歌を投稿し始め、16歳のとき『文芸倶楽部』に短歌が掲載されます。ヨーロッパの影響で短歌革新運動が起こると、河井酔茗や河野鉄南たち主宰の浪華青年文学会(のち「関西青年文学会」)堺支会に入会。晶子は情熱的に思いを寄せていた僧侶・鉄南の勧めにより、与謝野鉄幹が創刊する『明星』に鉄南への恋心を投稿し始めます。誌面で晶子は山川登美子とともに「妙齢の閨秀作家」として、鉄幹の思わせぶりな返歌とともに紹介されるようになります。まもなく文学結社「東京新詩社」の参加者を募って鉄幹と山川登美子が来阪すると、晶子は鉄南と一緒に大阪北浜の平井旅館まで訪ねます。翌日の浜寺寿命館での歌会をきっかけに『明星』誌上で妻子ある鉄幹を巡る晶子と登美子の三角関係の恋歌が大変な話題となると、怪文書「文壇照魔鏡」で鉄幹の数々の女性関係が糾弾され、今とばかりに晶子は実家と縁を切って鉄幹を追って上京。2か月後には鉄幹プロデュースによる歌集『みだれ髪』で、24歳の晶子は鉄幹との恋心と情事をせきららに発表、ベストセラーとなります。翌年、晶子は鉄幹と結婚。夫・鉄幹はさらに結社の女性歌人たちとの恋歌のやりとりを誌上に掲載して話題を集めるなか、晶子は子育てに文筆活動に励みます。26歳の時に日露戦争下で『明星』に「君死に給うこと勿れ」発表するやいなや「乱心賊」と激しく糾弾されます。ロマン主義が廃れるとともに『明星』が廃刊する一方、晶子は33歳の時に『青鞜』発刊に「新しい女」の一人として参加、創刊号に「山の動く日」を寄せます。そんな中、夫・鉄幹をパリに遊学させるも寂しさのあまり鉄幹を追いかけますが、子供恋しさのあまりすぐに帰国。晶子はヨーロッパ見聞録とともに女性の権利・地位の向上を新聞・雑誌・講演などで訴えはじめます。41歳の時に『婦人公論』で「妊娠分娩等の時期にある婦人が国家に向って経済上の特殊な保護を要求」することを批判、平塚らいてう・山川菊栄・山田わからと母性保護論について激しい議論を繰り広げます。44歳の時に建築家の西村伊作はじめ山田耕作・北原白秋・石井拍亭・寺田虎彦・有島武郎・河崎なつ・芥川龍之介とともに東京の駿河台に女性を「完全な個人」に導く目的のもと「文化学院」を創設。夫と共に教壇に立ちながら、晶子は分かりやすい新訳の「新新訳源氏物語」に取り掛かります。関東大震災で学院とともに原稿を全焼するも、夫の突然の死に思い立ったかのように執筆を再会、闘病しながら60歳のときに刊行します。晩年は軍歌『爆弾三勇士』『皇軍凱旋歌』をつくる夫とともに日中戦争を支持、『紅顔の死』では中国の学生隊の躯を「やさしき母」「美くしき許嫁 」ある「敵の死屍」と憐れみ「善き隣なる日本をば侮るべしと教へし」「十九路軍の総司令の愚かさよ」と括っています。

-与謝野晶子記念館 Sakai Plaza of Akiko

「覚悟はできているのよ」
"I'm ready."

五代 藍子 女史
Ms. Aiko Godai
1876 - 1965
大阪市北区若松町 生誕
Born in Kita-ku, Wakamatsu-city

五代 藍子 女史は「最後の女山師」。明治初期、鉱山王の父・友厚が譲渡した三重県治田村(現・いなべ市)の治田鉱山を買い戻して鉱山経営を始めます。
Ms. Godai Aiko is "the last female mine owner." In the early Meiji period, she bought back the Hatta Mine in Hatta Village (present-day Inabe City) in Mie Prefecture, which his father Tomoatsu, a mining tycoon, had previously transferred ownership.

「男装の令嬢」
 藍子の父・五代友厚は明治初めに全国140余カ所の鉱山を次々に継承、開坑して鉱山王としての道を究めます。友厚邸の100間(182m)四方の敷地に3軒の仕舞屋を建て、1軒目にもと芸者・吉田多喜、2件目に早世した小松帯刀の愛人と子供、3軒目にもと芸者・宮地勝子を住まわせます。母・勝子の長女武子に続く次女として藍子は誕生。大阪の愛日小学校に入学すると、読み書きの勉強をよくしながら、蛙をつかんで切れた鼻緒の下駄をぶら下げてはだしで歩いて帰ってくるやんちゃ娘。9歳の時に父・友厚が逝去すると、2男4女の腹違いの子供を巡って家庭内騒動が度々勃発。本妻とは折り合いが悪い16歳の藍子は、福島の半田鉱山の事業を継いだ九里龍作と姉・武子の夫婦のもとに身を寄せます。それから単身上京して仏英和高等女学校(現・白百合学園高校)に入学。フランス語を勉強しながら、たびたび福島の龍作を訪れ鉱山経営について学びます。断髪に男下駄で早くから生涯独身を宣言します。心配するまわりの勧めで、女性教育の先駆者・下田歌子の秘書に採用されます。よく口論をしては「一度精神修養をなさったら・・・」、歌子に京都の妙心寺に送り込まれるも「精神はつかみどころがなくて理解できません」藍子は座禅修行から早々に逃げ出します。それでも歌子をよく助け可愛がられた藍子は歌子に見込まれ養子に望まれますが断ります。「私にはひそかに抱いている夢があります。」

「最後の山師」
 藍子は足尾銅山の公害問題が社会で話題になる中、藍子は広岡浅子と九州の炭坑に随行した井上秀に会いに行きます。「荒くれ者の坑夫たちと寝起きをともにして渡りあうのに懐にピストルを忍ばせていたのよ。石炭ならまだしも鉱山となると・・・」「覚悟はできているのよ」42歳の藍子は父・友厚の稼業を継ぐ気持ちで、近江の富豪・小林吟右衛門でさえ破綻をきした三重の治田鉱山を訪れ採掘権の譲渡を申し入れます。

『村有土地賃貸借契約書
「大阪市北区若松町45番地五代アイは治田村大字新町南河内において鉱山採取の目的をもって採掘を為すにつき、治田村長小高徹は土地所有者治田村を代表し左の通り契約を締結す。
以下各条の要約
事業者(五代アイ)は採掘地の借り賃として年間45円を治田村へ支払うこと、但し3年後からは毎年60円とする。飯場や小屋掛けの場所は1坪あたり5銭また3銭とする。将来、盛山となり収益が出たときは、その2/100を冥加金として治田村に納付すること。たとえ採掘許可区域内であっても流木は一切伐採しないこと。合わせて裏以外の材木を買い入れ使用しないこと。
大正8年6月30日
土地所有者 小高 徹
事業者 五代 アイ
保証人 小森 九朗・伊東 定次郎』

 42歳のアイは侍女・ウメを伴って治田村に移り住んで「女山師」となり、鉱山開発に心血を注ぎます。真っ白な木綿のブラウスに地下足袋・ニッカポッカ・六角杖で愛犬にひかれて鉱山通いを日課とします。村の若者20~30人を集め、はじめに大八車が通れる道路を切り開きます。『大通洞坑橋』の看板を掛け、三角州でできた広場に事務所と飯場を建てます。松根油で灯を取り、入口の唐箕で空気を入れ替え、坑内に2本のレールを敷いてトロッコを走らせながら掘り進めます。藍子は山のあちこちにツルハシを刺して岩石を舐めて鉱質を確かめます。それから10年、20万余の大金を投入、洞坑670mを掘り進めるもめぼしい鉱脈は出てきません。東京・大阪・名古屋から知り合いの学者や鉱山事業者が訪れます。「普通では難しい山だ。」「幕府のお手山の上部は荒らされているが、下部にはきっと大きな鉱脈がある。」事故で足を悪くしてもなお坑内のクモの巣の中を縦横に走り廻りながら、経済情勢の資金不足・よる年波に抗いながら、志半ば88歳で逝去。

-『五代友厚秘史』
-『治田鉱山史』

#三浦春馬 #五代友厚 #広岡浅子 #下田歌子 #五代藍子

「私の中身はピンク色に輝き、トイレでスカートをめくるとピンクの世界が開ける」
"My insides glow pink, and when I flip my skirt in the bathroom, a pink world opens up."

鴨居 羊子 女史 
Ms. Yoko Kamoi
1925 - 1991 
大阪府府中市 生誕
Born in Hutyu-city, Osaka-Fu

鴨居羊子女史は日本初の下着専門デザイナー、下着メーカー「チュニック制作室」を設立。カラフルで大胆な化学繊維の下着で個展やショーを開催してブームを巻き起こしました。従来の下着観と女性の身体を偏見から解放したことで「下着の革命家」と称されています。
Ms. Yoko Kamoi is Japan's first specialized underwear designer and founder of the underwear brand "Tunic Production Studio." She created a sensation with her colorful and bold chemical fiber underwear, holding exhibitions and shows that broke free from traditional notions of underwear and liberated women's bodies. She is often referred to as the "revolutionary of underwear."
********

「ピンクの花柄ガーターベルト」
 羊子は、新聞記者の父と絵画・彫刻科卒の母と兄と弟と大阪、金沢、朝鮮京城で過ごします。大好きな兄は戦死、戦後に父親が脳溢血で死去。旧制大阪府女子専門学校(大阪女子大学)国文科を卒業後、新関西(夕刊紙)の校正係・家庭欄記者や、大阪読売新聞の学芸課記者として活躍します。ある日、小さな舶来雑貨の店でピンクの花柄プリントのガーターベルトに魅せられ、給料をはたいて衝動買いをしてしまいます。早速翌日から着用すると、スカートをめくる度にピンクの世界が開けてきてトイレに行くのが楽しくなります。一方、ファッション雑誌やデパートが盛んに宣伝します「スタイルの悪いのは下着のせいです」。取材先のワコールではコルセットやブラジャーなどファンデーション(補正下着)で体を締め付けます。「へんな男女同権論を振り回すより新しい下着を身に付けた方が古い生活を捨てるのによっぽど役に立つのではないか?」

「キキースリップ」
 羊子は下着の歴史をコツコツ調べ上げ、豊富な色・柄・デザインのかわいい下着を愉しむように、工夫をこらしては精神的・衛生的・実用的な効用を自ら確かめます。そして見当をつけると29歳の羊子は新聞社を退社、退職金3万円を手元に、以前取材で目をつけていた東洋レーヨンから新素材ナイロンを手に入れ、友人・小野寺篤子ならびに恋人・森嶋瑛を誘って「チュニック制作室」を立ち上げます。エジプト人が初めて着た貫頭服「チュニックスリップ」、藤田嗣治やキスリングらエコール・ド・パリの画家たちのモデルのキキに因んだ色や柄の豊富な「キキースリップ」、夢に出てきた狸姫の「チューリップスリップ」、布地の少ないスキャンダルパンティ「スキャンティ」、体の線が美しく出る「キャミター」、アホウのようにゆったりした「AHOピジャマ」、キャットガーター、メリーブラジャー、スキャンティ、ペペッティ、ココッティなどのデザインを製品化するとともに実用新案意匠登録します。

「下着ぶんか論」
 羊子は取材で知遇を得ていた作家の司馬遼太郎・山崎豊子・今東光、グラフィックデザイナー早川良雄らの後押しを得て、大阪そごうで「Wアンダーウェア展」を開催。「衣服は年々あたらしくなるのに下着は習慣のまま十年一日。それは古い観念に支配されているからで、性を抑圧して人間をイビツにすることにつながっている。」評判がじわりじわり高まる中、ヌードサービスが禁止されたばかりの大阪のヌード喫茶改めモード喫茶から大量注文を受けてようやく借金から解放された羊子は、大阪心斎橋に会社を構えます。「肉体を露出していない」羊子の透き通る化繊下着のショーは、ワコール社員から「ストリップショーだ」と吐き捨てられるも下着革命を巻き起こします。羊子自身による監督映画「女は下着で作られる」では様々な下着姿はじめジプシー・ローズのストリップシーンを披露。洋子は「下着ぶんか論」はじめメディアで「格好いい女性の生き方」を発信しながらエッセイストまた画家・デザイナーとして活躍します。

-チュニック株式会社 TUNIC CO. LTD.
-『下着ぶんか論』(鴨居洋子 著 / 凡凡社 1958年)

「私は、いのちあるかぎり、生き生きした障害者運動の道を歩いたんねん」
"As long as I live, I will walk the path of a vibrant movement for people with disabilities!"

入部 香代子(旧姓 長沢香代子)女史
Ms. Kayoko Iribe
1950 - 2012
大阪府寝屋川市 生誕
Born in Neygawa-city, Osaka-fu

入部香代子女史は、日本初の車いすの女性市議会議員で、障害者解放運動の先駆者です。24時間介護と車いすが必要な脳性麻痺の重度障害者として、街で自立生活をしながら、障害者が就労できる場所づくりならびに街づくりに取り組みました。
Ms. Kayoko Iribe is Japan's first female city council member in a wheelchair, and a pioneer in the disability liberation movement. As a person with severe cerebral palsy requiring 24-hour care and a wheelchair, she worked towards creating places where people with disabilities can work and contributed to community development while leading an independent life in the city.

「かわいそう?」
 香代子は1歳3か月の時に麻疹にかかり高熱が1カ月続いて脳性まひになります。母親は「何でこんな子」を産んだと責められ、香代子を家に閉じ込めます。やがて家で面倒を看られなくなった香代子は13歳から障害者施設に収容させられます。そして、障害児は就学免除・猶予で義務教育は受けなくてもよいとされ、学校に通う権利を奪われます。香代子は施設で青春時代を過ごします。20歳を過ぎた頃、施設時代をともに過ごした金満里に誘われ、CP(Cerebral Parlsy=脳性麻痺)の自立運動家団体「青い芝」の日常・生活・思想らをカメラに収めた映画「さようならCP(Cerebral Parlsy=脳性麻痺)」の上映運動、ならびに喫茶店やパチンコ屋やその他、街のいろんな所に障害者が行ったのをただ撮っただけの映画「カニは横に歩く」の制作活動に参加します。金満里また鎌谷正代とともに「青い芝」の優生保護法交渉・養護学校義務化反対運動・川崎バス闘争・和歌山センター闘争などの闘争に参加、「青い芝」の3烈女と恐れられます。

「そよ風のように街に出よう」
 障害者解放運動から生まれた合言葉に誘われて、香代子は街に繰り出しアパート暮らしを始めます。香代子は介護者とデパートや映画に行く道々で「病院に行くの?どこの施設から?」など声をかけられ、「障害者用の設備がない」と入れてくれない喫茶店・美容院・町医者がほとんど。電車に乗ろうとすると「車いすの方はラッシュ時を避けて9時から5時までしか乗車できません」と駅員から注意される上に、車いすは荷物扱いされ荷物料金を取られます。その度に、香代子は駅員また店員と言い争いになります。それでも、香代子の脳性マヒの車椅子生活は、恋・妊娠・出産と、障害者の可能性をどんどん拡がります。香代子が妊娠すると、母親からは「あんたの体で赤ちゃん産んだらあんたが死んでしまう。子どももかわいそうや」、医師からは「産んでから誰が子どもの面倒をみるのか。堕ろしますか?堕ろすんでしょう?」の言葉をかけらます。

「あんたら健全者が何もせえへんかったら、わたしら障がい者は生きていかれへんのやで」
 香代子は座談会などに積極的に参加して介護者を勧誘します。車いすに座って論争しながら、介護者がストローをさしたコップを口元に近づけるのをズズッと飲んだり、介護者が箱から1本取り出し指に挟んだ煙草を口にくわえて吸いこんだり、参加者には香代子と介護者との連携プレーがとても新鮮に映ります。香代子に「あんたも介護に来てや~」と声掛けされると、「え~、どうしたらええんやろ」と考える間もなくあれよあれよと介護に入ることになります。香代子は出産を決意すると同時に24時間介護を受けての生活を始めます。右も左も分からない二十歳前後の学生が入れ替わり立ち替わりやってきます。香代子は脳性麻痺の硬直をきつくさせながら、介護者ひとりひとりに対して、自分の体の洗い方、お尻の拭き方、着替えの仕方、流行の編み込み・巻き髪のセットの仕方、たばこのふかせかた、食事のメニュー、口への食事の運び方はじめなどを細かく指示します。介護者は朝8時からの昼介護と夕方7時からの泊り介護で1日2人体制、子供が生まれると昼間は2人に増員して1日3人体制。香代子は家事も育児も細かく指示しながら、自分と子どもの為に必死でスムーズな日常生活を確保します。

「地域であたりまえに生きる」
 行き場がなく小規模作業所を自らの手で作り、親・教師・友人の手を借りて地域の中で必死に生きようと懸命に頑張る障害者たちを目にする中で、香代子は26歳の時に「障害者自立センター・AZの会」を立ち上げ、「AからZまでみんなが安心して暮らせる街を創ろうよ」と呼びかけます。豊中市の環境市民運動と密着しながら障害者の働く場をつくろうと考え、障害者と健常者が一緒に廃油を原料にして粉石けんをつくる作業を始めます。作業所ではなくて事業所として行政と助成金の交渉を続けながら、粉せっけんはじめ無添加パンを製造しながら、障碍者の自立トレーニング・人間関係づくり・地域での自立を促します。障害者の地域での生活を少しでも確保したいというみんなの願いを背負い、雇用促進法での助成金・売上・カンパ・内職・市の公園掃除の仕事で何とか職員の給料を払いながら、月によっては赤字をどうして埋めようかなど散々苦心しながら香代子は運営を続けます。

「困った状況にある人のことは何とかしなあかん」
 41歳の香代子はAZの会ならびに市民団体の仲間に促され、豊中市議会議員に立候補します。香代子は自分が困っている介護・住宅問題・教育・障害者の就労といった問題を掲げ、豊中市で「全国初の車椅子の女性市会議員」となります。4期16年にわたる議員生活で、街や駅また市議会の場のバリアフリー化に尽力、豊中市の介護福祉体制の改善に力を注ぎます。香代子は府中市民からさまざまな相談を受けます。「死にたい」「殺される、もうだめ」電話を受けると、介護者をかけつけさせ、自分も助けにいきます。何年も風呂に入っていない障がい者、借金まみれの人、家族が皆精神的に病んでいく家など、支援が必要な相談者のために、香代子は脳性マヒの硬直をきつくさせながら、議員や市職員に怒ったりハッタリをかけたり説得力満点で訴え、時には介護者泣かせの支援体制をつくります。香代子は議員引退後も、一障害者市民として社会にメッセージを送り続けます。2次障がいで首・股関節・足の痛みならびに脳性まひの硬直がひどくなり、肝硬変が進行してトイレも困難になりながらも香代子は外出を続けます。やがてベッドでばかり過ごすようになりながらも、香代子は介護者に自分のやりたいことを伝えて「障がい者主体」を実践します。香代子は最後まで自分らしく生きることにこだわって「ちゃうねん、なんでやねん」を繰り返して62歳で逝去します。香代子が二日市安、楠敏雄とともに結成した「障害者の自立と政治参加をすすめるネットワーク」 は、現在の参議院議員、木村英子・舩後靖彦・天畠大輔・に至るまで活動を継続しています。

-CIL豊中(豊中自立支援センター
-障害者の自立と政治参加をすすめるネットワーク

「見えないから、気づく」
"Because I can't see, I notice."

浅川 智恵子 女史
Ms. Chieko Asakawa
1958 -
大阪府豊中市 生誕
Born in Toyonaka-city, Osaka-fu

浅川智恵子 女史は日本女性初の全盲の情報技術者・IBMフェロー(IBM技術系最高職位)・全米発明家(NIHF: National Inventors Hall of Fame)殿堂入り。点字のデジタル翻訳システムを開発、デジタル点字図書館の基礎を構築。世界初の音声ブラウザー・ソフトウェア「ホームページリーダー(HPR)」を発明。
Ms. Chieko Asakawa is the first blind female Information Technologist in Japan, an IBM Fellow (the highest technical position at IBM), and a member of the National Inventors Hall of Fame (NIHF). She developed a digital translation system for Braille, laying the foundation for digital Braille libraries. She also invented the world's first voice browser software called "Home Page Reader (HPR)."

「繋がっていたい」
 智恵子は会社員家庭に生まれ水泳に夢中になります。ところが、11歳の時にプールでの事故をきっかけとして14歳のときに視力と「体育大学に進んでオリンピック選手になる」という夢も同時に失います。それでも家に引きこもることなく学校に通い続けます。「社会と繋がっていたい、学校と繋がっていたい、友達と繋がっていたい」。自分で教科書は読めず、辞書も引けず、授業についていけない中、興味のある英語の教科書をテープに吹き込んでもらって丸暗記を始めます。驚いた先生・生徒たちがサポートしてくれるようになります。「目が見えなくてもいろいろなことを楽しみたい」。高校は盲学校に通い、とにかく途方に暮れながら一から点字を学び、さまざまな基礎的なトレーニングを受けながら、陸上・水泳・スキー・スケートなど挑戦します。「何か自分にしかできない仕事に就きたい」。智恵子は通訳を目指して追手門学院大学文学部英文科に進学、アメリカ留学もします。会議通訳のために膨大な点字資料を四苦八苦して読み込む中、情報技術・ITエンジニアという新たな職種を知ります。早速、智恵子は視覚障がい者向けの情報処理トレーニングを提供する専門学校に2年間通って必死でプログラミングを習得。IBM東京基礎研究所で唯一の視覚障碍者の学生研究員として、英語テキストを英語点字に変換するプロジェクトに参加します。「あきらめなければ道は開ける。不可能は可能になる。」

「自分にしかできない仕事」
 智恵子は視覚障害者向けの点字をデジタル化するプロジェクトを立ち上げます。点字タイプライタを使って直接紙に点字を打つのではなく、パソコンで編集した文章を点字プリンタで出力できる新たなシステムを開発。さらに全国のボランティアはじめ点字図書館をネットワークでつないで点訳データを共有、デジタル点字図書館(現在のサピエ図書館)の基礎を作ります。東京で点字翻訳されたものが、その日のうちに日本中で共有できるようになります。結果を出した25歳の智恵子はIBMの視覚障害者としては唯一の研究員として採用されます。そしてPCが登場。結婚・出産・育児をやりくりしながら、智恵子は「ネットは見るだけでなく音声でもアクセスできる」と周りの目の見える研究者の偏見を拭いながら、視覚障がい者向けにウェブページを音声で読み上げる世界初の音声ブラウザー・ソフトウェア「ホームページリーダー(HPR)」を発明。マウスのかわりに数字キーパッド(テンキー)を操作するだけでリンクを読んだり探したり、Web上の情報を行読みしたりパラグラフ読みできるようにします。すると視覚障碍者さらに運転中のドライバーや高齢者のための音声ナビゲーション・システムに発展。この功績が認められ、智恵子は全米発明家(NIHF: National Inventors Hall of Fame)に日本女性初で殿堂入りを果します。「障がいがあるということは大変でも健常者とは違う視点でいろいろな技術を生み出すこともできる。」

「障碍者支援技術でイノベーション」
 ウェブ上に視覚的な情報がどんどん増え音声認識が難しくなっていく中で「視覚障碍者が視覚を使わないで、触覚と聴覚だけで、どこまで視覚情報を認識できるのか」智恵子は43歳で東京大学大学院工学系研究科博士課程に進学します。技術開発リーダーとして障碍者支援プロジェクトや、アクセシビリティー実現のための研究を続け、51歳で日本人女性初のIBMフェロー(IBM技術系最高職位)に就任します。「もっと気楽に町歩きがしたい」「周りの雰囲気を楽んでショッピングしたい」。智恵子は視覚障害者の自由な移動を助けるナビゲーションロボット、AIスーツケースの実用化に向けて取り組みます。センサーやモーターを内蔵したスーツケースにスマートフォンであらかじめ目的地を入力、スーツケースのハンドルを持つと自動的に動き始め、センサーが周囲の障害物や人物を認識して持ち手部分の振動で方向を知らせ、スマートフォンから音声で到着や店舗の情報などを知らせる仕組みを、オープンソースとして広く社会に公開します。61歳の智恵子は、宇宙飛行士・毛利衛に続く日本科学未来館の2代目館長に就任。研究者や開発者はじめキュレーターや運営スタッフと一緒に、みんなが自分事として社会課題を実感できるように2年をかけて常設展示リニューアル。障碍者を支援する技術で社会に変革をもたらすべく、来館者と一緒に社会実装実験に取り組みます。「他の人たちと違う視点を持つことは想像力のリミッターを外すきっかけになる。」

-『見えないから、気づく』浅川智恵子著(聞き手:坂元志歩)ハヤカワ新書2023年
-IBM
-サピエ図書館
-日本点字図書館
-日本科学未来館

奈良県 Nara-Ken

善 信尼 女史

Ms. Zenshinni

574 - ? 

奈良県奈良市向原 生誕

Born in Nara-city, Nara-ken

善信尼は日本初の出家者であり、日本初の海外留学生として百済に渡って仏教を学び、帰国後は桜井寺にて飛鳥時代の仏教興隆に貢献しました。

Zenshinni was Japan's first ordained monk, and as Japan's first overseas student, went to Baekje to study Buddhism, and after returning to Japan, contributed to the rise of Buddhism in the Asuka period at Sakurai-dera.

*******

百八十神(物部氏・中臣vs 仏教(蘇我氏)1

 嶋は渡来系技術者・司馬達等の娘として生まれます。父・達等は南梁また百済ゆかりの仏教技術者として、522年に技術者集団を率いて日本の朝廷に赴き、蘇我大臣稲目の庇護のもと日本ではじめて大和坂田原に仏堂を開いていました。嶋も幼い頃から仏堂に安置されている本尊に礼拝しながら仏教への信仰心を育んでいきます。嶋が生まれる少し前の538年には、日本の欽明天皇は百済の聖明王から金銅の仏像一体、幡蓋(仏具)若干、経論若干巻の贈られます。蘇我大臣稲目は言います。「朝鮮半島の諸国はみな、仏教に礼拝しています。日本だけひとり背くことはできません」。物部大連尾輿と中臣連鎌子は言います。「我が国家の天下の王は常に天地社稷の百八十神であり、春夏秋冬の祭に拝むものです。よその神を拝めば、国神が怒り恐ろしいことになります。」。仏像は蘇我大臣稲目の小墾田・向原の家を清めた寺に安置されますが、疫病の流行を理由に廃仏派に難波の堀江に投げ捨てられ寺には火をつけられます。さらに欽明天皇の宮殿も燃えます。以後、仏教は弾圧を受けるようになります。

百八十神(物部氏・中臣氏) vs 仏教(蘇我氏)

 10歳の584年、日本の敏達天皇は百済から日本に弥勒菩薩2体がもたらされます。崇仏派2代目の蘇我馬子の命を受けた嶋の父・司馬達等は、蘇我東側に仏塔と仏殿を建立して弥勒像を安置します。さらに池辺直氷田と一緒に四方に使者を出して仏教修行者を訪ねまわり、播磨国で高句麗出身の僧・恵便を探しあてます。嶋は11歳のときに同郷の娘2人とともに恵便を導師として出家します。3人は善信尼はじめ禅蔵尼また恵善尼と名乗り修行に励みます。ところが疫病の流行を理由に、廃仏派2代目の物部守屋と中臣勝海らは再び仏塔・仏像・仏殿を毀して焼き払い難波津に投げ捨てます。12歳の善信尼禅蔵尼また恵善尼と一緒に捕らえられ、三衣(袈裟)を剥ぎ取られ海石榴市亭(奈良県桜井市の駅舎)の群衆の前で鞭打たれ幽閉されます。かえって天皇はじめ国中に疫病が広まると、世論を味方につけた善信尼らの禁固は解かれ、父・司馬達等また兄・多須那によって建立された丈六仏寺にて修行また礼拝に励みます。丁未(ていびん)の乱が勃発すると、崇仏派の完全勝利により仏教は推進され普及していきます。

シャーマンのような尼僧

 百済からの使者とともに、本格的仏教を弘めるための仏舎利また僧侶はじめ仏寺技術者が派遣されてくる中、善信尼は百済に渡って正式な寺僧から受戒したいと馬子に願い出ます。588 年、百済の使者とともに14歳の善信尼はじめ禅蔵尼また恵善尼は百済に渡り、百済の宮中にある皐蘭寺(コランサ)で修行に励みます。皐蘭寺直上の落花岩からは、百済滅亡時に宮女3000人が身投げすることとなります。2年後、六法戒(式叉摩那の戒)と大戒(比丘 ・比丘尼 の戒)を授した善信尼らは百済から帰国、桜井寺に落ち着きます。桜井寺はかつて蘇我稲目が欽明天皇から下賜された百済の仏像のために家を清めた寺です。そして桜井寺から、大伴狭手彦連女(むすめ)善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光・漢人善聡・善通・妙徳・法照・善知聡・善知恵・善光など尼僧が誕生します。さらに仏教を篤く信仰する皇后また女性天皇が登場します。善信尼の兄・多須那も徳斎となりますが、以後しばらく男性の出家は行われません。善信尼ら尼僧たちによってシャーマンのように日本仏教の基盤がつくられます。しかしながら、東大寺大仏殿の法要あたりから徐々に表舞台から女性僧侶が排除されていき、仏教内においても尼僧の地位が低下させられ女人禁制が誕生します。宮廷はじめ一般社会においても女性の役割また活躍の場が縮小されていきます。

-奈良国立博物館 Nara National Museum

-『日本書記』、『扶桑略記』、『元興寺縁起』'Nihon Syoki', "Fuso Ryakuki', 'Genkoji Enki'

光明皇后 Empress Komyo
701 - 760
奈良県奈良市佐紀町
Born in Saki-machi, Nara-city, Nara-ken

「我自ら千人の垢を去らん」
"I shall cleanse myself of the impurities of a thousand people."

光明皇后は日本で初めて薬局・病院・孤児院・風呂を開設、庶民に開かれた福祉施設の原点をカタチづくりました。
Empress Komyo is the first in Japan to establish pharmacies, orphanages, and public baths, laying the foundation for welfare facilities accessible to common people.
********

「民間出身初の皇后」
 光明子は官職を独占する藤原氏一族筆頭の藤原不比等と、乳母・養育係として宮仕えをする県犬養橘三千代の三女として生まれ、入内した異母姉妹・藤原宮子の生んだ首皇子のもとに15歳で入内します。すると母・三千代の同族である県犬養広刀自も首皇太子妃となります。まもなく光明子は阿倍内親王(後の孝謙天皇)そして待望の基皇子を出産。広刀自も井上内親王そして
安積親王を出産します。首皇子は即位して聖武天皇に、光明子ならびに広刀自はそろって皇太子夫人となります。ところが光明子26歳の時に基皇子は夭折してしまします。翌年、藤原一族はクーデターを起こし有力な皇位継承候補である長屋王と吉備内親王そしてその皇子はじめ一族を抹殺。同年、光明子は民間出身初の皇后に立てられます。

「福祉事業の母」
 仏教信仰を篤くするようになった光明皇后は中国史上唯一の女帝である則天武后に倣います。即位と同時に、長屋王邸を取り潰して、皇后の家政機関として皇后宮職を設置、執政や社会事業を行う拠点とします。翌年、興福寺に施薬院・治者院・悲田院を設け、五重塔を建立します。施薬院は医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集め、さらに自宅で保養できない病苦孤独者を治者院を収容し治療します。悲田院は乳母・養母が捨て子また孤児、また貧窮孤老者を労養世話します。ならびに法華寺を創建、自ら尼僧の仏学研鑚を勧めながら、薬草を用いた蒸し風呂、庶民のための「からふろ」を設けます。光明皇后は、藤原一族と皇室の財産をつぎ込んで、福祉事業、写経事業、国分寺・国分尼寺・大仏建立を行います。

※この頃から、捨て子が急増します。というのも、父から子への官職の世襲制・夫を家長とする家制度が成立、女性たちは財産相続権利を奪われるとともに独立して生計を立てることが困難になります。さらに、世襲・家柄により社会的・公的身分が認知されるようになると、後継ぎの男子を生む女性が重要視され、働く女性は軽蔑視され始めます。同時に、後継ぎの男子を育てる乳母また養育係に高い位と経済的保障が与えられ、女性のあこがれの職業となります。

-宮内庁 Imperial House hold Agency
-国立国会図書館 National Diet Library of Japan
-総国分尼寺法華寺 Hokkeji

和歌山県 Wakayama-Ken

「絶望の淵から這い上がった経験こそ、金メダル以上の価値があった。」
"The experience of crawling out of the depths of despair was worth more than a gold medal."

前畑 秀子 女史
Ms. Hideko Maehata
1914 -1995
和歌山県橋本市 生誕
Born in hashimoto-city, wakayama-ken

前畑秀子女史は日本の水泳選手、日本初のオリンピック女子金メダリストです。母校の水泳指導や市民向け水泳教室などで、水泳の普及に尽力。
Ms. Hideko Maehata was a Japanese breaststroke swimmer and the first Japanese woman to earn a gold medal in the Olympics. She worked hard to popularize swimming at her alma mater's swimming instruction and citizen's swimming class.

*******

「紀ノ川」
 秀子は和歌山県伊都郡橋本町(現、橋本市)に豆腐屋の5人兄弟のたった一人の女の子として生まれます。生まれたときから虚弱で病気ばかりしていた秀子を、母親は5歳まで丸刈りにして高野山におぶって参詣しながら育てます。やがて頑丈に成長した秀子は負けず嫌いで大人しい兄さんたちを負かして泣かせるようになります。夏になると、紀の川の清流に臨む実家のすぐ裏手の妻の浦で毎日水遊びをして水を恐れぬ娘に成長します。母親は秀子に言います。「お前は体もええし、泳ぎもうまいから、ひとつ選手にならんかな。」秀子は今までの倍も川で水泳の練習に励むようになり、橋本尋常小学校4年生のときに待望の水泳部に入部します。水泳部の先生たちは手製で紀ノ川に天然プールを作成、大阪まで正式な泳ぎ方を習いに行きます。秀子は平泳ぎを選ぶと、13歳の5年生のときに大阪で開催された学童水泳大会で50メートル平泳ぎの学童新記録を更新します。14歳の6年生のときには100m平泳ぎで1分38秒という学童新記録並びに日本女子新記録を打ち出します。

「屋内プール」
 卒業後は実家の手伝いをすることになっていた秀子に、校長先生はじめ水泳部の先生たちは進学を熱心にすすめます。「天分を伸ばしてやりたい」という母親と一緒に「河童のまねなんかさせるな」と反対する父親を説得。橋本尋常高等学校に進学した秀子は、紀ノ川に天然プールに飛び込んではピッチを上げてますます練習に励みます。15歳の高等科1年生のときには100メートル平泳ぎで1分33秒2という自身が持つ日本記録を大きく更新。16歳の高等科2年生のときには、ハワイ開催「汎太平洋女子オリンピック大会」に初めて海外遠征して、重圧を跳ねのけ100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎで2位となります。「秀子を一人前の選手にしてやりたい」母親と校長先生はじめ水泳部の顧問たちは、日本で初めて屋内プールを学園内に作った名古屋市椙山高等女学校(現在の椙山女学園)の椙山正弌校長に秀子を託します。

「ロサンゼルスオリンピック」
 秀子は椙山高等女学校に進学。学生寮に入って学問に励み、放課後は屋内プールで猛練習する日々。まもなく母親さらに父親が後を追うように若くして脳溢血で逝去。「水泳を放棄して家庭の女となって働こう」秀子は学校をやめて小さい弟たちの面倒を見ながら、家事に店に追われて暮らします。やがて水の恋しい初夏、秀子の手紙を受け取った級友たちは募金を校長先生に届けます。名古屋市ならびに橋本市の校長先生はじめ先生たちは秀子の親類に働きかけ、秀子の兄は嫁をもらって秀子を学校へ戻します。半年ぶりにプールに戻った18歳の英子は2年に渡るスランプに陥ります。「前畑起たず」橋本小学校の後輩で自由形選手の小島一枝女史と励まし合いながら、ロサンゼルスオリンピック選手選考会にて200メートル平泳ぎで自身の日本新記録3分12秒4で1着を打ち出します。「自分はいさぎよく起とう」

「ベルリンオリンピック」
 「日本の意気を世界に示せ」「日本の力を見せてもらいたい」在留邦人の熱狂的声援が待ち構えるロサンゼルスオリンピック当日、女子200メートル平泳ぎ決勝で秀子はオーストラリアのデニス選手と0.1秒差で2位になるも3分6秒4と自信の日本記録を6秒縮めます。「よくやった」意気揚々と帰国する秀子に「なぜもう10分の1秒縮めて金メダルを取ってくれなかったんかね。」オリンピック誘致に奔走していた東京市長の永田秀次郎はじめ多くの人が責めます。「人並みに結婚したい。引退したい。」校長先生に泣いて反対され、死んだ母親に夢枕に立たれます。「最後までやりとげなさい」ベルリンオリンピックに向けて、秀子は1年365日、朝5時に起きて朝・昼・夜と3回に分けて2万メートル泳ぎます。寒い冬は陸上トレーニングの厳しい練習の日々を3年、ベルリンオリンピック選考競技会の女子200メートル平泳ぎで3分3秒6という世界記録を打ち出します。

「おしどり夫婦」
 「優勝できなかったら帰りの船で海に飛び込もう。でも泳げるから死ねないのではないか。」ベルリンオリンピック当日、世界が戦争に向かって動き出している国威発揚の期待は4年前よりもはるかに高まります。秀子はたくさんの電報とお守りの束を包んだ風呂敷を開くと「後押しして下さい。」一番上の5x15cmのお札を水と一緒に飲み込みます。3分3秒6、2位のゲネンゲル選手との差はわずか0.6秒で優勝。日本女性初のオリンピック金メダルを獲得します。帰国後の全国講演の後で校長先生から「これぞという人を選んでおいた。」秀子は、医師でスポーツマンの兵藤正彦と見合い結婚。戦時中は、出征中の夫の実家で狸の世話と養蜂を手伝います。戦後は、岐阜市内で病院を開業する夫を子育ての傍ら看護師見習いとして手伝います。目の回る日々を過ごしながら、日曜の午後は二人そろって外国映画を見に行くおしどり夫婦。ところがある日突然に夫が脳溢血で逝去、秀子は1年間をお経を読みながら泣き暮らします。

「水泳部コーチ」
 「医務室勤務を兼ねた水泳部コーチとして働いてみないか」母校・椙山女学園から誘われます。46歳の秀子は、「怪我をした」「調子が悪い」「金メダルの前畑だ」しょっちゅう駆け込んでくる生徒たちを対応しながら、水泳部の後進の育成に力を注ぎます。「1500m泳げと言われたら1600m泳ぐファイト」やがて母校から高校新記録、ローマ・オリンピック候補を出すようになり、全国から講演依頼も相次ぎます。「兵頭さんだけいい思いをして」同僚から妬みが相次ぐようになります。息子を育て上げた秀子は、「自分の好きな水泳の道1本で行こう。自由になるんだ。」名古屋市瑞穂で市営の温水プールが新設されることを耳にした秀子は、毎日欠かさず建設現場と市の体育科に通います。53歳のときに日本初「ママさん水泳教室」を開講。「母親が水泳を正しく理解すれば、自然に子供も水泳が好きになるはずだ。」

「因縁の脳溢血」
 一人の脱落者を出すことなく評判が評判を呼んで「幼児水泳教室」「子供水泳教室」「スイミング教室」と輪を広げ、オリンピック候補生を出すまでになります。アメリカ仕込みの息子による水泳コーチが秀子を大いに助けます。続いて秀子は、鳴海の温水プールで「ママさん水泳教室」「子供水泳教室」と並行して日本初「シルバー水泳教室」を開講。69歳の秀子は父母夫を奪った因縁の脳溢血で倒れます。秀子は車椅子もエレベーターも拒否して、冷たいプールの中を歯を食いしばって泳ぐように、歩行練習に階段の上り下りに取り組みます。「記録は一足飛びに出せるものではない。辛い練習を積み重ねて少しずつ記録を伸ばしていくしかない。」秀子は岐阜の温泉病院で懸命のリハビリを自らに課して麻痺を回復、再びプールに戻ります。「死ぬまで水泳をやめない。たとえプールの中に入ることができなくなってもプールサイドからみんなを励まし続けたい。」秀子は日本女子スポーツ界で初めて文化功労者に選ばれ、80歳で逝去します。

-和歌山スポーツ伝承館 Wakayama Sports Legend Museum
-椙山女学園 歴史文化館 Sugiyama Jyogakuen Historial Museum
-『水の女王前畑秀子物語』(教育思潮研究会 編 / 教育思潮研究会1936年)
-『前畑ガンバレ』(兵藤秀子 著 / 金の星社1981年)
-『前畑は二度がんばりました : 勇気、涙、そして愛。』(兵藤秀子 著 / ごま書房1985年)

鳥取県 Tottori-Ken

碧川 かた 女史

Ms. Kata Midorikawa

1869 - 1962 

鳥取県鳥取市 生誕

Born in Tottori-city, Tottori-ken

「鐘は既に鳴れり猶ほ目覚めざるか」

"The bell has already rung and I have to wake up."

碧川かた女史は訪問看護ならびに婦人運動家の先駆けです。訪問看護のかたわら「女権拡張会」を興し機関誌『女権』を発行。男女共同参画や女性の参政権運動など社会運動家として精力的に活動しました。

Ms. Midorikawa Kata was a trailblazer in the fields of home nursing and women's activism. While engaged in home nursing, she also founded the "Women's Rights Expansion Society" and published the magazine "Women's Rights." As a social activist, she energetically worked on issues like gender equality, women's suffrage, and promoting the active participation of women in society.

*******

かたは鳥取藩士(城代家老)和田邦之助の娘として生まれます。父は因幡二十士事件への関与嫌疑を受け蟄居中で、子どものいない和田家重臣の堀正・千代夫婦の養女となります。廃藩後、堀正は高知監獄の天獄(刑務所長)の職を得て堀家は高知県土佐に移住、かたは高知の小学校に入学。勉強は良くでき、飛び級で学年を進学。その後、父・堀正は播磨龍野町に転勤。15歳で龍野の名家三家当主・制に気に入られ、父・堀正の長崎転勤の際に、かた龍野の円覚寺の住職の睾采教順・阿い夫妻の養女なって嫁入り修行をします。19歳で三木家次男の節次郎と結婚、2児をもうけるも、夫は家に帰らない放蕩の日々が続きます。かたが義父・制に相談すると、長男を跡取りに残して次男とともに自由に生きる道を促されます。26歳で次男勉を連れて郷里の実父母のもとに戻ります。さらに当時の職業婦人、看護婦をめざして乳飲み子の勉とともに上京。東京専門学校(現早稲田大学)に進学し夏休みに帰省していた碧川企救男も同行します。かたは上京後、養父母がいる小石川町の鳥取県出身者の学生寮・久松学舎を訪ねて子供を預け、文京区の東京帝国大学病院付属看護婦養成所に入所。昼は病院患者の付き添い、夜は授業、合間に小石川に授乳に走ります。勉学と育児の両立は難しく、次男も三木家に引き取ってもらいます。直後にキリスト教の洗礼を受けます。かたは2年の修業を終え東大医学部付属病院看護婦として7年務め、三浦謹之教授(後の明治天皇の侍医)直属の看護婦として富裕層家庭への訪問看護も行います。ドイツ留学を勧められますが、33歳で社会部記者として活躍する碧川企救男と再婚。北海道・東京・京都と夫に伴い訪問介護により生活を支えながら一男四女を育てます。訪問介護先で、料亭「富貴楼」、三菱の「岩崎邸」、足尾銅山の「古河邸、「細川侯爵邸など富裕層夫人の知遇を得ます。「日本基督教婦人矯風会」ならびに「婦人参政権同盟」に参加するようになります。この頃、中央新聞の記者として訪欧中の夫・企救男から、女性の政治参加ならびに女権拡張運動活躍する英国婦人について手紙を読んでかたはさらに奮起します50歳で西川文子、高木ふよと「婦人社会問題研究会」を結成、電力会社に40回通って 街灯を設置させます。ならびに竹早教会を基盤に「東京婦人禁酒会」を設立夜の大学寄宿舎をまわって未成年者の禁酒説得からはじめ国会議員食堂での禁酒を実現します。58歳のときに鷲見よし子らと「女権拡張会」を興し、機関誌『女権』を発行婦人参政権・公民権の獲得・男女不平等法制改革及び家庭平和向上を呼び掛けます。三木家に預けた次男・勉は結核で夭折するも、長男・操は詩人・三木露風として活躍、『女権』創刊号に歌を寄せて母を応援します。「あたたかき心をもてる たらちねの母にはまことちからありけれ」「かぐわしき花にも似たる をみなにも ただしきちからあらまほしけれ」戦後のかたは日米安保に反対運動を粘り強く続けながら、遺言「アンポヘ行ったか」を残して90歳で逝去します

-鳥取市文化財団 Tottori Culture Foundation

「いざ、かぶかん!」

"Now, let's break the norms!"


出雲  阿国 女史

Ms. Izumo No Okuni

1572 - ? 

島根県出雲市 生誕

Born in Izumo-city, Tottori-ken


出雲阿国はかぶき踊りを創始した女性芸能者です。全国に広まり、歌舞伎ならびに美人画・浮世絵を生み出しました。

Izumo no Okuni is a female entertainer who founded kabuki dance.  It spread all over the country and gave birth to Kabuki, Bijinga, and Ukiyoe.

*******

ややこのをどり ふりよや見よや

 くには11歳のときに8歳の加賀と一緒に奈良・春日大社で「ややこ踊り」を披露して話題になります。おかっぱの幼女らが揃いのきらびやかな衣装をまとい美しい模様の扇を手に、「身は浮き草よ 根を定めなの君を待つ 去のやれ月の傾くに君を待つ」「花も紅葉も一盛り ややこのをどり ふりよや見よや」、大人の恋の流行歌を歌いながら振りを揃えて艶やかに跳ねるように踊ります。宮廷でも披露して、天皇はじめ戦国乱世で逃げ惑う人々の心を慰めます。くには出雲国の鍛冶屋の娘として生まれ、杵築大社(出雲大社)の神前巫女となります。その頃、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴って社領1000石(今の1億円程度)を没収され大社の財政は困窮。神職家は豊臣・徳川ら権力者に本殿の修理・造営の支援を陳情、くにはじめ下級神職らは参詣勧誘また造営費集めのために諸国勧進巡業の旅に出ます。京都に庇護者(パトロン)を得ることに成功した一座は、戦火をのがれつつ京から大和へ、駿河へ、さらに四国・九州へ各地を巡業します。駿河では駿府城の徳川家康の宴会へ呼ばれます。意表をつくように、清らかな巫女姿で荘厳な神楽舞を当世風に艶やかに踊り喝采をあびます。やがて一座に、猿楽師ほか囃子方・狂言方一行が加わります。20歳のくには豊臣家と縁の深い京都・北野天満宮の権力者・禅昌の庇護を得ることに成功、禅昌から連歌はじめ文化教養を学びながら、伏見城・公家邸・宮中の近衛殿はじめ後陽成天皇の生母・新上東門院の御所で踊りを披露します。伏見城で天下分け目の戦が勃発すると、一座は再び諸国勧進巡業の旅に出ます。くには狂げん師で鼓打ちの三十郎と結婚して二児をもうけます。

いざ かぶかん

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に就任、31歳のくにはじめ一座は「かぶきもの」が闊歩する京都に戻ります。くには男曲げを結い上げ鉢巻きを締め、赤地金襴羽織をまと水晶の十字架を首に掛け、黄金の刀を担いで「かぶきもの」に男装。道化役の「猿若」を従えて、一座の男が女装する茶屋女(遊女)恋の口説きのやりとりを軽妙に演じながら歌い踊ります。「茶屋のおかかに 七つの恋慕よなう 一つ二つは痴話にも めされよなう 残り五つ皆 恋慕ぢや」。みやこ人はじめ諸国の見物客ならびに大名・武士たちにも熱狂的に迎えられます。北野神社境内に一座の常設舞台をつくり、さらに江戸城の本丸・二の丸特設舞台で上演くには天下一の座を手にした女として家康と並び称されます。女芸人はじめ遊女がこぞってかぶきを名乗る中、40歳のくには華やかな公家衆・裕福な商人衆に囲まれて、なじみの女院御所で新しい歌舞伎踊りを披露します。足拍子を踏みながら、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。黒塗りの笠に僧衣をまとい紅の腰蓑と鐘を首にかけて打ち鳴らします。念仏に誘われ客席から現れた名古屋山三の亡霊役と問答を交わしながら歌を交えて笛・つづみに拍子を合せて飛び跳ね踊ります。豊臣方の主君の死後に浪人となった美男の「かぶきもの」名古屋山三郎の死からちょうど10回忌であることに気づいた客席は沸き上がります。「さてなにごとも打ち捨て ありし昔のひとふしをうたい いざかぶかん」舞台のくにいつのまにか僧衣を脱ぎ捨て、紫の布で面を覆いきらびやかな小袖に黄金の刀を担いだかぶき姿に早変わり。流行しはじめた浄瑠璃節に合わせて、男装また女装した踊りてと高揚した観客とが入り乱れて歌い踊って大団円に。その後もくには艶聞を噂されながら新しい芸を工夫し続けました。

-島根県立美術館 Shimane Prefectural Museum

-歌舞伎美人 Kabuki-bito

吉田 文子 女史
Ms. Fumiko Yoshida
1913 - 2001
島根県津和野町 生誕
Born in Tsuwano-machi, Shimane-ken

吉田 文子 女史は女性建築家の草分けです。女子製図手から女性建築設計者に踏み出した最初の女性、敗戦後の日本でいち早く設計事務所を開業、乗馬服に身を包んで男性社会に入って被災町工場の建て直しに奮闘。
Ms. Fumiko Yoshida is a pioneer among female architects. She is the first woman to transition from being a female draftsman to a female architectural designer. Following the end of World War II in Japan, she quickly established her own architectural firm and bravely entered the male-dominated society, clad in riding attire, to work tirelessly on rebuilding factories in devastated towns. 

「女子製図手」
 文子は、大工の棟梁である父・吉田一市ならびに母・リヨの長女としてうまれます。一家は中国山東省青島に渡ります。父親は腕のよい大工で、自宅2階には建築家を志す青年が居候します。文子の身近にはいつも図面や教材があり、小学校の頃には「建築家も悪くはない」と思い始めます。まもなく一家は関東大震災直後の建築ブームにのって中国から日本に引き揚げます。文子は、職業婦人になりたいと考え、工業技術者育成を目的として設立された中央工学校の女子製図科に進学、「女子製図手」を目指します。都市再編と建築活動を支える技術者として、「緻密な頭脳と根気」「手先の器用さ」を備えた女子の新しい職業として注目されていました。文子は1年の修業期間を終えると、15歳で卒業。就職するものの翌年には建築設計者を目指して、女子の入学を開始した早稲田大学付属工手学校(夜学)に入学します。文子はもう一人の女子生徒と一緒に勉強に打ち込み、2年半後に成績優秀で卒業。建築学科の田辺泰教授研究室の助手となり、日本社寺・城郭等の図面作成調査に従事します。

「女性建築設計者」
 震災復興も一段落して就職難の時期に、文子は幸運にも女社長に気に入られ鈴木小松商店技術部に就職。3年間、軍隊・病院・料理教室・服部時計店・東宝劇場・明治生命館などの厨房設計の仕事に携わります。施行現場という男社会の中で、文子は最初はYシャツにネクタイの背広といった男装から、やがてオーダーメイドの乗馬服に手製の帽子の中に長あみのお下げをおさめて被り現場に出かけるようになります。3年後、佐藤鉄工所設計部で陸海軍施設などの厨房設備の設計施工に従事。さらに3年後、男子が次々と太平洋戦争の戦地に去っていく中で、則武工業事務所に就職。敗戦後、37歳の文子は「吉田設計事務所」を開設。「建築を通して社会を建て直していこう」。主に被災町工場の建て直しに奮闘しながら、住宅・社屋・店舗の設計・工事監理・申請業務・土地家屋測量調査等を手がけます。従業員も30名程を抱えるようになります。文子の業績と人柄が評価され、稲門建築会副会長・日本建築学会評議員・東京建築士事務所協会研究部長監事等を歴任。

-稲門建築会
-早稲田大学

「私がします!」
" I'll do it! "

牛島國枝
Ms. Kunie Ushijima
1910 - 1999
島根県浜田市
Born in Hamada-city, Shimane-ken

牛島國枝女史は、日本初の名実ともに主婦による主婦のためのスーパーマーケットの創業者。女性株主のみで「佐賀主婦の店」をスタートさせ佐賀一番のチェーンストアに育て上げます。有害食品追放・過大表示商品を排除する食品マーク付け運動をはじめて実施して、佐賀から全国に大反響を巻き起こします。NHKテレビドラマ『おしん』のモデルの一人。

Ms. Ushijima Kunie is the founder of Japan's first supermarket for and by housewives, both in name and reality. She started the "Saga Housewives' Store" with only female shareholders and developed it into Saga's leading chain store. She initiated a food labeling movement to eliminate harmful foods and products with exaggerated claims, creating a nationwide impact starting from Saga. She is also one of the models for the NHK TV drama "Oshin."

「小説家の夢」
 國枝は旧制中学校教師の父・喜太郎と資産家の娘である母・コウのもと4人きょうだいに生まれます。9歳の時に父が急逝、母の郷里の佐賀に移り住みます。小説家を目指して佐賀高等女学校時代に『婦人公論』に短編小説を応募、2回連続で入選します。さらに東京女子高等師範代に挑戦しますが挫折。18歳で母方のいとこ牛島栄四朗と結婚。嫁ぎ先は田畑・貸家をたくさん所有する資産家で、夫の兄弟は石油業、運送業を経営。國枝は義母と折り合い悪く披露宴を拒否、夫と共に酒屋に次いでタクシー会社の経営に専念します。戦後の婦人参政権実現とともに、國枝は37歳から市会議員ならびに県会議員に立候補、それぞれ3期連続で務めあげ、主婦連合会会長の奥むねお女史また市川房枝女史と親交を結びます。さらに経営者の妻たちを中心に15人の友人を集め読書グループ「菱の実会」を結成。女性の自律的人間形成・地域社会の進展・グループリーダー養成を目標に活動を続けます。

「有閑マダムのへそくり会社」
 ある日、岐阜発「主婦の店」スーパーマーケットが繁盛している記事を見つけます。早速、國枝は友人2人で全国のスーパーマーケットを見て回ります。「これなら私たちにもできる!」。読書会のメンバーのうち8人で出資200万円、知り合いに頼み込んで佐賀市の西のはずれ西魚町にバラック小屋を建ててもらい賃借契約を結びます。店の建築が始まると、市政記者らを招いて記者会見を開きます。「主婦だけで経営する佐賀発のスーパーマーケット!安全で新鮮で良い品を安く提供して利益を社会に還元!」。ところが、翌朝の新聞では「有閑マダムのへそくり会社」と大々的に報じられます。佐賀県知事のもとに八百屋・魚屋・豆腐屋・牛乳屋はじめ生鮮食料品業者が数十人も押し寄せ、「生活に困らん女たちが商売の邪魔をするのはけしからん!」と猛反対。國枝は佐賀県下で青果はじめ魚・肉を取り扱う知人を訪ねてまわり、魚と肉と豆腐の協力店を見つけます。さらに國枝は橋を越えて久留米の青果市場に直談判、全国有数の野菜生産地である福岡県三瀬郡の新鮮で安い野菜・果物を入荷します。ようやくこぎつけた開店日には200人をこえるお客が列をつくります。

「食品マーク」
 生鮮食品はじめ日用品・文具・菓子を並べ、市販より1割以上安く、目玉商品はさらに安く販売。さらに、有害食品と過大表示商品を排除するために食品マーク付け運動を実施。信号になぞらえて赤「おすすめしかねます」・青「おすすめします」・黄「普通」シールを全商品に張り付けます。100種類以上の添加物を調べあげたり、チューブのワサビまた辛子を計量したり、お茶また昆布だしを飲み比べたり、主婦目線で選定すると消費者からは大好評を得るも、業者はじめマスコミから猛反発を受けます。全国的に論争を巻き起こしながら店の取り組みが話題となり、初日の売り上げ60万円から平均日売上35万円と、5年で軌道に乗ります。1割配当と商品の袋詰め、1年に1回のバス旅行、有害食品追放・省資源運動などに取り組みながら、気心の知れる女性知人を対象に株主を募って約100人で資本金1億6000万円に増資。住宅地を中心に30余りの小型店舗を拡充、市街地に深夜営業の大型店舗を建設、惣菜・もやし・カイワレ・漬物の自社工場を整備、消費者問題を扱った『主婦の店新聞』を刊行して売り上げを伸ばしながら、女性による女性のための店づくりに邁進します。

-『肥前おんな風土記』(豊増幸子 著 / 佐賀新聞社1976)
-『風車と共に : 主婦の店運動25年』(主婦の店スーパーマーケット全国チェーン25周年記念誌編集委員会 編 1982年)
-『2020 AIM (82)(84)』(オフィス2020 編1992年)
-佐賀県立佐賀城本丸歴史館


岡山県 Okayama-Ken


「進まんか、私に資と才とがない。退かんか、寒と飢とは襲って来るだろう。生死の岸頭に立って人のとるべき道はただひとつ、誠を尽して天命を待つのみ。」
"To advance, I lack both resources and talent. To retreat, I would face cold and hunger. Standing on the brink of life and death, the only path for a person is to devote oneself completely and await fate with sincerity."

福田(旧姓 景山) 英子 女史
Ms. Hideko Fukuda(Kageyama)
1865 - 1927
岡山県岡山市北区野田屋町 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken

福田(旧姓 景山) 英子 女史は、日本女性初の過激派で女性解放運動の先駆け。自由党左派過激派の同志らとともに朝鮮クーデターを企てた紅一点の実行犯。出所後は、女性のための職業学校を設立、日本初の社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊、女性の真の解放を訴え続けます。
Ms. Eiko Fukuda (née Kageyama) was Japan's first female extremist and a pioneer in the women's liberation movement. She was a key figure in the plot to overthrow the Korean government, collaborating with fellow radicals from the left-wing Freedom Party. After her release from prison, she established a vocational school for women, founded Japan's first socialist women's magazine, Sekai Fujin, and continued to advocate for the true liberation of women.

「マガイ」
 英子は、備前岡山藩の下級武士の家に5人兄弟姉妹の真ん中に生まれます。父・景山確は寺子屋を開いて100人以上の生徒を教え、6歳年上の母・楳子も手伝います。やがて明治維新を迎えると、父は巡査に、母は県の女子教練所さらに芸娼妓のための私塾を開きます。教育熱心な両親のもと、秀子は身なりに構う時間を惜しんで短髪・男装で勉学に励み、「マガイ」と罵られながら岡山県立研智小学校に入学、15歳で小学校の助教員の資格を取得します。まもなく女の心得として茶の湯、生花、裁縫、諸礼、八雲琴、月琴を日課の中に据えられ、17歳で髪を伸ばして束髪の仲間入りをした英子に縁談が申し込まれます。「父兄に威圧せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚する」ことを断固拒否した秀子は、これまでの給与を全額家に納めるとともに母の私塾を手伝い始めます。「独立自営の道を得せしめてん」

「自由の女闘志」
 やがて郷里に自由民権論客が多く集まり来るようになり、18歳の秀子は紅一点の岸田俊子(中島湘烟)女史の名演説にすっかり魅せられます。秀子は有志家の夫人令嬢等に諮って女子懇親会を組織して大いに盛り上げます。自由の歌を合奏したり、女子演説会を開いたり、「天賦人権自由平等」を説いてまわって、「女子古来の陋習を破らん」女闘志と呼ばれます。まもなく警官に謹慎処分を受けた英子は、上京を決意。家族には1週間の遊学と偽って、解党大会に参加する自由党員の有力者に会いに大阪に向かいます。郷里の親戚はじめ小林楠生の協力のもと、自由党擁護者で奈良の豪農・土倉庄三郎を訪ね、続いて板垣退助との面会を果たします。英子は旅費と学費の援助を得て、東京の『自由燈新聞』記者・坂崎斌の自宅に下宿を開始、築地の新栄女学校に入学します。

「姉妹の契り」
 英子はひとまわり年下の少女らと机を並べて英語を学びながら、坂崎氏から心理学と社会哲学の講義を受けます。そこで英子は富井於菟と出会います。英子あこがれの岸田俊子女史のもとで学び、絵入自由新聞の記者として活躍していました。2人は意気投合して姉妹の契りを結びます。「婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷から解放しよう」。朝鮮事変のニュースに世論が沸き立つと、2人は朝鮮改革運動のための資金調達に駆り出されます。坂崎家を出奔して地方遊説しながら賛同者と資金集めに苦労する中、於菟は神戸で醤油醸造を営む実家に援助を仰ぎに行ったきり戻ってきません。秀子は、髪結・洗濯屋・仕立物屋となって春夏秋を待ちます。やがて現れた於菟はキリスト教に身を捧げることを告げ英子のもとを去ります。

「クーデター」
 英子は於菟の分まで二倍の働きをしようと奮起します。敬愛する小林楠生の寄宿先を訪ねると体中の思想をぶつけて説得、大井憲太郎・磯山清兵衛・新井章吾・稲垣示らとともに朝鮮クーデターの実行係に紅一点で参加します。爆弾の運搬係を買って出て、爆薬を入れたカバンを肌身離さず持ち歩きます。駅員に怪しまれたり、不注意で発火したり、恐怖で冷や汗をかきながら宿で渡韓の指令を待ちます。旅館に呼び出された英子が見たものは、大勢の芸者に囲まれて酒宴の真っ最中の同志たち。そして翌日には磯山が大金を持って逃走。英子は台所道具や家具を買い揃えて炊事を執りしきり、珍しい肴をつくり、ざるを提げて豆腐屋に通い、米屋の借金と2・30人の同志の無賃宿泊の言い訳に奔走。3週間後にようやく計画を立て直し渡韓費が整うと、同志たちは遊郭通いを再開。英子は独り宿屋の一室に端座し深く憂いに沈みます。「かくまでに濁るもうしや飛鳥川 そも源をただせ汲む人」

「女囚人」
 長崎で渡韓の船を待つ英子らに「荷物濡れた東に帰れ(大事発露の恐れあり)」との電報が届きます。中止組と決行組に分断する中、明朝の渡韓をひかえた英子は小林楠生に絶縁状をしたためます。「生きて再び恋愛の奴となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじて従うよりは、むしろ潔く、自由民権の犠牲たれ」「一度渡韓せば、生きて再び故国の土を踏むべきに非ず。」眠りについた英子の部屋に、提灯を手にした警官十数名が押し入ります。英子は収監され、手紙は世間に公表されます。「東洋のジャンヌ・ダルク」として人気者になった20歳の英子は国事犯として特別待遇を受けながら、様々な背景を持つ女囚人たちに世話を焼かれたり、読み書きを教えたりしながら3年を過ごします。「好しこの身自由となりし時、あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷の光明を授けんこと、強ちに難からざるべし。」

「絶対的な解放運動」
 大日本帝国憲法発令に伴う恩赦で同志らと共に釈放された英子は、市民から熱狂的な歓迎とバラの花束を受け、父親はじめ中江兆民ら同士に出迎えられます。「今日は女尊男卑だ。貴女は満緑叢中紅一点だ。」英子は大井憲太郎と結婚の約束をして、2人相伴って演説会に懇親会に関西一円を周ります。やがて酒色におぼれ英子の友人とも不貞を働く大井と決別した英子は、神田錦町に女子実業学校を設立。母と兄弟夫婦とで経営にあたります。まもなくアメリカ帰りの法学士で労働運動に従事する福田友作と結婚して3人の子供をもうけます。「新光明に照り渡された」短い結婚生活は福田の発狂死で終わり、31歳の英子は新宿に角筈女子工芸学校を設立。福田の書生でキリスト教社会主義者の石川三四郎に感化されながら、堺利彦や幸徳秋水らの「平民社」創立を助け、『平民新聞』『新紀元』の活動を助け、日本初の社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊。女性の結社権を求める国会請願運動を起こし、足尾鉱毒事件の谷中村民救済支援を続け、『青靴』2号に婦人解放論を寄稿します。「絶対的な解放とは婦人としてではなくて人としての解放であります。」

-『妾の半生涯』(福田英子 著 / 岩波書店1958年)
-『わらはの思ひ出』福田英子、1905年

「惑わずに刹那に心打ち込め」
``Don't get confused, focus on the moment.''

「ちょっと一服煙草を吸うべきほんの僅かな時間でも、すぐに座禅に向けた故に、私のは煙草禅ですよ。」
``Even if I only have a short time to smoke a cigarette, I immediately turn to zazen, so I am ``tobacco zen.''

竹越 竹代 女史
Ms. Takeyo Takekoshi
1870 - 1944
岡山県岡山市 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken

竹越 竹代 女史は日本初の女性記者で「大阿闍梨」です。『國民新聞』『家庭雑誌』『東京婦人矯風会雑誌』で執筆、『婦人立志篇』『ウェスト女史小伝』『ウェスト女史遺訓』を出版。後年は在家で仏教研究・修行を続け「三部都法伝灯大阿闍梨」の高位称号を授かります。
Ms. Takeyo Takekoshi is Japan's first female journalist and ``Great Ajari''. She has written for ``Kokumin Shimbun'', ``Katei Zasshi'', and ``Tokyo Fujinkyofukai Magazine'', and has published ``Fujin Risshi Hen'', ``Ms. West's Short Biography'', and ``Ms. West's Lessons''. In later years, she continued to study and practice Buddhism as a layman, and received the high-ranking title of ``Sanbu Toho Dento Great Ajari''.

「竹の子」
 竹代は岡山藩主の側近として藩校で青年教育に携わる父・中村秀人と、藩医学校の教授で儒学者・石坂堅壮の次女として資才を受け継ぐ母・中村静子の長女として誕生。小学校にあがって2年目に父親が逝去すると、自宅に児童を集めて琴裁縫を集める母の手一つで育てられます。影山英子女史の自由民権運動で郷里が荒れる中、母とともに岡山基督協会の牧師・金森通倫から洗礼を受け、同氏が創設した岡山女学校に入学します。成績優秀な竹代は、金森牧師のすすめで大阪のキリスト教系梅花女学校に入学します。米国人牧師ドーデーに信頼を得た竹代は秘書を務めながら授業を手伝い、母また弟妹を助けるために卒業後も母校に残ります。勉強家の竹代は、ハーバード大学に入学した友人・上代よし子に続いて洋行を期待されます。しかし思いがけず、岡山基督教会の後任・阿部磯雄牧師ならびに駒尾夫人を仲人として、政論新聞『大阪口論』の記者・竹越與三郎と結婚。大阪教会にて牧師で梅花女学校の校長でもある宮川経輝立ち合いのもと挙式します。「父母の着せし衣を脱ぎ捨てて 明け行く世にならえ竹の子」母・静子は資力の乏しい娘婿を心配するも、20歳の竹代は決意の程を手紙で吐露します。「お身が車夫一般の生活を忍び給へば、世は下婢一等の生活を厭わざるべし。」心配する級友たちを、白いバラを髪に飾って笑顔で迎えます。

「女性記者」
 まもなく夫・與三郎は徳富蘇峰に招かれて新しく創刊される『国民新聞』の論説担当記者に就任。一緒に上京した竹代も徳富に請われて『国民新聞』『家庭雑誌』にペンネームで投稿を始めます。すぐに科学記事「天地間の一怪事」「花と虫」「光線の話」、新進気鋭の女学校の訪問記事、下田歌子女史・中島俊子女史・川口雲井女史・豊田英雄子女史・影山英女史との対談記事を本名で執筆、西洋女性伝をまとめた『婦人立志篇』が刊行されます。やがて東京婦人矯風会のメンバーと交流を深めるようになり、社会運動を行いながら機関誌『東京婦人矯風会雑誌』を創刊。竹代はWWCTU(世界女性キリスト者禁酒同盟)から派遣されて来日したウエスト(M. A. West)女史の全国講演を世話して、講演内容を『ウェスト女史小伝』『ウェスト女史遺訓』にまとめます。「女史の博は己に我会より発行せる女史の小伝に詳かなればこれを云わず、その容貌秀傑にして温厚に、才能と愛情とは溢るるばかりに見ゆ。その信仰と勇気とは言うまでも無し。人をして一見して離れがたき思あちもむ。殊に何人に對そるにも胸襟を開きて親しみ給ひ…」「米国の博覧会婦人部は余を以て名誉会員の一人として推薦状を送り来たれり。是れ實は前後一會の面會を得たるウエスト女史の推薦によるものなりと云う。此かることを語るは恥ずかしさの餘り、自ら両腋に汗の出ることながら、女史が胸襟を開きて人に接し給ふの一端とも思ふてかくは記しつ。」

「大阿闍梨」
 竹代は左手で3人の子供をゆりかごで揺らしながら、右手で雑誌の執筆・編集作業を意欲的に続けます。6年目、夫・與三郎が徳富と政治対立して『国民新聞』を退社すると、竹代も執筆活動を終え内助の功に徹します。伊藤博文、陸奥宗光、西園寺公望に見出されて政治活動を深め出世していく夫は、キリスト教思想から離れ女性問題もひどくなっていきます。竹代は6人の子供を育てながら度々煩悶するようになり、頼りにする熱心なキリスト教徒である母・静子は逝去します。「生まるるも死ぬるも同じ人の身ぞ 泣くな我が子よ笑へ我友」フェリス女学校に続いて日本女子大学で舎監を務めながら最後まで伝道に従事していました。「漆樋は真黒だ!」竹代はふとしたことから西久保にある禅宗・全竜寺で浅野斧山師の仏法講義を熱心に聴き入るようになります。続いて後任の原田祖岳師のもと座禅修行に励み「仏道印可」「法統」を受けます。さらに東京神田で日本禅学道場を開く猛僧・中原鄧州に師事して難行に取り組み「居士号」を許されます。そして真言密教・高野山の座主・土宜法大僧正に面会を求め「阿闍梨」と「希書」の秘書を授かり、天台宗・浅草寺の救護栄海大僧正から「大阿闍梨」を受けます。なおも駒澤大学・東洋大学・天台大学などで仏教講義を聴き、禅宗・真宗・華厳宗などの各宗門で修業を進め「結縁灌頂(即身式)」「加行(荒行)」を受け浅草寺で「伝法灌頂」の儀式を経て「三部都法伝灯大阿闍梨」の高位称号を許されます。「仏教婦人青年会」を組織するも、油井真砂女史の千里眼を人々に紹介して営利問題に巻き込まれ解散。在家で仏教修行を続けながら75歳で逝去。「晴れ曇る思いは雲のしはざにて もとより月は常照の月」

-『婦人立志篇 上』(竹越 竹代 著 / 警醒杜1892年)
-『ウエスト女史遺訓』(竹越 竹代 著 / 東京婦人矯風会1893年)
-『竹越竹代の生涯』(竹越熊三郎 著 / 大空社1965年)

「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ。」
"I did not represent Japan. I went to Prague as an individual."

人見  絹枝 女史
Ms. Kinue Hitomi
1907 - 1931
岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成) 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken

人見 絹枝女史は日本人女性初のオリンピックメダリストです。第2回スウェーデン万国女子オリンピックで走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝。第9回アムステルダム・オリンピックで800mで準優勝。第3回チェコ万国女子オリンピックで個人総合2位。日本の女子スポーツの啓蒙活動はじめ後進の育成さらに国際親善に尽力しました。
Ms. Kinue Hitomi is the first Japanese woman to win an Olympic medal. She won the 2nd Swedish Universal Women's Olympiad in the long jump and the standing long jump. She was runner-up in the 800m at the 9th Olympic Games in Amsterdam. She finished second in the individual all-around at the 3rd Czech World Women's Olympiad. She devoted herself to promoting women's sports in Japan, nurturing the next generation of athletes, and actively contributing to international goodwill efforts.

*******

「魚とり好きの算術嫌い」
 先祖代々からの農業を守りながら純朴な田園生活を続ける岡山市外の福浜村福成(現・岡山市南区福成)で、イネとイグサを栽培する裕福な自作農家に絹枝は生まれ、父・母・祖母・姉と一緒に元気いっぱいに育ちます。家の前の小川の水をせき止めて鮒・鯰・鰻とりに熱中、生意気をして大人しい姉を苦しめます。やがて教育熱心な両親のもと福浜村立福浜尋常高等小学校(現・岡山市立福浜小学校)でクラス級長を務め、仇を取る様に姉から薄暗いランプの下で1・2時間泣きながら算術を教わり、岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)に進学を果たします。

「テニス三昧」
 村で初めての女学校入学者となった絹枝は、あこがれの海老茶袴と皮の靴をはいて毎日片道約6 kmの道を意気揚々と徒歩通学します。テニスに打ち込むようになると、「ラケットを振り回して何になる!」祖母を筆頭に家族に反対される中、毎日授業が終わると2時から6時までコートで練習に励んで夕日と競走して走って帰宅します。女子スポーツに熱心な和気昌郎校長の指揮のもと、ペアを組んで県大会で強豪・岡山師範学校女子部を打ち負かして優勝します。ますますテニスに熱中して成績が落ちていく中、絹枝は卒業後について心配する様になります。

「陸上競技」
 女学校4年目の秋、脚気を患い修学旅行に行けない絹枝を、テニス部また陸上競技部の先生と校長先生が三つ巴になって「母校の為に」、第2回岡山県女子体育大会に出場させます。病床から無理を押して出場した絹枝は、走幅跳で4m67の日本女子最高記録で優勝してしまいます。すると、師範学校を勧める両親を説き伏せた和気校長の熱心な勧めで、絹枝は二階堂体操塾に入学することになります。竹藪に囲まれた武蔵野の広大な敷地500坪に運動場・体育館・寄宿舎で、「選手の精神が気に入らない」という塾長の二階堂トクヨから体操教師の指導を受けます。夏休みには郷里で陸上講習会を受け、第3回岡山県女子体育大会で三段跳で10m33の世界最高を記録します。

「体操教師」
 「塾にいて天分を発揮するのも結構ですが、人になるにはどうしても他人のご飯を食べなくてはだめです。1年間勤めてきなさい。」18歳で同塾を卒業して体操教師となった絹枝は、京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)に赴任します。はじめて開かれるようになったバレーボールまたバスケットボールの女子大会に向けて熱心に指導を済ませた放課後に、走り幅跳びとやり投げの練習を日が暮れるまで続けます。まもなく、母校の「東京女子体育専門大学」認可のため、絹枝は体操の実技講師として全国はじめ台湾各地を巡回しながら、様々な陸上競技会に出場。50m競走・100m競走・三段跳で優勝、400m競走・走幅跳・砲丸投で日本記録を更新、三段跳で世界最高記録を更新します。

「スポーツ記者」
 その頃、大阪毎日新聞社運動課の木下東作部長から「1つの学校の先生になるのか日本の女子スポーツの先生になるのか」と説得され、スポーツ記者兼アスリートとなります。無理続きの記者生活で夜遅くに帰宅して11時か12時に就寝しながら、9時間睡眠をきっちりとって午後2・3時間トレーニングに励みます。関東大震災の翌年にスウェーデンのイエーテボリで第2回国際女子競技大会が開催が決定すると、木下部長はじめ大阪毎日新聞社に説得された19歳の絹枝は、シベリア鉄道に乗って監督もコーチもつかずたった一人で旅立ちます。途中下車して競技会に出場したハルビンの在留日本人80余名に「ぜひ勝って帰れ」と見送られながら、1か月かけて現地に到着。大阪毎日新聞社モスクワ特派員・黒田乙吉夫妻宅に下宿しながら競技大会に臨みます。走幅跳を5m50の世界記録で優勝、立ち幅跳びを2m47で優勝、個人総合で最高得点を挙げ最優秀選手に選ばれます。

「死の激走」
 帰国後、国内外の陸上競技大会で、50m競走・100m競走・200m競走・400m競走・立ち幅跳び・走幅跳で世界最高を記録。21歳のときに、オランダのアムステルダムオリンピックで女性の陸上競技5種目(100m競走・800m競走・走高跳・円盤投・400mリレー)が初めて認められると、 絹枝は日本女子選手として初出場。100m予選は1着で通過するも準決勝で4着となりまさかの敗退。「このままでは日本に帰れない」絹枝は、激励の電報が1本も入ってこない中、監督の反対を振り切って800m競走に出場。決勝のスタートダッシュで20mほど他選手を引き離し、ペースを落とした2周目の5位から第3コーナーで3位、第4コーナーで2位と順位を盛り返し、ラストストレートでトップのドイツのリナ・ラトケ選手にあと15mまで迫り必死に腕を振ってほとんど同時にゴールイン。次々と選手が倒れた「死の激走」で2分17秒4の日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となります。

「前途」
 「自分の体を自分の欲するままにしたことはなかった。」引退を考える絹枝は、「貴女の活躍の舞台は次々と広がっていっています。元気を出しなさい。」国際女子スポーツ連盟会長ミリヤ夫人からの手紙に励まされ、チェコ・プラハの女子オリンピック大会に後進の女子選手5名と一緒に参加することを決めます。競技者として各地に遠征する傍ら、記者として働きながら本を執筆したり、全国の女学校に募金箱を持って講演に回り大会遠征費の寄付を集めます。絹枝はマネージャー兼監督兼コーチとして、走幅跳で優勝、三種競技(100m競走、走高跳、やり投)で2位、やり投・60m競走で3位、400mリレーで4位、個人総合で2位、日本チームを参加18ヶ国中4位に導きます。さらに若い選手を引き連れてヨーロッパ各地を転戦、体調を崩しながらもポーランド・イギリス・ドイツ・ベルギー・フランスの女子対抗競技会全種目に出場します。帰途、日本での冷ややかな新聞報道や手紙などに選手達とともに深く傷つきますが、募金の御礼とスポーツ啓蒙のために各地に講演に出かける中で病臥に伏し24歳で死去。「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ。」「前途を見よ。私の活躍すべき余地はいっぱいある」

-「スパイクの跡」(人見絹枝 著 / 平凡社 1930年)
-「ゴールに入る」(人見絹枝 著 / 成社 1932年)
-岡山県遺跡&スポーツミュージアム Okayama Ruins & Spoorts Museum
-日本体育大学 Japan Women's College of Physical Education

久原 濤子 女史
Ms.Namiko Kuhara
1906 - 1994
岡山県津山市二階町 生誕
Born in Tuyama-city, Okayama-ken

久原 濤子 女史は日本の女性彫刻家の草分けです。北村西望に入門。帝国美術院美術展覧会(帝展)に女性初入賞。文部省美術展覧会(文展)、日本美術院展(日展)などに数々の作品を発表。「長崎平和祈念像」制作に北村西望の助手の一人として参加します。
Ms. Namiko Kuhara is a pioneering female sculptor in Japan. Begins with Seibo Kitamura. Became the first woman to win an award at the Imperial Art Academy Art Exhibition (Teiten). He has exhibited numerous works at the Ministry of Education Art Exhibition (Bunten), the Japan Art Institute Exhibition (Nitten), etc. Participated in the production of the Nagasaki Peace Statue as one of Seibo Kitamura's assistants.

 濤子は、日露戦争直後に医師・久原茂良氏の4女として生まれます。久原家は代々津山藩に仕える蘭方外科の藩医で、父・茂良は地域医療の発展に貢献。濤子は大正ロマンの真っ只中、津山高等女学校を卒業。23歳の時に独り上京して北村西望氏に入門します。後の日展会長・文化勲章受章者で、当時の彫刻界を写実主義の中にも豪快な作風で牽引。濤子は門下生として二年目、帝国美術院展覧会(日展の前身)に「男の首」を出品。女性として初入選します。以後、ほぼ毎年連続して展覧会に出品。戦後、日展に「裸婦」「若い人」「あこがれ」などを日展に連続出品。旺盛な創作活動を続け、師・村西望の「長崎平和祈念像」製作に弟子助手として参加します。60代の濤子は津山に帰郷。二階町の自宅で精力的な創作活動を続け、郷里ゆかりの「箕作阮甫先生」胸像をはじめ、「わんていか(※じゃんけんの掛け声)」像・「星座」像「羽ばたき」といった子供たちの連帯感の溢れる作品群を手掛けます。これらの作品は津山市の公園や施設にプロンズやレリーフとして設置されています。

-津山郷土博物館

広島県 Hiroshima-Ken

「被爆者は世界中にいる。」
"Atomic bomb victims exist worldwide."

小倉 桂子 女史
Ms. Keiko Ogura
1937 -  
広島県広島市 生誕
Born in hiroshima-city, Hiroshima-ken

小倉桂子女史は「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」創始者。ヒロシマ被爆者の英語通訳者・コーディネーター・英語証言者として「ヒロシマの世界化」に尽力。ヒロシマの人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始。
Ms. Keiko Ogura, founder of the 'Hiroshima Interpreters for Peace', dedicated herself to the global awareness of Hiroshima as an English interpreter, coordinator, and English testimonial speaker for Hiroshima survivors. She initiated efforts for people from Hiroshima to convey their stories to the world in English.

*******

「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」
 桂子は日中戦争が始まった年に広島市横堀町(現中区榎町)で菓子問屋を営む両親のもと7人兄弟姉妹の4番目として生まれます。戦況悪化とともに7歳の時に、田園風景が広がる牛田(現東区)に引っ越します。8歳になったばかりの牛田国民学校2年生のある日、父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」と言うので独りで自宅の北側の道で遊んでいると、桂子は突然目もくらむような閃光に包まれ凄まじい爆風により吹き飛ばされ路上に叩きつけられます。近所の藁わら屋根は瞬時に燃えだし、 家の天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っています。すぐ後に、外に出た桂子の服をねっとりとした灰色の「黒い雨」が塗らします。近くの神社の高台に向かうと、幽霊のような列が押し寄せてきます。頭髪は焼け、すすで汚れた顔は腫れあがり、血まみれで皮膚が垂れ下がった人もいます。父は地域の世話係として毎日死体処理をする中、桂子は負傷者の傷にハエがたかり卵を産み、うじが湧く様子から目をそらすことができません。半壊の家は負傷した親戚・友人・隣人など負傷者であふれ、母や姉たちが看護に追われる家の中は、吐き気を催すような血、膿うみ、泥、焼け焦げた頭髪、汚物の臭いで充満します。広島は一晩中燃え続け、遺体を焼く煙があちこちで上がり、時折においが流れて来ます。 桂子は毎日、石段を登っては広島の街を見続けます。敗戦後、米国から届く援助物資「ララ物資」はじめ父が闇市で手に入れる「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」に感動、桂子は英語を学ぶために外国人教師がいる広島女学院中高へ進学します。それから原爆に遭った女性への差別を恐れて「原爆に遭ったことは誰にも言うまい」とひそかに心に決めます。キリスト教と出合い、米兵と日本女性との間に生まれ乳児院に預けられた赤ちゃんのお世話をしたり、拘置所にいる人に聖句を書いた手紙を送って励ましたり、奉仕活動に励みます。17歳で洗礼を受け、日曜学校の先生をします。

「小倉馨とロベルト・ユンク」
 広島女学院大学2年目の佳子は、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクに、知人を通じて英語が話せる若い被爆者として取材を受けます。広島市民球場を批判するユンクに、「広島には希望が必要です」と桂子は答えます。大学を卒業した桂子は父の知人に頼まれバス会社で、豪華な外国人専用観光バスで英語のガイドを務めます。その頃、ユンクの協力者として取材を支えていた小倉馨と結婚。桂子は家事育児に義父母の介護にと忙しくする中、夫・馨は原爆資料館長や市長室次長を歴任、アメリカ・ニューヨークの国連本部での原爆写真展を開催して「ヒロシマの世界化」に尽くします。桂子は夫に「自分だけ勉強して。私には何の能力もない」と思いの丈をぶつけては夜に泣きます。そんな中、43歳の時に夫が突然倒れ帰らぬ人となります。途方に暮れる桂子に、ロベルト・ユンクから電話がかかってきます「君は愛する人を突然失った悲しみが分かる、被爆者の苦しみも知っている」。ユンクは到着するなり桂子を知識人や平和運動家たちの前に座らせて通訳させます。桂子は海外のジャーナリスト・研究者・平和運動家・作家・アーティストなどから次から次へとくる連絡・調整はじめ通訳に追われるようになります。夫の遺品の手帳を頼りに「小倉馨の妻です」と電話すると誰もが快く応じてくれます。YMCAや専門学校で英語講師を務めながら合間に外国人を案内する生活する中で桂子は葛藤します。「自分のことは隠したまま、同じように隠したいと思っている被爆者たちに無理やり話をさせてきた。私はなんて罪深いことをしているんだ。」封印を解いた桂子は証言活動も始め、西ドイツのニュルンベルクで開かれた「反核国際模擬法廷」に核兵器を告発する証人として参加。続いてアメリカ・ニューヨークで開かれた第1回核被害者世界大会で自ら英語で被爆証言を行います。原爆投下を正当化する相手との修羅場をくぐり抜けながらも、欧米の暮らしに根差した反核運動に刺激を受けた桂子は、平和交流イベント「平和ピクニック」「ぺあせろべ」を実施したり「ヒロシマ案内人」養成講座に従事したりしながら「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立、被爆の事実を広島の人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始します。

-平和のためのヒロシマ通訳者グループ Hiroshima Interpreters for Peace (HIP)
-広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum
-中國新聞ヒロシマメディアセンター Chugoku News Hiroshima Peace Media Center

「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」
"Don't give up. Keep pushing. Keep Moving. Can you see the light? Keep working towards it."

サーロー 節子 女史 
Ms. Setsuko Thurlow
 1932 -
広島県広島市南区 生誕
Born in Hiroshima-city, Hiroshima-ken

サーロー節子女史は核兵器廃絶運動・被爆者運動の活動家です。2017年の核兵器禁止条約に貢献、同年のノーベル平和授賞式の壇上で「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)総代表として演説を行いました。
Ms. Setsuko Thurlow is an activist in the nuclear disarmament and hibakusha (atomic bomb survivors) movements. She made significant contributions to the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons in 2017 and, in the same year, delivered a speech as the co-representative of the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) during the Nobel Peace Prize ceremony.
*******

「8月6日」
 節子は広島市東荒神町に7人きょうだいの末っ子として生まれます。父・弁吉は10代の若さで米国カリフォルニア州に移民してサクラメント郊外に大きな果樹園を経営していました。日本人は土地所有が許されずドイツ人との共同経営ながら財をなして一家は広島へ戻り、節子が生まれます。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)に入学して英語またピアノに勤しむはずが、2年生になると学徒動員作業の毎日。農作業、軍服・群靴・たばこの製造、前線から届く暗号メッセージの解読作業に動員されます。節子13歳の8月6日、同級生約40人と一緒に木造の建物の2階に上がって作業を開始する直前、すさまじい閃光に包まれ体ごと吹き飛ばされます。「あきらめるな!光に向かってはっていけ!」励まされた節子は、血まみれの体でがれきの下から這い出ます。級友は建物の下敷きとなって焼け死に、きょうだいは被爆して無残に息絶え、叔父叔母は無傷ながらまもなく紫斑が出て苦しみながら急死。両親と4人になったきょうだいと母方の親戚に身を寄せ、脱毛や歯肉の出血といった放射線障害の急性症状に苦しみながら、トタン屋根で再会した学校に通い始めます。

「洗礼」
 新制高校2年生のときに敏子は級友と「広島女学院高校新聞」を創刊。敏子は広島女学院のキリスト教教育と、原爆孤児の救済に奔走する谷本清牧師に感化され受洗します。広島女学院大に進んでキリスト教女子青年会(YWCA)の原水爆禁止運動・被爆者運動に参加します。広島初の国際会議「第1回世界連邦アジア会議」で通訳を務めると、会議出席者から留学して米国で反核について伝えるよう提案されます。両親を説得して留学準備を整えた敏子は、夏休みに参加した北海道での国際キリスト教ワークキャンプでカナダ人宣教師ジム・サーローと出会います。「私たちは社会悪に挑む勇気を持たなければならない」。日本に婚約者を残したまま、第五福竜丸が「死の灰」を浴びた半年後に節子はリンチバーグ大(米バージニア州)に留学します。「真珠湾攻撃を忘れるな。」「日本に帰れ。」節子は社会福祉を学び、孤独と恐怖に屈せず学内の集会やロータリークラブで被爆体験を進んで語ります。「私は沈黙しない。語り続ける。」

「原爆展」
 郷里の父・弁吉が他界した年に、節子はカナダ出身の牧師ジム・サーローと結婚、人種差別法を潜り抜けカナダに移住します。子育てをしながら勉強を続け、トロント市教育委員会でソーシャルワークに従事します。被爆30年目、カナダが提供した原子炉でインドが核実験を実施。カナダ人の原爆への「無関心・無興味・無知」 に憤りを感じるようになった敏子は、教育委員会に働きかけ原爆教育の新カリキュラムを作る発起人となります。広島・長崎に落とされた原爆材料ウランはカナダ産であることをカナダ国民は知らないのです。敏子は爆破予告を振り切っててカナダ初の原爆展を開催、「広島は遠い過去のことだ」と主張するカナダ司法を相手に反核運動家の支援・軍縮・平和教育に奔走します。

「核兵器禁止条約」
 節子は、反核医師たちを中心にオーストラリアで設立された「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の活動家となり、世界中の若者と一緒に核兵器禁止条約を各国代表に訴えはじめます。母国である日本とカナダが核兵器禁止条約に背を向ける中、85歳の敏子は、国連本部の条約交渉会議で「72年前に虐殺された数十万人の霊もここで見ている。彼らの死は無駄でなかったと思えるような交渉をしてほしい」と発言。敏子の母国、日本・カナダが欠席する中、122カ国・地域の賛成多数で条約が成立します。それを受けICANのノーベル平和賞受賞が決まると、節子はICAN国際運営委員の代表として受賞演説に登壇、日本とカナダはじめさらなる国々の条約参加を訴えます。「私たちは被害者のままでいることに甘んじなかった。私たちは立ち上がった。広島と長崎で死を遂げた人々の存在を感じてください。」2023年被爆地・広島で開かれたG7サミットによる「広島ビジョン」に核兵器の非人道性や核兵器禁止条約への言及がなったことに、節子は厳しく批判しています。

-The International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN)
-中国新聞広島メディアセンター Chugoku News Hiroshima Media Center
-「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」 "The ways to view The Vow From Hiroshima"
-2017年ノーベル賞授賞式でのサーロー 節子 女史のスピーチ(1:11:20~1:31:00)

「しっかり務めを全うせいや」
"Perform your duties diligently."

麻生イト(以登) 女史
Ms. Ito Aso
1876 - 1956
広島県尾道市長江 生誕
Born in Onomiti-city, Hirosima-ken

 麻生イト(以登)女史は、舎弟3000人芸子100名を率いる「男装の女親分」として名を馳せた女性実業家。明治から昭和前期に尾道市・因島で「麻生組」を興して、造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業ならびに、船会社・造船会社の幹部はじめ政治家・文人を接待する料理旅館「麻生旅館」で財を成します。額の大きな刀傷と七三の短髪、黒い鉄砲袖の着物に角帯、夏にはパナマ帽がトレードマーク。
Ms. Ito Aso gained prominence as a female entrepreneur leading 3,000 apprentices and 100 geisha as the "Male-Attired Female Don". She emerged as a prominent figure from the Meiji to the early Showa period in Onomichi City and Innoshima, founding the "Aso Group." Specializing in brokerage for shipyards, ship dismantling, and running a catering inn called the "Aso Ryokan," she amassed wealth by entertaining executives from shipping companies, shipbuilding firms, as well as politicians and literati. Sporting a significant scar on her forehead, a distinct short hairstyle, and dressed in a black kimono with iron-hemmed sleeves and a hakama, she was recognized by her trademark Panama hat during the summer months.

「麻生組創業」
 尾道十四日町(現在の十四日元町から長江のあたり)で煙草屋・宿屋を営んでいた父・麻生林兵衛家と母ヒデの三女として誕生。小学校を卒業後、神戸に養女に出されます。その後、不明となった養母を捜し歩き、料亭の住み込み女中、トンネル工事の事務員として働きながら各地を転々として北海道まで渡ります。縁あって大阪方面に嫁いで娘を産むも、イト曰くまことにつまらない夫で別れます。27歳のイトは子供を連れて近代的な造船業で繁栄する因島へ移り住んで、小さな旅館をはじめます。旅館に出入りするたくさんの造船所関係の人達を世話をするうちに人脈を得たイトは「麻生組」を創業、大阪鉄工所(日立造船の前身)の造船下請け業務・造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業に従事します。工場から要請が入ると、イトは組幹部を招集、資金を渡して各地へ派遣して人材を集めてこさせます。第一次世界大戦での大正バブルで島の造船業は最盛期を迎え、大阪鉄工所因島工場の造船量は全国一に、位麻生組の扱う人数は数百人に膨れあがり、イトを親分のように慕う舎弟は3千人にも及びます。背中に「イ」文字10個で丸く囲んだ中央に「鐵(くろがね)」の一文字が鮮やかに映える麻生組の法被をまとった荒くれ者達をイトはよく面倒をみながら束ねます。続いて、大阪鉄工所の初代工場長の厚い信頼を受けたイトは、島ではじめて船主らをもてなす料理旅館「麻生旅館」を開業して繁盛させます。10室以上の部屋はいつも満室、芸子は100人を超え、進水式は続き、船会社の幹部と造船所の幹部たちの宴会が続きます。手腕が広く認められ、憲政の神様と言われる尾崎行雄・人情大臣と呼ばれる望月圭介はじめ政界人、ならびに俳句革新運動を主導する河東碧梧桐・新進女流作家の林芙美子はじめ文化人達、日本海員組合創設者・濱田国太郎はじめ労働運動家など幅広く親交を育みます。大阪鉄工所の迎賓館として村上水軍の本城・長崎城跡地に城山倶楽部(現在のホテルナティーク城山)の経営も手掛けます。

「男装の女親分」
 1917年(大正6年)1月16日付『中国新聞』「女侠客殺し(未遂)」にイトの記事が出ます。ある日、監獄を出たばかりの昔の輩下がイトを訪ねてきて口論になります。電気工事の代金支払いを巡るトラブルがこじれ、油断したイトはこの元電気職工に日本刀と短刀で襲われ、頭をざっくり割られ背中と肩にも傷を負いながらひるむことなく押さえつけます。イトはこの職工のために減刑を請い、刑務所に差し入れをし、出所すると「しっかり務めを全うせいや」と身元引受人となって自分のところで使います。この職工はじめすべてのものがイトに心服、忠誠と誓って身を粉にして働きます。女の恰好では侮られると思ったイトは男装をはじめ、黒い鉄砲袖の着物に角帯、七三に分けた短髪、腰には煙草入れを差し、夏にはパナマ帽を被ります。頭には切りつけられた大きな刀傷、若い女を2・3人連れて、男の付き人に大きな土佐犬を曳かせて、時にはステッキで滅多打ちしながら現場を監督してまわり、「景気はどうの?」といって町中を挨拶してまわります。親分肌のイトの元には多くの人が集い商売は繁盛します。太平洋戦争に突入すると、因島の造船所に多数の学生が勤労動員として配置されてきます。イトは学生たちにご馳走したり面倒をよく見ます。今度は私財で、土生幼稚園(現尾道市立土生幼稚園)の開設、女子実業補習学校ならびに教育資金制度の創設、人工が急増した排水溝の整備に惜しみなく使います。そして因島の南対岸にあたる生名島に土地を買って、観音霊場・山道の整備、三秀園(現在の立石公園)の建設をして一大テーマパークをつくろうとします。晩年のイトは、身内ではなく見込んだシングルマザーに事業を譲り、自分は三秀園に移り住んで別荘の縁側でくつろいで「おじいちゃん」と声をかけてくる子供たちにお菓子・駄賃をくれてやりながら、観音菩薩への信仰と祈りの中で波乱万丈な生涯を閉じます。

—河東碧梧桐『山を水を人を』
「前額から後頭部にかけて、一文字に深い刀疵が・・・髪をジャン切りにして、筒袖に兵児帯。五尺にも足りない小柄ながら、少々四角ばった顔のイカツイ格好にそぐう目の威力が・・・(中略)ぞんざいな関西べらんめいの話しぶりにも耳をかしげる魅力がある。」

-林芙美子『小さい花』
-今東光『悪名』
-村上貢著『しまなみ人物伝』
-勝新太郎主演映画『悪名』シリーズ

-ナティーク城山
-ペーパームーン
-中国新聞

「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」(小唄)
"If you’re to form a bond with someone, make it gentle and fleeting, let it dissolve softly. Just like maple leaves—watch which ones fall first. It’s the thick leaves that drop before the thin ones." -traditional Japanese song

岡田 嘉子女史は日本またソ連の女優また日本語アナウンサー。演出家・杉本良吉とソビエトに亡命、スターリンによる自由派知識人・芸術家の粛清はじめ対日工作に協力させられながらも、再びソ連と日本の舞台に立ちます。
"Yoshiko Okada was an actress and Japanese-language announcer in both Japan and the Soviet Union. She defected to the Soviet Union with director Ryoichi Sugimoto and, while being coerced into aiding Stalin's purges of liberal intellectuals and artists and anti-Japanese activities, she continued to perform on stages in both the Soviet Union and Japan."

岡田 嘉子
Ms Sumiko Okada
1902 - 1992
広島県広島市細工町(現:広島市中区大手町) 生誕
Born in Hiroshima-city, Hiroshima-ken

「文芸一家」
 嘉子は新聞記者で文芸を愛する父・岡田武雄と、オランダ人の血を引き和歌を愛する母・ヤエの次女として誕生。父が新聞社を変わる度に一家で釜山、横須賀、東京などに移り住みます。嘉子は幼いころから舞台好きで、家族で出かけた映画や寄席で花道に躍り出たり、父親が購読する文芸雑誌を研究しながら教会や学校の学芸会で張り切ります。松井須磨子に憧れる嘉子は女優業を志すも、両親に反対され女子美術学校西洋画科へ進学。北海道小樽「北門日報」の主筆に招かれた父のもとで同社の婦人記者として入社すると、文芸を担当しながら地元の芝居に出演して父親の説得に努めます。まもなく18歳の嘉子は父親と上京します。

「憧れの芸術座」
 憧れの芸術座で劇作家をつとめる中村吉蔵の内弟子となるも、芸術座は島村抱月の病死と松井須磨子の自殺で解散。それでも文芸記者を長年務めた父親の全面的バックアップのもと、嘉子は新劇俳優・加藤精一の弟子になり、長唄、日本舞踊、バイオリン、朗読、英語のレッスンに通いながら、中村が旗揚げした新芸術座・新文芸協会などに出演。二十歳前後の若い女優が少ない中で、若い僧侶と町娘の恋愛物語など新鮮なラブシーンで人気者になります。地方巡業中に、座員で早稲田大学予科の学生・服部義治の男児を出産したり、共演者・山田隆弥と愛人関係になったり世間の話題となりながら、サイレント映画でも活躍します。関東大震災を境に日活京都撮影所と契約すると、月給に縛られながら監督の指示通りに動かされる映画の仕事に失望。29歳の嘉子は『椿姫』の撮影中に、共演俳優・竹内良一と駆け落ちして結婚します。

「ロシア演劇」
 脚本の事前検閲が始まり、客席の後ろに検閲官席が設けられ、芝居の最後には全員で「皇軍バンザーイ」。嘉子は「中間演劇」を提唱する井上正一一座に参加、舞台出演をしながら共産主義者の演出家・杉本良吉の愛人となります。杉本が師事した佐野碩ならびに土方与志はソ連に亡命して、ロシア演劇・現代演劇の著名な演出家フセヴォロド・メイエルホリドの指導を受けていると聞かされます。嘉子も、新劇の本場モスクワで演劇の勉強をしたいと憧れを抱くようになります。赤紙に怯えながら、杉本の病身の妻・千恵子に化粧品代と同じ30円を毎月送金しながら、同棲生活を続けること2年。2人は上野駅、北海道、樺太国境を経て、雪をかき分けながらソ連に越境を果たします。嘉子39歳の正月。

「モスクワ」
 ソ連入国後3日目には嘉子と杉本は引き離され、GPU(後の KGB)の拷問を伴う激しい取調べが始まります。嘉子は5日間眠ることを許されず精神状態に異常をきたします。通訳の朝鮮人キンは自白を促します。「スパイと言えばソビエト人にしてやる。そうでなければ日本に送り返す。」嘉子は自らだけでなく杉本良吉さらに佐野碩また土方与志のスパイを自白します。隣室の杉本の取り調べは厳しくなり、杉本の苦しさの余り発する悲鳴が嘉子の胸を刺します。やがて杉本も自白して銃殺刑に処され、スターリンによってメイエルホリドをはじめとする自由派知識人・芸術家の粛清が始まります。
嘉子はラーゲリ(強制収容所)と秘密警察内NKVD内無監獄で対日工作をしながら10年を過ごします。出所した嘉子はモスクワ放送外国局日本課に入局して日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の同僚で元俳優・滝口新太郎と結婚。57歳でモスクワ国立演劇大学に通い始め舞台に再び立ちます。78歳で日本映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に出演、81歳・83歳・87歳で日本帝国劇場の舞台に出演。89歳でモスクワの病院で逝去。
「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」

-『ルパシカを着て生まれてきた私 (女の自叙伝)』(岡田嘉子 著 / 婦人画報社1986年)

「一人の幼な子の命をどうしてこんなにも軽んじる。」
"How can you disregard a child's life like this?"

本畝 淑子 女史
Ms. Yoshiko Motoune
1947 - ?
広島県呉市 生誕
Born in Kure-city ,Hiroshima-ken

本畝 淑子 女史は「ライ症候群親の会」発起人でカルテ開示を求める市民運動の創始者。「健康を考える会」を創設して「健康ニュース」を発刊しながら、薬害追放運動に邁進。
Ms. Yoshiko Honune is founder of the Reye's Syndrome Parents' Group and the Medical Records Disclosure Movement. While founding the ``Health Thinking Association'' and publishing ``Health News,'' she worked hard to banish drug-related harm.

「6種類の薬」
 淑子は娘・寿子ともども風邪を引いて一緒に病院にかかります。「いや。このおくしゅりにがい。」町の大きな病院の小児科医に処方された解熱剤と抗生物質をしっかり飲ませます。家で枕を並べて2人で寝ていると、寿子の瞼がパンパンに腫れあがります。あわてて電話をした小児科医に言われるまま眼科を受診します。「風邪が治れば瞼のはれも治るでしょう」。「たいぎ!あたまいたい。だっこちて。」翌朝、目覚めた寿子は一言も話さず、数時間後にはけいれんを起こします。すぐに意識不明となり救急車に運ばれた病室で心音が途絶えます。特異体質でもなくすこぶる元気であったのに、37度2分の発熱で病院を受診後8日目、わずか2歳8か月という幼さで死ぬなんて、淑子にはどうしても信じられません。死亡診断書に書かれた「ライ症候群」について医師に尋ねると「原因不明なんです」。しばらくして「インフルエンザの子どもにサリチル酸系の解熱剤を使うな! 米政府警告ライ症候群の恐れ」という新聞記事が目に留まります。淑子は医師にカルテ開示を求めますが、「カルテは患者に見せるものではない」と拒否されます。淑子は弁護士を通じて裁判所に証拠保全を申し立て、1年がかりでやっと投薬証明書と診断書を手に入れます。2歳児の娘にたった1週間のうちに6種類の解熱鎮痛剤・抗生物質・抗アレルギー薬が投与されていました。

「私の子供は風邪で死んだ」
 広島女学院英文学部卒業後に英語塾講師をしていた淑子は、得意の英語を活かして外国資料にあたって、娘に投与された薬、幼児用PL顆粒(サリチル酸系複合解熱鎮痛薬・抗ヒスタミン薬)・マドレキシンドライシロップ(抗生物質)・バストシリンドラインシロップ(抗生物質)・ポンタールシロップ(解熱鎮痛剤)・アスベリンシロップ(咳止め薬)・アルメジンシロップ(抗アレルギー薬)を1点1点調査します。オーストラリアのライ博士の報告により、アメリカでは5年も前から疫学調査を経てインフルエンザや水痘にかかった子供へサリチル酸系製剤を含む解熱剤の投与は禁止、製薬会社とタイアップした乳幼児家庭への予防パンフレット配布、民間による24時間体制の「ライ症候群」相談所が設けられていることを突き止めます。それから夫と二人で日本全国の専門家の意見を聞いて回ります。日本では真相究明が遅れていました。自分の無知を悔いた淑子はガリ版刷りを初めて、毎日街角でチラシを配布します。「私の子供は風邪で死んだ」。

「ライ症候群親の会」
 淑子は貯金を下ろしてガリ版刷りを続けながら、ありとあらゆる報道機関に手紙を書き、住所を記載して読者欄に投稿、「ライ症候群」の被害者40名を探し出します。夫婦で全国の「ライ症候群」の家族をたずねてまわって共通点を調査すると、被害者は乳児から小学生で平素から元気で病気らしい病気をしたことがないこと、風邪気味また水痘で病院に行き多種にわたる抗生物質と解熱剤を投与されていること、生きのびた子供はほとんど植物状態であることを明らかにします。淑子はアメリカから専門家を招いて「第1回ライ症シンポジウム」を開催させるとともに、63家族で「ライ症候群親の会」を発足します。淑子らは渡部恒三厚生大臣はじめ厚生省に国会に、ライ症候群を薬害と認め、死亡した者および後遺症で植物状態になった子供と家族に、スモン薬害訴訟で設置された「医療品副作用被害救済法」の適用を求めます。しかし、医師は投薬証明・診断書などの作成を拒み、「何に使うんだ。警察を呼ぶぞ。」「裁判するつもりなら、絶対に出さない。」「親でも見せられない。弁護士を呼びなさい。」、厚生省は審議会を開かずに「ライ症候群との因果関係は改名されていない」「薬害はもうない!帰れ!」。

「賢い親、賢い患者、賢い市民」
 淑子は日本中の薬害また医療事故の被害者グループと一斉に立ち上がればと願いつつ夫婦で全国を訪ねて周ります。互いが他のグループを批判し罵倒する姿を見てしまいながらも、「命の尊厳という同一のテーマを有する者同士がどうして心を一つにすることができないのか?」子どもを医療被害で亡くした遺族らとともに「患者が求めたときにはカルテのコピーが取れる制度を」と厚生省や大阪府に陳情します。そんな運動の中で、淑子は大阪市立大学小児科の富田雄祐医師と出会います。「私達が緊縮症の裁判で禁じた注射液をシロップや粉薬に変えて子どもの口から与えている。」淑子は富田医師とともに賢い市民になるための啓蒙運動を開始。「明日から、病院へ行って投薬されたら、この薬は何ですか?どうして飲まなければいけませんか?と聞いてください。」「私達自らが賢い親になり、賢い患者になり、賢い市民になる以外、今の薬漬け医療から幼子の命を守る道はない。」淑子はヒロシマの地から、平和運動も反核運動も薬害追放運動も消費者運動もすべての願いは同じであることを語り続けます。「誰が寿子を殺した。おろかなこの母か。おろかなあの医者か。いやいや大人のみんなが寿子の首にてをかけた。熱が出たら病院へかけこめという愚かな認識が!熱を下げなかったら患者が来なくなるというおろかなエゴが!こんなことが二度と会ってなるものか。母さんは田舎町の片隅から叫び続ける。日本中に響き渡れと祈りつつ叫び続ける。」

-「ごめんね ひさこちゃん」(本畝 淑子 著/ 筑摩書店1983年)
-「こわいカゼ薬」(本畝 淑子・宮田雄祐 共著/ 筑摩書店1985年)
-医療情報の公開・開示を求める市民の会
-患者の権利法をつくる会
-医療過誤原告の会

山口県 Yamaguti-Ken

「みんなちがって、みんないい」

"We are all different and all wonderful."


金子 みすゞ 女史

Ms. Misuzu Kaneko

1903 - 1930

山口県長門市仙崎 生誕

Bron in Nagato-city, Yamaguti-ken


金子みすゞ女史は女性童謡詩人の草分けです。彼女は詩作という自己表現だけでなく、彼女は幼い娘の親権を夫と争う中で、当時の家父長制度また親権制度を強い意志で拒絶しました。

Ms. Kaneko Mizusu is a pioneer among female children's song poets. Not only did she express herself through her poetry, but she also staunchly rejected the prevailing patriarchal and custody systems of her time while fighting for custody of her young daughter against her husband.

*******

「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」

 金子みすゞ、本名テルは山口県大津郡仙崎村(いまの長門市仙崎)で父・母・祖母・兄・弟の6人家族で育ちます。父・庄之助は下関の書店「上山文英堂」の清国営口支店長として中国で日本人最初の書店を切り盛りするも、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死を遂げます。「おちゃん、おしえてよう」。兄・堅助は15歳で家督を継いで仙崎で唯一の本屋金子文英堂」をはじめ弟・正祐は、母の妹・フジの嫁ぎ先である下関の上山家に養子としてもらわれます。祖母・ウメから浄瑠璃の物語を聞かされながらテルは瀬戸崎尋常小学校1年から6年まで級長をつとめ、母・ミチと兄・堅助を手伝いながらテルは大津郡立大津高等女学校に入学。まもなく叔母・フジが病死すると母・ミチは下関の上山家の後妻となります。堅助が新刊本を持って学校まわりしている間、テルは祖母と一緒に店番に出て学校が終わって遊びに来る子どもの相手をします。「一つのものを見て、たくさんの言葉を考えるの。そして、その時その時で、一番ぴったりの言葉を見つけるの。そうすると楽しいよ」。やがて大きくなった弟・正祐が遊びに来るようになり、きょうだい3人で演劇・演奏会出かけたりラジオや蓄音機を聴きながら音楽また文学論議に花を咲かせます。兄・堅助テルの同級生・チウサと結婚すると、折り合いの悪いテルを母・ミチが下関に引き取ります。

きょうの私にさよならしましょ」

 20歳のテルは上山文英堂の支店の「商品館」の店番を任されます。関東大震災で奉公先から帰郷した弟・正祐と新劇鑑賞をしながら、競って雑誌への作品投稿を始めます。この頃、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』から日本の童謡運動が興り、有名・無名の若手や児童を含む幅広い年齢層の人たちに創作の場を与えます。特に、北原白秋と西條八十が選んだ投稿者の中には作品が雑誌に連続して掲載された後に童謡集が出版され、童謡詩人としての地位を確立した人物も育ちます。テルも「金子みすゞ」というペンネームで童謡の投稿を始め百通以上の葉書を毎月のように出版社に送ります。「英のクリステイナ・ローゼツテイ女史に遜らぬ華やかな幻想」童謡作家・西條八十に絶賛され、テルの作品は次々と八十が主宰する雑誌『童話』を中心に掲載されます。テルは筆まめに八十へは勿論のこと投稿仲間にも長文の手紙を書き続けますが、やがて八十がフランスに留学するとテルの作品はあまり掲載されなくなります。落ち込んで寝込むテルを励まそうと弟・正祐は同級生を集めて「童謡の夕べ」を開催、『赤い鳥』に採用された楽曲を自ら演奏、テルに雑誌に掲載された童謡を朗読させます。一方、叔父・松蔵正祐が成人するまでの店長代理として上山文英堂の番頭格・宮本啓喜を抜擢、ゆくゆくのれん分けを約束して23歳のテルとの縁談を進めます。啓喜は継母との折り合い悪く小学校卒業前に熊本人吉から博多へ出て独学で商売を学んだ苦労人、丈夫で商才も根性もある芝居好きの飄々とした笑顔の美男子でテルも気に入ります。2人は上山文英堂の二階で新婚生活を始めます。

「明るい方へ明るい方へ」

 弟・正祐は声楽家になりたいと家出、戻ってからは遊郭に通い始め、縁談は次々と断られ、やがて映画・演劇の仕事を求めて上京。テルは映画・演劇雑誌の編集者・古川緑波に推薦状を送って弟の就職を後方援護します。夫・啓喜は商売熱心ながら、正祐を溺愛する叔父に冷遇され、まもなく上山文英堂を追われます。妊娠中のテルは夫に従って借家に移り、長女ふさえを出産。夫・啓喜は食料玩具問屋「辰巳屋」を始め、子供の駄菓子や玩具を大阪の玩具商から買い付け、警察の取り締まりの厳しいくじ付き駄菓子も扱って、山口県内はもとより九州各地の仲買に卸し、商売を軌道に乗せます。ところがテルは夫の商売を快く思わず、店を手伝うことなく家事と育児の合間に詩を作り、商品を拠点に童謡仲間と文通のやりとりを続けます。その頃、帰国した西條八十が雑誌『愛誦』を創刊、テルは再び熱心に作品を投稿し始めます。八十の強い推薦のおかげで「童謡詩人会」の入会が認められ、金子みすゞは与謝野晶子に次いで女性童謡詩人となります。さらに、ふさえをおぶって、九州へ講演に赴く西條 八十に下関駅まで会いに行き、詩集出版の協力を取り付けます。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました」。一方、妻の理解を得られない夫・啓喜は陰気になり遊郭通いで家に寄り付かず生活は困窮、テルは「放蕩無頼の人」と軽蔑します。テルは詩集を完成するも夫に移された淋病が悪化、27歳の時に離婚を決意してふさえを連れて上山文英堂に移ります。夫・啓喜は離婚には応じたもののふさえを引き取ってもう一度立ち上がりたいと手紙で懇願するも、テルは断固拒否して枕元に遺書3通と詩集2部を残し、睡眠薬を飲みます。夫には「あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって、心の糧ではありません。」ミチには「ふうちゃんのことをよろしくお願いします」、正祐には「さらば、われらの選手、勇ましくいけ」。テルの詩集は一部は西条八十に送られ、もう一部は弟・正祐に遺されます。ふさえは後々に啓喜の元から嫁ぎます。

-金子みすゞ記念館 Kaneko Misuzu memorial Museum

徳島県 Tokushima-Ken

「あなたを応援する人も世の中にいることを知らせたい」
"I want to let you know that there are people out there who support you."

瀬戸内 寂聴 (本名 瀬戸内 晴美)女史
Ms. Jyakucho Setouchi / Harumi Jyakucho
1922 - 2021
徳島県徳島市塀裏町 生誕
Born in Tokushima-city, Tokushima-ken

瀬戸内寂聴は日本初のベストセラー尼僧作家です。不倫・駆け落ち・三角関係の官能私小説を発表、ポルノ小説家また子宮作家と批判を受けるも、昭和・平成・令和の幅広い年代の女性から支持を受ける女流人気作家です。
Setouchi Jyakucho is Japan's first bestselling nun-author. She has published semi-autobiographical erotic novels involving extramarital affairs, elopement, and triangular relationships. While facing criticism as a "pornography writer" and a "uterus writer," she remains a popular female writer who receives support from women across a wide range of generations spanning the Showa, Heisei, and Reiwa eras.

*******

「般若心経と小説」
 晴美は徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店を営む両親のもとに生まれます。何人もの内弟子と奉公人を抱えて賑やかな暮らしの中で、体が弱い晴美は幼い時から「祝詞」や「般若心経」を暗唱したり、文学少女の姉と一緒に雑誌を読んだりして過ごしながら、小説家を夢見ます。授業を休んで戦地の兵隊さんに送るチョッキを作ったり、戦場をしのんで、おかずも梅干しも無い弁当を食べたりしながら、徳島高等女学校を卒業。東京女子大学に進学すると、「小説家になる夢は現実的ではない。早く結婚して日本から 出たい。」20歳の晴美は9歳年上で同郷の国立北京大学助教授・酒井悌氏との縁談を決めます。翌月には戦争による繰り上げ卒業をして、卒業式にも出ずに北京に渡ります。新婚生活は「パリのサントノレより優雅で豪華な東洋の真珠」と評される北京王府井から徒歩三分の東単牌楼三条胡同の紅楼飯店で始まります。ロシア式の赤煉瓦建物で、近くのカソリック系フランス人学校からチャペルの3つの鐘が鳴り響きます。夫は師範大学へ講義に出かけ、ラジオ放送局へ在留邦人向け中国語講座に出かけ、家ではほとんど部屋にいて客の応対ばかりします。「日本と中国の共存共栄の捨て石になりたい」夫に賛同する晴美自身も日中の楔の一つになっていると信じます。

「東洋の真珠・北京王府井」
 カソリック系ドイツ人による輔仁大学に夫が招聘されると、「什刹海の北辺一帯の閑静な屋敷町で古都らしい俤をのこす」輔仁大学学長・細井二郎宅に仮住まい、「高名な貴族の邸で紅楼夢の舞台と言われる」輔仁大学の教員宿舎に転居、西単にある筒井産婦人科という小さな病院で長女を出産します。やがて大通りで防空壕が掘られ、内地の手紙が何か月も遅れ、インフレが進んで物価は鰻登り。北京大学に移っても内地からの辞令が届かず給料も支給されない夫に現地召集の令状が届き、軍服・軍刀・飯盒・水筒を自己調達して門頭溝に出征していきます。晴美は1歳に満たない娘を抱えて、夫が現地召集された家族と同居しながら、7度に渡って引っ越し、嫁入り支度の着物を一枚も残さず中国人に売って2年を過ごします。運送店で働き始めた初日に玉音放送と、北京の司令官の放送と、凱旋の軍楽隊の行進を聞きます。「部屋からは暗い夜空に浮ぶ北海公園の白塔が見える」西単頭条胡同の片隅の赤い門の中にある建物の 504 号室で晴美は終戦を迎えます。

「焼け野原に眉山」
 「日本へ戻りたくない。中国に骨を埋めたい。」無事戻ってきた夫に従って、晴美たちは帰国する日本人の集結場所には向かわず、北京に執着する100人余りの日本人たちと北京・胡同の「三列になった工場の寮のよう建物」に潜んで非合法な共同生活を続けます。やがて最後の引き揚げ船の来航が迫る中、新政府の日本人雇用名簿から除外された夫は帰国を決心します。
ある朝、中国側のトラックに晴美たちは着の身着のまま収容され、塘沽貨物廠に運ばれると、300人余りの日本人たちと1か月過ごした後、アメリカのLST輸送船に乗って佐世保に帰国。身体検査を受け白い粉をかけられ、炊き出しを受け、窓ガラスのない汽車で真っ暗な広島を通過して、焼け野原に眉山がそびえる郷里の徳島駅に親子3人で引き揚げます。ぼんやりしている晴美に小学校時代の友人が話し掛けてきます。「あなたのお母さん防空壕ごうで焼け死んだのよ。かわいそうね。」姉が自転車で迎えに来てくれて、実家に居候をはじめます。晴美は夫と結婚以来何ひとつ話らしい話をしていないことに気づきます。心の中のもどかしさを伝えようとしても「通じあうことばのないことを発見してしまった」。

「ピグマリオンの恋」
 夫は地元で教鞭を取りながら、仕事を探しに度々上京します。その間に北京時代からの夫の教え子で、小川文明という文学青年が本を携えて晴美を訪ねてきます。「仲間たちと一緒に同人誌を立ち上げよう」晴美の小説家への夢が再燃します。やがて家族3人で上京。晴美はまだ手付かずの焼け跡の残る東京から、徳島やがて岡山に移った文明にあてて手紙をやり取りします。26歳の晴美は夫と3歳の長女を棄て、女子大時代の友人を頼って京都へ出奔、小さな出版社・大翠書院に就職すると、文明を呼び寄せて同棲生活を始めます。初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を評論家の福田恆存氏に送ります。「モノになるとも言えない、ならないとも言えない」晴美は正式に離婚、上京して本格的に小説家を目指します。少女雑誌の懸賞小説を投稿する中、「愚かな娘のために、もうひと働きしなければ」と言いながら父が急逝。同時に『少女世界』『ひまわり』に投稿した少女小説が掲載され、28歳の晴美は月給の3倍の賞金を手にします。小学館また講談社で少女小説や童話を書きはじめ、芥川賞候補作家の丹羽文雄が私費で若手作家を支える『文学者』に参加、同門下の人気作家で妻子持ちの小田仁二郎氏と同棲を始めます。

「花芯」
 小川文明との情事も続ける晴美は、晴美が荻窪に借りた家と、湘南で暮らす妻との間を行き来する小田仁二郎の強力な推薦のもと、34歳で「痛い靴」を同人誌『文学者』で発表、翌年に「女子大生・曲愛玲」が新潮社で「同人雑誌賞」を受賞、文芸誌『新潮』に不倫関係また駆け落ちを描いた私小説『花芯』を執筆。エロ小説・ポルノ小説・子宮作家と酷評され全文芸誌から干されるも、小田の強い推薦で首都圏紙「東京タイムズ」と女性雑誌『講談倶楽部』『婦人公論』などで連載小説を執筆し続けます。39歳のとき同人誌『無名誌』で連載した『田村俊子』で田村敏子賞を受賞、新潮社に発表した不倫の三角関係を描いた私小説『夏の終り』で女流文学賞を受賞、作家としての地位を確立します。「このエースはねあなたのこれまでを一切流してしまうカードですよ。」トランプ占いにかこつけて純文学に挑戦するよう晴美に助言するのは、左翼作家で妻子持ちの井上光晴氏。雷に打たれた晴美は再び不倫を始めます。

「寂聴」
 一方で40歳から「自ら枯れた」感覚を持ち始めた晴美は、束縛から逃れるように気の向くまま流浪を続けます。作家の三島由紀夫ならびに川端康成の自殺がセンセーショナルに報道される中で「生きながら死ぬ方法はないだろうか。」日中国交正常化で文化界代表団の訪中が始まると、女学生の頃『寄小読者』(邦訳『をとめの旅より子どもの国のみなさまへ』)を読んですっかりファンになった憧れの中国人女性作家・謝冰心と交流を始めます。「生命は80歳から始まる。(生命従80歳開始)」「愛があればすべてがある。(有了愛就有了一切)」瀬戸内は出家を志します。多くの寺院に拒否され続けるも、ようやく今春聴(今東光)大僧正のもと中尊寺本堂で得度式を受け、法名「寂聴」を授かります。翌年、比叡山で60日間の修行を経て京都嵯峨野の寂庵に住まい、天台寺住職となり「瀬戸内寂聴」に改名。「人の愛に飽きたのではなく、人の愛を澄明に洗いたいと思うだけだ 」以後、死刑囚・麻薬中毒者・小保方晴子女史など社会から非難される人と説教的に交流、悩める人に寄り添い亡くなる直前まで法話また執筆を続けます。「生きることは愛すること。世の中をよくするとか、戦争をしないとか、その根底には愛がある。それを書くのが小説と思う。」

-『花芯』(瀬戸内寂聴 著 / 三笠書房1958年)
-『いずこより 自伝小説』(瀬戸内寂聴 著 / 筑摩書房1974年)
-『場所』(瀬戸内寂聴 著 / 新潮社2001年)
-徳島県立文学書道館 Tokushima Prefectural Museum of Literature and Calligraphy
-徳島新聞 Tokushima News

香川県 Kagawa-Ken

齋賀 富美子 女史

Ms. Fumiko Saiga

日本初の国際刑事裁判所判事・女性初の国連大使

Ms. Fumiko Saiga

1943 - 2009 

香川県丸亀市 生誕

Born in Marukame-city, kagawa-ken

齋賀富美子女史は日本初の国際刑事裁判所判事・女性初の国連大使です。外交官として人権・人道・ジェンダー分野の国際法実務に携わってきた第一人者、日本の人権外交の先駆者です。

Ms. Fumiko Saiga is the first Japanese judge at the International Criminal Court and also the first female UN Ambassador. She is a leading expert in the field of human rights, humanitarian issues, and gender in international law. She is considered a pioneer in Japan's human rights diplomacy. 

*******

 齋賀富美子女史は東京外国語大学英米語学科卒業(文学士)。1966年外務省入省後、外交官として長年にわたり人権・人道・ジェンダー分野の業務を担当します。国連女子差別撤廃委員会(CEDAW)委員、ノルウェー兼アイスランド特命全権大使、国際連合政府代表部大使等を歴任。2005年北朝鮮による日本人拉致事件などの人権問題を専門的に扱うために新設された日本国初の「人権担当大使」に任命されます。彼女は、担当業務を通じて国際法また国際刑法・刑事訴訟法に関する知見を高めました。世界に日本の人権外交のありようを示す新しい取り組みが評価され、2007年国際刑事裁判所(ICC)裁判官補欠選挙にて5候補中トップで当選、日本人初かつアジア初の国際刑事裁判所裁判官となります。国際刑事裁判所の予審裁判部、捜査開始の可否について審査・判断、また捜査の中止を判断する部著に配属されコンゴ民主共和国での戦争犯罪の捜査を担当します。2009年国連本部で行なわれたICC裁判官通常選挙で当選し再選するも、任期半ばオランダ王国のハーグにて急な発病で65歳で死去。

-国際刑事裁判所 International Criminal Court

-外務省 Ministry of Foreign Affairs

保井 コノ 女史

Ms. Yasui Kono

1880 - 1971 

香川県東かがわ市 生誕

Born in Higashikagawa-city, Kagawa-ken

「見なくていいものは見ないでおきなさい」

"Don't look at things you don't need to see."

保井コノ女史は日本初の女性理学博士です。動物学や植物学や石炭の研究を行い、日本国内ならびに海外の専門誌に掲載される日本女性初の科学論文を発表しました。さらに細胞学専門誌『Cytologia』の創刊に携わりながら、お茶の水子大学の設立に奔走しました。

Ms. Yasui Kono is the first female Doctor of Science in Japan. She conducted research in zoology, botany, and coal studies, and published the first scientific paper by a Japanese woman in both domestic and overseas specialized journals. Furthermore, she played a role in the establishment of Ochanomizu University while being involved in the launch of the specialized journal in cell biology, "Cytologia." 

*******

 コノは、東京女子高等師範学校に新設された当時日本で唯一の理科に進学し、国費であった学費を返済するために教員になります。この時、高等女学校向けの物理学の教科書を執筆しましたが女性という理由で文部省の検定が許可されませんでした。母校の官費研究科に合格、岩川友太郎教授のもと最初の論文「鯉のウェーベル氏器官について」を『動物学雑誌』に発表。続いて三宅驥一教授のもと「山椒藻の生活史」をイギリスの学術雑誌『Annals of Bottany』に発表。さらに結婚しないで生涯研究を続けるという制約ならびに「家事研究」という追加目的のもと、アメリカのシカゴ大学さらにハーバード大学に留学して「柿の細胞学的研究」「日本産石炭の植物学的研究」としてまとめました。帰国後は藤井健次郎教授のもと東京帝国大学理学部植物学科遺伝学の嘱託研究員として実験を担当しました。木原均博士により文化勲章に推薦されますが、女性科学者の前例はないという理由で却下されました。彼女は、女性が教師の他にも指導者として働けるように母校を女子の国立大学として存続させるべく運動しました。

-お茶の水女子大学歴史資料館 Ochanomizu University History Museum

「食事は栄養を満たすだけでなく、喜びであり、愉しみであり、人の心と心をむすぶものである」
"Dining is not just about satisfying nutritional needs; it is also about joy, pleasure, and connecting human hearts."

香川 綾 (旧姓 横巻 綾)女史
Ms. Aya Kagawa
1899 - 1997
和歌山県田辺市本宮町
Born in Tanabe-city, Wakayama-ken

香川 綾女史は日本の栄養学の先駆者です。香川栄養学園ならびに女子栄養短期大学・大学を創設。雑誌『栄養と料理』を創刊。計量カップ・計量スプーンを作製。香川式栄養法を考案。栄養学・管理栄養士の創設の立役者。
Ms. Aya Kagawa is a pioneer in Japanese nutrition science. She founded the Kagawa Nutrition Academy, as well as the Kagawa Women's Nutrition Junior College and University. She launched the magazine "Nutrition and Cooking," created measuring cups and spoons, and devised the Kagawa Nutritional Method. She played a leading role in establishing the fields of nutrition science and registered dietitians in Japan.

「紀州藩食膳係直伝」
 綾は警察官の父・横巻一茂と料理上手な母・のぶえの娘として生まれます。母・のぶえのレシピは紀州藩の食膳係を務めていた祖父直伝で、畑や海でとれるものを手間暇かけて工夫を凝らし心尽くしで美しく風情豊かに仕上げます。キリスト教を信仰する母・のぶえは近所で困っている人があれば食べ物と着物を届けて周るので、玄関先にはしょっちゅう新鮮な野菜・魚が投げ込まれ、それをまた漬物・干物にして配ってまわると、綾はじめ家族そろって食事します。跳ねるように新しい魚は、イワシのゴボウ漬け・小鯛の酢漬け・ぶりの煮凍りに。小鯵の丸干しは1年中の出汁に。旬の野菜また山菜はたけのこ寿司・こけら寿司(押し重ねた散らし寿司)・炊き込みご飯に。大根の三ツ輪漬け・丸干し大根のはりはり漬けは常備。おやつは蒸芋と、畑仕事の無い雨の日に、近所の鋳物屋に特注した石油オーブンで焼くクッキー。年始年末には、草餅・ゴマ餅・かき餅・あられ餅・お汁粉。ところが、綾が14歳の時に母・のぶえは肺炎で急逝します。

「2円の差と教科書」
 「あんなに元気だったのに死ぬなんて、医者が誤診したんだ。そのために手遅れになったのだ。」綾は医者を志すようになります。県庁で見かけた「東京大学看護婦募集」のチラシにこっそり応募すると、町長をしていた父の耳に入って大反対されます。和歌山県師範学校女子部(現:和歌山大学)に入学させられた綾は、女子部で家事を勉強している時に、男子部で理科を習っていることに先生に抗議します。「あなたは優等生でも教師の理想像から外れている」卒業後すぐに西和佐小学校で教師を務め始めた綾は、同じ本科正教員でも女性と男性の給与に「2円の差があるなんて不思議ですねえ。」校長先生に抗議します。「教科書通りにしなさいと教えることは恥ずかしい」綾は模範とされる女性教師像に耐えられなくなり退職。「やっぱり医者になろう」継母と恩給生活をしていた父を説得、家財道具を整理してもらって上京します。

「生化学」
 姉と一緒に上京して叔母の家で受験勉強に取り組んだ綾は、東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)へ1番の成績で入学を果たし、郷里の殿様はじめ篤志家から奨学金を得ます。角帽にスーツの制服で、新大久保の叔母の家から新宿区の学校まで歩いて通いながら、綾は解剖実習に生化学に熱中します。毎日毎日、精神病患者の脳組織から切片をつくって染色しては顕微鏡をのぞきこみ、ついに梅毒の病原菌が群生して光ってるのを見て飛び上がる様に喜びます。やがて臨床実習に悩んで医師になることを躊躇します。「病名一つを診断するにも経験が大きくものをいい、簡単に理屈だけでは割り切れない。」同郷出身で東京帝国大学医学部教授である島薗順次郎に相談すると、「病気にならないようにするのが医者の使命だ」。

「ビタミンB1」
 「栄養学を始めたいなら飯の炊きかたから始めなさい」島薗教授のアドバイスのもと、綾はガスの火で様々な種類の米を1か月炊き続けて記録を取り、ご飯の炊け具合は米の吸水率と研ぎ水の温度に深く関係することを発見。綾は女子トイレの無い東大で、男子学生から毎日「早くやめろ」「出ていけ」と罵倒されながらも、島薗教授の口述筆記ならびに動物実験の鳩・兎・ねずみの世話を率先して手伝い、脚気を防ぐビタミンB1が多く含まれる米胚芽の精米法ならびに調理法の研究に取り組みます。辛抱強い実験を経て、白米と比べて胚芽米で、さらに栄養全体のバランスのよい食事で長生きすることを動物実験で確認します。

「家庭食養研究会」
 続いて、当時おかゆと梅干と白魚が常識だった病人食の栄養学研究に没頭します。「料理が分からなくては、おいしくて栄養のある食事はつくれない」割烹料理塾に通い始めるも、「ほどほどに」「ちょうどいい加減」が再現できずに途方に暮れます。「誰もが目安にできるような基準といえば、数値で表すことだ」。研究室で鍋・窯・時計・温度計・秤・メスシリンダーを揃えて、化学実験と同じ要領で材料・調味料の分量、加熱の温度・時間を一つ一つ記録します。ビタミンに憑りつかれる綾はビタミンに恋する指導医・香川昇三と結婚。2人で近所の精米所に胚芽米に切り替えるように説得して歩き、白米と野菜を与えた鳩の脚気症状を観察してビタミン含有量を調べた「食品分析表」を完成、自宅を改造して「家庭食養研究会」を設立。「調味%」「主食は発芽米、魚1、豆1、野菜4」を基に、栄養学の講義と調理実習による食生活指導を開始します。

「女子栄養大学」
 2年目には講習会内容を雑誌「栄養と料理」にまとめ創刊。4年目には「女子栄養学園」と改称、近くの洋館を買い取って雑誌で全国から生徒を公募。6年目には、豪農であった義父の遺産を使って、自宅に「香川栄養研究所」を設立、駒込に校舎を新築、200名の生徒を迎えます。まもなく太平洋戦争が始まると、雑誌は休刊、空襲で学園は焼失。2人は卒業生の助けで群馬県勢多郡大胡町に疎開学園を開校します。夫の急逝と共に敗戦を迎えた綾は、雑誌「栄養と料理」を復刊、学園復興に奔走します。「日本でただ一つの栄養学園です。この学園がつぶれたら新しい国造りはできません。」考案した「計量スプーンと計量カップ」、乳・卵の第1群、肉・魚・豆の第2群、果物・野菜の第3群、穀類・砂糖・油脂の第4群にまとめた「4つの食品群」、1日に必要なカロリーの点数換算表による「香川式食事法」、そして栄養学部・管理栄養士資格の創設の重要性を訴えて周ります。「人が存在する限り食と健康は永遠の研究テーマ」

-女子栄養大学・短期大学
-香川栄養学園・香川調理製菓専門学校
-『一皿に生命こめて : 栄養学に賭けた私の半生』香川綾、講談社1977年

愛媛県  Ehime-Ken

「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」
"My love is like an empty shell on the beach of Mishima. It feels hollow, and just thinking of your name brings me great pain."

三島 鶴 女史
Ms. Tsuru Mishima
1524 - 1542
愛媛県今治市大三島町宮浦 大山祇神社 生誕
Born in Imabari-city, Ehime-ken

三島 鶴 女史は三島水軍の女海賊長。戦国時代に瀬戸内の三島水軍を率いて周防の大内義隆軍を3度にわたって打ち破りました。
Ms. Tsuru Mishima is the female pirate captain of Mishima Navy. During the Sengoku period, she led the Mishima Navy in the Seto Inland Sea and defeated Yoshitaka Ouchi's army in Suo three times.

「三島明神の申し子」
 鶴姫は、伊予国の守護職・河野家の信仰と団結を司る大山祇神社第31代大祝職・三島兵庫助安用とその女中・妙林との間に生まれます。瀬戸内の交通の要衝を占める伊予の越智半島と三島群島を拠点に活躍する三島水軍の元締めでもありました。鶴姫が生まれる2年目には山陽地方に勢力を持つ周防の大内義隆の家臣・陶興房の軍勢が安芸国に攻め入り、瀬戸内の島々そして大三島にも押し寄せます。父・安用は神前で勝利祈願を行い、2人の兄・安舎また安房が河野水軍を指揮して大内軍を撃退(第一次大三島合戦)。玉の様に美しく愛らしい丸まると太った鶴姫は、三島明神の申し子として寵愛と祝福を受けすくすく育ちます。鶴姫は4歳から兄たちと一緒に父から剣術・馬術・弓術・兵法はじめ、家伝の古典・神道・法楽連歌を学びながら逞しく成長します。鶴姫は、軽船をかって巨艦に迫り、悲壮な夜襲で蒙古の大群に挑む一族の戦いの物語に夢中になります。

「水軍の口伝」
 鶴姫が8歳の時に父・安用が逝去。長兄・安舎が神職を継承し、次男・安房が三島城を守り、鶴姫には鎧を作らせるよう遺言します。胸部はゆったりとして胴周りはくびれ、腰から下の草摺はスカートの裾の様、深い紺色の「紺糸裾素懸威銅丸」は黄金300斤(現在の約5400万円)をかけて制作されます。「船に乗ることは天の利を先とし、地の利を考えるべし、軍の始まるは人の和を先とし、後に天地の利を考えるべし。」鶴姫は、水軍の陣形・軍船の造法・船路の視察・天候・風向き・潮流・軍船の種類と使い方・三島水軍の門外不出の武器・炮烙について学びます。潮流の激しいところに設けられている三島水軍の各根拠地を訪れ、敵に対する防御と平常時の監視のための操船はじめこれまでの群雄割拠の歴史について学びます。

「勝利の宴」
 鶴姫16歳の折、大内義隆の水将・白井縫殿助房胤ならびに小原中務丞隆言の軍勢が再び大三島を襲撃(第二次大三島合戦)。長兄・安舎は能島・来島の村上水軍らの派遣を注進、次男・安房は三島・河野・村上連合軍を率いて防戦するも戦死します。三島城めがけて敵兵が上陸して押し寄せる中、鎧に身を包んだ鶴姫は全軍を3方に分けると、自ら大薙刀を持ち騎馬にまたがって敵陣の真ん中を迎え撃ちます。「われは三島大明神の使い鶴姫、我と思わんものは出会え!」巧みな駆け引きと左右からの挟み撃ちで敵軍を追い払います。三島城の陣代に任命された越智安成の采配のもと、鎧の上に赤地の女裳を打ちかけた鶴姫は早舟数十隻の指揮を執りながら遊女に紛れて敵陣の船に乗り込みます。「われは三島明神の鶴姫なり、立ち騒ぐ者あれば片っ端からなで切りにせん!」大内氏の水将を討ち取ると、早太鼓と貝笛を合図に焼木を積み込んだ火船と焙烙また火矢を放って大内軍を追い払います。

「鈴の音」
 鶴姫はつかの間の平和を、2つ年上で三島城の陣代に任命された越智安成と共に三島水軍の立て直しに忙しく過ごします。2年後、大内義隆の家臣・陶 隆房(晴賢)が周防大島と宇賀島の海賊衆を率いて三度目の襲撃(第三次大三島合戦)。安成は焙烙・火矢・火槍・投鉾・秘術を尽くして交戦するも、相手のじらし戦術と逆潮・向かい風にはまり、追い風に乗った敵船に体当たり受けて次々と沈められます。安成は死闘の末に敵の将船めがけて火薬とともに体当たりして戦死します。鶴姫は降伏を神託する長男・安舎を振り切ると、最後の戦いのために三島城で兵を結集。昨夜から続く激しい風雨に紛れて、御手洗沖に停泊して修理に忙殺中の大内軍に夜襲を仕掛け火の海と化した大三島から追い払います。味方の船をまとめて大三島に戻った鶴姫は、三島明神への参籠を済ませると小舟で沖合へ漕ぎ出します。「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」鶴姫入水の海は今でも鈴音が聞こえます。

-大山祇神社 愛媛県今治市大三島町
-『大祝家記』
-『海と女と鎧 : 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』(三島安精 著 / 小峯書店1966年)

「『お嬢さんの過ぎたる道楽』ではなく一人前の飛行家になりたいのです」

"I don't want to indulge in frivolous pursuits, but I want to become a fully-fledged aviator."


兵頭 精 女史

Ms. Tadashi Hyodo 

1899 - 1980 

愛媛県北宇和郡鬼北町 生誕

Born in Uwa-gun, Kihoku-mati, Ehime-ken

兵頭精女史は日本女性初の飛行家です。三等飛行機操縦士として飛行競技会などで活躍するも、マスコミの好奇の的となり恋愛スキャンダル記事によりまもなく引退しました。
Ms. Tadashi Hyodo is the first Japanese woman aviator. While active in flying competitions as a third-class airplane pilot, she soon became the focus of media curiosity and retired shortly after due to articles about a love scandal.
********

『新しい時代を担う自由な女』
 精は10歳のときに亡くなった父親が描き残した飛行機の設計図を見つけてからパイロットを志します。父親が書き残した飛行機の研究書物を読みあさります。同郷の飛行機研究家・二宮忠八の逸話も精を勇気付けます。さらに、松山市の済美高等女学校(現・済美高等学校)在学中の1916年、来日した米国人女性パイロットのキャサリン・スティンソンの夜間飛行や宙返り、空中に黄煙で文字を書く華麗な曲芸飛行に精は夢中になります。卒業後は、嫁ぐことを断固拒否、日本飛行学校の講義録を読みあさります。困り果てた周囲から医師や教師を勧められ看護師の見習いに大阪に出ます。精は1年足らずで、民間飛行家らが集う日本初の民間飛行場のある千葉県稲毛海岸を目指して上京します。
『飛んでる女の恋愛スキャンダル』
 精は姉・カゾエに頼み込んで資金援助と同郷の弁護士・富田数男の保証人を得て、20歳のときに伊藤音次郎の飛行学校に入学を果たします。大卒初任給の4倍もの高額な訓練費用を工面するため通常半年の教習コースを3年半かけて修了します。男性に混じって飛行機の整備・学科・操縦に励みながら、滑空中の墜落事故・海上不時着水、また流産を経て、23歳のときに三等飛行機操縦士免状を取得。当時の女性が受験できる二等また三等飛行機操縦士は、自家用機で飛行場周辺の操縦を許可するものでした。精は早速、帝国飛行協会主催の三等飛行機操縦士飛行競技に参加、スピード種目15人中10位で今までの訓練費用の倍の賞金を獲得します。プロ飛行士として活躍する目前、富田数男との恋愛スキャンダルならびに飛行学校からの除名処分が報道されます。精は何より飛ぶことを優先させようとしましたが、間もなく航空界から身を引き二度と飛ぶことはありませんでした。

-愛媛県人物博物館 Ehime Prefecture People Museum 

-日本航空協会 JAPAN AERONAUTIC ASSOCIATION

「陣痛促進剤 あなたはどうする」
“Labor induction, what about you”

出元 明美 女史
Ms. Akemi Demoto
1984 -
愛媛県今治市 在住
Born in Imabari-city, Ehime-ken

出元 明美 女史は「陣痛促進剤による被害を考える会」代表。陣痛促進剤の不適切使用による医療事故裁判の日本初の原告。
Ms. Akemi Demoto is the founder of the ``Association of Labor Induction victims''. Japan's first plaintiff in a medical malpractice lawsuit due to inappropriate use of labor induction.

「痛促進剤」
 明美は第3子出産のために産科医院に向かいます。夕方には子供に会える喜びを胸に。午前10時10分、誘発分娩のために陣痛促進剤の点滴を受けます。腹部に分娩監視装置をつけて、1分に33滴で開始。5分後にはかなり強い陣痛を感じ、15分後には遅発性徐脈(子宮収縮に伴って心拍数が緩やかに減少し緩やかに回復する)を繰り返すようになります。准看護師が医師を呼んでも、「様子を見よう」医師は中止も速度を落とすこともなく点滴を続けます。しだいに陣痛の痛みは増して間隔も短くなり、上半身は汗だくで呼吸も苦しくなり、我慢に我慢を重ねて必死で耐えます。13時10分に医師の内診を受けると、極度の激痛で腹部が大きく3度動きます。子宮破裂。緊急帝切で取り出された長女は重症仮死で脳性麻痺。明美は医師から何の説明も謝罪もないまま退院します。

「医療事故」
 かつて看護婦だった明美は、医学書・看護学所を読み漁ったり、助産婦の友人に相談するうちに、医療事故だと確信します。陣痛促進剤の適量は妊婦一人ひとり違う微妙な薬で、アメリカ産婦人学会では、陣痛促進剤を使用するときは全患者に子宮内圧を測定しながら投与量調節を行うこと、さらに胎児の酸欠を防ぐために胎盤血流量を監視する体制を義務付けていることを突き止めます。明美は裁判を起こし、新聞・TVなどでも訴えます。すると全国から同じ被害にあった人たちから連絡が来るようになります。「陣痛促進剤による被害を考える会」を結成。陣痛促進剤による被害症例を集め始める中、長女は肺炎を繰り返して1歳8か月で息を引き取ります。

「カルテ改ざん」
 アメリカでは請求すればいつでもカルテを見ることができる権利が保障されているのに対して、日本では弁護士から裁判所を通して前もって病院に電話を入れた上で証拠保全をして、実際に見られるまでに1か月以上かかる上に、医者が書いたカルテが唯一の証拠文書として扱われます。さらに病院が出しているもう一つの文書、診療報酬明細書の開示を求めると厚生省の指示で開示されません。明美は当時の准看護また看護師の強力を得て、カルテの改ざんを暴きます。2種類の陣痛促進剤が既定の10倍以上の速度で投与され、わずか5分後から始まった激しい陣痛の度に胎児心拍の低下が繰り返され、医師は胎児の危険な兆候を見過ごして子宮破裂に至ったことが判明。10年4か月かけて勝訴します。

「母子手帳改定」
 寄せられる被害症例を調査すると、陣痛促進剤について、必要のない場合に使用されてる、用法・容量が守られていない、分娩監視が不十分、事前説明がされていないといった問題の他に、妊婦の訴えを無視している・腹部を触診して陣痛の状態を観察する基本的な医療行為が欠如しているといった、医療者の資質の問題が浮き彫りになります。明美らは「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉実行委員会」に参加。年3回の交渉を続け、オキシトシン製剤とプロスタグランジン製剤の混合使用を禁忌、オキシトシンの筋肉注射を禁忌、オキシトシン点滴の最大使用量を半分以下にする、分娩監視装置を常時付けるなど、陣痛促進剤の添付文書を改訂。さらに「必要性及び危険性を十分説明し、同意を得てから使用すること」という注意書きを記載、15年かけてようやく母子健康手帳にも「子宮収縮薬等を使用する際には、その必要性・効果・副作用などについて医師から十分な説明を受けましょう」という注意書きを記載します。

「あなたはどうする」
 医師からしっかりとした説明を受けずに無痛分娩に陣痛促進剤が使われる中、明美は安全なお産について問いかけます。「無痛分娩は麻酔によって150%の陣痛が80%ぐらいに抑えられてしまう。子宮破裂前などの異常な陣痛でも我慢できるぐらいの痛みになる。一方、子宮の収縮で赤ちゃんも痛みを感じている。医療側がちゃんと見てくれていないと、赤ちゃんがどういう状況なのかということも分からない。」「子宮破裂・障害児出産など、無痛分娩が危険と隣り合わせであることを知った上で、自分は本当に無痛分娩をしたいのか決めないといけない」

-陣痛促進剤による被害を考える会ウェブサイト
-「陣痛促進剤 あなたはどうする」(陣痛促進剤による被害を考える会 編著 / いろは社)

高知県 Kochi-Ken

田内 千鶴子 女史
Ms. Chizuko Tanume
1912 - 1968 
高知県高知市若松 生誕
Born in Kochi-city, Kochi-ken

「子供たちに笑顔を取り戻したい」
"I want to bring back smiles to the children." 

田内千鶴子は韓国で孤児救済のために生涯をかけ、日本人で初めて韓国文化勲章国民章を受章しました。
Chizuko Tauchi was awarded the National Medal of the Korean Order of Culture for Japanese Speech for the relief of orphans in South Korea.

*******

「はちきん」
 千鶴子は7歳のとき、朝鮮総督府官吏として先に赴いた父に呼ばれ、母と高知市の生家から木浦市に赴きます。山手小学校、木浦女子中学校を卒業すると、東京の師範学校を目指して勉強するも、17歳のときに父親は病死。助産婦をする母の稼ぎで暮らしはじめ、木浦女子高等学校で音楽を学び、ミッションスクールで音楽の先生を務めます。教会でオルガンを弾いて日曜学校の先生をしていると、24歳のある日、恩師・高尾益太郎が訪ねてきます。「街中の孤児を集めて孤児院を始めている男が、子供たちに笑顔を戻してあげられるボランティアを探している。」早速、千鶴子は「乞食大将」と呼ばれる韓国人キリスト教伝道師・尹致浩(ユン・チホウ)氏が運営する孤児院「共生園」をたずねます。麦わら帽子に草鞋を履き、青く澄んだ目をした男が一人で4・50人の孤児たちを親身に世話しているものの、電気もガスもなく、障子もふすまもないがらんどうの30畳ほどの部屋一つ、子供たちは顔もあらわず服もろくになく裸足で寝転んでいます。千鶴子は音楽どころか食事の世話をするので精一杯。毎日三度、規則正しく食事をする習慣から教え始め、食前のあいさつ、顔や手を洗うことを教えます。

「乞食大将」
 翌年、両家はじめ日本人また韓国人の激しい罵倒のなかで2人は結婚式をあげます。クリスチャンの母・ハルは「結婚は国と国がするもにではない。人間と人間がするもの。」と励まします。式を挙げて教会を出たとたんに、木浦市中の乞食が全部集まって「乞食大将万歳」と叫び、私服で式に臨んだ夫はいつの間にか用意していたアンパン200個を孤児たちに配ります。2人は、共生園の改修資金や食費の寄付を仰いで駆け回ります。ようやく2年目に新しい家を建て息子を出産。日本の敗戦で身の危険が及ぶ中、千鶴子は独立復権した現地の朝鮮語を覚え、チマ・チョゴリを着て、夫の名字を取って尹千鶴子(ユン・ハクチャ)を名乗ります。娘をお腹に抱えながら迎えた敗戦で、刃物や棒を持つ村人が園に押しかけます。「尹致浩(ユン・チホウ)出てこい!日本人と結婚していい暮らしてした裏切者!」千鶴子は暴徒たちの前に進み出て「この人には罪がない。罪があるのは日本人の私にあります。」園の子供たちは千鶴子を取り囲んで「私たちのお父さんお母さんに手を出すな!」と泣き叫びながら抵抗します。村人たちは圧倒され引き上げます。

「人民裁判」
 やがて共生園は20周年を迎え、自分たちを殺しに来た暴徒たちが記念碑まで立ててくれます。ところが今度は朝鮮戦争が勃発。最南端の木浦まで北朝鮮が攻めてきます。人民裁判の名のもと次々と村人が殺害される中、夫妻で300人余に増えた孤児を抱えて必死に守ります。とうとうクリスチャンである千鶴子は夫とともに共産軍の人民裁判にかけられます。人民裁判では、軍人が罪を読み上げて村人たちが拍手をすればその場で銃殺されます。「尹致浩(ユン・チホウ)はクリスチャンで。日本人妻を持って・・・」と共産軍人が読み上げたとき誰一人拍手するものはありません。さらに夫が弁論します。「夫として一韓国人として彼女を愛し尊敬し彼女の愛に報います。彼女を死刑にするならまず私を死刑にして欲しい。共生園の子供たちも同じことを言うでしょう。」2人は命を取り留め、夫は共産軍に人民委員に任命されます。

「スパイ容疑」
 やがてマッカーサー率いる国連軍が仁川(インチョン)に上陸、北朝鮮軍を北部へ退却させると今度は韓国軍が侵攻してきます。スパイ容疑で次々と村人が殺害される中、夫妻で町にあふれる捨て子を一人残らず救助して育てます。とうとう「戦時下に人民委員を引き受けた尹致浩(ユン・チホウ)を死刑にする」夫はトラックで連行されます。千鶴子は木浦市内の牧師たちをたずねて身元保証を頼んでまわります。「夫は罪のない人を殺さず、戦争未亡人や孤児たちに食糧を与えるために尽力しました。共産党ではありません。」3か月ぶりに釈放された夫は一人で歩けないほど体力が消耗しながらも、400人に膨れあがった孤児たちのために食糧を探しに行ったまま帰らぬ人となります。

「文化勲章・国民賞」
 千鶴子は韓国全土を探し回りますが夫は見つかりません。すると夫の牧師仲間はじめ木浦の村人たちは共産主義者に孤児を任せられないとして「共生園」の土地・施設・財産を乗っ取り「儒達院」とします。やがて韓国軍と連合国軍が38度線を突破して北上を開始、避難民が南に南に押し寄せます。千鶴子は逃げ戻ってきた20余名の孤児たちはじめ、日に日に増える避難民孤児たちのために食べ物を集めて世話しながら、いつか戻ってくる夫のために「共生園」を守りぬきます。米国キリスト教団体の協力により、資金援助だけでなく内発的な活動の支援を受け、営農や酪農、海岸でのカキ養殖を行い、子供たちも学びながら働きます。千鶴子は一時帰国して日本人の有志による後援会を発足、資金カンパも積極的に求め始めます。3000人余りの子供を育て上げ、やがて木浦の村人たちの評判となり、韓国政府から文化勲章・国民賞を送られます。千鶴子は好物の梅干しを数十年ぶりに食べると誕生日と同じ日に56歳で他界。木浦市初の市民葬として木浦駅の広場で3万人の木浦市民に見送られます。

-『土佐史談 (208)』(土佐史談会1998年)
-「母よ、そして我が子らへ」(田内基 著 / 新声社1984年)
-高知新聞 Kochi News
-社会福祉法人こころの家族 Kokoronokazoku

楠瀬 喜多 女史 
Ms. Kita Yanase
1836 - 1920 
高知県高知市上町 生誕
Born in Koti-city, Koti-ken

「女に選挙権がないと言うなら私は納税しない。」
"If women don't have the right to vote, I won't pay taxes."

楠瀬喜多女史は婦人参政権運動の草分けです。高知県と内務省に訴え出て、日本で始めてそして世界で3番目に女性参政権を認める法令を成立させました。
Ms. Kusunose Kita is a pioneer in the women's suffrage movement. She appealed to the Kochi Prefecture and the Ministry of Home Affairs, successfully enacting the first law in Japan and the third law in the world to recognize women's suffrage.
*******

「海運夫の娘」
 喜多は、土佐藩で米穀商と車力人夫頭(運送業)を営む西村屋熊治(本名 は袈沙丸儀平)の長女として誕生。父親は背中に昇竜降竜の入れ墨をして海上運送に生きる勇み肌の男で、喜多は荒れ暮れ男達に可愛がられて育ちます。娘盛りになると、弘岡町の小町娘と言われ、小山興人の私塾で漢学を学びます。18歳のときにロマンスを経て、土佐藩の剣道指南役を勤める楠瀬実と階級の壁を乗り越えて結婚。武家の妻となった喜多は、夫について剣道・薙刀を学び、鎖鎌の名人・日野根平太について奥義を修得します。幸せな結婚生活が過ぎると、喜多37歳のときに働き盛りの夫は45歳で病死します。

「女戸主」
 20年のあいだに喜多の身辺では、坂本竜馬はじめ多くの討幕派志士におされ土佐藩主・山内容堂が徳川慶喜に「政権奉還の建白」を行い、新政府樹立後には板垣退助はじめ自由民権運動家が「民選議院設立建白書」を政府に提出、さらに西南戦争後に郷里の土佐で「立志社」を結成。土佐は新しい国づくりに湧きがります。夫と死別して後継ぎのいない喜多は自ら戸主を相続します。喜多は立志社の演説会・討論会に欠かさず出席するようになります。傍聴人は政治不安にさらされた士族層だけでなく、反権力・政治参加に共鳴する多くの民衆が詰めかけいつも大盛況。婦人席もどんどん拡張されます。「2年前から土佐立志社の演説会に寒暑風雨も厭わず会毎に出席しければ、自ら人間の権利義務などと言えることも悟り得た」喜多は自ら演壇に立ち、自分の意見を述べるようになります。「水を飲むにも箸を取るにもお役人の指図を一つ一つ受けねばならない世の中は安心して生きられない。」警官を会場から追い出したり、「私は日本語で話しますが、相手は英語で話すそうな。」洋行帰りの討論相手の出鼻をくじいたり、機知に富んだ討論で会場を盛り上げます。

「婦人参政権運動」
 45歳の喜多が区会議員の撰挙に出向くと区長に追い返されます。「女性は戸主といえども証書の保証人に立つ事はできない、選挙権を与えられないのは当然だ。」憤慨した喜多は納税を拒否します。「納税しているのに、女だからという理由で投票できないのはおかしい。権利と義務は両立すべきものだから、選挙権がないのに納税の義務だけがあるというのは公平な扱いではない。」区長は諭します。「女子には徴兵の義務がないので男女は同権ではない。」すかさず喜多は反論します。「男子でも戸主ならば徴兵の義務を免れている。」喜多は高知県庁に抗議文を提出します(1878年)。「男女の権利義務に差異をつけねばならぬ根拠を明瞭に説明して欲しい。女に選挙権がないと言うなら私は納税しない。」高知県は直ちに回答します。「保証人にはなってよろしい。納税は国法で定められているので権利の軽重によって増減できない。」納得できない喜多は政府中央内務省に意見書を提出すると、初めての婦人参政権運動として全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも大きく報道されます。

「民権喜多」
 上町町会を巻き込んだ3ヶ月にわたる抗議行動に県令もついに折れます。1880年日本で始めて町村会議会の女性選挙権と被選挙権を喜多は勝ち取ります。20歳以上の町民に戸主・非戸主の別、男女の別に関わりなく議員となる資格が与えられ、20歳以上の戸主に男女を問わず選挙権が与えられます。隣の小高坂村でも同様の町村会規則を実現します。喜多は立志社の紅一点の女性民権弁士として各地を遊説して周ります。ところが、1884年に政府は「区町村会法」を改正、規則制定権を区町村会から取り上げ参政権は男性のみと規定します。続いて1890年の「集会及び政社法」により、女性は政治的演説会また集会に参加することを禁止され、政党に加入することも禁止されます。それでも喜多は、国会が開設されると上京して帝国議会の傍聴席に出かけたり、自宅を訪れる河野広中、杉田定一、永田一二、頭山満、岸田俊子など政治を志す若者と盛んに議論をしながらよく面倒をみます。奥宮健之また甲藤武雄を養子に迎えるも、大逆事件また日露戦争で死別。喜多は在家のまま剃髪して仏門に帰依します。晩年は元代議士・光森徳治が設立して資金繰りに苦しむ盲唖学校の経営を引き継ぎ、「義士伝」で人気の浪曲師・桃中軒雲右衛門と慈善興業を企画しながら、大正デモクラシーの潮流の中84歳で逝去。

-高知市立自由民権記念館 Kochi Liberty and People's Rights Museum
-『自由民權女性先驅者 : 楠瀨喜多子・岸田俊子・景山英子』(住谷悦治 / 文星堂1948年)

「海部ハナ 死んでいくのは吾一人 末代残る 名こそめでなし」
``Hana-Kaifu, I am the only one who will die, and my name will remain for the next generation.''

海部 ハナ 女史
Ms. Hana Kaifu
1831 - 1919
徳島県阿南市横見町(阿波国那賀郡平易村) 生誕

海部 ハナ 女史は「阿波しじら織り」の創始者。三好長慶が開発を進めた阿波藍・河内木綿を背景に開発されたシボ(凹凸模様)の美しい「阿波しじら織り」は、高温多湿な日本全国の庶民に広く愛用されます。
Ms. Hana Kaifu is the founder of "Awa Shijira Ori". ``Awa Shijira Ori'', which has a beautiful grain (uneven pattern), was developed using Awa indigo and Kawachi cotton, which was developed by Nagayoshi Miyoshi, and is widely used by common people throughout Japan, which is hot and humid.

「熊野水軍拠点跡」
 かつて熊野水軍の首領・安宅頼藤が築城し、地頭として支配していた阿波南部の海岸地帯に、ハナは農業を営む村島忠蔵の2女として誕生。熊野水軍の出自とされる安宅氏の拠点が存在するハナの郷里・那珂郡を流れる那賀川上流域一帯から切り出された良質な「木頭杉」は、那賀川下流から瀬戸内海を介して阿波国はじめ畿内一帯に運ばれます。ハナは幼い時から織物が得意で農業の傍ら機織りに精を出します。木頭杉を積んだ川船が、流れに乗ってまた8反帆をふくらませて阿波はじめ畿内を行き交います。

「安宅(阿武)船」
 阿波徳島藩の水軍(海軍)本拠地で御船役場(藩営造船所)がある安宅町に、ハナは25歳で嫁入りします。嫁ぎ先は関船(兵船)水士の息子で船大工・海部勝蔵。安宅町の大工島からは毎日数百人の船大工たちが出勤して、阿波徳島藩が誇る安宅装甲大兵船・安宅(阿武)船の造船にあたるとともに、修理や解体を行います。船の長さ5丈8尺5寸(訳17.7m)、肩(横幅)2丈9寸(訳6.3m)、深さ6尺(1.8m)、16反帆(帆布幅12.16m)の大型船の柱や板からはじまって、船内の諸道具類も全てノコギリを手で引いて、カンナを丁寧にかけてつくります。

「集荷(買取)問屋」
 船大工の給与は日給制で1日に米一升五合。良質な船材の「木っ端(こっぱ))」で、まな板・もろ蓋・塵取り・下駄・ケタツ(脚立)・炭取など日用品を内職して、木工製品の買取問屋・あたけもの問屋に卸します。船大工がこしらえる「あたけもの」は評判がよく、材料費がただであることを見越して安く買い叩かれます。長女が生まれる頃には、幕末の動乱で物価は不安定になり、士族の年俸生活は困窮を極めます。義父母は毎晩「何か商売を始めなければ暮らしに困る」と口癖のように言い、一家は額を集めて不安な日々を送ります。「私はかねて機織の仕事を心得ていますから、何か一つ新しい発明をして、一家の暮らしを明るく立て直したいと思います。けっしてお嘆するには及びません。」ハナは太物問屋から木綿織物を請け負い始めます。

「阿波藍と河内木綿」
 かつて阿波藍玉と阿波木頭杉による莫大な財で将軍に代わって実権を握った三好長慶が、阿波と畿内を自由に行き来して交易できる都市共同体を構築しながら技術改良と品質向上を続けた阿波藍と河内木綿。坂東太郎(利根川)・筑紫二郎(筑後川)と並ぶ三大暴れ川で四国三郎の異名を持つ吉野川周辺で藍農家の女性たちは、春の苗床つくり、夏の藍こなし、秋冬は
機織り小屋に入って藍染めした木綿の撚糸で「タタエ縞」を織ります。かつて残った糸処理のために織られ、撚り糸の太さ・配色・配列が異なる不規則な縞模様が織り出され、一風変わった縮織(ちぢりおり)として流行して畿内に拡がります。新製品の開発と販売に熱心な太物問屋たちのもと、ハナは毎日研究を重ねます。織り目を整える筬(おさ)1穴に3筋また1筋の縦糸をランダムに通したり、糸を拠らずに縦糸と横糸の張り具合を替えたり、糊付けした縦糸と横糸で織り上げた硬い生地を熱湯にくぐらせたり、縦横共によく収縮させて様々なシボ(凹凸模様)が美しい布を織り上げます。

「阿波のしじら織り」
 ハナが織り上げた生地は意匠性だけでなく、水分の吸脱着性が抜群に良く、高温多湿の阿波徳島の気候によく合う生地として近所の婦女子に大評判となります。更に洗えば洗うほど冴える香り高い「阿波藍」で染め上げ「阿波しじら織り」と命名。太物問屋いよや・安部十兵衛の専売特約を得て、全国へ販売を広げ、各地の博覧会・共進会・品評会で数々の褒賞を受けます。海部家の家計はみるみる好転、義父母もすっかり元気を取り戻します。ハナは近所の婦女子を集めては、県の重要特産物の一つとなった「しじら織り」の技術を教えます。やがて明治維新で俸禄に取って変わった「金禄公債証書」をもとにハナは夫と共に製造にあたり、製品改良と機械化による生産増加に励みます。阿波染織物業界の名家・増田家から3男・多四郎を婿養子に迎え入れる頃には、年産150万反に及び、中国・朝鮮などにも輸出されます。晩年の60歳になってハナは60歳はようやく孫と一緒に学校へ通ってカタカナから習い覚え、経文を読み、和歌をつくるまでになります。仏教に深く帰依し、自社・慈恵院・孤児院などに寄付して社会事業に尽くし、「世の愛ずる 阿波のしじらはいかばかり 心の糸をよりて織けん」宮内御歌所所長所・入江為時から一首を贈られます。

-『徳島の女性先覚者展図録』(徳島県博物館 編 / 徳島県博物館1983年)
-『阿波の歴史地理 第1』(福井好行 著 / 福井好行1964)
-『阿波人物鑑 : 御大典記念』(徳島日々新報社1929)
-『おもしろい阿波人物伝』(横山春陽 著 / 徳島新聞出版部1953年)
-『日本の伝統工芸10四国』(ぎょうせい1985年)

「女というのは一生に一度は必ず理不尽な目に合わなければいけないものだ。今がその時なのだ。」
"A woman must face an unreasonable situation at least once in her life. This is that time."

村木 厚子 女史
Ms. Atsuko Muraki
1955 -   
高知県高知市 出身
Born in Kochi-city, Kochi-ken

村木厚子女史は、2人目の女性事務次官として「障害者自立支援法」「生活保護法案改正案」成立に奔走。「障害者郵便制度悪用事件」「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」による冤罪事件の被害者として164日間の勾留による身柄拘束を受ける。「共生社会を創る愛の基金」「一般社団法人 若草プロジェクト」の創設者。
Ms. Akiko Muraki served as the fourth female Director-General and the second female Deputy Minister at the Ministry of Health, Labour and Welfare. She worked tirelessly for the enactment of the "Disability Independence Support Law" and the "Welfare Law Amendment." She was also wrongfully detained for 164 days due to the "Postal Service Misuse Incident" and the "Osaka District Prosecutor's Special Investigation Department Evidence Tampering Case." She is the founder of the "Love Fund for Creating a Society of Coexistence" and the "Wakakusa Project". 

********

「極度の人見知り」
 厚子は子どものころから本が好きで図書館に通い詰めます。シャーロック・ホームズはじめエラリー・クイーンなど推理小説と、近松門左衛門や井原西鶴また坪内逍遥の戯曲を熟読します。極端な人見知りで対人恐怖症の厚子は、ごく親しい友達以外のクラスメイトまた教師と話すのも挨拶するのも苦手。「干渉されることも、疎外されることもない自由な学校に行きたい。」厚子は親に頼み込んで塾に通い、自由な校風で知られる地元一番の進学校である土佐中学校・高等学校に進学。私立の学費で大変な家計を助けるためにアルバイトをしながら、図書館に通い詰めたり、名物教師の真剣で楽しい授業に夢中になったり、昼休み名物のフォークダンスに積極的に参加したり、先生また友人らと自主自律を尊重する落ち着いた人間関係を育みます。高知大学文理学部経済学科に進学すると、5人しかいない女子学生たちと仲良くなってアットホームな雰囲気で勉強会や読書会に邁進します。4年制大学卒業の女子を雇用する会社が高知には1社もない中、厚子は国家公務員と県庁の試験を受けます。県の面接官に「県庁の女の人の仕事はずっと庶務だ」と言われて悲しくなった厚子は、社会保険労務士に従事する父親に倣って労働省に入省します。

「障害者自立支援法」
 厚子は東京で見知らぬ人にびくびくしながらも、数年毎の新しい人間関係づくりにも前向きに取り組みはじめます。配属先では他の女性職員と同じ様に毎朝20人から30人の同僚にお茶くみをして、若手と同じ様に毎日部屋の掃除もこなします。「女性も高齢者も障害者も社会に貢献できる大きな力を持っている。」全国各地の現場に足を運んで当事者団体から話を謙虚に聞いては、精力的に説明会や勉強会を開いて部下を交えてワーワー議論します。やがて2女の母として仕事と子育てを両立させながら「障害者自立支援法」の成立に奔走します。「医療保険でも介護保険でも一定の自己負担がある。どうして障害者だけは別なのか。」就労支援を強化する確固とした財政基盤を作るために、障害者が福祉サービスを受ける場合に1割の自己負担を求める法律は、当事者団体から猛烈な反対にあいます。「飯を食うにも、排泄をするにも金を取るのか?」散々議論をやりあって当事者団体からも賛成の声が上がります。「自分の財布の中身と相談しながら今日何を食べるかを考える。それが自由というものだ。」2005年10月に「障害者自立支援法」を成立させた厚子は、厚生労働省4人目の女性局長として厚生労働省雇用均等・児童家庭局長に就任します。

「凛の会と郵便割引制度」
 2009年6月14日、厚子は大阪地方検察庁特別捜査部の検察官に虚偽有印公文書作成・同行使の容疑で逮捕され「あなたは起訴されることになるだろう、私の仕事はあなたの供述を変えさせることだ」と宣言されます。「実体のない障害者団体(「凛の会」)とわかっていて、証明書(郵便割引制度)の作成を指示したことはない」と否認する厚子に、遠藤裕介検事はあっさりと供述調書をつくり「今、逮捕状を請求しています」。厚子は検事の目を盗んで海外出張中の夫に携帯から「たいほ」とメール連絡して子供たちを託します。マスコミのフラッシュの嵐の中、大阪拘置所に移送された厚子は24時間カメラで監視される部屋に収監され、支給された灰色のトレーナーを着て寝ます。翌朝、手錠をかけられ、腰縄をしめられ、拘置所の車両に乗って、大阪地方裁判所に向かうと、裁判官から20日間の拘留と取り調べが言い渡されます。遠藤検事は厚子の話をメモにとりながら「裏ガネあるでしょ?」「否認をしていると罪が重くなります。」「どうせ執行猶予がつくのだから、大した罪ではない。」厚子は怒りで涙がこぼれます。7日目から加わった国井弘樹検事は厚子の話も聞かず「つまりこの事件はこういうことなんですよ。」「昔、担当した事件で、非常に有力な証拠を握っていながら、取り調べのときには明かさず、裁判でその証拠をつきつけて、有罪にしたことがあるんですよ。」「あの事件(和歌山毒物カレー事件)だって、本当に彼女がやったのか、実際のところは分からないですよね」そして勝手なストーリー内容の調書を作って「これにサインしますか」と迫ります。すぐに厚子は「しません」と拒否します。

「被疑者ノート」
 逮捕直後から連日接見に来てくれる弁護士はじめ支援者らに励まされながら、「あの時、お母さんも頑張ったんだし、大丈夫、私も頑張れる」と娘たちに思ってもらえるように、厚子は自分を奮い立たせます。毎日「被疑者ノート」に取り調べ内容を記録しながら、拘置所の独居房に張ってあるカレンダーを見て「今日も一日が終わった。あと○日だ」。ところが、厚子の弁護人による保釈請求を検察は反対し、裁判官も却下します。「サインをしていない調書があるから保釈を認めるな」「罪証を隠滅する」「逃亡する」拘束期間は約5カ月間に渡ります。「あなたの証言だけが浮いている」「あなたが嘘をついてないなら、他の人全員が嘘をついているということか。」検事から言われた厚子は勾留中の証拠開示をして3~40通に及ぶ関係者の供述調書を全て読んで「被疑者ノート」に記録します。上司の障害保健福祉部長・塩田幸雄は「国会議員の先生から頼まれて村木へ指示した」「障害者自立支援法案をスムーズに成立させるため、当時野党の大物議員だった石井一先生の言うことを聞くしかなかった」、部下の障害保健福祉部企画課係長・上村勉は「村木から指示を受けた」、「凛の会」会長・倉沢邦夫は「証明書は村木から受け取った」。「なんでみんなウソをつくんだろう」怒りを感じながらも、非常に整合性がとれている調書の束に「自分が記憶喪失になったのではないか」と不安になります。冷静になって添付資料の日付を調べるうちに、事件当時に自立支援法案はまだ影も形もなかったことに気付きます。厚子はただの一通も自白調書を作成することなく、検事の質問に丁寧に答えながら事情説明書の作成に応じながら、事実に反する記述についてはサインを拒否して粘り強く訂正を求めます。「これは、私と全然人格が違う人の調書です。」

「アリバイとフロッピーディスク」
 逮捕から164日後、厚子は保釈保証金1500万円でようやく釈放されます。捜査情報が報道機関に流出し、厚子を有罪とする報道が繰り返される中、2010年1月27日から開始した公判で検察官主張の矛盾が次々と明らかになります。「凛の会」会長・倉沢邦夫が公的証明書発行の口添えを依頼したとする民主党参議院議員・石井一は、面会場所の衆院議員会館には終日出入りせず千葉県のゴルフ場でプレーしていたアリバイが判明。検察側証人も次々と供述を翻します。部下の上村勉氏は「私が一人で誰にも相談せずにやった」、上司の塩田幸雄氏は「指示は記憶ない」、「凛の会」会長・倉沢邦夫氏は「村木とは名刺交換もしていない」。検察側は証人供述メモを紛失、担当主任検事・前田恒彦はじめ特捜部長・大坪弘道ならびに特捜副部長・佐賀元明が証拠物件のフロッピーディスクを改竄した証拠隠滅の容疑で逮捕される中、厚子は無罪を勝ち取ります。「調書に頼る裁判ということの怖さを今回実感しました。」「裁判に調書をお使いになるのなら、調書に書かれた言葉が誰の口から出た言葉かというのが分からないままで調書を使っていただきたくない。」「今回の調書はほとんど、取り調べられた人の口から出ていない言葉が相当調書に落とされていたというふうに確信をしております。」検察の在り方検討会議で厚子は意見陳述をします。

「受刑者の4分の1が知的障害者」
 「自分は支える側にいるという間違った優越感があったと実感した。」「誰でも支えてもらわなければならなくなることを実感した。」厚子は、国側から得た刑事補償金3333万円で「共生社会を創る愛の基金」を創設。受刑者の4分の1が知的障害者であることを踏まえ、知的障がいはじめコミュニケーション障がいがある人が犯罪を犯さざるを得ない状況に追い込まれない社会を目指します。職場に復帰した厚子は、内閣府自殺対策推進室長、内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)、待機児童ゼロ特命チーム事務局長(菅直人内閣総理大臣任命)を経て、2人目の女性の事務次官として厚生労働事務次官に就任した厚子は「生活保護法案改正案」の成立に奔走します。「自分を見てくれている人がいたら何度もここに来なかった。」生活困窮者支援の現場で、貧困、虐待、ネグレクト(育児放棄)、家庭内暴力など、家庭的に厳しい環境に置かれた少女たちと、拘置所で見た覚醒剤使用や窃盗また売春などで服役中の少女たちの姿が重なります。夜回りしながらお説教している間に、少女たちはスカウトマンにさらわれていきます。「日本の公的支援はすべての面でJKビジネスや性風俗に負けている」衝撃を受けた厚子は60歳で厚生労働省を退官すると「一般社団法人 若草プロジェクト」を立ち上げます。お金がない、住むところがない、信頼できて相談できる人がいない、生きづらさを抱える女性が犯罪に巻き込まれる、死を選ぶ、そうなる前に、少女たちと支援者をつないだり、支援者同士をつないだり、少女たちの実情を社会に広めたり、彼女たちの実態を学んで支援の輪を広めたり、社会に大きな応援団をつくることを目指します。「少女たちから信頼され、声をかけられる大人をたくさん増やしたい。」

-『私は負けない 「郵便不正事件」はこうして作られた』 (村木厚子 著 / 中央公論新社2013年)
-『あきらめない―働くあなたに贈る真実のメッセージ』(村木厚子 著 / 日経BP社2012年)
-日本弁護士連合会 郵便不正・厚生労働省元局長事件(村木事件)
-共生社会を創る愛の基金
-若草プロジェクト: つなぐ、まなぶ、ひろめる

「女性であることもバーテンダーとしての個性であり強み」
“Being a woman is also an individuality and strength as a bartender.”

高橋 直美 女史
Ms. Naomi Takahashi
? -
高知県高知市 生誕
Born in Kochi-city, Kochi-ken

高橋 直美 女史は日本女性初バーテンダー世界一。2013年チェコ・プラハ開催の国際バーテンダー協会主催「ワールドカクテルチャンピオン」の食前カクテル部門で優勝。
Ms. Naomi Takahashi is the first Japanese female bartender world champion.  She won the first place in the pre-dinner cocktail category at the 2013 World Cocktail Champion held by the International Bartenders Association in Prague, Czech Republic.

「パローネ」
 直美は高知南高校を卒業後に東京の短大へ進学。銀座でOLとして勤務し始めると、会社の上司や取引先の顧客に銀座のショットバーに連れていかれ、“バーの世界”に魅了されます。ときどき自分一人でもバーに通うようになると「お酒の知識を身に付けてみたい」。厳格な両親の手前「バーテンダーになりたい」とは言えない直美は「ホテルで働きたい」とだけ伝えて22歳の頃に帰郷。地元の高知新阪急ホテル(現 クラウンパレス新阪急高知)2階のバー「リード」の見習いバーテンダーとしてアルバイトを始めます。先輩ならびに舌の肥えた客からプロの技術と接客を学びます。3年後、晴れて専属バーテンダーとしてホテルに迎え入れられると、コンペティションにも積極的に参加し始めます。目標は日本一、日本バーテンダー協会主催「全国バーテンダー技能競技大会」の優勝。仕事を終えた後もカウンターにひとり残って、バーテンディングの技術を磨き続けます。休みの日には、四国内はじめ東京・大阪の先輩バーテンダーとメーカーや代理店を訪ね歩き、大会に勝つノウハウや新商品の情報を集めます。大会に出るたびに有名バーテンダーに自ら声をかけ、手紙をしたためて全国津々浦々に人脈をつくっていきます。バーテンディング修行10年目、オレンジフレーバーのプレミアムウォッカにパッションフルーツリキュールを加えた「プルマージュ」で総合准優勝。その翌年、洋梨フレーバーのプレミアムウォッカにピーチとあんずの香りを加えた「パローネ」で総合優勝を果たします。

「ウィステリア」 
 世界大会の切符を掴んだ直美は早速、翌年の世界大会に向けて、中国・北京での世界大会に飛んで情報を集めます。そこで世界各国のバーテンダーならびに業界関係者を紹介してもらってもうまくコミュニケーションすら取れず、世界の舞台でのパフォーマンス・雰囲気にすっかり飲み込まれます。「世界大会に向けてステップアップしたい」。直美はパレスホテル東京の皇居を望む高層階のバー「プリヴェ」に転職します。世界中を飛び回るビジネスエリートの外国人の洗練された味覚・嗜好・英語に取り組みます。ランチタイムのフロアに出て料理・スイーツについて学んだり、休みの日には東京や横浜の有名バーテンダーの店を訪ねたり、美術館やレストランに通います。「世界基準では一口目のインパクトが需要」。8か月後、ラムをベースにマスカットリキュールを加え、オレンジ・グレープフルーツの花をあしらった創作カクテル「ウィステリア」(藤の花)を完成させます。2013年チェコ・プラハでの国際バーテンダー協会主催「ワールドカクテルチャンピオン」の食前カクテル部門に出場。審査員の心をつかみ優勝します。「海外で働いてみたい」直美は禁酒法時代のシカゴの流れを受け継ぐ「BAR ガスライト」の日本再開店に参加。「毎日、何かしらドラマがある」。

-一般社団法人 日本バーテンダー協会

-International Bartenders Association (国際バーテンダー協会)

-Bar GASLIGHT 霞ヶ関・銀座・EVE・四谷

-『高知新聞』

福岡県 Fukuoka-Ken

卑弥呼 Himiko
? - 247
福岡県朝倉市甘木 *有力説
Born in Amagi of Asakura-city, Fukuoka-ken *Leading Theory

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
"In that country, they also had a male ruler for about seventy to eighty years. However, when the Wa country fell into chaos with conflicts and battles between them lasting for years, they eventually decided to crown a single woman as the ruler. Her name was Himiko."
*******

卑弥呼は日本初の女王です。シャーマンとして国内外に政治手腕を発揮、それまで男王同士で抗争に明け暮れていた30か国を治めます。
Himiko is regarded as the first queen of Japan. As a shaman, demonstrating her political skills both domestically and internationally, she ruled over thirty countries that had previously been embroiled in conflicts among male rulers.
*******

「魏志倭人伝」
 卑弥呼は邪馬臺国のシャーマンとして、それまで男王同士で抗争に明け暮れていた30か国を治めます。夫を持たず千人の侍女と祭祀に仕え、軍事を司る弟と連合国をヒメ・ヒコ制と言われれる共同統治をします。さらに朝鮮半島はじめ中国大陸との先進的な外交・貿易を介して、良質な鉄資源はじめ先進文物の外交窓口を統括すべく、帯方郡の公孫氏ならびに魏国王に使者を派遣します。魏国から『親魏倭王』の金印・刀・銅鏡100枚・真珠・絹・宝石など与えられ、さらに魏の使者の倭国への訪問と詔書・印綬を受けます。卑弥呼は中国王朝に初めて認められた倭国の統一的な女王として、倭国を平和に治めました。

「皆既日食」
 最近の研究で卑弥呼の死の前後247年3月に北九州地域で皆既日食が観測されたことが明らかになりました。太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、古代の人々にとって世の終わりのような恐怖であったと考えられています。さらに248年9月の皆既日食でほぼ欠けた太陽が復活しながら日の出を迎える様子が観測され、「新旧女王の代替わり(卑弥呼の死去と臺與の即位)」を象徴するエピソードとして、「天の岩戸伝説」に組入れられたのではないかと考えられています。

「絹」
 日本の絹に関する最古の記録として『魏志倭人伝』に「禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し(養蚕をおこない糸を紡ぎ)、細紵(さいちょ)・ 縑緜(けんめん)を出だす」「倭錦()、青、緜衣、帛布」**と書かれています。日本の最古の絹は、弥生中期前半(紀元前100~150年頃)のものが福岡市早良区有田遺跡から出土しています。科学的に分析され純国産の絹であることが証明されています。弥生時代の絹は北部九州以外では出土していません。

-『三国志・魏志倭人伝』
*「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」「自郡至女王國、萬二千餘里。」「邪馬壹國。女王之所都」
*「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」
**「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑 緜」

-甘木歴史博物館
-福岡市博物館
-伊都国歴史博物
-吉野ケ里歴史公園
-シルク博物館

高場 乱 女史

Ms. Osamu Takaba

1831 - 1891 

福岡県福岡市博多区 生誕

Born in Fukuoka-city, Fukuoka-ken

「人間は誰にでも持って生まれた天分がある。十分に存分に発揮せねばならぬ。全ての人の天分を尊重して各自の中に神を見出すべし。」

"Every human being is born with inherent talents. These talents must be fully and completely expressed. We must respect the talents of every individual and find the divine within each person."

高場乱は近代日本を代表する男装の女性儒学者です。男装の眼科医として診療する傍ら、私塾の興志塾(通称「人参畑塾」)興して玄洋社はじめ近代日本で活躍する人材をたくさん育て上げました。Takabaran is a female cross-dressing Confucian scholarscholar representing modern Japan. While practicing medicine as an ophthalmologist in Masculine Attire, she founded a private school, Koshi Juku, and guided a large number of people to play an active role in modern Japan, such as Genyosha.

*******

「男装の眼科医」

 乱は代々福岡藩の藩医を務める眼科医・高場正山の末子として生まれ、利発さゆえに男子として育てられます。医学の他に男子の嗜みである漢学を学び、10歳で男性として公的に元服します。元服後は髷を結い袴をつけ腰に刀を差し牛や馬に乗って往診に出かけます。乱は父の命で16歳で結婚するも自ら離縁。「結婚なんぞつまらん。亭主なんぞ厄介至極。私はこんなことで一生を過ごすわけにはいかん。」その足で、身分性別を問わない亀井昭陽の亀井塾に入塾。3年住み込んで儒学さらに武術を習得します乱自身は生来虚弱で華奢でありながら「四天王」と呼ばれるまでに腕を上げます。20歳の時に家督を継ぎ、人に女扱いでもされようものなら、恐ろしい形相で飛び掛かって相手を蹴り倒します。従妹の野村望東尼に強い影響を受け、乱は京都に上って勤王志士として挺身しようと考えますが、一年の計画には殻物を植えるのが最もよく、十年の計画には木を植えるのが最もよく、一生の計画としては人材を育てるのが最もよい。(『管子』)」の一句に感銘を受けた乱は医業の傍ら若者の教育にも携わるようになります。

「人参畑の女傑」

 乱は42歳で眼科業の傍ら私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。乱は血気盛んな若者を好んで受け入れ寝食の面倒を見ながら、儒学の経典『論語』『孟子』のほか『史記』『三国志』『水滸伝』など英雄伝を扱い、自ら書物の人物となって泣き笑い憤って古今烈士の型にはまらない思想と行動を訴えます。塾内で連日の白熱の議論と取っ組み合いの喧嘩、乱は竹刀を手に一喝しながら教鞭を執り、塾生たちに当番制で田畑の世話・掃除・炊き出しなどを、体力づくりとして相撲またランニングをさせます。また、土佐から立志社の若者が自由民権を説きに来ると、乱は最後まで黙って聞くと放屁を一発して追い払います。乱は口先だけの雄弁家を嫌い、実践を重んじました。やがて塾は乱暴者ばかりが集まる「梁山泊」と呼ばれ、乱は「人参畑の女傑」と呼ばれるようになります。

玄洋社

 塾生たちは次々と結社を創設。なかでも頭山満はじめ平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎らは福岡はじめ佐賀・熊本・山口で反乱を起こすと、政府は血眼になって弾圧に乗り出します。乱も扇動した容疑で拘束されると、「拙者の白髪頭と県令渡辺清の首を刎ねた上で、一緒に並べて頂きたい。」、無罪放免で釈放されます。塾生を含む数百の志士が死罪となるなか、乱は獄中の塾生に豚汁・牛またの里芋煮しめなど炊き出しを毎日差し入れます。生き延びた頭山らが向陽社(玄洋社の前身)を結成すると、乱は漢書の講義に出かけたり、内部の抗争を仲裁するなど、弟子たちの行く末を見守ります。来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺すると、乱は「匹夫の勇(思慮分別に欠けた、血気にはやるだけのつまらない勇気)」と酷評。翌年、乱は病床に伏し、一切の治療を拒み、弟子たちに看取られつつ59歳で逝去。墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟の揮毫です。

-福岡市博物館 Fukuoka Museum

末弘 ヒロ子

Ms. Hiroko Suehiro

1893 - 1963

福岡県小倉市 生誕

Born in Kokura-city, Fukuoka-ken

末弘 ヒロ子女史は日本初の美人コンテストグランプリです。日本で初めて芸妓・女優・職業モデルなどを除いて開催された淑女写真コンクールです。

Ms. Suehiro Hiroko is the first-ever winner of Japan's beauty contest. It was the first elegant lady photo contest held in Japan, excluding geisha, actresses, and professional models.


「小倉小町」

 ヒロ子は福岡県小倉市長・末弘直方の四女として生まれます。父・直方は政府側の密偵として西郷隆盛暗殺・西郷と私学校との離反工作に活躍。西南戦争政府軍参謀長として出征し、日本陸軍上層部となっていた郷里の英雄・野津道貫元帥の長男・鎮之助とヒロ子を婚約させます。ヒロ子は幼い頃から日本舞踊、茶道、華道、琴、ピアノをたしなみ、小倉小町として地元でも評判になります。やがて学習院女学部に通うために上京、姉夫婦の家に居候します。この写真家を営む義兄江崎清に頼まれヒロ子は度々モデルとなったことが後々大混乱を引き起こします

日本初のミスコンテスト」

 学習院女学部3年生の16歳のとき、ヒロ子は日本初の全国美人コンテスト第1位して時の人となります。アメリカの『シカゴ・トリビューン』紙が「ミスワールドコンテスト」を企画、打診を受けた時事新報社が日本予選として「日本美人写真募集」全国キャンペーンを展開。初めて芸妓・女優・職業モデルなど参加が禁止された淑女写真コンクールとして世間の話題を集めます。総額3千円相当の賞品を目指して7千名もの応募がある中、洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界芸能界を代表する13名審査員ほぼ全員の絶賛を得て、ヒロ子は一等に推薦されます。さらにヒロ子の写真は海を渡ってアメリカの総主催『シカゴ・トリビューン』紙に送られて、アメリカでも披露され6位に入賞します

学習院退学と結婚

 学習院院長乃木希典はただちに協議会を開き、他の生徒等の取り締まりのためヒロ子を退学処分します。時事新報社は学習院長を新聞紙面で大抗議、女学部の他の女生徒たちの嫉妬説が記事で出回ったり、学習院大混乱になります。ヒロ子はあと半年で卒業を目前としながらも退学を受け入れ小倉の実家に蟄居。数百もの縁談の申込みと励ましの手紙が届きますが父に焼き捨てられます。父・直方は、西南戦争はじめ日清・日露戦争で勲功を挙げた小倉藩出身の奥保鞏元帥を引き連れ上京、乃木元帥ならびに野津元帥を訪ねます。「学習院は美人をつくる学校ではない」。「学習院なんぞ女子の祝言の衣装」。まもなくヒロ子はのちに貴族院議員となる野津鎮之助と結婚、3人の娘をもうけます。

-国立国会図書館 National Diet Library

『久留米原古賀 織屋おでん 大極上御誂(おあつらえ)』の「お伝加寿利」
"Oden-Kasuri, made to perfection by Oden, a textile shop in Kurumehara Koga."

井上 伝 女史
Ms. Den Inoue
1789 - 1869
福岡県久留米市通外町 生誕
Born in Kurume-city, Fukuoka-ken

「七夕の神様」
 伝は、橋口屋という米穀商を営む平山源蔵・美津の娘として生まれます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」小さい頃から手先が器用で、7歳の頃から木綿織りの稽古を始めます。「今に機織りのお師匠さんになるの。」伝は師匠について本格的に織物や裁縫の勉強も始め、12歳の頃には白木綿・無地色織・縞織などを織り上げます。他の土地に出かけた人達が様々な土産に見知らぬ土地の香を漂わせてかえってくる様子を見た伝は、「毎日毎日同じ織物を織っている。もっと凝った素晴らしい織物はないものかしら。」「誰にでも好かれて誰にでも似合うようなものができたら久留米の名物になるのに。」三大荒川の一つ筑後川の沿岸一帯で棉花栽培が行なわれ、大坂に出荷するほどの藍の作付がなされるも、他藩に知られるような織物は生産されていませんでした。家では肥沃な筑後平野からとれる米を取り扱う両親が、日照り・干ばつの心配の他に、藩の増税、千島・樺太・北海道に頻繁に現れるロシア船に心を砕きます。伝は七夕の織姫にお願いします。「家の為に久留米のために新しい織物を発明したい。」

「白い点々模様」
 伝は縦糸と横糸の端々に細かい心を配って、切れた糸を見つけたら即座に紡ぎ合わせながら櫛目でとんとんと織り目を正し、根気よくすこしずつ織り上げます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」2日に1反を織り上げるほど上達します。新しい織物を考案を思い立って半年余りのある日、黒い木綿の着古した仕事着についた糸くずをはらうと、ところどころ擦れて白くなっているのに気づきます。「これだ。どうして今まで気づかなかったのかしら。」襟から胸のあたり・腰から下一面、ひざ・袖の糸が掠れて白い地が見えているところが、伝には鮮やかで意匠の素晴らしい白い点々模様に見えます。織り糸をほぐして調べてみる、黒糸のところどころが白糸の様になっています。「黒い糸のところどころを白くして織ればいいのだ。」

「白紋散乱柄」
 伝は米俵の編目部分を思い出しながら、白糸のところどころを糸で括って藍汁に付けます。翌朝、糸をほぐして白く斑になっているのを確認すると、大喜びで縁側に干します。その日の夜、斑模様の糸を機織り機にかけて胸をときめかせながら織り始めます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」ところが斑はおろか模様らしいものは出てきません。寝床でいつかの白くかすれた仕事着を行燈にかざしてしげしげと眺めます。「なあんだ。縦糸と白糸の白い部分をうまく織り合わせなくてはいけなかったのだ。」翌日、伝は畳の上に太い釘2本突き刺すと、そこに白糸を巻いて大きな糸巻きをつくり、糸の途中を苧(麻)でからげて藍汁で浸します。「縦糸と横糸を同じ距離に染め抜いてなければ。」伝は織機を夢中で踏み始めます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」小さな絣のある織物が出来上がっていきます。

「加寿利」
 伝が織り上げた一面に白い点が散る「白紋散乱」柄は「雪降り」「霰織り」と呼ばれとても評判になります。伝の手から仲買人へ問屋筋へと売り広められていきます。伝は糸を括る間隔を変えながら、縦糸と横糸の柄を合わせて慎重に織って様々な緻密な絵柄を織り出していきます。伝が命名した「加寿利(かすり)」の技法を習おうと、伝のもとに久留米の呉服問屋の娘はじめ新弟子希望者が殺到します。伝は熱心でごく真面目な者だけを選んで弟子に加えます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」通りに織物機の音が空にこだまします。15歳の伝は4・50人の弟子を抱える織物師匠となり、家の裏庭に新設した織物小屋で熱心に指導します。「辛気篠巻木綿軍 引けば我がため親のため 紺の前掛け松葉のちらし 待つに来ぬとの知らせかい」流行の木綿引き歌を歌う娘たちは各地に散らばり機織業を開業します。長崎にロシヤの使節レザノフが来航、九州諸侯は洋夷に対抗すべく米俵を次々と藩の米蔵に運び込み、両親の米穀商はたちゆかなくなり、やがて父親が逝去します。

「花絣」
 19歳の伝は久留米藩有馬氏に仕える松田平蔵の奉公人として京都に出て、織物の技術を磨きます。21歳の伝は、松田夫妻のもとから城下・原古賀町(現・久留米市本町)で織屋を営む井上次八に嫁ぎます。3人のこども育てながら、『久留米 原古賀 織屋おでん 大極上御誂』の商標で「お伝加寿利」を売り出します。久留米絣は久留米藩の特産品となり、大砲の鋳造所を建設したり、西洋式の軍艦を購入する費用捻出のために、4~5 万反の久留米絣が藩外に輸出されます。やがて頼りにしていた夫が病気で急逝すると、28歳の伝は3人の子どもとともに生まれ育った通外町に戻って織屋を始めます。実家近くに織物工場を設けたり、久留米絣の出張教授をしたり、3000人余りの弟子を育てます。「久留米絣業」を成立させた伝は、近所に住む発明好きの少年「からくり儀右衛門」田中久重の協力を得て絣の板締め技法を考案。板面に絵の模様を彫刻して織り糸を張り、もう1枚の板で挟んでかたく締めて染めることで花絵模様を織り出します。伝は82歳で逝去するまで旺盛に創作活動を続けます。

-久留米絣資料館
-『井上でん』(池田俊 著/ ヒマラヤ書房1943年)

「あれは蛇の星なの。何でも見通す蛇の星なの。」
"That's the serpent star, which. The serpent star can see through anything."

藤田 小女姫(本名 藤田 東亞子)女史
Ms. Kototome Fujita (Real Name Ms. Toako Fujita)
1938 - 1994
福岡県福岡市 生誕
Born in Fukuoka-city, Fukuoka-ken

藤田 小女姫(本名 藤田 東亞子)女史は、日本の霊感占い師、経営コンサルタント。9歳で産経新聞に「天才少女占い師」「千里眼少女」としてマスコミに登場して以降、経営者・政治家・芸能人の相談役として時代の寵児となります。
Ms. Kototome Fujita (real name: Toako Fujita) is a psychic fortune teller and management consultant. After appearing in the media at the age of 9 as a ``genius girl fortune teller'' and ``clairvoyant girl'' in Japan's Kei Shimbun, she became the darling of the times as a consultant to business executives, politicians, and celebrities.

「何でも見通す蛇の星」
 東亞子は鉱山会社に勤める父・常吉と母・久枝の長女として誕生。幼いころに両親は離婚すると、東亜子は母・久江と親戚知人を頼って、戦前戦後を福岡・横浜・東京・長野・北海道と転々とします。「私っていつも独りなのだ。周りはいつも氷のようだ。」母親は秘書に寮母に洗濯係として働き、家には全国から集まる炭坑社員や米軍兵士が頻繁に訪れます。東亜子は父親のいない寂しさを想像して遊びます。「あの人は今何を考えているのだろう。何をしようとしているのだろう。」そのうち、離れたところにいるお友達のしていることが手に取る様に浮かんでくるようになります。「わたしとっても不思議な力を持っているのよ。」東亞子は母親を喜ばせるためまわりの人について言い当てたり、予言めいたことをするうちに、あちらこちらから相談者が訪れるようになります。「あの人にこんなことをお答えしたけど大丈夫かしら...」東亜子は頭の芯までぐったりするようなノイローゼに襲われながら自分に言い聞かせます。「私のお話したことは神様がお話しになったことだから...」

「霊感少女」
 敗戦後、私立岸谷小学校に入学した東亜子のもとを『産業経済新聞』の記者・内川源司が訪ねてきて記事にします。「奇跡の少女現る」「テンテンまりをつきながら、おかっぱ頭の愛らしい少女が、年と名前を聞いただけでどんな悩みでもピタリと言い当てるという“奇跡の少女”がミナト横浜に現れ...」「わたしは人とお話するのあまり好きじゃないの。でも人がどんどん聞きに来ちゃうの。」「奇跡の少女」「霊感少女」「神よりの使者」「ニュースの顔」と呼ばれ新聞・雑誌・ラジオ・映画に引っ張りだこになった東亞子を、母親は映画子役にするべく東映ニューフェイスに応募します。一方、探偵になって人助けをしたい東亜子を可愛がる産業経済新聞社長・前田久吉は、『産業経済新聞』誌上ならびに、新築まもない東京大手町の産経会館で「藤田小女姫身上相談室」を開設します。

「年配有力者のファン」
 東亞子は相談者に白紙に筆で氏名を書いてもらうと、ただそれを見て頭にビンビンくるままに運命判断をします。新車設計に難航するいすず自動車会社社長・三宮吾郎には「歯車が前の方にふたつある。左の方の歯車がちょっとおかしい。そこを工夫されたらいっぺんに動くようになります。」アメリカ輸出に合わせた「キッコーマン」改名を迷う「野田醤油」社長・茂木三郎には「お変えなさい。変えたら3年間は営業収益が下回るかもしれません。しかし3年後になったらびっくりするように伸びます。」眠狂四郎シリーズで剣豪作家として名を上げる前の柴田錬三朗に「あなたはここ半年の間に一大転機を迎えます。」社会党を出て新党をつくろうとする西尾末広には「これは成功します。断固としておやんなさい。」日米安保条約を通そうとする首相・岸伸介に「断固おやんなさい。通ります。その代わりに、通ったあとあなたの内閣は長く持ちませんよ。」藤田観光社長・田中雄平、巨人軍監督・王貞治、トヨタ自動車社長・豊田章一郎、日本船舶振興会会長・笹川良一、国際興業の創業者・小佐野賢治らから贔屓にされる東亜子の占いは評判を呼んで大繁盛、東亜子の自宅にまで政治家・経営者・芸能人が詰めかけます。

「普通の人間」
 クラブまたバーに出入りするようになった24歳の東亜子は、母親の反対を振り切って、高利貸しのプレイボーイ・夏目竜吉と結婚。衆議院議員・細川隆元とその妻に仲人を頼みます。「私には2面ある。霊感のある私と、普通の人間、女としての私。女として惚れたから結婚します。しかし結婚しますが必ず失敗します。」1年ぐらいで離婚すると、三菱地所の熱烈な勧めでシャワーやバスタンクを2階に整備した地上サウナ「有楽サウナ」を東京の有楽町駅前ビルで始めます。「私はちょうど30歳。宿泊ホテルの部屋番号は831号。火災発生が43年3月13日12時30分。有楽サウナの株主30人。私が3という数字に弱かったのは何かの因縁なんです。」火災で3人の焼死者を出した東亜子は過失責任がないとして遺族への見舞金ないし慰謝料を拒否しますが、業務上過失と業務上過失致死で禁固10ケ月執行猶予2年の有罪判決を受けます。「本名の東亜子にもどって自由に人生を送りたい」東亜子はハワイに渡って結婚します。「自分の運命も判断できないのに他人を判断するのはおかしい」「神通力を失ってすっかりただの人に成り下がった」マスコミに非難されるも、年配有力者たちの盛りたてでハワイと東京に経営コンサルタント会社フジタ・インターナショナル・エンタープライズ・コーポレーションを設立します。

「アメリカニューズウィーク誌と1974年の予言」
 昭和天皇との単独会見を果たしたアメリカニューズウィーク誌東京支局ジャーナリストのバーナード・クリッシャーとの対談記事で東亜子は1974年を予言して再び注目を集めます。「石油不足問題は一般に言われるほど大問題ではなさそうです。」「田中角栄首相は1974年半ばで突然予想もできなかったハンディを負うことになります。国内的トラブルで死命を制されます。」「福田赳夫が引き継いでも短命でしょう。」「中曽根康弘は指導性に欠けるようです。」「アメリカと中国のイデオロギーの対立が浮き彫りになるでしょう。中国の外交は二面性を持ってくるようになり、口では正しいことを言いながら、行動では違うことをやるのです。」「中東情勢は今後の世代に持ち越されます。アラブ諸国の運勢は良くなりますが、自信過剰で内部抗争が起ります。」「日本では大地震があるでしょう。」「ニクソン大統領は任期を全うすることは難しいようです。」「ヘンリー・キッシンジャー国務長官は、輩下を巻き込む事件、新しいポスト、女性問題でつまずきかねません。」「テロは悪化していくでしょう。ハイジャッカーが乗客もろとも飛行機ごと爆破することが起こるのでは。」「フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥー、そして韓国大統領・朴正煕は年の半ばにして彼の運勢は突然途絶えます。」「要領のいい人はカネを儲けます。」

「戸籍の秘密」
 東亜子は経営コンサルタントとして日本とハワイを忙しく行き来して、政治家や経営者の相談に乗ります。「社運というものは社長自身の運に大いに関係します。」56歳のときにハワイホノルルの高層マンションの自宅クローゼットで胸を銃弾で打ち抜かれた状態で発見されます。一人息子・吾郎も近くのホテル駐車場で炎上する車中で胸を銃弾で打ち抜かれた状態で発見されます。帰国前に東亜子の貴金属を現地質屋に持ち込んでいた2人の知人である福迫雷太容疑者がアメリカで起訴され、日米犯罪人引き渡し条約に基づいて米国に引き渡されます。そして20年後、犯行を否定し続けながら、ハワイの刑務所で終身禁固刑に服役していた福迫は同じ雑居房の男性受刑者によって刺殺されます。この事件の最中に、東亜子の実弟・藤田洋三が手記を発表して世間を騒がせます。かつて戸籍上の父親に東亜子と一緒に誘拐同然にさらわれると、めいめい異なる女性に戸籍上の母親として育てられ、同じ境遇のたくさんの子供たちと犯罪まがいの片棒を担がされたというのです。「私ってホントに人間がすごく好きなんでしょうね。いったん知り合いにあると男でも女でも心を開いて、深くおつきあいしちゃうの。」

-『幸運への招待』(藤田小女姫 著 / 産経新聞出版局1960年)
-『藤田小女姫の最後のメッセージ―死の直前に披瀝した運の恐さ』(藤田小女姫 著 / 文化創作出版1994年)
-『隆元のはだか交友録 : 時事放談こぼれ話 改訂』(細川隆元 著/
山手書房1983年)
-『インタビュー : 天皇から不破哲三まで』(バーナード・クリッシャー 著 /サイマル出版会1976年)
-『東亜子と洋三 藤田小女姫の真実』(藤田洋三 著 / 出版研2004年)

佐賀県 Saga-Ken

黒田チカ 女史

Ms.Chika Kurota

1884 -1968 

佐賀県佐賀市松原 生誕

Born in Saga-city, Saga-ken

「すべての物に親しみをもって向かえ ば,必ずものが教えてくれて道は開けますよ」

"Greet everything with familiarity, and surely things will teach you, opening the way."

黒田チカ女史は日本の女性化学者の先駆けです。帝国大学に入学した最初の女性であり、紫根、紅花、ウニなどの天然色素の研究に従事。彼女の天然色素に関する関連資料は、日本化学会が化学遺産に認定されています。東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)初の女性教授です

Ms.Chika Kuroda is a pioneering female chemist in Japan. She was the first woman to enroll in an imperial university and conducted research on natural pigments such as purple root, safflower, and sea urchin. Her related materials on natural pigments have been recognized by the Chemical Society of Japan as chemical heritage. She was also the first female professor at Tokyo Women's Higher Normal School (now Ochanomizu University).

*******

チカは佐賀藩諫早邑の藩士の家に生まれます。両親は進歩的な考えのもとチカは勧興小学校から佐賀師範学校女子部へと進み、17歳の時に卒業。佐賀郡川副高等小学校の教師を1年務めた後に東京に出て女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)理科に進学。平田敏雄教授の指導を受けて化学に対する情熱を持つも、当時の女子はこの先へ学歴を積む道は閉ざされており、理科教師として福井県立女子師範学校に就職します。すると母校から保井コノ(生物学)についで第二回研究科生として推薦され、官費研究科生として母校に戻ります。2年間の研究科課程を修了し、25歳で東京女子高等師範学校の助教授となります。ならびに欧州において有機化学の第一線研究者であり、帝国大学薬科大学教授で日本薬学会会頭である長井長義の実験助手を務めます。さらに長井の推薦により東京女高師出身の黒田チカ(化学科)と牧田ラク(数学科)、日本女子師範学校出身の丹下ムメ(化学科)の3人そろって日本初の帝国大学女性理学士となります。チカは日本における有機化学の育ての親である真島利行のもと天然色素紫根の研究をはじめます。高貴な色として珍重されるも色素の正体が分からず工業生産できなかった結晶を紫根から取り出しシコニン(Shikonin)と命名。不安定なシコニンを様々な試薬と反応させて様子を観察、生成物を既知物質と比較しながら反応様式を調べます。1918年シコニンの構造について結論を得たチカは34歳で東京女子高等師範学校にわが国初の女性教授として招かれます。日本化学会主催の紫根研究の講演会はたくさんの聴衆はじめマスコミが集まります。さらに長井らの推薦を得て、英国オックスフォード大学のパーキン教授(W. H. Perkin)に留学。インドール誘導体の研究を任され、英国生活を満喫。帰国後、黒田は、紫紺と同様に結晶が得られず世界中で研究が中断していた紅花赤い色素を研究テーマに選びます。カーサミン(Carthamin)という色素の結晶を取り出し、1930年英国化学会誌『Journal of The Chemical Society』に掲載されます。この業績により黒田チカは化学分野において日本女性初の理学博士となります。さらにつゆ草の青花の色素・黒豆や茄子の色素・紫蘇の色素・ウニの棘の色素など身近な色素の研究を行い、単離した結晶性色素をそれぞれアオバニン・クロマミン・ナスニン・シソニン・スピノクロムと命名、構造を明らかにします。さらにたまねぎの皮に約2%含まれるケルセチン(Quercetin)が高血圧の治療に有効であることを示し、チカ自身で錠剤づくりまで行って高血圧治療薬「ケルチンC」として発売。第二次世界大戦後、チカを会長として日本婦人科学者の会が発足。ならびにお茶の水女子大学が発足、チカは理学部化学科の教授となって定年退官後も名誉教授として後進の指導にあたります。

-日本学会 Chemical Society of Japan

-お茶の水女子大学歴史資料館 Ochanomizu Women's Univ. Museum

「毎日笑ってもらいたい」
"I want everyone to laugh every day."

長谷川 町子 女史
Ms. Machiko Hasegawa
1920 - 1992
佐賀県多久市 生誕
Born in Taku-city, Saga-ken

長谷川 町子 女史は日本初の女性漫画家です。日本で初めて漫画のキャラクターの著作権侵害裁判を起こして勝訴しました。代表作『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』。美空ひばり女史に続いて日本女性2人目の国民栄誉賞を受賞。
Ms. Machiko Hasegawa is the first recognized female manga artist in Japan. She initiated and won the first copyright infringement lawsuit involving manga characters in Japan. Her notable works include "Sazae-san," "Mean Grandma," and "Apron Aunt." Following Ms. Hibari Misora, She became the second Japanese woman to receive the People's Honor Award.

「天才少女」
 町子は三菱炭坑の技師である父・勇吉と、政治家を兄に持つ母・貞子のもと3人姉妹として生まれます。やがて父・勇吉がワイヤーロープ事業を開業すると、家族で博多に転居してお手伝い2人を抱えて裕福な暮らしを始めます。町子は小さい頃から絵を描かせると上機嫌、学校の授業中の先生の似顔絵を描いてはクラスに回します。まもなく父・勇吉が病に倒れ逝去すると、母・貞子は家族でキリスト教に入信、国会議員の兄を頼って家族で上京します。次に母・貞子は、三姉妹の才能を伸ばそうと奔走します。姉の毬子は画家・藤島武二のもとで洋画を、妹の洋子は菊池寛のもとで文学を、町子は田河水泡のもとで漫画を学ばせます。15歳の町子は「天才少女」として『少女倶楽部』の『狸の面』で漫画家デビューします。1年に渡る住み込み見習いの後で自宅に戻って『ヒィフゥみよチャン』『仲よし手帖』を新聞・雑誌に連載します。

「サザエさん」
 戦争が激しくなると、一家は福岡に疎開します。町子は西日本新聞社に入社、報道写真の修整・ルポルタージュの挿絵を描きます。仕事の合間には道端で馬糞を集めて家庭菜園に従事しながら敗戦を迎えると、西日本新聞社から独立した夕刊フクニチの連載漫画の仕事が舞い込みます。自宅の近くの百道海岸の砂浜と松林を妹と散歩をしながら『サザエさん』はじめ磯野家の日常を描き始めます。漫画が評判になるのを見越した母・貞子は家を売って一家揃って上京、「サザエさんを出版なさい」と3姉妹に命じます。家族4人で出版社「姉妹社」を設立して翌年の『サザエさん』第1巻から全68巻を刊行します。まもなく、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に連載の場を移し、磯野家も東京を舞台として描くようになります。

「いじわるばあさん」
 町子は家族・友人・担当記者の家庭をつぶさに観察しながら、アシスタントなしで1人で作品を書き続けます。「漫画は面白くなくては駄目なのよ」町子は毎日のアイディアを考え出すのに苦労して胃潰瘍になり手術を受けます。町子は『サザエさん』でたまったストレスを『いじわるばあさん』で発散するようにサンデー毎日で連載を開始。また、サザエ・カツオ・ワカメの三姉弟の似顔絵を観光バスの車体の両側面に無断で20年使用されたことに対し、日本で初めて漫画キャラクターの著作権侵害を提訴し5年後に勝訴しますが、自宅が放火されます。やがて財産争いで妹・洋子と絶縁。まもなく『サザエさん』を休載してそのまま再開せず、長谷川町子美術館がオープンすると「これからが私の青春よ!」と65歳の町子は大喜びします。

-長谷川町子美術館

長崎県 Nagasaki-Ken

楠本 イネ 女史

Ms. Ine Kusumoto

1823 - 1903 

長崎県長崎市銅座町 生誕

Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

「女ながらも一家を興し、名を末の世に残そう」

"Create a wonderful family and leave a lasting name for future generations, even as a woman."

楠本イネ女史は日本人女性初の産科医です。父親であるドイツ人医師シーボルトの弟子達はじめオランダの最先端の医師のもとで積極的に医術を修業して宮内省御用掛の医師となりました。

Ms. Ine Kusumoto was the first Japanese female obstetrician. Disciples of her father, Dr. Philipp Franz von Siebold, a German physician, including those from the forefront of Dutch medicine, actively trained under their guidance and became physicians employed by the Imperial Household Agency.

*******

イネはドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、長崎丸山町遊女たきとの間に生まれます。シーボルトはイネが2歳の時に国外追放となります。イネは男勝りで明朗快活、5歳頃から寺子屋に通いながら、13 歳まで書道や三味線、その後裁縫を習得。市井の人として世に長く生きるのを忌み嫌い、「何としても父上の家業を継いで天下晴れて立身出世して、女ながらも一家を興して名を末の世に残そう」と読書また医術に専心します。14歳からシーボルト門下を訪ねて回ります。四国宇和島藩の二宮敬作から医学の基礎を学び、岡山藩の石井宗謙から産科を学び、岩国藩の大村益次郎からオランダ語を学びます。当時の日本ではお産は汚らわしいものとして不衛生な小屋で隔離されて行われており妊婦や新生児の死亡率は高く、また男性医師の診察を受けたくないために治療が手遅れになった妊婦をたくさん診たことからイネは産科医を志します。そのようなとき、娘の様子を見に来た母たきを見送って帰る船の中で、イネは石井宗謙に強姦されて妊娠、24歳で娘たかと共に郷里に戻り阿部魯庵に産科医術を学びます。2年後たかを母たきに預け、再び二宮敬作の下で蘭学・産科・内科を学びます。29才で二宮敬作とその甥・三瀬周三と共に郷里に戻り医者として開業します。32才のとき、長男アレキサンダーを連れて再来日した父シーボルトと郷里で再会を喜びつつ同居しながら医学を学びます。その間にシーボルトは母お滝・イネが雇った家政婦シオとの間に子をもうけ、イネは深く失望して家を出ます。その間もイネは長崎奉行所西役所医学伝習所でオランダ海軍の軍医ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト、アントニウス・フランシスクス・ボードウィン、コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトから最新の産科・病理学を学びます。46人の男性に交じって腑分け(死体解剖実習)にただ一人の女医として臨みます。父シーボルトの帰国後、母たきが亡くなると、異母弟のシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の知己と支援で明治政府の高官や皇室にも知己を得ながら43才で東京築地で産科を開業、大評判となります。さらに福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、明治天皇の女官・葉室光子ならびに側室・葉室光子の第一皇子の出産に立ち会います。1875年に医術開業試験が始まるも男子のみに限定され、イネは東京の医院を閉鎖して帰郷します。同年、イネの下で3年産科の実地を学んでいた福沢諭吉の義理の姉・今泉釖は三田で産婆院を開業します。1884年医術開業試験の門戸が女性にも開かれますが、イネは産婆営業のために新たに必要となった産婆免許観察願いを届け出ます。また父シーボルトの残した鳴滝塾の土地の確保と保存に尽力します。64歳でイネは東京のたかの家族と同居、77歳で永眠します。

-シーボルト記念館 Siebold Memorial Museum

-福澤諭吉旧居・福澤記念館 Yukichi Fukuzawa Memorial Museum

「とにかく、このごろは敗戦といううき目を見たためでございますか、日本国は外国からなめられておるというような格好が見えております。」
"Anyway, is it due to having experienced defeat that Japan now appears to be looked down upon by foreign countries."

中山 マサ 女史
Ms. Masa Nakayama1891 - 1976
長崎県長崎市 生誕
Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

中山マサ女史は日本人女性初の大臣です(厚生大臣)。シベリア引揚げ問題の進展、高齢者施設の建設、角膜移植法の成立、ポリオワクチンの大量確保、ひとり親家庭への児童扶養手当法などに尽力しました。
Ms. Masa Nakayama is the first woman appointed to the Cabinet of Japan when she became Minister of Health and Welfare. She contributed to the progress of Japanese prisoners of war in the Soviet Union, the construction of facilities for the elderly, the enactment of the corneal transplantation law, the securing of a large amount of polio vaccines, and the child allowance law for single-parent families.

*******

「祈りの子」
 マサは裕福な長崎貴婦人カイとアメリカ貿易商人である父・ロドニー・H・パワーズとの間に生まれます。母・カイは産後まもなく死去、母の姉の飯田ナカによって育てられます。幼少期は病弱で何度も医師に見放されながらも、義母ナカの献身な看護と祈りで次第に丈夫に頑固に育ちます。父のいない母ひとり娘ひとりの家庭、マサは通訳になって義母を支えようと全寮制の活水女学校に入学。熱心にキリスト教を学びながら英語とラテン語を身に付けます。後の女性運動家・神近市子はじめ学友達と夜更けまで語りあいます。「自分自身の井戸を掘りなさい」創始者ラッセル女史ならびにヤング校長の薫陶を受けながら、マサは米国の名門大学オハイオ・ウエスレヤン大学に留学。アルバイトをしながら英文学・弁論学を専攻して学位を取得します。帰国後は、母校の英語教師となって喜怒哀楽むき出しで生徒と向き合います。やがて、「あなたと一緒に国の為に尽くしたい」とプロポーズを受け、東京帝大出の弁護士・中山福蔵と結婚。大阪の教会に通いながら、代議士を目指す福蔵とともに、選挙のたびに大きなお腹を抱え、乳児を背負って、支持を訴えて歩きます。数度の落選を経験するも、終戦前まで3回の当選を果たします。マサの応援演説は注目を浴びますが、アメリカのスパイと疑われて憲兵がつきまとい、子供たちは「非国民」と言われ孤立します。

「博愛の政治家」
 終戦を迎えた翌年、戦後最初の衆議院選挙が行われ、初めて女性の参政権が認められます。マサは婦人自由党を自ら結成、小型宣伝車で『アイルランドの花売り娘』を鳴らしてまわり子供たちを集めては童話を読み聞かせ、さらに集まる婦人たちに選挙演説を始めます。戦後の第一回総選挙で福蔵は落選、第二回総選挙ではマサが自ら出馬し当選します。それ以来連続4期当選して政治家の道を歩みます。『異国の丘』のメロディに心痛めるマサは議員2年で衆院特別委員長を務め、シベリア抑留者30万の引揚げ交渉の重責を負います。アメリカ進駐軍ならびにニューヨークの国連総会に出向いて協力を求め、ソ連とも直接交渉しながら国連内に捕虜調査委員会を設置、抑留者の早期帰国を大きく前進させます。続いて厚生政務次官となり、社会福祉に力を注ぎ、高齢者施設の建設や、角膜移植法の成立などに尽力します。そして1960年池田内閣で日本最初の女性・厚生大臣に抜擢されます。「ゆりかごから墓場までの仕事に尽力したい」。まもなく、ポリオが全国5000人超の大流行、母親を中心としたワクチン獲得運動が広がります。マサは陣頭指揮を執って、アメリカ・ソ連からワクチンを確保、ワクチン輸入業者また国内製造企業と価格交渉、ワクチンの国内生産準備、無料検診・接種組織を準備します。次に、賃金・診療報酬の値上げを求める病院ストライキが全国で広がると、マサは医療費値上げを断固拒否。そして貧困母子家庭への児童扶助手当支給を日本ではじめて実現します。在任期間5ヶ月で内閣は解散しますが、マサは女性政治家で初めて勲一等瑞宝章を、母校オハイオ・ウエスレヤン大学からは名誉法学博士の称号を授与されます。マサの後には20年以上女性大臣は現れません。

-活水学院 Kwassui Gakuin
-首相官邸 Prime Minister's Office

「いばらの路を知りて捧げし身にしあればいかで撓(たわ)まん撓(たわ)むべきかは」

"Having known the thorny path and dedicated oneself, how should one not bend or yield?"

石井 筆子 女史
Ms. Fudeko Ishii
1861 - 1944
長崎県大村市 生誕
Born in Omura-City, Nagasaki-ken

石井 筆子女史は、知的障がい児教育の創始者です。夫・亮一とともに日本初の知的障がい児教育福祉施設として滝乃川学園の運営に尽力しながら、知的障害児童ひとりひとりの可能性を育てようと献身しました。
Ms. Fudeko Ishii is the founder of education for children with intellectual disabilities. Along with her husband, Ryoichi, she worked hard to run Takinogawa Gakuen, Japan's first educational and welfare facility for children with intellectual disabilities. She dedicated to nurturing the potential of each and every child with intellectual disabilities.
*******

「鹿鳴館の華」 
 筆子は、長崎県大村市に大村藩士の父・渡辺清と母・ゲンの3人きょうだいの長女として生まれます。父・清は江戸無血開城の立役者であり、明治新政府の元で福岡県令や元老院議官等を歴任。筆子11歳の時に家族そろって東京で暮らしはじめます。筆子は、日本初の官立女子校である東京女学校に第一期生として入学。貴族・華族・大金持ちの子女らと、英語はじめ生物学・物理学・化学・歴史学など当時最先端の教養を外国人教師から学びはじめるも、高額な授業料による財政難で廃校になります。向学心に燃える筆子は、勝海舟の屋敷内でアメリカ人教師・ウィリアム・ホイットニーの娘クララから英語を習います。筆子は18歳で元アメリカ大統領グラント将軍を父・清とともにもてなして華々しく外交デビュー、さらに翌年には皇后の命で津田梅子らと共に日本初の女子海外留学生として渡欧。筆子は市民革命による「自由、平等、博愛」を正式な国の標語にしたばかりのフランスで、最先端の人権思想・女子教育・慈善福祉事業などを嬉々として学びます。帰国後は華族女学校のフランス語教師として教鞭を執りながら、貧困家庭の女子を職業訓練する大日本婦人教育会付属女紅女学校の開校に従事。一方、鹿鳴館にの宴会に度々出かけ、袴をドレスにアレンジして華を添えながら英語・フランス語・オランダ語を駆使して外交人を接待します。

「鴿、足を止める処なく舟に還る」
 23歳の筆子は父の勧めで元大村藩家老の長男・小鹿島果と結婚。夫の理解のもと、華族女学校での教師を続けます。まもなく長女・幸子が生まれるも、医師から知的障がいを示唆されます。突然の不幸に打ちのめされた筆子は母子でキリスト教の洗礼を受けて幸子の成長を見守ります。やがて次女・恵子が誕生するも虚弱児で生後すぐに亡くなり、まもなく三女・康子を授かるも結核性脳膜炎にかかって知能と身体に障害が残ります。さらに翌年には夫・果が35歳の若さで逝去。31歳で2人の障害児を抱え未亡人となった筆子はますます信仰を篤くし、聖公会のミッションスクール・静修女学校の校長に就任します。昼間は華族女学校に勤め、朝夕は静修女学校で寄宿生とともに過ごします。一方、筆子の知的障害を持つ娘達は「白痴」と称され教育の対象外とされることに筆子は悩みます。生徒数名から40人以上に成長させた頃、石井亮一が講師としてやってきます。濃尾震災で孤児となった女児を保護するために「弧女学院」を設立する亮一に筆子は大いに共感、華やかな人脈を活かしたバザーを主催して寄付金を集めて経営難を助けます。その中で長く病床にあった3女・康子が死去、悲しみに暮れる筆子に亮一は知的障がい児童のための教育福祉施設の構想を打ち明けます。筆子は亮一の斬新な発想の取り組みに共感、気力を奮い立たせるようにして亮一のアメリカ留学を支援、アメリカ・デンバー市開催の婦人倶楽部万国大会に日本婦人代表として出席、亮一と一緒にアメリカの女学校はじめ孤児院・身体障がい児の学校・身体障がい者のための社会福祉施設などを見学してまわります。

「いばらの路」
 帰国した筆子は華族女学校を退官、静修女学校の校舎と生徒を津田梅子に譲り、親族の反対を押し切って42歳で亮一と再婚します。夫婦で知的障がい児のための専門教育機関・滝乃川学園を開所、2人三脚で運営・経営にあたります。 亮一は国内外での研究活動や講演活動等で不在が多く、筆子が実質的な責任者として財源確保・安定経営にあたります。はじめに筆子は、貧しい女性たちに教育を授けて自立させるため学園内に保母養成部を創設、華族女学校の教え子らと共に英語・歴史・習字・裁縫などを教え、卒業後は学園内で保母として採用します。次に、筆子は農園整備を目指して農作業部を開設、養蚕・花つくり・わさび・奈良漬けなどを製造販売したり、バザーに励みます。さらに筆子はアンデルセン童話を翻訳したり本を執筆します。筆子は寮母として熱心に園児ひとりひとりの状況を細かく理解して養護と指導にあたり、園児や保母から「お母様」と呼ばれ信頼を深めます。学園の子供たちが日々成長していく様子を驚きと喜びとともに見守る中、筆子55歳のときに長女・幸子が逝去します。筆子は気力を奮い起こして巣鴨移転にあたる最中、園児の火遊びが原因で火災が発生、炎に飛び込んで足に怪我を負いながら園児を探し求めるも、6名の生徒が焼死します。監督責任また賠償問題がのしかかり、筆子と亮一は学園の閉鎖を決意します。ところが、新聞報道されるやいなや華族女学校で筆子に学んだ貞明皇后はじめ華族・財閥ならびに全国から励ましの手紙と義援金が寄せられます。2人は学園の再興を決意、半年後には財団法人の認可を受け、理事長に渋沢栄一を据え、空気の澄んだ国立市で学園を再開します。昭和恐慌の財政難の中で夫・亮一が70歳で死去すると、筆子は脳溢血の後遺症で半身不随の身を押しながら76歳で第2代学園長に就任します。まもなく戦争による飢えまた空襲で幾人もの生徒また教職員が命を落とす中、筆子は学園の将来を案じながら83歳で死去します。「たくさんの命が手のひらからこぼれていきました。どうして守ってあげられなかったのか。どうかお許し下さい」。

-大村市 Omura city

-滝乃川学園 Takinokawa Gakuen 

大浦 慶 女史
Ms. Kei Oura
1828 - 1884
長崎県長崎市油屋町 生誕
Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

大浦 慶女史は日本茶・生糸の輸出貿易を先駆けた大富商。詐欺事件に巻き込まれ巨額の負債を抱えるも、九州の実業家ならびに政治家の強固なネットワークを駆使して、横浜製鉄所を借り受け機械製造を手掛け、軍艦・高雄丸を払い下げられ受け海洋輸送に進出、最先端の事業・製品を手掛けます。
Ms. Kei Oura is  wealthy merchant who pioneered the export trade of Japanese tea and raw silk. Despite being involved in a fraud incident and incurring huge debts, she made full use of his strong network of businessmen and politicians in Kyushu, leased the Yokohama Steel Works, manufactured machinery, bought the warship Takao Maru, and expanded into ocean transportation. She bring cutting-edge businesses and products to the world.

「製茶1万斤」
 お慶は長崎屈指の油問屋「大浦屋」に誕生。父・大浦太平次と母・佐恵は、大量の輸入油に押されながらも約200年にわたり続く商家を守ります。ところが、お慶16歳のとき大火に見舞われ大浦家は大損害を受けます。お慶は大浦家再興に尽くそうと先頭に立って奮闘します。オランダ語通詞・品川藤十郎と協力、出島オランダ商館員のドイツ人テキストル(Carl Julius Textor)に佐賀・嬉野の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ります。同じ様に滋賀・彦根の生糸をイギリス・アメリカ・イタリアの3国に送ります。数年後、見本を見たイギリス商人ウィリアム・J・オルト(William John Alt)が長崎に来航、お慶に大量の茶と若干の生糸を注文します。お慶は各地に人を派遣して茶の産地を巡り1万斤(6トン)をかき集めてアメリカに輸出します。お慶は自宅の裏に製茶所・製茶工場を建設するとともに、九州各地でお茶の増産を指揮。九州はお茶の一大生産地へと発展します。ならびにお慶は近江商人を介して、西陣織りに重用される良質な曽代糸はじめ飛騨糸・前橋糸・奥州糸を英国に輸出して巨大な利益を得ます。お慶は、30代で長崎では知らぬ者のない大商人となります。

「賠償金1500両」
 各藩の代表や商人たちが競って武器弾薬・艦船の購入・物産販売ならびに各藩の動向収集のために長崎を訪れる中、志士たちがお慶のもとに集まります。坂本竜馬はお慶の屋敷を根城にして「亀山社中」「海援隊」を創設、海運業・貿易業・私設海軍を始めます。大隈重信は佐賀藩物産を海外に輸出する助言をお慶に求め、長崎裁判所はじめ横浜裁判所で外国商人に対する負債整理の海外交渉で功績を上げます。「亀山社中」の3,000両の借金の担保に竜馬に差し出された陸奥宗光は後に外交官として活躍。「海援隊」会計係・岩崎弥太郎は、お慶を介してオルト商会と親交を結んで三菱社を創設。開港と東京遷都により、次第に横浜港からの静岡産の蒸し茶の輸出が増え、九州産の釜煎り茶の輸出業に陰りが見えはじめると、お慶は新しい商品の貿易を考え始めます。そんな折、お慶の元へ熊本藩士・遠山一也と通弁詞・品川藤十郎が訪れ、オルト商会と熊本産煙草15万斤との売買契約の保証人になって欲しいと頼みこみます。お慶が保証人を引き受けると、遠山・品川はオルト商会からの手付金3000両(現在の約3億円)を持ち逃げします。お慶は熊本藩と交渉して約352両の支払いを引き受けるも、オルト商会に長崎県役所へ訴えられ、お慶は連判の罪で1,500両の賠償金を命じられます。お慶は40代で東京に出て再出発を決意します。

「製鉄所1基と軍艦1隻」
 というのも、かつて自分が世話をした大隈重信が横浜裁判所で、横須賀勢鉄所・横浜製鉄所をイギリス系銀行の融資によってフランス借款から担保解除し、横浜裁判所の管轄としたニュースを耳にして新しい事業を画策します。長崎製鉄所(三菱重工業長崎造船所の前身)の機関方(エンジニア)養成所で学んだ洋学伝習人で兵庫製鉄所(加州製鉄所)の創立者である杉山徳三郎を誘って、連名で横浜製鉄所払い下げのための意見書を提出します。お慶は「長崎出身で外国商法と製鉄所の運用に通じている」と猛アピール。大熊重信の後押しで何とか拝借願が認められたお慶は、さらに横浜港の埋め立てとガス灯・横浜瓦斯(ガス)会社の建設を手掛けた実業家・高島嘉右衛門、杉山の同期で東京築地活版製造所の創立者・平野富二、日本最初の製鉄所を完成させた佐賀藩最後の邑主・神代直宝らを引き入れ共同経営を始めます。西南戦争の特需と、鉄道・蒸気機関車の導入により多大の利益を得ると5年で政府に返納。政府財政の窮乏と極度のインフレまた銀貨暴騰の中、お慶は海運業に乗り出します。福岡の櫨蝋豪商で国立十七銀行(福岡銀行の前身)の初代頭取・佐野弥平と連名で、海軍の鉄製軍艦・高雄丸の「払い下げ願」を提出。50,000円(現在の10億円相当)のうち47,300円をお慶が出資、引き渡された高雄丸は定繋港を東京に定め博多港へ。杉山徳三郎が蒸気機関を導入して近代化につとめる筑豊炭鉱の石炭と、平野富二が設立した石川島平野造船所(現、株式会社IHI)とを結んで、お慶はかつて世話した岩崎弥太郎に対抗して時代の先端を行く事業・製品を次々と世に送り出そうとします。

-長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
-長崎WEBマガジン
-「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」
『日本近代化の基礎過程 : 長崎造船所とその労資関係:1855~1900年 中』 (中西洋 著、 東京大学出版会1983.11)図書

「こちらにはどんな物でもいつでもあります。片方の枝に花が咲き、もう一方の枝には実が成るぐあいに。」
``Everything is here at all times. While flowers bloom on one branch and fruits appear on the other.''

じゃがたらお春(ジェロニマ・マリヌス)女史
Ms. Hieronima Marinus
1625 - 1697
長崎県平戸市 生誕
Born in Hirado-city, Nagasaki-ken

じゃがたらお春(ジェロニマ・マリヌス)女史は、バタヴィア(ジャカルタ)へ追放された最後の混血女性。オランダ東インド会社の家族としてバタヴィアのオランダ人社交界で夫はじめ日本人を支えながら、「じゃがたら文」また舶来品のやり取りはじめ私貿易を介して鎖国下の日本と交流を保ちます。
Ms. Jagatara Oharu (Jeronima Marinus) is the last mixed-race woman exiled to Batavia (Jakarta). As a member of the Dutch East India Company's family, she supported her husband and other Japanese people in the Dutch society of Batavia, and maintained contact with Japan during the country's isolation through ``Jagatara Bun'' and private trade, including the exchange of imported goods.

「鎖国令」
 お春は、ポルトガル商船のイタリア人航海士ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の娘・マリア(洗礼名)との間に生まれます。父親とは早くに離別し、お春と4つ上の姉・まんは、筑後町の親類・小柳理右衛門の養女となります。長崎・西坂でキリスト教徒たちが処刑され、島原の乱が鎮圧される中、お春と姉のまんはキリスト教の洗礼を受け、ジェロニマならびにマグダレナの受洗名を授かります。まもなく徳川家康の鎖国令によって、15歳のお春と母姉3人は、他のオランダ人とその混血児また日本人妻ら32名とともに、平戸からオランダ船ブレタ号に乗せられ故郷を追われます。東シナ海を出ると、北風に乗って3か月の航海のあとに、オランダ人がバタヴィアと呼ぶインドネシアのジャカルタに入港。ジャカルタ総督アントニオ・ディーメン以下、現地で伴侶を求めざるを得ないオランダ東インド会社社員たちに大歓迎されます。「あなた方は私たちの同胞です。家族です。元気を出してください。後からたくさんの日本人がこの地にやって来ます。」本国オランダからは孤児院また売春宿の女性達が搬送されてきていました。

「王冠に輝く東洋の真珠」
 大きい帆船やジャンク船が何隻も錨を下ろす海のすぐそばに、漆喰で固められた城壁の中に、石と煉瓦と木造で築かれた頑丈な要塞と高い望楼、バタビヤ市の中央を流れるチリウン川は周辺の川また扇状地から流入する水を水路網全体で貯水して内港を保ちながら海に流れこみ、オランダ東インド会社の積荷が倉庫に各地の商館にオランダにと行き交います。「実直勤勉で、勇猛果敢で、低賃金で雇える」オランダ軍に雇われた日本兵は付近の島々の攻略や守備に手柄を立て、オランダの契約移民として来た日本人は船員・大工・左官・馬方として働き、契約期間が切れると退職金を手元に煙草・森林開発・不動産・金融・果樹園栽培・奴隷売買などの実業界で活躍。奴隷を含めてジャカルタには数百人もの日本人が暮らします。防衛・船運・灌漑・排水・貯水の機能を担う水路は、チリウン川の氾濫で毎年のようにバタヴィア中心部に水害をもたらし、過酷な気候とあいまって感染症が猛威を振るういます。それでも、灼熱の太陽が西海に沈むと南十字星が輝く涼しい風の立つジャカルタに落ち着いて数年後、お春は郷里長崎のお辰に手紙を送ります。

「ジャガタラ文」
 「千はやふる 神無月とよ うらめしの嵐や まだ宵月の 空も心もうちくもり 時雨とともにふる里を 出でしその日をかぎりとなし 又ふみも見じ あし原の 浦路はるかに へだつれと かよふ心のおくれねば おもひやるやまとの道のはるけきも ゆめにまぢかくこえぬよぞなき」「松かさ このてがしわのたね すぎのたね はうきぐさのたね 御ゐんしんたのみまゐらせさふらふ かへすがへすなみだにくれてかきまゐらせさふらへば しどろもどろにてよめかね申すべく候まゝ はやはや夏のむしたのみ入候 我身事今までは異國衣しやういたし申さず候 いこくにながされ候とも 何しにあらゑびすとは なれ申べしや あら日本戀しや ゆかしや 見たやみたやみたや じゃがたら はるより」

「オランダ居住地区」
 2年後に姉・マグダレナまんは、ジャカルタ日本人社会の最有力者で長崎出身の実業家・武左衛門と結婚、2お春は21歳になってから、平戸生まれの混血児で東インド会社社員シモン・シモンセンとジャカルタのコタ地区シオン教会で結婚式を挙げます。お春は受洗名ジェロニマと父姓マリノを重ねてマリヌスと署名します。夫婦はオランダ人居住区ユンケル通りの漆喰で固められた白壁の二階家に住居を構えます。夫のシモンセンは商務員補から下級商務員・商務員・上級商務員・港務長兼許可証発行官・税関長・カンボジア王接待役と大出世。「日本人夫婦のルーツに近いバタフィアに滞在することを熱望する」オランダ本国転勤を断って自由市民として手持ちの貿易船を動かして財産をつくり、ジャカルタ市の教会長老として日本人のために奴隷解放にあたったり遺言状の証人を務めます。お春は夫を支えながら7人の子育てに、社交界に、30人以上の奴隷と貸家6軒に、裕福に充実して過ごします。お春の長女マリアはオランダ本国からきた裁判官と結婚します。

「ジャガタラ文 お春」
 お春はオランダ船便のある度に、故郷の叔父・峯七兵衛はじめ親類縁者へ手紙と膨大な品物を届けます。「今度出島へ渡る商館長は私どもと親類付き合いをしているような間柄です。」「毎年、長崎の御奉行様からは大きな御慈悲と便宜を計らつて頂き、去年はオランダ船と唐人船を介して手紙と品物の数々をやり取りできました。」「お送りするもの、上等白木綿91反、白綸子61反、浅黄繻子2反、猩猩緋最高級品など。染物の注文として白縮緬1反、白綸子半反、木綿6反。」「島原に居る七郎右衛門の女房きくへの品物を間違いなくお渡し下さい。きくは私が幼い頃から世話をしてくれた乳母です。今でも昔を恋しく思い出しています。」「七兵衛どのに丁銀450目、おはつ方へ50目。」「七兵衛殿の妹方へ、去年はお願いした数々難しい誂え物を全て整えてお送り下さり大変有り難く思います。」「七兵衛殿へ、乗り物(女駕籠)を送って頂き何とも嬉しいですが、このような大変な物は何とも迷惑でもあります。」「二郎右衛門夫婦方へ、唐船に頼みました毎年のお便りと色々な面白い草紙は嬉しいです。」「去年、大根を土に生けて送って頂きましたが船中で無くなってしまい受け取る事が出来ませんでした。野菜類はこちらにはどんな物でもいつでもあります。木の実も、片方の枝に花が咲くともう一方の枝には実がなるという具合で、ないものは栗と椎の実ぐらいです。お願いしないものはいりません。」「珍しい菊がありましたら少し大きな鉢に植えて送って下さい。家の前の道に植えればきっと目立つ事と思います。昨年送って頂いた菊は来客のために全部使ってしましました。」「スイカの若芽を植えて送ってください。」「酒の小樽を2重にしたものを2つ頼みます。水夫たちに飲まれないように、出島のニコルスに出航直前に言付て下さい。 シンモンス後家 お春より」

「ジャガタラ文 マリア」
 日本で3代将軍家光から4代将軍綱吉と変わり元禄文化が花開く頃、鎖国政策によって貿易船に乗り込んで日本へ密航をする神父たちが途絶え、日本人渡航者が来なくなったジャカルタの日本人町は衰退。夫また子供6人に先立たれたお春67歳は公証役場に赴いて公証人ダビッ ト・レギュレツトの前で証人の立ち合いのもと、身体強健、判断明瞭、言語明確に宣誓した上で、遺言状をしたためます。「只一人残った娘のマリアはじめ亡くなった子供たちの遺族に遺産を4等分すること。お春の奴隷12人とその家族を解放すること。土地・家屋・奴隷4人を娘のマリアに寄贈すること。 ジェロニマ・シンモンス」「彼女の埋葬執行人および遺産管理人として、バタヴィア城の司法委員であった故フランシス・ファン・デル・ レーの寡婦である彼女の娘マリア・シモンセン夫人、ドクトルテ オドリウス・サス牧師、商務員ウイルレム・サベラールらを指名する。」お春はジャカルタ最後の日蘭混血児として72歳で逝去。お春の死後、残された娘マリアはお春に代わって日本に手紙と品物を送ります。マリアが書いたオランダ語の手紙は長崎奉行所西役所で日本語に訳され、手紙を受け取った叔父は返事と書物と贈物をオランダ船に託します。やがて幕府によってやり取りを禁じられ音信が途絶えます。

-『バリ島奇談』(正延哲士 著/ 山下出版1987年)
-『日本史探訪 第17集』(角川書店1976年)
-『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子 訳 / 岩波書店1969年)
-『バタヴィア城日誌』(村上直次郎訳 / 平凡社1989年)
-『じゃがたらお春の消息』(白石弘子 / 勉誠出版2001年)
-『井口正俊 - ジャワ探究 南の国の歴史と文化』(井口 正俊 著 /丸善プラネット2013年)

熊本県 Kumamoto-Ken 

「自分の心の舵をしっかり保っていこう!」
"Steer your heart!"

矢嶋 楫子 女史
Ms. Kajiko Yajima
1833 - 1925 
熊本県上益城郡益城町 生誕
Born in Masuki-cho, Kamimasuki-gun, Kumamoto-ken

矢嶋楫子女史は廃娼運動・禁酒運動の草分けです。米国宣教師マリア・ツルー女史とともに新栄女学校・桜井女学校・女子学院の運営に従事。日本キリスト教婦人矯風会を組織。公娼制を讃美する政府のもとで「一夫一婦制」「男子の姦通罪」「海外醜業婦(からゆきさん)の取締・防止」「国会女子傍聴席」の国会誓願、女性のシェルター創設、からゆきさんの現地調査、婦人の職業斡旋など、日米の女性の架け橋として婦人福祉ならびに女性の地位向上に奔走しました。
Ms. Yajima Kaiko was a pioneer in prostitution and alcohol repeal movement. She worked alongside American missionary Miss Maria True in the operation of Shin'ei Girls' School, Sakurai Girls' School, and Women's College. She organized the Japan Christian Women's Organizationn. Under the government's praise of the licensed prostitution system, she pledged to the Diet for "Monogamy," "Criminalization of Adultery by Men," "Prevention and Regulation of Overseas prostitution", and "Women's Auditorium in Diet". She also founded shelters for Women, conducted on-site investigations with "Karayuki-san", and Job support for conscripted husbands' wives, among other efforts in women's welfare, serving as a bridge between women in Japan and the United States.

*******

「仏頂面の渋柿」
 近海にイギリス船があらわれはじめ、連年続く凶作で百姓一揆が頻発する中で、総庄屋と代官を兼ねた地方役人である父・矢嶋忠左衛門直明と、惣庄屋の娘である母・鶴子の間に、5人続く姉の後に、男いばりとはばのきかない女の熊本に勝子は生まれます。1週間過ぎても名前も授けられない「余り者」とされ、早くから負けじ魂と根性を身に付け、いつもむっつりとしながらも、みんなが嫌がる種痘の実験台に進み出たり、姉妹と競って綿をつむぎ機を織り、手習い稽古に励みます。3つ上の姉・つせ子は、兄が師事する横井小楠の後妻として結婚させられるも、封建制度の強い熊本にあって身分は妾、女中あがりの別の妾と同居を強いられます。6つ上の姉・久子は、男児を産めない理由で離縁話が上がる中大きなお腹を抱えたまま実家に戻され、男児が生まれると復縁され婚家に凱旋します。

「しょうがなか。女じゃもん」
 ショックを受ける勝子に母は「しょうがなか。女じゃもん」。やがて、勝子も横井小楠の弟子で妻に先立たれて3人の子供を抱える武士・林七郎と結婚させられます。すぐに2人の子供をもうけると、酒を飲むと白刃を抜いて暴れ狂う夫から度々実家に逃げ帰りながらも、子どもの養育に家事労働に忙しくします。やがて心労でボロボロになった勝子は離婚を決意。髪をバッサリ切って離縁状代わりに差し出します。周囲の冷たい批判を受けつつ妹たちの間を転々とすると、まもなく東京で新政府の官吏となっていた兄・直方の看病のために子供達を置いて上京。旅中に大きな船も小さな楫で動く様子を見て、「自分も今後この楫を以って我が生活の羅針としよう」という決意のもと、「勝子」から「楫子」へ改名。40歳の再出発を決意します。

「我弱ければ」
 楫子は、兄の看病と放漫財政を正すかたわら、築地にある小学校教員伝道所に通い、兄の家に出入りする書生たちに地誌・数学を学びます。髪も伸び揃ったころ、芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に教員として採用されます。そんな中、ところが、楫子は妻子持ちの書生・鈴木要介と愛に落ちて子供を身ごもります。きょうだいは堕胎を迫り、書生は妾の戸籍登録を迫りますが、楫子はひそかに女児を出産、女児に妙子(後の湯浅清子の母)と名付けて練馬の農家に預け独り教師生活に戻ります。「女は何て弱いのだろう」。まもなく楫子は米国宣教師で炎の教育者・マリア・ツルーに見込まれ、築地居留地にある新栄女学校の校長に就任。楫子は校長室におさまると、煙草盆に火を入れ真鍮の長キセルで煙草を吸い始め、他の宣教師から非難されるのを取り合わずにボヤ騒ぎを起こします。

「自分で自分を治めなさい」
 それでも自分の全幅の信頼を寄せ聖書の組を預けるツルー婦人に、楫子はすっかり感化され正式に洗礼を受けクリスチャンとなり、孤児として妙子を連れてきて自分の養女とします。同じころ、夫と北海道へ伝道に向かう桜井チカと知り合い、ツルー婦人とともに麹町の桜井女学校の経営を引き継ぎます。校舎を新築、幼稚園を拡張、新潟県・栃木県に分校を開校、日本初の看護婦養成所を設立。両校を合併して女子学院として発足させます。院長に就任した楫子は、「あなた方は聖書を持っています。自分で自分を治めなさい。」外国教師と英語と西洋の学問・生活様式の中にあって、禅僧・高津柏樹を国語・漢文の教師として迎えたり、皇后誕生日を地久節の祝日とします。

「婦人矯風会日本支部」
 51歳の楫子は、「万国の婦人よ協力せよ」とスローガンを掲げる万国婦人矯風会本部から日本に派遣された英国人レビット夫人の演説を聞いて感動します。「女性を解放する戦いはまず男性を酒毒から解放することから始めねばならない」。楫子は翌日にレビット夫人と懇談、婦人矯風会日本支部の設立を決意します。潮田千勢子・佐々木豊寿・浅井杵子・本田貞子・蛯名みや子・湯浅初子はじめ新進女性50名を集めると会長に就任すると、売春・飲酒・喫煙の廃止を掲げて東京キリスト教婦人矯風会を組織。公娼制讃美論者の伊藤博文総理大臣のもと海外に売り飛ばされる女性が急増する中(明治年間だけで数十万人、東南アジア・欧米・ロシア・インド・オーストラリア・アフリカに及ぶ)、楫子は国会開設と共に「女子傍聴席の設置」「一夫一婦制の確立」「海外醜業婦(からゆきさん)の取締・防止」「男子の姦通罪」を国会に誓願。林歌子をウラジオストック・ハルビン・プサンに、市川静淵を天草・島原に派遣して現地調査を行い、大久保に「慈愛館」を設立して廃業娼婦はじめ女性のシェルターとします。

「天国は日本からでも、アメリカからでも、距離は同じでしょう」
 大阪の北新地が火事で全焼すると焼失遊郭の復活阻止運動を展開するも敗北。「敗北の原因は我々に婦人参政権がないからです!」足尾銅山に救護班を送って惨状を世に訴えたり、日清・日露戦争下で夫を徴兵された妻を教育し職業を斡旋したりしながら、北海道から九州ならびに大連・旅順・奉天・京城・仁川・平壌など次々と矯風会支部を設立。楫子90歳のときに日本婦人平和協会(現在の婦人国際平和自由連盟日本支部)理事長の井上秀女史とともにワシントン軍縮会議に出席、ハーディング大統領と面会します。平和を祈る日本のキリスト女性信者1万人が署名した嘆願書を手渡し、翌年、アメリカ女性宣教団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会NCCCW」から日米相互理解について一致して努力することを誓う電報を日本女性代表として受け取ります。「婦人参政権獲得期成同盟」の設立に歓喜して会員となった翌年に93歳で逝去。「老いたる馬は厩に伏していても志は千里の外に在る」

-日本キリスト教婦人矯風会 KYOHUKAI
-四賢婦人記念館 Shiken Fujin Memoria Museum
-アメリカ大使館 U.S. Embasssy Japan
-婦人国際平和自由連盟(WILPF) Women's  International League for Peace and Freedom JAPAN Section

「海よ風よ 人の心よ 甦れ」

"Oceans, winds, human hearts, revive."


石牟礼 道子 女史 

Ms. Michiko Ishimure

 1927 - 2018

熊本県天草市 生誕

Born in Amakusa-city, Kumamoto-ken


石牟礼 道子女子は、水俣病闘争を主導した日本における環境運動の先駆者です。水俣病ならびに近代社会の苦しみを訴える『苦海浄土 わが水俣病』を刊行。ならびに水俣病患者の支援組織「水俣病を告発する会」を結成。さらに水俣病を通して近代社会の断層を記録するべく「不知火海百年の会」ならびに「不知火海総合学術調査団」を結成。

Michiko Isummure is a pioneer in the environmental activist in Japan who led the fight against Minamata disease. She published "My Minamata Disease: Paradise in the Sea of Sorrow", which served as a testimony to the suffering caused by Minamata disease and modern society. She also established the support organization for Minamata disease patients, "Minamata Disease Disclosure Society." Furthermore, to document the rifts in modern society through the lens of Minamata disease, she founded the "Firefly Sea Hundred-Year Society" and the "Firefly Sea Comprehensive Academic Research Team."

*******

≪じぶんの体があまりに小さくて、ばばしゃまぜんぶの気持ちが、冷たい雪の外側にはみ出すのが申し訳ないきがしました≫

道子は、道路・港湾工事を手がける石工棟梁の家に生まれます。祖父は住み込みまた通いの職人数十人ならびに妾また隠し子を抱え、祖母は発狂、父・亀太郎は経理を担って一家の放漫経営を支え、母・ハルノは祖母の世話ならびに職人集団の賄い・酒宴の支度を引き受け、道子は神経の病んだ祖母と心通わせます。

≪にじの国 -とこしえに未完のうた、-これをあなたにお返し致します≫

やがて家業が破綻、一家で水俣川河口に引っ越します。水俣町立第一小学校を卒業後は、会社勤めをしようと水俣実務学校(現 熊本県立水俣高等学校)に入学。戦時下の教員不足により、本人の抵抗も空しく、16歳で代用教員となります。軍事教育に嫌気が差した道子は登校拒否教師となりますが、生徒はじめ校長先生に支えられて終戦を迎えます。アメリカ主導の皇室排除ならびに民主主義教育が始まると、道子は亜ヒ酸で自殺未遂を起こします。さらに20歳の時に家族のためにいやいや嫁ぐも4か月で自殺未遂を起こします。

≪おもかげや 泣きなが原の 夕茜≫

夫・弘は実直で評判の教師で組合活動にも熱心ながら、道子の精神的な話相手にはなろうとしません。1年後に一人息子・道夫が生まれると、道子は水汲み・家事・炊事・洗濯・畑仕事・裁縫の休息日である雨の日に、無料の美術教室・図書館に通います。毎日新聞熊本歌壇に投稿を始めてからは、歌人・蒲池正紀主催の短歌会に参加。そこで歌友・志賀狂太と交流を深め、一緒に死のうとするも先立たれます。

≪毒死列島 身悶えしつつ 野辺の花≫

32歳の道子は、初期結核で入院する道夫と訪ねた市立病院で水俣病患者と出会い衝撃を受けます。熊本大学主宰の水俣病診療会場に出かけて患者また付き添いに紛れ込んで会話に加わって聞き書きを始め、大学の解剖台の上に運ばれて解剖されるまでじっと見続けます。発言の場を求めて、筑豊炭鉱を拠点とする文化運動「サークル村」に参加、機関紙『サークル村』にて「水俣湾漁民のルポルタージュ」を発表します。その後、渡辺京二編集『熊本風土記』にて「海と空のあいだに」を連載発表、42歳の時に『苦海浄土わが水俣病』として講談社から刊行。渡辺京二とともに「水俣病を告発する会」を結成、機関紙『告発』刊行。患者らと一緒に、厚生省水俣病補償処理委員会会場を占拠してビラを配って直訴、大阪のチッソ株主総会に乗り込んで加害責任を直接追及、東京のチッソ本社前に1年8か月座り込んで社長との直接交渉を実現します。訴訟終結後、さらに道子は「不知火海百年の会」ならびに「不知火海総合学術調査団」を結成、水俣病を通して見え始めた近代社会の断層をあらゆる角度から地域住民はじめ専門家ですくいあげ普遍化する取り組みを開始。さらに、美智子皇后に手紙をおくり、2013年天皇皇后両陛下の水俣胎児性患者との対面を後押しします。

-水俣病資料館 Minamata Disease Municipal Museum

-くまもと文学・歴史館 Kumamoto Museum of Literature and History

「女に相談してください。女は知恵がありますからどんな知恵でも出します。」
"Please consult a woman. Women have wisdom, and they will give you any wisdom."

山北 幸 (旧姓 井上 幸)女史
Ms. Sachi Yamakita / Inoue Sachi
1913 - 2013
熊本県球磨郡湯前町 生誕
Born in Yunomae-machi, Kuma-gun, Kumamoto-ken

山北幸女史は農業組合法人下村婦人会市房漬加工組合の創設者。
敗戦後の困窮する九州の農村で婦人会を発足、100%地元の素材でつくる「市房漬」で「食の安心安全」「地産地消」「女性の地位向上」の取組みを全国に拡大。
Ms. Sachi Yamakita is the founder of the Shimomura Women's Association. She established women's association in a rural village in Kyushu that was in poverty after the defeat in the war, and the efforts to promote "Safe Food",   "Local Food" and "improvement of the status of women" were expanded nationwide through "Ichihusazuke" made from 100% local ingredients.

「お金なしじゃ始まらない」
 幸は、球磨川上流の市房山ふもとの過疎の町に、地主の父・井上朋房、母・トモエの長女として生まれます。大勢の男衆・女集がいる大家族。祖父母にに可愛がられ「あるものを活かす」知恵と心を学びます。人吉高等女学校に進学。軍医・深松深を養子縁組の上で結婚、夫婦で満州に渡ります。太平洋戦争が開戦されると、子供を連れて帰国。敗戦後、耳鼻科・内科山北医院を開業。幸は看護婦・薬剤調整師・受付・経理として夫を支えます。戦後の混乱で貧しい暮らしが続く中、お金がないからといって子どもを病院につれてこない母親たちを叱り飛ばしながら、貧しい子供たちを温かく迎え入れます。闇市ででも薬を買って揃えなければならない幸は、盆また暮れにお金をいただきにまわるも、1円何十銭でも病院のお金が払えない人もあります。「お金なしじゃ始まらない」。学習用具にも事欠く子どもたちのために、幸は英語の辞書数十冊を熊本市内の緑書房や熊本書院の古本屋に求めて病院内に揃えます。

「はじまりは頼母子講」
 まもなく農地解放で農協が小作人と小地主に分裂、対立は子供たちにまで尾を引きます。幸は、地域内の和を取り戻そうと、女性達に呼びかけて毎月1日・15日に地区の公民館に集まって話し合いの場に設けます。100円・200円を持ち寄って集まったお金をくじ引きでもらい受ける「頼母子講(たのもしこう)」を始めます。次に、婦人達の話し合いの中から、生活改善資金づくりとしてモノづくりの発想が生まれます。はじめに、藁ほうき・シュロの葉のハエ叩きをつくり手分けして売って回ります。続いて、一握りの米を持ち寄った「握り米貯金」と、当番制で育てた養鶏卵を町に売りに行きます。さらに、不必要な生け垣を取り払って茶の栽培を行う一方、雑草が生い茂っていた庭を手入れして菜葉類・根菜類の栽培を開始、市房ダム建設作業員に売りさばきます。売上で、公民館の備品を揃え、子どもたちの滑り台・ブランコ・「仲よし文庫」図書館をつくります。

「市房漬」
 やがて減反政策で米作り農家は転作を強いられるも、野菜を作りたくてもかんじんの水が足りない。婦人会メンバーは野菜の収穫量を増やそうと灌漑用水路を整備。すぐに豊作貧乏で悩む中、収穫された野菜を加工しようと発想が生まれます。幸の家の物置小屋を作業場にして、ハダカムギと大豆を3升ずつ持ち寄って甕仕込み製法による味噌を造り、家庭から持ち寄った野菜を地元の焼酎と一緒に4斗樽2本に味噌漬けして町内また隣町まで売りに出かけます。町の産業祭の「ふるさとの味」コンクールに出品、審査員に素通りされ激怒した幸は役場にまで漬物を持ち込んで一等賞を獲得。リアカーを引いて隣村まで売って回ります。販売量が増加すると数年後には村から譲りうけた土地を漬物置き場に、さらに数年後には国の補助金を得て漬物加工場の建設を開始。さらに数年後には「市房漬」を商品登録します。その数年後には、熊本県と国土交通省の物産コンクールに入賞、そして第2回全国郷土特産展にて明仁皇太子・美智子妃(現上皇上皇后両陛下)が商品をお買い上げ。幸は婦人会メンバーと飛行機で飛び回って、首都圏また関西の物産展・デパートなどでの展示販売をはじめます。婦人会の収益で会員たちを専属的に雇用して給与を支払い、漬物加工施設の備品・什器を拡充、農業組合法人下村婦人会市房漬加工組合を設立します。

「食の安心安全」
 郷里出身の衆議院議員・福永一臣の夫人・美津子(斎藤美津子)の推薦により、季刊誌『暮らしの手帳』で「市房漬」の特集が組まれます。地元農家から買い取る無農薬の大根・人参・胡瓜・生姜・茄子・高菜などを地元の球磨焼酎と自家製味噌に漬け込んだ「市房漬」、平家から伝わる保存食「柚餅子」、水蜜桃の摘果された小さなモモのグラッセ「小さなモモ」など、下村婦人会の漬物は「無添加食品」「純自然食品」として注目され、デパート、スーパーマーケット、関東関西の問屋を介して全国的に販売されます。「おふくろの味」「ふるさとの味」の流行に乗って売り上げは3倍に、漬物の種類は30種類に増えます。同時に「女性主導の村おこし」として新聞・雑誌・TVなどで話題になり、漬物工場には視察団が押し寄せ、幸は全国の講演会に引っ張りだこになります。「私は漬物屋のばばあをもう50年しております。そして、何とかここであるものを全部生かしております。捨てたなんていうことはありません、本当に。そしていろんなものがまだできます。」「私たちは余って捨てるようなものまで買い取って、何かならないか工夫して考えて商品にしてきました」「私たちがつくるものは、全部下村のものばかりです。保証します。」「女に相談してください。女は知恵がありますからどんな知恵でも出します。」下村婦人会の理念が工場に掲げられています。「1.安全であること 2.ごまかしのないこと 3.味の良いこと 4.価格が妥当であること」

-下村婦人会
-『暮らしの手帖』1971年2月

「素直な気持ちで感じて素直に表現しよう」
"Feel with honesty and express with sincerity."

植田 いつ子 女史
Ms. Itsuko Ueda
1928年 - 2014
熊本県玉名市 生誕
Bron in Tamana-city, Kumamoto-ken

植田 いつ子 女史は、美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)の専属デザイナーを拝命した、日本のファッションデザイナー。オートクチュールを中心に、プレタポルテ、ジュエリーのデザイン、舞台衣装の「植田いつ子コレクション」を毎年発表。格調高く、シンプルなデザインと色調の優雅な服作りが評判となり、1976年から皇太子妃殿下(現皇后陛下)のデザイナーを勤める。
Ms. Itsuko Ueda is a Japanese fashion designer who was appointed as the exclusive designer for Crown Princess Michiko (now Empress Emerita Michiko) of Japan. Specializing in haute couture, she annually presents the "Itsuko Ueda Collection," which includes "prêt-à-porter", jewelry designs, and stage costumes. Renowned for her refined and elegant designs characterized by simplicity and graceful color schemes, she has served as the designer for the Crown Princess (now Empress) since 1976.

「美しいものを創りたい」
 いつ子は玉名市河崎の商家で6人兄弟に生まれる。しばらくして父親が自転車店を営むため玉名駅前に引っ越します。玉名町弥富小学校3年の頃に支那事変(日中戦争)、高瀬高等女学校を経て学徒動員がなかった熊本県女子師範学校に進学、「まったく色のない生活」は女学校卒の年の敗戦と共に明けます。いつ子は文化サークルに参加。早速、母親のためにへちま衿の柔らかいワンピースを手作りします。気に入った母は外出の度に来ては周りから褒められます。「美しいもの」への憧れは日に日に増します。いつ子は自分はデザイナーを目指して上京を決意。終戦後の混沌とした時代に若い娘が一人で未知なる東京に旅立たせることに両親は大反対。いつ子は父母の説得に幾度か絶望しながらも、誠心誠意上京できるように努めます。やがて兄妹も一緒に両親を説得、いつ子は東京行き鹿児島本線「霧島」に乗り込みます。

「デザイナーの2人の師」
 東京駅に着いたいつ子は、さっそく桑沢デザイン研究所・桑沢洋子先生を訪ねます。デザインの勉強したいと意気込むいつ子に、桑沢先生は「とりあえず予備の研究科に入って来年研究科に進めばすぐ追いつくでしょう」。例外的に手続を進めてくれます。色のない時代に、素晴らしい色使いをする桑沢先生はじめ講師たちは「人間が着るものとして洋服はどうあるべきなのか」いつ子に問います。いつ子は、夜は美術研究所、週末はお茶の水にある文化学院のデザイン科さらに絵画教室に通いながら、実習をこなします。1mm単位の精度を求められる仕事に絶望しかけるいつ子に、桑沢先生は銀座の高級アトリエ「銀座ビジョン」「銀座レインボー」を紹介。物資不足で生活するだけでも大変な時代に、チーフデザイナーのジョージ岡に日本人の美意識と伝統の布地の素晴らしさを学びながらドレスづくりに専念します。

「クリスチャン・ディオール」
 二人の師に出会って約8年目、いつ子は「植田いつ子アトリエ」を開設。国内外のいろんな洋服はじめ音楽・絵画などいろんな表現に触れながら、自分のフォルムを手探りしながら確立しようと格闘します。初めて日本の旧東京会館で行われたクリスチャン・ディオールのオートクチュールコレクションに衝撃を受けます。「服というものがこんなにまでも人を表現できるのか」西欧文化との揺るぎない根の深さが逆に、いつ子を奮い立たせます。「素直な気持ちで感じて素直に表現しよう」いつ子は30代で初めてヨーロッパを見て周り西洋文化・芸術に圧倒されながらも、和魂洋才の服作りに邁進します。独立して8年目、自分の表現を確立し始めてオートクチュールコレクションを発表。19年目には、ファッション界の芥川賞と呼ばれるFEC賞を受賞。パリでファッションショーを開催します。

「美智子皇太子妃専属」
 翌年、美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)の専属デザイナーを拝命します。びっくりしたいつ子は躊躇するも、東宮御所でに出向いたいつ子は美智子皇太子妃の前で素直な心情をお伝えします。「輸入文化である洋服の造形フォルムの中に、私なりの日本人の心情・美意識を取り入れていきたい」いつ子は美智子皇太子妃の日本女性の美点に花を添え、お役目を遂行されるように、心を込めて洋服をつくります。美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)はニューヨークの国際ベストドレッサー賞を3度も受賞。いつ子は、日本の文化・歴史を熱心に探求しながら、着物のデザインなど新しい挑戦を続けます。「日本の女性を美しく見せるには日本の土壌に合ったものを作らなくてはならない」

-宮内庁
-玉名市博物館
-桑沢デザイン研究所
-『新婦人』(文化実業社, 1957-05)

「自分のこととして人の痛みを知る」感性や想像力が磨かれていくことを期待します。
I hope that you will develop your sensitivity and imagination to "understand other people's pain as if it were your own."

山口 美智子 女史
Ms. Michko Yamaguchi
1956 -
熊本県熊本市 生誕
Born in Kumamoto-city, Kumamoto-ken

山口美智子女史は、全国で初めて実名を公表した薬害肝炎訴訟の原告。薬害肝炎全国原告団代表として「薬害肝炎被害者救済法」の成立ならびに「医薬品等行政評価・監視委員会」の設立を牽引。
Ms. Michiko Yamaguchi is the first plaintiff in Japan to publicly announce her real name in a drug-induced hepatitis lawsuit. As a representative of the National Plaintiffs for Drug-induced Hepatitis, she led the establishment of the ``Drug-Induced Hepatitis Victims Relief Act'' and the ``Pharmaceuticals Administrative Evaluation and Monitoring Committee.''

「陣痛促進剤と止血剤」
 美智子は1987年に次男を出産した際、C型肝炎に感染します。陣痛促進剤を打って普通分娩で出産した数時間後に子宮の弛緩出血が起こります。「血を止める注射をしよう」という医者と看護師のやり取りが聞こえ、止血剤・フィブリノゲンが点滴されます。しかし、出血が止まらず輸血をされ、半日後には子宮摘出の手術をされます。退院する際の血液検査で急性肝炎に感染していることが分かり、再び内科に入院することになります。美智子は生まれたばかりの我が子を抱くこともお乳を与えることもできぬまま、毎日病室の窓から新生児室のある産院の屋根を眺めて過ごします。半年後に退院するとやっと家族みんなで暮らせるようになるものの、月に1回は肝機能血液検査のために通院を続けます。2年後、肝生検で慢性肝炎と診断されます。

「運命でなく人災」
 体力が落ち疲れやすくなった美智子は行動を制限しながら小学校教師を勤めます。2000年の夏、2度目の肝生検査で肝炎の悪化が分かりインターフェロン治療に踏み切ります。それからの2年間は週3回の投与治療を続けます。投与前に毎回解熱剤を内服、悪寒・発熱・倦怠感・下痢の副作用に耐えかつらを被って教壇に立ちます。何百本と打つ注射で腕もお尻も真っ黒に晴れ上がり、夜早くから布団に入ります。体力の限界を感じた美智子は21年務めた教職の仕事を辞めます。2002年、東京や大阪で薬害肝炎訴訟がおこされたことを新聞で知った美智子は、早速産院に問い合わせると薬剤師が残していたメモからフィブリノゲンが止血剤として使われていたことを確認します。「15年間感染は運命だと思っていたが、避けることのできた人災だった」。翌年、福岡地方裁判所に提訴します。

「実名公表」
「お上に盾突く」ことを恐れて匿名原告が多い中、「悪いことをしていないのに、なぜ名前や顔を隠さないといけないのか。国や製薬会社と正面から闘いたい。」美智子は全国で初めて実名を公表して原告団に加わります。2006年に薬害肝炎全国原告団が設立されると代表に就任。廃院・カルテ廃棄によって原告に慣れない人たち、治療費が負担できずに治療に踏み切れない人たち、そして薬害だけでなく輸血また予防接種による感染でウィルス性肝炎患者となった人たちのために、美智子は全国を飛び回って裁判所・国会・世論に訴えます。美智子は治療中の苦しみに加え、時間・体力・気力・プライバシーを失いながらも、誰にでも起こりうる社会問題であると国民全体に認識され問題の全面解決につながるようにするのが使命と自分に言い聞かせます。

「国の違法行為と間違った医療行為」
 裁判の過程で国の違法行為と間違った医療行為が次々と明らかになります。血液製剤フィブリノゲンはアメリカでは有効性に疑問がある上に、ウィルス性肝炎に感染する恐れがあるとして1977年にFDA(食品医薬品局)は承認を取り消し。翌月、ミドリ十字はその事実を把握しながら7年後の1984年まで厚生省に未報告。その3年後に青森の産院で集団感染が発覚してはじめて厚生省が調査を指示。その翌月ミドリ十字はフィブリノゲンの加熱製剤に切り替えるも、安全処理が不十分で被害が拡大。美智子はその翌月に投与を受けて感染していました。1980年以降にフィブリノゲン製剤の投与を受けた患者は約29万人で、そのうちC型肝炎を発症したのは1万人以上。さらに、2002年に製薬会社が厚生労働省に提出していたフィブリノゲン薬害が疑われる肝炎患者418人のリストの個人情報を製薬会社が持っていることが判明。続いて厚生労働省の倉庫から医療機関と個人情報を特定できるリストが見つかります。そして医師達からフィブリノゲンによる集団感染の報告が次々と寄せられるのに対して、当時の厚生省は製薬会社に文献を探して理論武装させ隠蔽するよう指示していました。2004年ようやく厚生省はフィブリノゲンを投与した7000の医療機関を公表するも、その9割以上がカルテを廃棄したと回答。大勢の患者が薬が使われたことを証明できず訴えることができない事態となります。

「私の幼児教育政策論」
 「肝炎被害を発生・拡大させたのは国の違法行為と間違った医療行為を放置した結果である。」その責任に基づいて、美智子はじめ原告団は裁判の目標を損害賠償だけでなく全ウィルス性肝炎患者が安心して生活するための治療体制・生活保障など総合施策に据えます。「2度と薬害を繰り返させない。」薬害肝炎被害の真相究明と薬害根絶のために、薬害が放置された経緯や、どの時点でどのようなことをしていれば薬害を防止できたのか検証を進めます。仙台を除く大阪・福岡・東京・名古屋の訴訟で国や製薬会社の責任を認める判決が続くも、新しく就任した舛添要一厚生労働大臣が原告団との対話を拒否したり救済患者の線引きを突きつけられた美智子はじめ原告団は、福田康夫総理に「一律救済」の政治決断を求めます。5年の歳月をかけて闘った訴訟も世論の後押しを受け「薬害肝炎被害者救済法」が成立。美智子は国との基本合意に調印後、首相官邸で福田首相に面会します。「私たちは頂上に上ることができましたが、これから先多くの人が登れるように道幅を広くして欲しい」。翌年、感染原因を問わない「肝炎対策基本法」が制定。2020年には医薬品行政を監視する第三者組織「医薬品等行政評価・監視委員会」が厚生労働省に設置されます。美智子は薬害肝炎原告団代表を浅倉美津子に譲ると、訴訟活動の傍ら九州大学院で学びながら続けた研究を「私の幼児教育政策論」として出版します。

-薬害肝炎全国原告団サイト
-『薬害肝炎裁判史』(薬害肝炎全国弁護団 編 / 日本評論社2012年)
-『いのちの歌 薬害肝炎、たたかいの軌跡』(山口美智子 毎日新聞社2010年)
-『僕の出産で母は感染した 母の本当の笑顔が見たい』(RKB毎日放送2008年)

「自分の意思をきちんと伝えられる人は障害者ではない。今を大切に!楽しく生きて!」
"People who can clearly communicate their intentions are not disabled. Always cherish the present! Live happily! ”

白井(旧姓 辻) 典子 女史
Ms. Noriko Shirai / Tsuji
1962 -
熊本県熊本市 生誕
Born in Kumamoto-city, Kumamoto-ken

白井(辻)のり子女史は日本で初めての両腕のない大ヒット主演女優。サリドマイド児として映画主演を果たしたり、ホンダ・フランツシステム車(足動式改造車)の試作に参加したり、講演・執筆活動を行ったり、日本はじめ世界に反響を与え続けています。
Ms. Noriko Shirai (Tsuji) is Japan's first leading actress without arms. She has starred in movies as a child affected by thalidomide, participated in the prototype production of the Honda Franz system vehicle (a modified foot-operated vehicle), and lectured and written, continuing to make a splash in Japan and the world.

「サリドマイド児」
 典子は右目がほとんど見えず両腕の無い状態で誕生します。母・春江は妊娠中に飲んだ鎮静催眠薬・サリドマイドを後悔しながらも、病院の住み込み看護婦をしながら典子を懸命に育てます。足にスプーンを握らせ、箸を握らせ、鉛筆を握らせ読み書きそろばんを教えます。典子は足で何でもできるようになり、母に嫌われないようにいい子に振舞います。典子は小学校にも養護学校にも入学を断られますが、母親の熱意が周りを動かし、熊本市立碩台小学校・熊本市立藤園中学校・熊本市立高等学校(現在の必由館高等学校)に進学を果たします。母・春江は毎日欠かさず昼休みのトイレの時間に典子の手伝いに来校します。典子は友達と一緒に電車・バスに乗って通学して、机を並べて勉強をします。足を器用に動かして編み物・縫い物・水泳・ギターを得意にやりこなします。母親に言われます。「それは当たり前のことなの。調子に乗ってはいけないよ」

「両腕の無い主演女優」
 高校を卒業した典子は、母親を安心させたい一心で熊本市役所採用試験に挑戦。26倍の難関を突破して合格すると、生涯福祉課でキャリアウーマンを目指します。「他の人と同じようなことを何でもやってみたい!」典子は足に包丁をもって料理を覚え、一人旅にも挑戦します。まもなく松山善三監督からの映画出演のオファーがきます。「あなたを見てみんなに元気を出してもらえるような映画を作りたい」。母は「見せ物になるからやめなさい」。典子は「山口百恵さんのように、映画に出て演技してみたい」。高峰秀子から付きっきりで演技指導を受けた典子の半自伝映画「典子は、今」は当時の皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)も鑑賞され大ヒット。しかし励ましだけでなく誹謗中傷の手紙や、物珍しそうな見物客が市役所に押し寄せます。「私は障害者なんだ」典子は「のり子」に改め、講演・執筆・取材の依頼をすべて断ります。

「ライフミッショナリー」
 典子はヨーロッパに足だけで運転できる車があるという話を聞いた典子は「セーフティクラブ肥後」に参加。両手が不自由な人のためのホンダ・フランツシステム試作1号車(足動式改造車)を一緒に作り上げ、1年半後には足で操作して運転免許を取得します。典子は結婚をして2児に恵まれ、キャリアウーマンを目指して仕事に邁進します。やがて仕事の責任が増えるにつれて周りに迷惑をかけることが許せなくなり、25年目で市役所を退職。個人事務所「スマイルビー白井のり子事務所」を立ち上げ、命の大切さを伝える「ライフミッショナリー」として講演や執筆活動を開始します。「自分の意思をきちんと伝えられる人は障害者ではない。健常者でも意思が伝えられないのは心の障害者」「せっかく授かった命、限られた命。いつもいつも、今を大切に!楽しく生きて!」「典子は、今」は世界中でも大反響を呼び公開から10年後にサンフランシスコ映画祭グランプリに輝きます。

-「典子は、今」(東宝1981年)
-「典子44歳 いま、伝えたい 「典子は、今」あれから25年」(白井のり子著 / 光文社、2006年)

大分県 Oita-Ken

「女性である前にまず人間であれ。」
"Before anything else, be human, regardless of being a woman."

野上 弥生子 (旧姓:牛川 ヤエ)女史
Ms. Yaeko Nogami / Yae Ushikawa
1885 - 1985
大分県臼杵市 生誕
Born in Usuki-city, Oita-ken

野上弥生子女史は女性作家として初めて文化勲章を受章した小説家です。『青靴』への寄稿、宮本百合子はじめ共産党員への資金援助、新日本婦人の会創設への参加、法政大学潤光女子中・高等学校(後の法政大学女子中・高等学校)の名誉校長への就任など、女性運動を陰ながら支えます。
Ms. Yoshiko Nogami is a novelist who became the first female writer to receive the Order of Culture in Japan. She supported the women's movement behind the scenes, by contribution to "Seito", financial support to Yuriko Miyamoto and other Communist Party members, participation in "New Japan Women's Association", and assuming the honorary principal of Hosei University Junko Girls' Junior and Senior High School (later Hosei University Girls' Junior and Senior High School) .

*******

「女学雑誌」
 ヤエは大分県臼杵町で小手川酒造(後のフンドーキン醤油)を営む父・小牛川角三朗と母・マサの長女として生まれます。小学校と並行して私塾に通って、『古今和歌集』『万葉集』『源氏物語』『枕草子』『四書』に親しみます。毎朝5時に起きて提灯をつけて私塾に通い、小学校に行ってからまた私塾に通います。ヤエは2つ違いの野上豊一郎と並んで成績抜群で、親同士で許婚とされます。地方政治家でもあった父のつてにより、毎日新聞社記者・木下尚江のもとに上京して下宿、彼女の口利きにより明治女学校に入学を許されます。ヤエは新進作家・戸川秋骨からシェークスピア、カーライルの原書を辞書を片手に読まされ、剣術家・伊庭想太郎から剣道と薙刀を習い、伝道者・内村鑑三、哲学者・三宅雪嶺、ジャーナリスト・徳富蘇峰ら知識人の課外講演を聞き、校長・巌本善治と女生徒との恋愛事件で物議を醸す中で最後のただ一人の卒業生となります。

「縁(えにし)」
 ヤエはまもなく東京大学文学部で学ぶ豊一郎と結婚。豊一郎は毎週木曜に夏目漱石の家に一門と一緒に集まり、漱石を囲んでおしゃべりをしたり書いてきたものを読みあげて批判を受けたりします。ヤエは、最初の小説「明暗」を豊一郎を介して漱石に読んでもらうと、1m半に及ぶ巻紙の長い書簡で丁寧な添削指導を受けます。「非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。 従って苦心の割りに全樫が引き立つ事なし。」「人情ものをかく丈の手腕はなきなり。非人情 のものをかく力量は充分あるなり。絵の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を護揮ると同時に弱貼を露はすの不便を免がるるを得べし。」続いて「縁(えにし)」を書きあげると、今度は漱石の推薦により『ホトトギス』に掲載され22歳で作家デビューを果たします。ここに息長く旺盛な作家活動が始まります。

「真知子」
 家向かいの長屋に住む伊藤野枝とダダイスト・辻潤と交流が始まると、ヤエは野枝に度々泣きつかれて資金援助をしたり、機関紙『青靴』に記事を寄稿して野枝が参加する青靴派運動を援助するようになります。しかし、まもなく野枝は大杉栄とともに憲兵隊に殺されてしまいます。続いてヤエは近所に住む宮本百合子と姉妹の間柄になると、その夫・宮本顕治はじめ共産党員の友人がヤエの家に多く出入りするようになります。やがて思想統制が厳しくなって百合子はじめ友人たちが思想犯として度々検挙されたり裁判にかけられると、ヤエは資金援助をしますがヤエ自身は皆に守られ逮捕を免れます。ヤエは「腐れかけた家」で資本主義経済で衰退する東北の地主に嫁いだ同級生を描き、「真知子」で結婚問題に嫌気が差して革命運動にのめり込む上流階級出の少女を、直接運動に参加させることなく結局上流階級の男性と結婚させます。

「迷路」
 夫や息子を戦場に送り出す女性たちのために「迷路」を書き始めますが、日中戦争が勃発。一時中断せざるを得ず、日英交換教授として渡欧した夫に同行、スペイン動乱はじめパリでドイツ軍による第二次世界大戦の開戦を間近で体験、またアメリカの強大な国力や工業力に脅威を抱きます。敗戦後「迷路」を再開、戦前戦後と20年かけて完結します。中国共産党に招待されて革命後の中国を40日かけて視察して周り『世界』誌上に記事を寄せます。
「むかしの中国婦人たちが、外来者にほとんど姿を見せなかった遮蔽生活の名残りのようなものが見えるのはなぜだろう。」と疑問を投げかけます。 夫亡き後は、法政大学女子高等学校名誉校長を務めたり、哲学者田辺元との「老年の恋」を楽しんだりしながら、明治女学校を舞台とした自伝的小説「森」の執筆を開始、完成を目前に永眠します。ヤエは夏目漱石からの助言を生涯大切にしました。「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」。

-野上弥生子文学記念館 Yaeko Nogami Memorial Muesum
-フンドーキン醤油株式会社 Fundokin Shoyu Co., Ltd

「男性社会において、女性はアウトサイダー」
"In a male-dominated society, women are outsiders."

吉崎 道代 女史
Ms.Michiyo Yoshizaki
1942 -
大分県国東市 生誕
Born in Kunisaki-city, Oita-ken

吉崎 道代 女史は日本で初めて国際的に活躍した女性映画プロデューサー。「ニュー・シネマ・パラダイス」などを買い付け、アカデミー賞ノミネート作品「ハワード・エンド」「クライング・ゲーム」をプロデュース。
Ms. Michiyo Yoshizaki is the first female film producer to achieve international recognition in Japan. She acquired films such as "Cinema Paradiso" for Japan and produced Academy Award-nominated films such as "Howards End" and "The Crying Game."

「ターザンとマーロン・ブランド」
 道代は国東半島の映画館もない田舎町に、教員の父と専業主婦の母のもと7人きょうだいに生まれます。小学生のときに学校講堂『類猿人ターザン』(1932年)を観て近くの山のジャングルでターザンと猿と自分の物語を演じます。中学のときに東京に家族で上京。続いて『欲望という名の電車』(1951年)を観てマーロン・ブランドに恋焦がれます。「あの人と一夜でも過ごせたら死んでもいい」。兄姉が東大、一橋大、東京教育大(現筑波大)、お茶の水女子大と合格する中、道代は大学入試に全部落ちます。「一旗揚げるには海外に行くしかない」。道代は世界一の映画学校と言われるイタリア国立映画実験センターを目指します。拙い英語で100枚の論文を提出、19歳で日本人で3人目、女性で初めての入学許可を得ます。次に「結婚資金を留学費用として使わせてくれ」毎日毎日両親に頼み込みます。下校時に通るお寺でも「海外に行かせてください」と毎日祈願します。1年後ようやくイタリアに渡ります。

「映画漬け」
 道代は第一希望の監督コースではなくプロデューサーコースに進みます。学校の授業料は無料、ランチも無料、生活費まで支給されます。ルキノ・ビスコンティ監督、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、ロベルト・ロッセリーニ監督から講義を受けます。「映画を志すなら年に300本以上は見なさい」道代は夕食を包んで映画館で食べて1年に400本を見ます。1年を過ぎた頃に学生ストライキが勃発、学校は10年にわたって閉鎖されます。有色人種差別で就職活動に苦しむ中、道代は「キネマ旬報」に記事を寄せていた縁で、外国映画を配給する日本ヘラルド映画の面接にミニスカートで駆け付け、社長から則採用されます。続いてヘラルド・ポニーという新会社の重役に抜擢。日本のビデオカセット市場用に、ヨーロッパの名作映画を買付けます。そしてヘラルド・ポニーと日本ヘラルド映画のヨーロッパ総代表としてイタリアに駐在。ディストリビューターとして欧州映画の配給権の買い付けに携わります。

「ニュー・シネマ・パラダイス」
 道代はイタリア・ローマでジュゼッペ・トルナトーレ監督とカジュアルレストランでコミュニケーションを重ね、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)の日本配給権を30万ドルで買取ることを決断。世界映画史のベストテンに選ばれるほどの大ヒットで、日本ベストディストリビューター賞を受賞します。続いて、道代は知り合いのイタリア人プロデューサーに観客を泣かせる映画をリクエスト。アメリカ映画「ある愛の詩」(70年)のオマージュ作品「ラストコンサート」(1976年)の製作費50万ドルを会社に出資させます。道代のプロデュース映画第1号は1500万ドル以上の利益を上げます。そして大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(1983年)の全契約を取りまとめます。しかし、親友プロデューサーと一緒に推薦した「ラストエンペラー」(1988年)「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1991年)は上司に却下されます。両作品とも大ヒットしてアカデミー賞で9部門ならびに7部門を受賞します。

「ハワーズ・エンド」
 経済バブルの真っ只中、道代は、会社のイメージアップと優秀な学生の確保を訴えて住友商事・バンダイ・横浜銀行・日本ヘラルド・イマジカなど大手企業から資金を調達。NDF(日本フィルムディベロップメントアンドファイナンス)ジャパンという映画製作会社を設立します。「ハワーズ・エンド」(1992年)はオスカー9部門でノミネート。「クライング・ゲーム」(1992年)はオスカー6部門にノミネートされ脚本賞を受賞。道代は120万ドルの高揚感に浸ります。特にイギリスで評判を呼び、ロンドンにNDFインターナショナルを設立。世界の映画界で認識され始める一方、日本支社が勝手に外国プロデューサーと次々と映画を作り経営が傾きます。NDFジャパンと決別した道代はロンドンにNDFインターナショナルを設立。インディー映画会社として100%株主になって映画製作ファンドの投資家を募ります。

「ミニスカートのタフネゴシエーター」
 道代は男性優位社会の中で見下されたり侮られたりしないように、ビジネスのノウハウはじめ、プロポーションにも気を付けブランドファッションに身を包み、出資者と一緒に夕食を取りながらネットワークを広げます。1年かけて企画を練って、資金を集めて、映画をカタチにします。女性プロデューサー自体珍しく、男性と「一緒に夕食をしましょう」はセックスも含まれるという女性プロデューサーのハンディを乗り越えながら、息子をベビーシッターに預けて世界を駆け巡ります。興行収益が伸びずに120万ドルの負債を抱えたり、製作権利権を巡ってマイクロソフトから120万ドルを獲得したり。何度も銀行にお金を借り、家を抵当に入れたり戻したり。道代の代表作「クライング・ゲーム」で親しくしたミラマックスのハーベイ・ワインスタインのセクハラ行為を全然知らなかったことを悔やみながらも、道代は毎日人間観察をして、いい原作を買い取って、トリートメント(ストーリーライン)を作って、シナリオライターとコミュニケーションして、新しい映画を描き続けます。

-「嵐を呼ぶ女」(吉崎道代 キネマ旬報社刊 2021年)
-The British Independent FIlm Awards

宮崎県 Miyazaki-Ken

鳥原ツル 女史

Ms. Tsuru Torihara

1895 - 1981 

宮崎県宮崎市 生誕

Born in Miyazaki-city, Miyazaki-ken

鳥原ツル女史は日本で最初の女性小学校長です。

Ms. Tsuru Torihara is Japan's first female elementary school principal.


*******

ツルは宮崎県最初の訓導(正規教員)の一人である父のもと生まれます。宮崎県師範学校女子部(現在の宮崎大学)を卒業、木花小学校、大淀小学校、宮崎県師範学校附属小学校で教員となります。25歳であった1920年に、古城小学校の校長に着任。全国で初めての女性校長が誕生します。大きく新聞で報道され、全国から激励の手紙が相次ぎます。ツルは終日、運動場や教室で児童と一緒に過ごします。理科の授業の一部を家庭科で行い、図書室や炊事場を利用して家庭科の実習を行うなど、形にとらわれない実際の家庭生活の役に立つように教えています。また、校長着任の年に古城小学校併設の農業補習学校長も兼任。校区の住民に青年教育の必要を説き、自ら夜学の指導にもあたります。彼女の情熱的な指導は、児童だけでなく住民からの惜しみない協力を引き出し、運動会・学芸会などの学校行事には父母や青年団が出て進んで奉仕、古くなっていた校長住宅を青年団が山から木材を切り出し立派な瓦ぶきの住宅に建て替えます。校長在任2年で旅順高等女学校に転任。35歳で結婚して教育界から引退します。

-宮崎県教育情報通信ネットワーク Miyazaki Prefecture Education Network

「ソバはね、三角で角が大きいと身が少ない。丸いのがいっぱいつまっとっとよ。この種を切らしたくないけん、50年も60年も焼き畑をしてきたとよ。これが何千年も昔からの種。」
"Well, you see, when it comes to soba, if the grains are triangular with big corners, they're a bit light. But the round ones, they're packed tight. Been tending to these seeds for 50, maybe 60 years, working those kiln fields. This strain, it's been around for thousands of years, don't want to lose it."

椎葉 クニ子 女史
1924 - 2023
宮崎県東臼杵郡椎葉村 生誕
Born in Siba-mura, Igashiusuki-gun, Miyazaki-ken

椎葉 クニ子女史は、先祖から受け継いだ日本の伝統的焼き畑農業と在来種・固有種の種を夫婦で守りながら、著書・ドキュメンタリー・講演会・民宿経営を介して、国内外のたくさんの人々に持続的かつ循環的な有機農法を伝承しました。
Ms. Kuniko Shiiha, along with her husband, has preserved Japan's traditional fire-fallow cultivation passed down from their ancestors, as well as heirloom and indigenous seeds. Through her books, documentaries, lectures, and running a guesthouse, she has shared sustainable and cyclical organic farming methods with many people both domestically and internationally.

 「平家の落人の村」
 クニ子は熊本県境の尾根近く湧き水に恵まれた緩斜面の集落、椎葉村に生まれます。壇ノ浦の戦い敗れた平家の落人たちが移り住んで以来、田んぼが無い山を切り開いて木を焼いてヒエ・アワの雑穀を中心に育てる厳しい生活。ヒエを大人5・6人がかりで臼について脱穀する重労働から生まれたヒエつき節を聞きながら、クニ子は幼少時から、焼き畑・山仕事を手伝いながら、食べられる草・木の実、薬になる植物、生活に利用できるもの、危険なものを父母村人から教わります。「ワラビをその年に初めてみたらすぐに足に塗るとよ。ヘビもワクド(カエル)も嚙みつかん。昔、刈った草に刺さったヘビが隣に伸びてきたワラビの若芽に押し上げられて助かったんだと。」クヌギの樹木の幹に耳をあてて時期を見極めて切り倒すと、なたで傷をつけシイタケの胞子が傷に付着するのを待つ「鉈目法」でナバ(シイタケ)の原木を世話します。食糧不足時には、キツネノカミソリ・オオセといったヒガンバナ科の毒草の根を掘り出して、大変な労力と手間をかけて、炊いたり水にさらしたりを何度も繰り返して団子にして食べます。

「焼き畑農業」
 クニ子は尋常小学校を卒業してまもなく大阪の紡績工場で働き郷里を1年離れるも、もう日本全国何もない激動の時代に突入。椎葉に戻って結婚、夫・秀行と村の中心から車で1時間ほど分け入った標高900メートル・50ヘクタールの山野ならびに焼き畑を受け継ぎます。焼き畑農業は1年目はソバ、2年目からヒエ・アワ、3年目は小豆、4年目は大豆、5年目は栗を植えて自然に返し、約20年間地力の回復を待ちます。火入れに祈り「このヤボに火を入れ申す。ヘビ・ワクドウ(蛙)・虫けらども早々に立ち退きたまえ。山の神様・火の神様・お地蔵様、どうぞ火の余らぬよう、また焼き残りのないようお守りやってたもうれ。」、種まきに祈ります。「これより空き方に向かって蒔く種は、根太く、葉太く、虫けらも食わんよう、一粒万倍千俵万俵仰せつけやってたもうれ。」農薬を使わずに病害虫も焼き払った草木の灰で土の栄養価を高め、畑の作物・山菜・きのこなどの持続的な恵みをもたらす自然農法、そして先祖代々守られてきた在来種・固有種の種を守ります。50年も60年も同じことを続けているうちに、気づくとクニ子たち夫婦が全国唯一の焼き畑農家となります。

「山村のサイクル」
 やがて農学部・民族学部の研究者はじめマスコミまた観光客が頻繁に訪れるようになると、周囲から勧められて民宿「焼畑」を始めます。名物はクニ子の500種類以上の生活に密着した植物の話、それから椎葉に伝わる山村料理。焼き畑1年目につくるソバでつくったソバガキと大根・人参・里芋・干し竹の子・冬の猪また鶏の味噌仕立て「ソバわくど汁」、そば粉と手近な野菜類を塩味で煮て練り上げた「ソマゲ」。焼き畑2年目につくるヒエを米と猪と一緒にとろとろに塩見で煮込む炊きあげる「ヒエずーしー」。焼き畑3・4年目につくる大豆と平家カブの葉っぱを混ぜ込んで作る「ひきわれ」はじめ、春は桜に菜の花・夏はヤマフジ・秋は菊入りの「菜豆腐」。「芋から作るこんにゃくの刺身」、「紫蘇・野菜・果物の味噌漬け」などなど。夫・秀行も一緒にセンブリやキハダをつけこんだ自家製の焼酎を振る舞います。やがてクニ子の聞き語りが書籍化され、ドキュメンタリーに出演を果たしクニ子は、国内外のたくさんの人々に自然のサイクルの中で暮らす椎葉村の農業・営みを語り伝えるうちに、高千穂郷・椎葉山の焼き畑はじめ農林業が国連・食糧農業機関の世界重要農業遺産システムに認定されます。

-『おばあさんの植物図鑑』斉藤 政美(文)・椎葉 クニ子(語り)/ 葦書房
-『おばあさんの山里日記』佐々木 章(文)・椎葉 クニ子(語り)/ 葦書房
-『クニ子おばばと山の暮らし』椎葉 クニ子(著) / WAVE出版
-『森聞き』(2011年 日本映画)
-『千年の一滴 だし しょうゆ』(2015年 日仏合作映画)
-『NHKスペシャル クニ子おばばと不思議の森』(2011年 NHKドキュメンタリー)

-民宿「焼き畑」

-「雲仙たねをあやす会」
クニ子が守った平家大根・平家カブの種を受け継いだ人々。

-平成17年度 国土緑化推進機構「森の名手・名人100人」

鹿児島県 Kagoshima-Ken

「閑古鳥呼べば答えるものながら」

"When I call out, the silent cuckoo responds."


丹下 梅子 女史

Ms. Umeko Tanka

1873 - 1955 

鹿児島県鹿児島市 生誕

Bron in Kagoshima-city, Kagoshima-ken


丹下梅子は日本初の女子帝大生化学者で、日本女性で初めてアメリカの大学から理学博士の称号を受けました。40歳を過ぎてから78歳まで栄養学の研究に打ち込んで多くの論文を発表し、授業を続けました。

Umeko Tange was the first female biochemist at an imperial university in Japan, and the first Japanese woman to receive the title of Doctor of Science from an American university. From the age of 40 until the age of 78 she devoted herself to research in nutrition, published many papers and continued her teaching.

*******

「将来は学者にしてみせる

梅子は、製糖や製塩で財を成父・伊左衛門と、人づくりの名人である母・エダのもと7人きょうだいに生まれます。丹下家は鹿児島市中心部に広大な敷地といくつもの蔵を持つ裕福な商家で、梅子のきょうだいは東京の大学に進学して教鞭を執るなど優秀な成績を修めていました。3歳の時に、u目子は不慮の事故で片目を失明。責任を感じた母は娘を学者にすると誓います。幼少時から飽きっぽい梅子の小学校での成績は芳しくない、勉強よりもままごとよりも人形遊びよりも好きなことは、木の皮をせんじること、草の葉や木の実から色を取りだすこと、天びんを作って遊ぶこと。しかしながら、母ならびに姉の猛特訓のお陰で、梅子は13歳のときに最年少で師範学校に入学、ならびに首席で卒業します。17 歳で鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業、母校の名山小学校、技芸学校(現在の鹿児島女子高校)で10年教鞭を執ります。この頃、家業を継いだ兄が事業に失敗、丹下家は莫大な借金を抱え家屋まで失います。そこで梅子は勉強を続けるために、母方の親戚で農商務次官・貴族院議員・元老院議官を歴任した前田正名男爵の支援、さらに日本女子大学校の創設を目指す成瀬仁蔵の援助を取り付けます。28 歳で 開校したばかりの日本女子大学校家政学部に入学、寮に入って舎監として働きながら勉学に励みます。さらに「日本の薬学と有機化学の祖」長井長義教授の助手となった梅子は、文部省の化学中等教員検定試験に女性として初めて合格。40歳で東北帝国大学理科大学(現在の東北大学理学部)に入学を果たし、黒田チカ、牧田らくと共に女性初の帝大生となります。重い結核にかかり2年休学しながらも、実験の腕を見込まれて臨時の助手を務めたり、男子学生の尊敬を得ながら、45歳の時に首席で卒業。大学院に進学して真島利行教授の指導のもとで有機化学と生物化学を専攻します。

「化学の鬼・丹下梅子」

梅子は有機化学・生物化学の知識を活かして、日本であまり研究者のいない栄養学を極めるために海外留学への挑戦を決意します。前田正名男爵ならびに成瀬仁蔵相談をして、欧米の理科教育・児童栄養についての調査として、文部・内務両省の嘱託研究員して海外派遣の任命、ならびに日本大学からの研究支援を受けることに成功します。48歳でアメリカに留学、8年間に渡って4 つの大学に在学・就職します。スタンフォード大学、コロンビア大学で栄養化学を修め、54歳のときジョンズ・ホプキンス大学にてマッカラム教授の指導のもと「ステロール類のアロファン酸エステルの合成と性質」で博士号を取得。この研究は有機化合物の合成や分離精製など高度な実験技術を要するもので、研究成果は生化学分野で最も権威のある学術誌『Journalof Biological Chemistry』に発表されます。さらにマッカラム教授の推薦でオハイオ州のシンシナティ大学の助手として勤務、胆汁酸の研究に従事。8年間のアメリカ留学を終えて帰国したチカは母校・日本女子大学の生物化学担当教授として迎えられます。さらに研究への情熱が尽きない梅子は57歳からビタミン B1 研究で知られる農芸化学の大家鈴木梅太郎に師事、大学の授業を終えた後に毎日理化学研究所に通って研究を続けます。67歳で、「ビタミンB2複合体の研究」で東京大学から農学博士の学位を授与されます。梅子は博士取得後も 76 歳まで理化学研究所に通って研究を続け、78 歳で大学を退職。梅子は退職時に愛弟子・辻キヨに私財を託します。辻は「先覚者丹下先生」を著し、その売上金と合わせて学力・人物優秀者を奨励する丹下賞を創設します。

-日本女子大学資料館 Japan Women's University Museum

-鹿児島大学 Kagoshima Univ.

-東北大学 Tohoku Univ.

沖縄県 Okinawa-ken

「妾みたいな無教養な女の魂の訴へを、必死になつてもみ潰さうとなさるよりも、正々堂々と、そんな事位で差別待遇をつける資本家の方へでもぶつかつていらしたらどんなものでせう。」
"Rather than trying to suppress the plea of an uneducated woman, why not confront the capitalists who impose discrimination over such trivial matters?"

久志 芙沙子(本名 ツル) 女史 
Ms. Fusako Kushi / Tsuru
1903 - 1986
沖縄県首里区(現 那覇市) 生誕
Born in Shuri-ku, Okinawa-ken

久志 芙沙子(本名 ツル)女史は幻の沖縄女性作家。初めて女性の視点から沖縄を主張して打ち切られた連載小説「滅びゆく琉球女の手記」とその釈明文は、1世紀近くも語り継がれています。
Ms. Fuzako Hisashi (née Tsuru) is a legendary Okinawan female writer. Her serialized novel 'The Chronicle of the Perishing Ryukyu Woman,' which was the first to assert Okinawa from a female perspective, was discontinued, but the novel and its explanatory note have been passed down for nearly a century.
********

「琉球士族の娘」
 芙沙子は首里の有力士族の家に生まれます。祖父・久志助法は琉球王国最後の「筆者主取」で中国や日本への文書作成を担当。父・助保は砂糖会社を経営するも事業に失敗。芙沙子が生まれる頃には住まいを転々とする貧しい生活に。琉装・琉髪・入れ墨・ユタが排斥され女性のヤマト化が進み、本土に進学または働きに出る女子が増える中、芙沙子は猛勉強して沖縄県立第一高等女学校卒業後に進学します。やがて伊波普猷が館長を務める沖縄県立図書館に婦人室が開設され、『青靴』などの女性雑誌を読んだり投稿もしたり、子ども会活動などに従事する女性利用者たちが増えます。芙沙子も文学少女となって『女学雑誌』などに短歌を投稿し始めます。与謝野晶子また林芙美子のように女性詩人また女性作家に憧れるも、沖縄ではまだ難しく芙沙子は小学校准教員となります。「寂しくもまたゝく星をみつむれば 星と我のみ生ける心地す」

「沖縄初の女性作家」
 第1世界大戦後の慢性的な不況でソテツ地獄となり、女子の人身売買はじめ本土また大陸への出稼ぎ者が急増。芙沙子は首里士族で台湾銀行に勤める安良城盛雄と22歳で結婚、台湾で新婚生活を始めます。芙沙子は台湾各地で沖縄女性と朝鮮女性を売りとする遊郭を目にします。長男・繁が2歳で夭逝すると、金融恐慌に襲われた台湾を脱出して一家で上京。やがて芙沙子は次男・勝也を残し離婚、7歳年下の慶応大学医学生・坂野光と駆け落ちして再婚します。満州事変後の戦時体制下で将来への不安を覚える芙沙子は、『婦人公論』誌の「実話 年上の女・年下の男」に「日記の抜き書き」を投稿。続いて、連載小説「滅びゆく琉球女の手記」を発表。「妾達はいち早く目覚めねばならぬ民族であり乍ら、骨に迄しみついたプチブル根性が災ひして、右顧左眄しつつ体裁を繕ひ繕ひその日暮しを続けてゐるのだ。」「妾は此の夕暮れの風景を好む。此の没落の美と呼応する、妾自身の中に潜む何物かに憧れを抱いた。(つづく)」

「女性宗教家」
 初めての沖縄女性作家の誕生は、かつて広津和郎の「さまよえる琉球人」を糾弾した東京沖縄県学生会と沖縄県人会から激しく糾弾されます。「沖縄をアイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑する。」「我々を差別待遇して侮辱するものだ。」「就職難や結婚問題にも影響する」連載が打ち切られた芙沙子は釈明文を発表して文壇から去ります。「何も妾達は無理解な人達にこびへつらふ為に自分自身迄、卑屈な者になり下がる必要はないと妾は思つてゐます。」「妾みたいな無教養な女の魂の訴へを、必死になつてもみ潰さうとなさるよりも、正々堂々と、そんな事位で差別待遇をつける資本家の方へでもぶつかつていらしたらどんなものでせう。」芙沙子は夫の郷里・名古屋に移り、子供7人を育てながら、夫の難病を救った宗教団体・解脱会へ帰依して宗教家として活躍します。

-『婦人公論』誌(1931年6月)
沖縄現代史』(沖縄文化協会194?年)
-『琉球・沖縄 歴史人物伝』(新城俊昭 著 / 沖縄時事出版2007年)

「遠い昔から深く根を下ろし、永く培われる民謡と音楽は、それが伝統的で民族的であるがゆえに、今でもなお、私達の血を躍らし、魂に呼びかけ、強く心を打つものがある。」
``Folk songs and music, which have deep roots from the distant past and have been cultivated for a long time, are traditional and ethnic, and even today they still make our blood jump, call to our souls, and deeply touch our hearts.”

金井 喜久子 女史
Ms. Kikuko Kanei
1906 - 1986 
沖縄県宮古島市 生誕
Born in Miyakozima-city, Okinawa-ken

金井喜久子女史は日本女性として初めて交響曲を作曲し指揮しました。沖縄民謡に因んだ多くの作品を残すとともに、沖縄民謡を採譜した「琉球の民謡」を出版します。ならびに、ひめゆりの塔ならびに沖縄平和祈念館の建設に尽力。沖縄復帰式典では沖縄復帰式典で祝典序曲を作曲しています。
Mis. Kikuko Kanai is the first Japanese woman to compose and conduct a symphony. She left behind many works inspired by Okinawan folk songs and published "Ryukyu Folk Songs," a collection of notated Okinawan folk songs. Additionally, she dedicated her efforts to the construction of the Himeyuri Tower and the Okinawa Peace Memorial Museum. She also composed a festive overture for the Okinawa Reversion Ceremony. 

*******

「沖縄交響曲」
 喜久子は沖縄県議員の父・川平朝儀と宮古上布の生産で財産を成した母・母・オミトのもとに生まれます。川平家は清国冊封体制下の琉球王朝で芸能奉行をつとめ、幼いころから姉・カナと一緒に沖縄の美しい旋律はじめ琴・三味線・ヴァイオリン・ピアノに親しみます。沖縄県立第一高等女学校に進学すると、ピアノで沖縄民謡を弾いているところを先生に咎められます。「そんな下品な曲を弾くな」。衝撃を受けた喜久子は東京音楽学校で声楽・ピアノを学びます。活動写真館に職を得て日々歌い続ける中で、東京商業大学でトロンボーンを吹く金井儼四郎と結婚。夫の支えのもと、1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学します。1940年の母校発表会では恩師の指導のもと日本女性として初の交響曲を作曲・指揮、翌年の母校発表会では沖縄民謡「鳩間節」「むんじゅる」「かなよー」に基づく交響詩曲「琉球の思い出」を作曲・指揮します。そして戦時渦の1944年に日比谷公会堂で「金井喜久子第一回発表会」を開催、「琉球舞踏組曲」、交響詩曲「宇宙の詩」を発表します。非国民と非難されたり、指揮者が前日に赤紙で徴収される中、喜久子自ら無我夢中で指揮をして大成功を収めます。

「琉球民謡から沖縄音楽へ」
 敗戦後、沖縄に帰郷した喜久子は重い録音機を担いで三味線弾きの先生のお宅へ通い、三味線パートと歌詞パートを録音・採譜して回り、鑑賞を手引する解説をつけて「琉球の民謡」を出版します。「遠い昔から深く根を下ろし、永く培われる民謡と音楽は、それが伝統的で民族的であるがゆえに、今でもなお、私達の血を躍らし、魂に呼びかけ、強く心を打つものがある。」1954年にはブラジルのサンパウロで行われた第7回国際民族音楽会議に日本代表として出席、「日本音楽と沖縄音楽」を講演します。「琉球民謡・音楽の中には、世界の音楽界に貢献できる分子が多分に含まれている。」沖縄の戦後復興を描いたアメリカ映画「八月十五夜の茶屋」で音楽を担当、オペラ「沖縄物語」、歌舞伎劇「唐船物語」、宝塚雪組公演「今帰仁城物語」、バレー「竜神まつり」、レコード大賞童謡賞受賞「じんじん」など、沖縄民謡を使った多くの作品を次々と発表します。1972年沖縄復帰式典で祝典序曲「飛翔」を八重山民謡「鷲の鳥」に着想を得て作曲、1975年沖縄国際海洋博覧会で祝典序曲「すばらしき沖縄」を作曲、喜久子は国会陳情を繰り返し、ひめゆりの塔ならびに沖縄平和祈念資料館さらに沖縄芸術学院の建設に尽力する中で永眠します。

-「ニライの歌」(金井喜久子 著 / 琉球新報社2006年)
-「琉球の民謡」(金井喜久子 著 / 音楽の友社1954年)
-沖縄県男女参画センター Okinawa Gender Equality Center
-宮古島市総合博物館 Miyakojima Museum
-沖縄県立芸術大学 Okinawa Art University
-沖縄県平和祈念資料館 Okinawa Peace Memorial Museum

「黄金てだ(太陽)おがで銀の海開けてかわていくみ代や千代の栄い」
``The golden sun opens up to the silver sea, and the glory of generations and thousands of generations.''

「いつまでも差別を叫んで、ひがみ根性を持つより、自分たちの力で自分たちの仕事を開発しなければ、沖縄はいつまでたっても立ち直れません。私はその捨て石になるつもりです。」
"Rather than continuously shouting discrimination and harboring resentment, Okinawa will never recover unless we develop our own work with our own strength. I intend to be a stepping stone for that."

照屋 敏子 女史 
Ms. Toshiko Teruya
 1915 - 1984
沖縄県糸満市 生誕
Born in Itoman-city, Okinawa-ken

照屋敏子女史は、日本の先駆的女性実業家。沖縄引き揚げ者をまとめて「沖ノ島漁業団」を結成、沖縄県魚・グルクンの定価改正、沖縄珊瑚の国際入札の実施、琉球びんがた伝統工芸士の育成、沖縄の地理気候を活かしたプランクトン・マッシュルーム・クロダイ・ボラ・クルマエビ・メロン・鯛・アオウミガメ・スピルリナの栽培・養殖・培養の研究また事業展開に従事。沖縄の自立を目指して沖縄の新しい産業開発に献身した糸満女性です。
Toshiko Teruya was a pioneering female entrepreneur in Japan. She formed the "Okinoshima Fishing Cooperative" to unite Okinawan repatriates. She worked on various projects aimed at promoting Okinawa's self-reliance, including the revision of prices for Okinawa's fish, Gurukun, the international bidding of Okinawan corals, the nurturing of traditional craftsmen specializing in Ryukyuan glassware, and research and business development related to the cultivation and aquaculture of plankton, mushrooms, black porgy, mullet, tiger prawns, melons, sea bream, green sea turtles, and Spirulina, all utilizing Okinawa's geographical and climatic advantages. She dedicated herself to the development of new industries to support Okinawa's self-sufficiency.

*******

「糸満女性」
 年に一度の部落単位の爬竜船(ハーリュー)レースで鮮烈に吉凶を占う糸満に、敏子は命知らずで大胆な糸満漁師である父と、自立経済を営む糸満女性である母のもとに生まれます。まもなく両親はブラジル契約移民を志して2歳の敏子を祖母トクに預け出航、母は移民船中で衰弱して死去、父は憔悴しきって帰国するもまもなく死亡。海が大好きな敏子は水中眼鏡をかけると、お腹いっぱいに吸い込んだ空気を一滴ずつ吐き出しながら素潜りして魚を採ります。9歳からは他の糸満女性たちに倣って、漁師から魚を買っては頭に載せたかごに入れて10km離れた那覇まで毎日歩いて行商に出かけます。

「猛烈アタック」
 敏子は16歳のときに妻子ある男を南洋まで追いかけ、トラック、パラオ、サイパンなどの島々を巡って工芸品売買を覚えます。恋人と破局して失意の敏子は19歳のときにパラオで糸満小学校の恩師で31歳の照屋林蔚と再会、猛烈アタックの末に結婚します。しばらくして那覇の夫の実家に移り住むと、夫は名家ゆえに徴兵を免れ召集令状を発行する仕事に嫌気が差して海軍に志願してしまいます。敏子はこれに猛反対、すぐに上京して那覇出身の海軍軍人で衆議院議員の漢那憲和に陳情、夫を日本水産那覇工場長に就任させます。まもなく那覇の10・10空襲で照屋家は全焼、漁船を借り切って一家で鹿児島県、熊本県、福岡県の博多に疎開します。

「沖ノ島漁業団の女団長」
 ようやく敗戦を迎えるとGHQの命令で帰島できず職にもつけず、同じ様に旧植民地や前線から帰還した沖縄出身者が福岡県に溢れます。そこで那覇市長・富山徳潤ならびに福岡県知事・野田俊作と直談判の上、31歳の敏子は夫と共に沖縄に帰れぬ漁夫300余名を集め漁船12隻を購入、「沖ノ島漁業団」を結成します。長崎県の女島男島方面で操業を開始すると、網に向かって魚を追い込む糸満漁法(アギャー)で沖縄県魚グルクンを大漁に採ります。ところが物価統制令で安く叩き売られた敏子は激怒。ただちに役所に訴え、続いて毎日新聞福岡総局に乗り込んでグルクンの定価改定を勝ち取り、日本で最大規模の漁業団に成長させます。やがて、地元の漁業団との軋轢はじめアギヤー漁の禁止によって3年ほどで沖ノ島漁業団は解散します。

「クロコデール店」
 40歳の敏子と夫のもとににフィリピンでの水産事業の話が舞い込みます。西沙島の漁業権をもらう約束で、台湾に赴いて蒋介石と結ぶ根元博に600万円出資。続いて、全財産を整理してシンガポールの華僑と合弁会社を立ち上げます。ところがほどなく夫・林蔚がマラリアとチブスで急逝。続いて国際政治の混乱の中で出資金をだまし取られ、さらに台風で船は壊滅。敏子は43歳でついに撤退して沖縄に帰る事を決断します。敏子はシンガポールから持ち帰ったワニ革・宝石・香料などをもとに商売を始めます。同郷出身の女実業家・金城夏子の遺産のビルを買いとって那覇の国際通りに店を構えます。敏子は沖縄製品の珊瑚の価格を守るため業界に働き掛けて国際入札を実施。またジャワ更紗・紅型などを販売しながら、首里高校染織科卒業生・屋冨祖幸子を琉球びんがた伝統工芸士・琉球びんがた事業協同組合理事長に育てあげます。

「沖縄産業開発の母」
 未来型海洋都市「アクアポリス」を目玉とする沖縄国際海洋博覧会の開催を聞き付けた俊子は、福岡女学院を出た娘に店の経営を任せると、10数年かけて海岸埋立地に魚類・野菜・果物・花卉栽培を試みる研究を開始します。糸満で12000坪の海岸をうめたて、5000坪で鰻・鯉・車エビなどを養殖。7000坪でメロン・ブドウ・イチゴ・マンゴなどの果樹、蘭、ヤシ類、その他南方花卉類を栽培。砂地また魚の養殖場の上で栽培を工夫して見事に身を実けたメロンを「万博メロン」として大阪万博へ出品しようとしますが本土輸出検疫に引っ掛かり断念。めげない俊子は、海岸をボーリングして冷たい海水を約6万坪の砂地に放水してハマグリの養殖を成功させ、東海大学水産部の指導でクロダイ・ハマチの養殖を開始。店の売り上げをつぎ込むことに反対する家族を背に、洞窟でのマッシュルーム栽培に着手、ワシントン条約のもとアオウミガメの人工ふ化に成功、将来の食糧源プランクトン由来スピルリナゴールドを発売、巨峰を栽培して沖縄ぶどう酒をつくろうと画策。沖縄の新しい産業を育てながら沖縄の自立を目指しながら68歳で逝去。

-「沖縄女性史」(宮城栄昌 著 / 沖縄タイムス出版部1970年)
-「現代沖縄の百人」(松川久仁男 編 / ヤラフォトサービス1975年)
-「日本新おんな系図」(大宅壮一 著  / 中央公論社1959年)
-沖縄県男女参画センター Okinawa Gender Equality Center
-沖縄TV Okinawa TV

「徳を残して、財を残さず」
“Leave virtue behind, leave no wealth behind.”

金城 キク 女史
Ms. Kiku Kinjyo
1909 - 1991
沖縄県那覇市旭町 生誕
Born in Naha-city, Okinawa-ken

金城 キク女史は戦後沖縄を代表する女性実業家。土木建設事業を経営しながら、沖縄の近代化はじめ福祉・文化の礎を築きました。
A female business owner representing post-war Okinawa. While running a civil engineering and construction business, she laid the foundations for Okinawa's modernization, welfare, and culture.

「女性土木事業家」
 キクは、那覇市旭町で建材商(浅野セメント総代理店)を営む父・三郎と、母・トシ子の一人娘として誕生。両親の愛情を一身に受け、沖縄県立第一高等女学校を卒業。学問への情熱に燃えていたキクは、東京高等師範学校で博物学を学んでいた父の理解を得て、東京の実践女子大学国文科入学。ところが、両親が相次いで急逝、卒業間近で大学を中退して家業を引き継ぎます。従業員の協力を得て忍耐強く成果をあげ、日本セメント株式会社と総代理店契約を結びます。やがて太平洋戦争が勃発。敗戦後、疎開先の大分県から帰郷したキクは戦禍で変貌した郷土を嘆きつつ、窮乏生活の中で無から立ち上がります。本土との貿易が再開すると、那覇市神里原で建材店「金城商店」を再建。乏しい資金と高利で経営は甚だ困難ながら、卓越した経営方針と戦前からの実績でもって日本セメント株式会社と総代理店契約を復活。株式会社「城キク商会」を設立して事業をさらい発展させます。

「風樹の嘆」
 キクは企業経営のかたわら、財団法人「金城報恩会」設立して社会福祉事業に尽力します。学費に困窮する沖縄の女子学生を本土の大学に進学させるために学費を提供し、東京代々木に「和敬寮」を開設。住居・食料に困窮する地域児童のために「みやぎばる保育園」「わかさ保育園」を開園。高齢者のための軽費の親睦施設「おなが園」を開設。ハンセン病診療所・愛楽園、沖縄産業開発青年隊、沖縄少年会館、沖縄キリスト教短大、精和病院等への多額の寄付また建設資材を寄進。そして植物学者であった父親の記念事業として、キクは沖縄の自然研究・地域文化の発展のための資料館「風樹館」を琉球大学に寄贈します。鉄筋コンクリート3階建て、延べ面積953㎡(300坪)の完成前年にキクは永眠。「樹静かならんとも欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず」。韓詩「風樹の嘆」の1節が玄関ホールの石板に刻まれています。新聞報道などを固辞しながらも、沖縄社会福祉会より「行政主席賞」受賞・沖縄タイムス社より「社会奉仕賞」受賞。キクは最期に沖縄女性史の出現を強く訴え実現のために奔走しました。

-『沖縄女性史』(宮城 栄昌 著/ 沖縄タイムス社1967年)
-『阿檀の園の秘話 1/2』(上原 信雄 / 上原歯科医院1983年)
-金城キク商会
-金城キク建設
-風樹館 琉球大学博物館 

海外 OverSeas

「女はどんなところで悲しみが待っているか分からない。」
"Women don't know where sadness awaits them."

赤羽(新姓:坂間)文子 女史
Ms. Fumiko Akabane / Sakama
1909 - 1998
旧満州大連市 生誕
Born in Dalian City, Former Manchuria

赤羽(坂間)文子 女史はシベリア抑留を生還したロシア語通訳者。大連ソ連大使館日本語教師の時にソ連軍に連行され、シベリアで10年間の抑留生活を送った後、自身が経験したありのままのシベリア生活について紹介した著書を発表。
Ms. Fumiko Akabane (Sakama) is a Russian interpreter who survived internment in Siberia. While working as a Japanese language teacher at the Soviet Embassy in Dalian, she was taken away by the Soviet Army and spent 10 years as an interned in Siberia, after which she published a book introducing her true experiences of life in Siberia.

「大好きな大連の街で」
 文子は、六人きょうだいの次女として、大連の日本人小学校、中学校、大連神明高等女学校に進学。膿胸を患って肋骨を二本とる手術をして虚弱体質になった文子は、内地(日本)への大学進学を諦め、大連語学校英文科に進学して25歳で文部省中等教育検定試験に合格して英語教師の資格を取ります。やがて35歳の文子は、教え子の一人であるデンマーク領事はじめ関東州外事警察の推薦を得た文子は、大連のソ連領事館で日本語を教え始めます。国際関係を反映して日本人はソ連領事館に近づかず、日本の警察も目を光らせる中、「日本の代表として、ソ連人に日本語を教えるという、誇りにも似た気持ち」で文子は大好きな大連の町々を歩いて、ポプラ並木が美しい街路樹が放射状に拡がる円形広場と、調和した威風を保って並び立つ、イギリス領事館・アメリカ領事館・大連市役所・ヤマトホテル・を通り抜けてソ連領事館に通います。

「振袖外交」
 ポツダム宣言受諾前に、突然ソ連軍が満州へ進行して大連を占拠。大和ホテルに陣取ると戒厳令を布いて、市民は夜8時以降の外出を固く禁じられます。大連の街はソ連占領軍兵士による暴行・略奪が繰り返される中、ロシア語を話せるようになっていた文子は大連市長の通訳に駆り出されます。そして、ソ連軍司令官への振袖外交を任されます。文子は配給の紺の綿繻子のモンペ姿で、ぴかぴか光る多数の勲章を肩に胸につけたソ連の司令長官・副官・部下らとヤマトホテルで対面します。「ドラスティティ」日本の青年実業家らがかき集めた美しい振袖を献上すると、長官は満面の笑みので「スパシーバ」を3回も繰り返します。その数日後、文子はスパイ嫌疑でソ連将校兵に逮捕され大連外人クラブの臨時監獄に収容されます。

「敗戦国の女の運命」
 文子は2か月に渡る担当検事ウーソフの意地の悪い尋問にも明瞭に自己主張をします。ある日、尋問室に呼び出され強姦されそうになった文子は、大声で叫ぶこともできずに部屋の片隅に身をすくめます。敗戦国の女の運命に気が変になりそうになりながらも、文子は必死で自分の身を守ります。ソ連の進駐軍に日本女性が死刑にされた噂を聞きながら、文子は大勢の日本人男性らを一緒にトラックで駅に運ばれ汽車に乗り込みます。夜は座ったまま眠り、食事は水と乾パンと缶詰だけ、汽車の中で4・5日過ごします。脱走兵が銃殺されるのを横目に、新京に到着すると三井ビルの臨時監獄に収容されます。文子は1か月の収容期間に1度だけ尋問を受けます。11月7日の革命記念日には看守兵士たちが酒に酔って騒いで文子ら女性囚人に襲い掛かります。

「刺繍はじめ」
 チタの監獄ではトイレに行く自由はじめ一切の自由を奪われます。朝8時に「プロヴェルガー、プロヴェルガー(点呼)」で飛び起きるとセメントの床に整列、「ズドラストウィテェ(こんにちは)」監守長の見回りに挨拶し、監房内の床を水洗い、週に1回の散歩と入浴と持ち物の熱気消毒、3度の食事は黒パンと塩漬けキャベツと塩鮭入りの野菜スープ。文子は女囚人・女監守らに頼まれ刺繍を始めながら、いつくるかもしれない裁判の日のために筋の通った文句を練って準備をします。ある日、別室に呼び出された文子に1枚の紙が手渡されます。「58条(国事犯) 第6項 姓名 赤羽文子 刑期5年 釈放される日 1950年10月16日」裁判もせずに、人定質問(被告人の身元確認)もなく、罪状の認定もなく、判決理由も示さず、突然刑を宣告された文子はショックで気力を失います。

「ロシア本の読み聞かせ」
 文子は囚人列車に詰め込まれ、黒パンと生ニシンをかじりながら悪臭と喉の渇きに耐え、イルツークそしてノボシビルスクへ。炎天下の道で護送兵に怒鳴られ犬にけしかけられながら中継地点を経て、3か月後にソ連領カザフスタンのアクモリンスク矯正労働収容所(ラーゲリ)に到着。文子はこれまでの刺繍見本を見せて刺繍工場での仕事を得ます。朝6時の鐘で起床すると、朝食・昼食・小休憩を挟んで7時から17時まで仕事。食事は黒パンにスープ、たまに酸っぱいサラダ。週1回の入浴は雪の中を1キロ行進して、風呂場で脱いだ服を熱気消毒、裸のまま一時間ほど待たされた後に指先ほどの小さな石鹸と湯桶2杯のお湯で入浴を済ませ、再び1キロ行進してバラックに戻ります。夜には女囚人たちからロシア語の本を読み聞かせしてもらいます。イリヤ・エレンブルグ「第2の日」、ミハイル・レールモントフ「現代の英雄」、アレクサンドル・プーシキン「大尉の娘」、レフ・トルストイ
「復活」「アンナ・カレーニナ」、マクシム・ゴーリキー「母」。

「シベリアの美しい自然」
 5年の刑期を終えて釈放された文子は、無期限の流刑者としてアスノヤルスク地区ベイ村にたどりつきます。森林伐採で生計を立てる400人の村民のうち100人が流刑人。文子は刺繍の仕事をしながら、雪かきの仕事や、看板書きの仕事、便所掃除、住み込みの子守をして生計を立てます。「ソヴィエトのために、スパイになりませんか。」というロシア人将校らの誘いを断ると、やがて託児所の仕事にありつきます。レーニングラード医科大学で学んだ流刑人アンドレーブナ女所長と一緒に暮らしながら、託児所の子育て方法を話し合い、ロシア語を習い、鍋を抱えて森の中に入って木の実やキノコを集めたり、川で水浴びしたり、魚釣りをして過ごします。文子は、深く積もった目映い美しい雪景色の中をフェルトの長靴ブアレンキを履いて音を立てながら歩き、零下40度の冷たい新鮮な空気を吸い、丸太小屋のペチカが立てる心地よい薪の音に冬の寒さを忘れ、スミレ・タンポポから次々と一面に咲く花々と遠く遠く波打つ麦とカッコオの声、森に熟す沢山の木の実、赤や黄色に色づく森で取り巻かれる茸、シベリアの四季の移り変わりとともに生きます。

「トルストイの復活」
 1953年スターリンが死ぬと、ベイ村の流刑者たちが次々と恩赦をうけて故郷に帰っていきます。自分の番を待ちながら1年が過ぎた頃、ソ連の新聞プラウダ紙に日本の引揚船・興安丸がシベリア抑留者を迎えにナホトカに入港する記事を見つけます。文子はモスクワの外務省と、ソ連赤十字にロシア語で嘆願書を何度も送ります。すると、前科と流刑の全てが取り消される青色の身分証明書が届きます。無国籍扱いの文子は、本籍地・長野にいる叔父に手紙を書きます。ようやくスターリンの死後2年目、帰国命令が届きます。文子は10分で支度を整えると、厚く雪に覆われた川の上をすたすたと向こう岸まで歩いて行きます。「ダスビダーニャ(さようなら)」ハバロフスクの収容所で2ヶ月過ごし、ナホトカ港から出港して3日目にたどり着いた舞鶴港で、46歳の文子は10年振りに妹と再会を果たします。文子は兼松貿易会社でロシア語通訳者として勤めたり、ロシア研究者として活躍しながら、シベリア残留者の帰国運動に参加、同胞の坂間訓一氏と結婚。「日本人にありのままのシベリアを知ってもらいたい。一人だけでシベリアの思い出を楽しむのは物足らぬ。」

-『ダスビダーニヤ』(赤羽文子 著 / 自由アジア社 1955年)
-「雪原にひとり囚われて」(赤羽文子 著 / 講談社1975年)
-「生きながらえて夢」(赤羽文子 著 / 日本図書刊行会 1997年)

「私は自由です。自らに由って生きていますから」
"I am free. I live according to my own will."

篠田 桃紅 女史
Ms. Toko Shinoda
1913 - 2021
旧満州大連市 生誕
Born in Dalian City, Former Manchuria

篠田 桃紅女史は、水墨抽象画(墨象)を切り開いたアーティストです。彼女の現代的かつ先鋭的な表現は世界中の人々を多岐にわたって魅了しています。
Ms. Toko Shinoda is an artist who has pioneered the realm of ink wash abstract art (Sumi-e). Her contemporary and avant-garde expressions have captivated a diverse audience worldwide.

*******

“桃は紅、李は白、薔薇は紫 春風は一様に吹くが、花の色はそれぞれ” (漢詩『詩格』)
 満州子は1913(大正2)年、父・頼治郎(当時、東亜煙草株式会社大連支店長)と母・丈子の三男四女の五子として中国の大連に生まれます。英国の建築家ジョサイア・コンドルが設計した元ロシア帝国の家で、母手製のカステラはじめロシア風の西洋料理を食べて育ちます。2歳になる前に東京に帰国すると、満州子は厳格な父の儒教的教育方針の下で育てられます。6歳の正月の書初めで初めて墨と筆を手にしてからは、漢詩や和歌、書といった中国や日本の古典の素養を身に付け、父の書架から見つけた古典の名筆の法帖を手本に、臨書を重ねほぼ独学で書を学びます。満州子は父から雅号「桃紅」をつけてもらいます。

「結婚なんて簡単にしたら大変だ」
 東京府立品川高等女學校(現在の東京都立八潮高等学校)に入学すると、団体行動や規則に従うことが苦手で、みんなと一緒に行動するのが嫌い。「私はこうやりたいんだ。」いつも満州子は「わがまま」と言われ先生にいつも叱られます。女学校を卒業すると、結婚後すぐに戦死した夫の姑に仕える女学校の友人を見て、満州子はなんとか家を出て、一人で暮らしていけるようにしなくてはと考えます。下野雪堂に書を指南し、英語を北村ミナ(北村透谷未亡人)に習い、中原綾子の門に入って短歌をつくります。やがて23歳の満州子は一軒家を借りて習字を教え始めます。

「自分が感じるものを好きに表したい」
 27歳のときに満州子は銀座鳩居堂で初個展を開きます。自作の歌と古歌を書いた独自の書を約20点展示すると「才気だけの根無し草」と酷評されます。翌年、東京大空襲に遭い両親と妹と共に会津広田に疎開。肺結核から療養生活を経て回復するも、まもなく父そして母と死別。戦後の自由な思潮の中、34歳から満州子は「書」の世界から踏み出し、新しい造形の探求を始めます。書道美術院に所属、前衛書道家また墨象作家らと一緒に海外展にも出品します。ベルギーの現代美術家ピエール・アレンシンスキーが来日中に撮影した短編映画「日本の書」の中で、満州子は僧侶はじめ江口草玄や森田子龍らに続いて薄墨の筆を刷いて絵画的な作品をつくる姿を披露します。

「アートというものが持っている範囲の広さ」
 43歳の満州子は、ボストンのスエゾフ・ギャラリーから招待を受け渡米。さらに世界中のアーティストとコレクターが集まるニューヨークに移動、400以上あるギャラリーをひとつひとつ訪ねて作品を見てもらっているうち、バーサ・シェファー・ギャラリーの女主人から声がかかります。それをきっかけに、シンシナティのタフト美術館、シカゴ美術館の東洋館、ワシントンのジェファーソン・プレイス・ギャラリーなどで個展を開催。満州子は2ヵ月おきに移民局へ行ってはビザを更新。2年以上ニューヨークを拠点として活動しながら多くのアーティストと交流、水墨の現代的かつ先鋭的な造形表現を生み出して多くの人々を魅了します。

「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」
 新しい自分の表現スタイルとともに帰国した満州子は、日本の風土下で発揮される墨の限りない魅力を再認識。墨の濃淡、ぼかし、にじみ、重なり、広がりの中に墨の千変万化で無限の色彩また表現を探ります。「墨に親しみ、墨になじみ、墨をたよりにし、墨に誘われ、操られ、惑わされ、裏切られ、また墨に救われているうちに老いた。だが、まだ墨とのつき合いは終わらない。」107歳の逝去後も満州子の作品は、増上寺大本堂のロビー壁画・道場襖絵、ワシントン駐米日本大使館公邸の壁画、御所の御食堂の絵画、国立京都国際会館のレリーフ「展開」と壁画「出遇」、はじめリトグラフや装丁、題字、随筆など、多岐にわたって残っています。

-『桃紅 私というひとり』(篠田 桃紅 著 / 世界文化社2000年)
-『これでおしまい』(篠田 桃紅 著 / 講談社 2021年)
-岐阜現代美術館 / Gifu Collection of Modern Arts
-篠田桃紅作品館

「あなたは誰のものでもない あなたはただあなたのもの」

"You belong to no one. you are simply your own."


森崎 和江 女史

Ms. Kazue Morisaki

1927 - 2022

韓国大邱市 生誕

Born in Tegu-City, South Korea


森崎 和江女史はフェミニズムまたウーマンリブの草分け的思想家です。谷川雁、上野英信・晴子夫妻ともに文学運動・サークル村を創始。さらに日本全国の辺境を訪ね歩いて、女炭坑夫・海外売春婦・海女など女性労働者はじめ、女性史について多くのノンフィクション、また詩集を刊行しています。

Ms. Kazue Morisaki is a pioneering feminist and women's liberation thinker. She, along with Mr. Kan Tanigawa and the husband-and-wife team of Hidefumi Ueno and Haruko Ueno, founded the literary movement and community known as "Sākuru Mura." Furthermore, she traveled extensively throughout Japan, visiting remote regions, and authored numerous non-fiction works and poetry collections concerning female laborers, including women coal miners, overseas prostitutes, and ama divers, making significant contributions to the field of women's history.

*******

「慶州は母の叫び声」

和江は、朝鮮人学校の教員に携る父・庫次と、父を追って生家を出奔した母・愛子のもと、日本支配下の朝鮮大邱に生まれます。朝は八十連隊の営所から起床ラッパが風のまにまに住宅地までとどき、レコードからは軍隊風に行進する童謡が流れ、大勢の将兵が出征するのを友達と一緒に見送ります。和江は朝鮮人の乳母また家政婦はじめたくさんのオモニに可愛がられ、朝鮮人の少女たちと一緒に歌い語り合います。そんな中、父・庫次は名士・李秀峯と協力して慶州中学校を創立、校長に就任。一家で慶州に移り住むも、まもなく母・愛子は病床につき死去。和江は下宿して大邱高等女学校に通い始めます。成長するにつれ、朝鮮人の少年また男性たちからは性的侮蔑的な無言の圧力また嫌がらせに怯えるようになります。

「わが身の罪深さが一度に照らし出された」

敗戦間近の17歳のときに、父の知り合いを頼って福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)に入学。まもなく一家で福岡に移り住みます。文学科も家政学科もないのでしかたなく保健科で学びます。和江は日本を郷里とするべく方言を必死で覚えます。ある日、クラスメートである炭鉱町の医者の娘から、汗にまみれて働いている人々が皆日本人だと聞かされてひどいショックを受けます。太平洋戦争下の学生動員中には、休み時間に絵を描こうとすると「非国民」とキャンバスを蹴り飛ばされます。食べるものは米粒がありやなしかの粥ですっかり食欲を失います。終戦後、結核の治療のために佐賀で療養生活を送りながら詩作をはじめます。父の郷里・久留米に移り、同人誌・『岬』、丸山豊が主宰する詩誌『母音』で作品を発表し始めます。

「女の抱き方を知らん労働者は、本質において労働者をしめ殺しよる」

敗戦後の新しい日本のもと、和江はNHK福岡放送局でラジオのエッセイや、ラジオドラマの脚本を担当。まもなく結婚、ラマーズ法を実践する産婆を探し出して長女を出産します。同時に父親が死去、妹を引き取って同居を始めると、弟が早稲田大学在学中に自死。和江は福岡県女性史の編纂に参加して、長女を抱いて博多の遊郭を訪ねたり、ボタ山が燃える炭鉱町を見て歩きます。まもなく、安保闘争・三池争議の高揚とともに、谷川雁、上野英信・晴子夫妻ともに筑豊の炭坑町・中間に転居。文化運動芸誌『サークル村』を創刊、女性交流誌『無名通信』を刊行。 職業・学歴・地域・性などによって分断された人々を結ぶ場となるはずが、労働者同士の分裂を招いて会員同士による強姦殺人事件を引き起こします。

「日本の1人の女に生まれ変わりたいと思って」

「女に関することは闘争と別と思っとろう」「たかが強姦ごときで…。大事の前の小事だ。」和江は雁とのこどもを流産します。「よかなー、一緒に泣いてくれる人のおらすばい。わしは10回も掻きだしたばってん、夫はしらんふりしとる」和江は雁と決別、ひとり炭鉱町に残って女炭坑夫の聞き語りを集めます。さらに、そのへんの草木と同じにみられていた女性の苦悩、商品として扱われていた女性の苦悩を、女性問題として社会に認めさせる運動を起こします。海外売春婦(からゆき)・海女はじめ日本列島各地の集落ではたらく女性たちを訪ねては、方言での聞き語りを集めます。


-福岡県男女共同参画センター FUKUOKA GENDER EQUALITY CENTER

-RKB毎日放送 / RKB Mainichi Broadcasting Co. 

「リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくる」

"Predict risks ourselves and build our society accordingly."


中西 準子 女史

Ms. Junko Naknishi

1938 - 

中国大連市 生誕

Born in Dailian-City, China


中西準子女史は環境リスク管理学の創始者です。化学物質による人の健康さらに生態系に与えるリスクを評価する手法を確立しました。

Ms. Jyunko Nakanishi is a pioneer in environmental risk management. She established methods for assessing the risks posed by chemical substances to human health and ecosystems.

*******


「どちらの考えが正しいのだろう」

準子は中国の大連で、南満州鉄道で働く父・功と、大連の図書室に勤める母・方子のもと、2人姉妹の長女として誕生。上海に引っ越してまもなく共産主義運動家の父・功はゾルゲ事件関連で検挙され東京の巣鴨拘置所に連行されます。とても豊かだった生活が一変、今まで親切にしてくれた人達から急に石を投げられる生活になります。母・方子は姉妹を連れて大連市の孤児院に身を寄せて住み込みで働こうとしますが、準子は臭いご飯にハンガーストライキをして反発。母は姉妹を連れて日本の父を追いかけます。門司港まで船で着くと、父の実家を訪ねますが戦時下の貧しさと家父長制・封建制の理不尽で陰湿な生活に逃げ出します。藤沢市鵠沼海岸に住む父の弟・三洋また富貴子夫妻の家に転がり込みます。父に死刑求刑がされる中、3人はたびたび巣鴨拘置所まで会いに行きます。敗戦を迎えようやく釈放された父が日本共産党員として凄まじい理論闘争をする現場を、準子は怖いと思いながらじっと見て育ちます。準子は小学生から広くマルクス主義の本を読みあさり、中学生で東大の大学院生が開く地域ゼミに参加、高校では社会科学研究会に所属、大学では技術革新の中身をのぞこうと横浜国立大学で化学工学を専攻します。


「多くに人にとってもファクトと思えるもの」

さらに準子は、東京大学の歴史上10番目の女性として応用化学のドクターを取得。化学工業全盛期にもかかわらず、準子につられて女性の給与が高くなることを嫌厭され就職先が見つかりません。ちょうどその頃、水俣病の工場排水を研究する宇井純博士の推薦より、東大工学部に新設されながら研究者らから嫌厭されている汚水・下水・工場排水を扱う都市工学の助手に抜擢されます。早速、準子は東京に新設された浮間排水処理場(のちの浮間水再生センター)に流入する物質毎のマスバランス(物質収支)を調査。水銀・鉛・銅・クロム・カドミウムの50%以上が汚泥に移行せず河川に流出している結果を得ます。東京水道局・大学・マスコミが発表を阻止する中、宇井純博士はじめ華山謙博士ならびに岡本雅美博士の推薦により1971年「公害研究」創刊号に調査結果を発表。準子は研究費を削減され大学・学会から村八分にされ、研究室の学生たちは進学また就職を妨害されますが、さらに小台下水処理場で焼却処理される汚泥中の重金属毎のマスバランスを調査。水銀・ヒ素・カドミウムの50%以上が灰に残存せず気化する結果を得ます。これらの調査結果は住民運動を引き起こし、浮間排水処理場は廃止され、1976年下水道法の改正により工場排水は厳しく規制されます。


「意思決定のための未来予測」

「壊し屋」と土木界から罵られる中、準子は水循環という観点から、いくつもの市町村から下水を集めて下流で一括処理する「流域下水道」に反対。不経済性指数を提案して下水道では規模が大きいほど不経済になることを証明します。さらに、人口密度に応じた下水道計画を提案、1982年に家庭毎の下水処理施設「個人下水道(現在の家庭用合併処理浄化槽)」を開発します。そして準子は水循環の一環をなす下水道をつくるために、アメリカのミシガン州立大学でリスク評価の研究手法を学びます。帰国後、日本の水道水中発がん物質のリスク評価を発表、発がんリスクは一生水道水を飲み続けると10万人あたり2~8件、リスク削減費用は1件あたり4~11億円、汚染のひどくない地域で塩素処理の代わりにオゾン処理を導入するのは不適切であり、リスク削減のコストの重要性を提起します。「人命軽視」と市民団体から批判される中、横浜国立大学環境科学研究センター教授に就任した準子は、ダイオキシン対策としてのごみ処理焼却施設の広域化・巨大化またRDF発電に反対。ダイオキシン類の発生源を追跡するために宍道湖また東京湾の底質資料を分析、さらに農家の物置を探し回って、ダイオキシンが焼却炉起源ではなく過去に製造・使用された農薬起源であることを突き止めます。新しく発足した産業技術総合研究所の化学物質リスク管理研究センター長に就任した準子は、化学物質のリスク評価書を作成、さらに化学物質の大気中濃度を排出量と気象条件から計算するソフトウェア(ADMER)を開発。リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくっていくことを呼びかけています。

-日本学士院 Japan Academy

-横浜国立大学 Yokohama National Univ.

百婆仙
(萬了(法名・戒名)、妙泰(道号)、道婆(法号)、道婆(位号))
Ms. Hyakubasen / Pekpason
(Manryo (Dharma name/preceptual name), Myotai (Dogo name), Doba (Dharma name), Doba (Initial name))
1560 - 1656
韓国慶尚南道金海市 生誕
Born in Gimhae City, Gyeongsangnam-do, South Korea

百婆仙 女史は日本初の女性陶芸家で、有田焼草創期に陶工集団を率いた女性リーダーです。文禄の役(壬辰倭乱)に夫・宗伝とともに「日本の宝」になる陶工首領として、武雄領主・後藤家信に連行され武雄の領内で陶器ならびに磁器を焼き始め、夫の死後は陶工集団を統率して有田に移住して磁器生産に取り組みました。
Ms. Pekpason was Japan's first female potter artist and a pioneering female leader who led a group of potters during the formative years of Arita ware. During the Bunroku War (Keicho Invasion), she, along with her husband Soden, was recognized as a leading potter, deemed a "national treasure," and brought to the domain of Lord Goto Ujimoto in Takeo. There, she began firing pottery and porcelain. After her husband's passing, she continued to lead the group of potters, eventually relocating to Arita to focus on porcelain production.

「女性沙器匠」
妙泰は夫・宗伝に従って朝鮮慶尚南道の金海から、文禄の役(壬辰倭乱)の引き揚げ船に同乗して日本の武雄に渡ります。秀吉の死によりようやく帰国できる諸大名は、長い間の異郷での滞陣・自領民の徴兵狩り出し・食糧財貨の供出などで苦境に陥った領財政を立て直すべく、競って高麗の優れた技術者を連行します。武雄領主・後藤家信も帰陣の際に陶工の一団を連れ帰ります。その首領が妙泰と宋伝の沙器匠夫婦です。二人は従軍僧で広福寺住職の別宗和尚に帰依、一族30人と共に日本に渡ります。広福寺の門前の宿舎に旅装を解いた一行は翌日から陶土を探し求めて武雄一体を踏査。数年後ようやく皿屋の谷に窯をつくり、最初に焼いた抹茶茶碗を領主・家信に、香炉を別宗和尚に贈ります。2人は日本姓・深海に改名。資金ならびに土地を与えられ、武内町の内田・黒牟田などに移住して窯を築構します。やがて帰化した陶工たち900人を束ねるようになります。

「女性陶工リーダー」
妙泰は夫・宗伝とともに、茶碗・土瓶・大小の皿・徳利・壺・瓶・甕・鉢はじめさまざまな作品を個性的に手掛けます。ひも状の粘土を輪積みし内側と外側から叩いて締めて蹴りろくろを回しながら成形したら(叩き技法)、表面を彫って色のちがう粘土を嵌めこんでメリハリある模様をつけたり(象嵌)、白泥をハケで塗って模様を描いたり(刷毛目)、その上から鉄また銅を原料とする釉薬(鉄釉また銅釉)を塗って含有率と焼成の具合で黄・青磁・黒・柿また緑・赤の色合いまた質感を施します。妙泰と夫・宗伝は高麗で手掛けていた精白透明な磁器の製作にも取り掛かります。武雄の土は磁器の原料となる長石・珪石の含有量が少く、うわ薬を完全に溶かし美しい磁肌をこしらえようと高温で燃焼すると、素地が炎に耐えられず変形します。反対に、素地のひずみをなくして完全な形を整えるために火加減を弱めると、うわ薬が完全に解けずに透明度が鈍くなります。

「炎の女神」
妙泰と夫・宗伝の精進20年余り過ぎた頃、有田町で鍋島直茂が朝鮮から連れ帰った焼物頭・李参平が陶石を見つけて沸き立つ中、夫・宗伝が逝去します。妙泰は動揺する陶工たちを励まし、武雄領主・茂綱と交渉し、住み慣れた武内町から有田郷の稗古場・天神森に移転します。陶工集団960人を率いて新しい土地で白磁器の焼成を指揮します。登窯を築くための山間の丘を探し、運んだ陶石を水碓(唐臼)で細かく砕くための渓流を探し、窯の構造設計と焼成技術を駆使して、温度調節・燃焼効率・温度分布・酸化還元を操り、原料成分の溶融変化を見極めます。妙泰が60歳の頃、ようやく透き通るような乳白色で、叩くと金属的な音がする白磁器の焼成に成功します。妙泰はじめ陶工達は中国原産の希少な呉須(酸化コバルトを含む鉱物)の淡い藍色調で、春風に揺らぐ柳並木・野を掛ける兎・秋の野菊・池の端にたたずむ鷺・飛び交う山鳥など、郷里の山里の風景はじめ四季折々の風物また草花・禽獣を描きます。やがて高麗の半農反工の諸職人ならびに土着の諸細工人が有田に押し寄せ、需要と供給の不調和、山林の乱伐、朝鮮陶工と土着の陶工・農民との感情対立が深刻となります。妙泰は朝鮮と日本双方の社会でリーダーシップを発揮しながら、2男7女を育て96歳で永眠。次第に陶磁器生産は男性中心の労働となる中、有田焼の生産現場では、絵付けなどを中心に女性職人が消えることはありませんでした。

-報恩寺『萬了妙泰道婆之塔』
-株式会社新海商店
-ギャラリー百婆仙
-佐賀県立 九州陶磁文化館

「わたしの一生というのは、黄色い一本の長い道なのです」

"My life is like a long yellow road."


穐吉 敏子 女史

Ms. Toshiko Akiyoshi

1929 - 

中国遼陽 生誕

Born in Liaoyang, China 


穐吉 敏子女史は、米ジャズ界における最高栄誉「ジャズマスターズ賞」を受賞している日本初のジャズピアニスト・作曲家です。日本人で初めてボストンのバークリー音楽院で学び、日本のアイデンティティをオリジナルジャズに活かしながら長年ビッグバンドを率いて世界で活躍しています。

 Ms. Toshiko Akiyoshi is the first Japanese jazz pianist and composer to receive the highest honor in the American jazz scene, the 'Jazz Masters Award. She was the first Japanese person to study at Boston's Berklee College of Music and, leveraging her Japanese identity, has led big bands for many years, making a global impact with her contributions to original jazz compositions.



『トルコ行進曲』

敏子は小学1年生のときに女学生の弾くトルコ行進曲』に魅せられます。早速、小学校の音楽の先生に頼み込んで、放課後の学校や先生の自宅で教えてもらいます。やがて大連の女学校に進学しながら同時に大連音楽学校にも通ってピアノ教師のもとで学びます。15歳のときに終戦、翌年に両親の故郷である大分県に引き揚げます。

Sweet Lorraine

物資不足で困窮する中、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でピアノ弾きの仕事を始めます。そこで、テディ・ウィルソンの『Sweet Lorraine』を聴いてすっかりジャズに魅せられます。18歳で上京。あちこち駐留軍キャンプまたダンスホールで夜毎に演奏をしながら腕を磨きます。敏子は最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通ってビバップと呼ばれるモダン・ジャズを手探りで学びます。

『Amazing Toshiko Akiyoshi』

「コージー・カルテット」を結成して西銀座の日本初のライブハウス「テネシー・コーヒーショップ」で演奏しているところを、来日したジャズピアニストであるオスカー・ピーターソンに認められ、彼の後押しでレコード『Amazing Toshiko Akiyoshi』を録音。米国でレコードが発売されると、日本人初のジャズピアニストとして話題になり、26歳の敏子はバークリー音楽院に奨学生として招待されます。敏子は留学生として学びながら、着物姿で激しくビバップを演奏、本場でも大きな話題を呼びます「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」はじめボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演、卒業後は拠点をニューヨークに移しベース奏者チャーリー・ミンガスのバンドに参加します。

『孤軍』

34歳のときにアルト・サックス奏者チャーリー・ミリアーノと結婚するもまもなく離婚。子育てとJAZZの両立に悩み、娘を日本の姉に預け、様々な偏見や差別などに苦しみながらJAZZ活動を続けます。やがてフルートまたテナー・サックス奏者ルー・タバキンと結婚。ロサンゼルスで「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド」を結成。敏子は45歳のときに、ルバング島で発見され大ニュースになった小野田寛郎少尉を題材に、ジャズと日本古来の和楽を融合した「孤軍」を発表。夫ルーがフルートを笛のように響かせ、能で使う鼓の音色も加えます。世界中で大ヒットとなり、JAZZにおける日本人のアイデンティティを知らしめます。以降、自らの作編曲で世界中で活動を続け、グラミー賞では計14度ノミネートされるが未受賞ながらも、70歳のときに日本人唯一「国際ジャズ名誉の殿堂」入り、77歳のときにジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」を受賞現在ソロなどで活躍中。

-2007 NEA Jazz Master

-Discogs.com

「ファッションが面白い。ファッションが好きだ。ファッションって時代を表現して感動的である。」
"Fashion is fun. I love fashion. Fashion is expressive of the era and is emotional."

大内 順子 女史
Ms. Junko Ouchi
1934 - 2014
中国上海市 生誕
Born in Shanghai-city, China

大内順子女史は、日本初のファッションジャーナリストです。日本で初めて海外のファッションコレクションを直撃取材して、日本初のファッション専門テレビ番組『ファッション通信』を開設しました。
Ms. Juniko Ouchi is Japan's first fashion journalist. She conducted the first on-site coverage of overseas fashion collections in Japan and launched Japan's first fashion-focused television program, "Fashion Tsushin" (Fashion Communication).

「ファッションは楽しい!」
 順子は、生物学者の父親・大内義郎の次女として中華民国上海市で生まれます。上海の中でも特に美しいと言われたフランス租界にある上海自然科学研究所内の父の研究室を、順子は姉と一緒に度々のぞきに行きます。広大な敷地はまるで美しい公園のように芝生・並木・築山があり、大きな煉瓦造りの建物の中の冷たい石造りの長い廊下の先にある二部屋続きの部屋、研究室のドアの外にある大きな戸棚の扉を開くと、大きな大きな花のように鮮やかな色のおびただしい数の美しい蝶の標本。蝶や昆虫の採取に出かけた父からは度々順子と姉に押し花の便りが届きます。まもなく日中戦争が始まると順子は母と姉と共に帰国。神戸、大阪、岡山など疎開先を転々とし、戦後は父方の実家である福岡県八女郡白木村に移り住み、父・義郎の愛知大学創設に伴い家族で愛知県豊橋市に転居します。やがて順子は青山学院大学文学部英米文学科に入学すると、翌月には画家で舞台美術家・宮内裕に銀座でスカウトされます。順子は裕と学生結婚をする一方、『婦人画報』で雑誌やファッションショーのモデルとして活躍し始めます。まもなく「暮らしもファッションも心も美しくあれ」と世に問うた芸術家・中原淳一のお気に入りモデルとなり、雑誌『それいゆ』に『中原淳ファッションショー』に出演するようになり、順子はファッションの世界にのめりこみます。

「ファッションの感動を伝えたい!」
 あるときエジプト開催『国際コットンフェア』のショーモデルの仕事が舞い込みます。エジプトからローマに渡ってヨーロッパを周遊する中で、順子はパリで見たファッションコレクションの楽しさを日本に伝えたいと思い立ちます。その矢先の20代半ばの夏、順子は交通事故で眼窩や頬骨に大怪我を負い右目の視力を失います。モデルからファッション・ライターに転身して、大きなサングラスを着用しながら、ファッションコラムの執筆で活躍します。まもなく『家庭画報』の編集長の後押しを受け、順子は日本で初めてChanelのマドモアゼルのアパルトマンを見せてもらい、オートクチュールの仮縫シーンを撮影します。エルメスでは社長のインタビューはじめ工房、かつての王たちのために作られた乗馬服・ブーツの色見本・皮見本・王たちのサインがとじられたオーダーブックまで見せてもらいます。たちまち大反響を呼んで隔月連載になり、イタリアから北欧のショップまで取材を敢行します。次に順子はファッション動画を撮影しようと思い立ち、ソニー会長夫人の協力のもとパリのSonyから機材を借り、パリ在住のアメリカ人のカメラマンとエンジニアの二人をアルバイトで雇います。パリとミラノのコレクション取材を自前で編集、原稿を添えてNHKに持ち込み、朝30分の番組枠で紹介します。すると主婦でなく働く男女に見てもらいたい順子は、なじみのTBS女性ディレクターならびに森英恵の夫の後押しを受け『ファッション通信』を深夜枠で放映開始します。資生堂の後援を引き出し、海外コレクションのバックステージでデザイナーにマイクを突きつけながらヨーロッパの階級社会に人脈を広げ、世界各地のファッション情報を臨場感たっぷりに伝え続けます。

-ファッション通信

 「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」
"Who truly knows my heart? What will become of me in a world so inexplicable?"

川島 芳子(愛新覺羅顯㺭 / 東珍 / 金璧輝)女史
Ms. Yoshiko Kawashima / Aisin Gioro Xianyu /  Dongzhen / Jin Bihui
1906 - 1948
中華民国北京粛親王府 生誕
Born in Pekin, China

川島芳子女史は「男装の麗人」「満州のジャンヌ・ダルク」「東洋のマタ・ハリ」。清朝の皇族・粛親王善耆の第14王女として誕生。川島浪速の養女、蒙古族カンジュルジャブとの結婚と離婚を経て、「清朝復辟」のために上海の関東軍に身を寄せ、諜報活動・婉容皇后の天津脱出・上海事変・熱河作戦に参加しながら満州国樹立に協力。やがて暴走する関東軍の大陸政策を批判、自伝小説また手記を発表してメディアを活用しながら日中和平工作に奔走するも、太平洋戦争終結後に中国軍に反逆罪で捕えられ「エログロの権化」「漢奸」として銃殺刑に処せられます。

Ms. Yoshiko Kawashima was known as the "Beauty in male attire", "Jeanne d'Arc of Manchuria," and "Mata Hari of the East". Born as the 14th daughter of Prince Su of the Qing Dynasty, she went through marriages and divorces, including one with Mongolian prince Jinzhu. She aligned herself with the Kwantung Army in Shanghai for the restoration of the Qing Dynasty, engaging in espionage, assisting Empress Wanrong's escape to Tianjin, participating in the Shanghai Incident and the Nomonhan Incident, and supporting the establishment of Manchukuo. Later, she criticized the aggressive continental policies of the Kwantung Army, utilized media by publishing autobiographical novels and memoirs, and worked tirelessly for Sino-Japanese peace efforts. However, after the end of the Pacific War, she was captured by the Chinese military on charges of treason and executed by firing squad, labeled as "the embodiment of eroticism and gore" and a "traitor to the Han."

「父と義父」
 芳子の父は、蒙古・朝鮮・陝西・四川・山東省に遠征して満州朝廷の基礎を築いた知勇兼備の粛親王10代目の王。日清戦争以後、日本・ロシア・アメリカ・イタリア・イギリス・ドイツなど西洋列国が侵略の手を伸ばし、「扶清滅洋」の旗を掲げた義和団が各地で抗戦、西太后と光緒帝に従って北京から西安に退避、忠勤に励みます。21王子と15王女のうち芳子は14番目の王女・金壁輝として第四側妃を母として生まれます。芳子の義父・川島浪速は、東京外国語学校を中退して上海・満州に遊学して陸軍通訳官として従軍。紫禁城の無血開城の功績により紫禁城宮内家督に任命されるとともに、北城警務處ならびに警務学堂を創設して警察官吏の指揮と養成にあたります。まもなく西太后と光緒帝に従って紫禁城に戻ってきた芳子の父・粛親王と親交を結び、蒙古の喀喇沁王を加えて満蒙独立に乗り出します。

「玩具」
 西太后と光緒帝が相次いで崩御、革命軍が中華民国政府を樹立、アメリカと結んだ袁世凱により宣統帝が廃帝、ロシアの勢力を取り入れたモンゴルの王侯らは外蒙古の独立を宣言、粛親王ならびに芳子はじめ家族50人は日本軍艦で渤海湾を渡って旅順に軟禁され、2階建ての客舎の部屋に数名ずつ住み、兄弟姉妹で協力して着物・肌着をつくって室内・庭の手入れをし、父の指導のもと家族そろって大食堂で食事・勉学・体操など規律的に過ごします。「百姓のくれた一握りの麦飯と河の水で餓渇を凌いだ漢の高祖の心を各自の心として生活しなさい。」ある日、11歳の芳子は帰国させられた義父・川島浪速の住む東京に手紙と共に送り込まれます。「君に玩具を進呈する。なにとぞ可愛いがってくれ。」

「ジャンヌ・ダルク」
 芳子は、御影石の門柱に桜の木が200本と椎の大木に囲まれた広大な屋敷で、専属の家庭教師・赤羽(本多)まつ江を「赤羽のお母様」と慕います。まつ江の好物をすぐに覚えると、自分の膳にあるものでも手を付けずに「赤羽のお母様召し上がって」。芳子は豊島師範付属小学校に入学。紋綸子の着物に紫緞子の袴に大きなリボンをつけて先生を「おい君」と呼びながら、縄跳び・キャッチボールに興じ、日舞・琴・茶道・盆石・油絵・乗馬を習います。ある日学校帰りに読んだ『ジャンヌ・ダルク孤忠史談』に触発されて「私に三千人の兵隊があったら支那を取って見せる!」と宣言。いつかはジャンヌ・ダルクのように先頭に立って失われた清朝の地を回復したいと決意します。

「異邦人」 
 芳子の父・粛親王ならびに母・第四側妃が逝去。芳子は義父・川島浪速とともに旅順に駆け付け、墓守のため数か月を過ごします。清王朝腹辟の夢破れて長野松本に隠居した義父・川島浪速に従って芳子は長野松本に移り、跡見高等女学校から松本高等女学校に編入するも日本国籍がないことを理由に退学となります。芳子は聴講生として時々馬で通って授業に出ては途中で抜け出したり、苦学生の友人のために文字通りひと肌脱いでヌード写真を撮らせます。芳子はかつて言い含められた父の言葉を自分に言い聞かせます。「支那人でも日本人でもない。支那と日本を結ぶ柱石いや捨て石。」

「男装のはじめ」
 芳子は家で勉強しながら、耳が遠くなり厳格になっていく義父・川島浪速の筆談はじめ秘書を務めます。川島浪速59歳のこの頃の口癖は「粛親王は仁者。自分は勇者。この二人の後を結合させると仁勇兼備の子が誕生するだろう。」大正13年10月6日夜9時45分に芳子17歳は永遠に女を清算。日本髪に結って裾模様の着物を着てコスモスの咲く庭で記念撮影をすると、午後に床屋で頭を五丈刈りにします。「家有れども帰り得ず。涙あれども語り得ず。法あれども正しきを得ず。冤あれども誰にか訴へん。」その直後、自分に求愛する岩田愛之助から渡されたピストルで自殺未遂をおこした芳子は、病院で避妊手術を済ませ男装で日本を後にして、大連にいる兄・憲立を訪ねます。

「モンゴルの王妃」
 「あれは嫌だ」「この人は嫌いだ」結婚話を断り続けて数年後、とうとう芳子に嫌だと言わせない縁談が起こります。蒙満独立運動に駿名を謳われた蒙古王族パプチャック将軍の遺児・カンジュルジャブとの政略結婚は、関東軍元参謀長・斎藤恒の仲人により旅順のヤマトホテルで盛大に執り行われます。草原の暮らしはじめ家族になじめない芳子は数年で家出、上海公使館付武漢補佐官・田中隆吉のもとに身を寄せ、関東軍参謀・板垣征四郎の指揮下に入ります。清朝皇族の人脈と語学を活かして支那はじめ欧米の情報を引き出したり、情報提供者を保護したり、上海事変の現地工作また停戦調整に一役果たしたり、溥儀の婉容皇后を天津から旅順へ護送したりする任務に従事。満州国建国宣言が行われると、溥儀を「執政」粛親王第7王子を「内務官特使」とする「清朝復辟」とは縁遠い満洲国樹立に芳子は失望します。

「満州のジャンヌ・ダルク」
 芳子は田中隆吉を罵り始め、海軍の練磨少将と仲違いさせ襲撃させます。また時の陸軍大臣はじめ関東軍が崇める「爆弾三勇士」の実態が、自爆で突撃路を開いた英雄でなく、火縄が短すぎて起きた事故だと各国の政府要人に暴露。板垣征四郎は芳子を満州国の執政女官長に任命して上海から追い出すも芳子は1か月で舞い戻ります。東京に居を構えた兄・憲立を訪ね2千円を無心すると、その足で小説家・村松梢風を訪ね「自分は川島芳子の妹で、姉の知られざる奇しき半生を小説家して欲しい。」と訴えます。数か月寝起きを共にして完成させた小説『男装の麗人』を『婦人公論』編集部に持ち込んで連載をはじめると大ヒット、中央公論者から刊行され、舞台劇にもなります。芳子は支那通で対中穏健派の満州国軍政部最高顧問・多田俊大佐に身を寄せ、安国軍総司令官として熱河省進出に参加したり、日本人居留者数百人を監禁する東北民衆救国軍・蘇炳文との和平工作に参加、「日本に協力する清王朝王女」として盛んにマスコミに報道されます。

「東洋のマタ・ハリ」
 芳子は上海を離れ日本の麻布桜田町の満州国公使館2階に陣取り、『婦人公論』編集部に手記を渡し『動乱の蔭に 川島芳子自伝』の連載をはじめ中央公論社から刊行、『十五夜の娘』『蒙古の唄』を歌ってがコロムビア社から発売します。芳子は新聞・ラジオ・雑誌・講演会など日本のマスコミで活躍しながら公使館の自動車を走らせ銀座・赤坂・人形町などのダンスホールをまわります。新聞『国民新聞』・雑誌『日本国民』のオーナーで昭和の天一坊と騒がれる相場師・伊藤ハンニを口説いて新東洋社を結成、資産家で海軍に飛行機・飛行場を献納していた笹川良一を口説いて国粋大衆党を結成、太平洋戦争を回避するよう遊説してまわります。「外交官や軍人や特権階級流のやり方ではなく民衆レベルの握手でなくてはならぬ。」「討つ人も討たるる人も心せよ。討つも討たれるも同じ同胞。」

「東興楼の女主人」
 芳子は天津に中華料理店「東興楼」を開業、広大な屋敷に失業中の中国人百名以上を雇い入れ、庭の中庭に成吉思汗(ジンギスカン)鍋を据え、戦線に出て行ったり奥地から戻ってくる日本兵にお茶とお菓子また入浴の接待サービスを始めます。中国と日本を行き来しながら、かつて芳子の父・粛親王に死刑を減刑された国民政府重鎮の汪兆銘、芳子の義父・川島浪速とアジア連帯主義を牽引する玄洋社の頭山満、はじめ中国と日本の政界また軍部の有力者たちに日中和平会談を呼びかけます。内閣総理大臣・近衛文麿ならびに陸軍大臣・東条英機は国民政府・蒋介石との和平工作を徹底的に阻止、「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」を宣言して太平洋戦争を開始。芳子は抗日テロ集団ならびに関東軍の両方から命を狙われます。終戦後、芳子は「漢奸」として北京で国民党政府軍に捕らえられ、関係者の名前を一言も漏らすことなく銃殺刑で42歳の生涯を閉じます。ポケットに忍ばせた辞世の句は「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」

-『動乱の蔭に 私の半生記』川島芳子 著(時代社1940年)
-『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子 著(文藝春秋1984年)
-『川島芳子獄中記』川島芳子 著・林杢兵衛 編 (東京一陽社1949年)

「精度とか常識とか社会通念とかそうものにとらわれないで自分の道を行きます。とっても痛快。」
"I am going my own way without being bound by precision, common sense, or social conventions. It's very exciting."

高橋展子 女史
Ms. Nobuko Takhashi
1916 - 1990
中華民国・長春県 生誕
Born in Changchun-city, China

高橋展子 女史は日本女性初の大使で、日本の「女子差別撤廃条約」締結の立役者です。敗戦後の労働省婦人少年職員として「勤労青少年福祉法」「勤労婦人福祉法制定」に邁進。初めて日本の法制度に育児休業を制定。国際労働機関(ILO)事務局長補佐、デンマーク大使を経て、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」に日本政府代表団首席代表として署名します。
Ms. Nobuko Takahashi is Japan's first female ambassador and a leading figure in Japan's conclusion of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women. After the defeat in the war, she worked as an employee of the Ministry of Labor for the establishment of the ``Working Youth Welfare Act'' and the ``Working Women's Welfare Act.'' For the first time, childcare leave is established in the Japanese legal system. After serving as Assistant Director-General of the International Labor Organization (ILO) and Ambassador of Denmark, I signed the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women (Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women) as the head of the Japanese government delegation.

「あこがれの英語教師」
 展子は中国の東北地区、当時の満州の長春で生まれ、大連の女学校を卒業。大連の街には日本人・中国人・ロシア人・朝鮮人が暮らすものの、日本人だけの社会組織の中で日本人だけの学校・病院・公園で過ごします。そして、核家族で単純で明るく近代的に豊かに暮らします。大正デモクラシー後期の自由にのびのびと勉強できる雰囲気の中で、展子は男の子をたくさん従えガキ大将で生き生きと飛び回ります。ところが女学校に入ると、女の子は女の子らしくと制約が増え、お作法といった刺激のない学科ばかり。そこに、女子大の英文科を卒業した若くて素敵な女性教師が英語担当となり、みんなのあこがれの的となります。展子は広い外の世界とつながる英語にすがりつくように勉強をする様になります。花嫁修業はまっぴらで、東京女子大学の英文学科を目指して猛勉強。入学後はじめてアメリカ人の英語を耳にしてチンプンカンプン。猛猛勉強してアメリカ留学を目指すも戦争で閉ざされます。八方ふさがりの状態で卒業すると、何とか大手商社に入社して翻訳の仕事に勤務、まもなく結婚退職します。

「アメリカ人女性将校」
 しばらく専業主婦で過ごすと戦争が始まり、夫の出征・疎開騒ぎと続き、適正外国語と目の敵にされながらもほそぼそと英語の勉強を続けます。疎開先の埼玉で敗戦を迎えると、展子は早速ラジオから流れてくる米兵向けの英語放送に耳を傾けます。放送内容がよくわかって安堵する展子は、浦和の埼玉県庁でGHQ軍政部との渉外の仕事にありつきます。各県庁ではアメリカ軍人の顧問が毎日県知事に指令を出し戦後改革を急ピッチで進める中、展子は軍政部顧問と県知事はじめ県庁職員との折衝の通訳・資料の翻訳といった、女子大を卒業以来8年ぶりに初めて外国人相手に英語を使って第一線の仕事に勤務します。半年後、東京のGHQ女性視察官の案内を勤めた展子は、男性将校と肩を並べて仕事に邁進する姿に感銘を受けるとともに、その女性将校に引き抜かれます。東京のGHQ民間情報教育部・企画課婦人係に所属、婦人関係の政策立案を行う部署でそのアメリカ人女性将校のアシスタントを務めます。展子は、アメリカ軍人の男女が仕事に恋愛に余暇に自由に働く職場で、毎朝の新聞記事の中から婦人関係の記事を翻訳したり、オフィスにある諸外国のデータ・資料を読み漁って、日本政府の役人ならびに民間指導者との会議のための準備をしながら1年半を過ごします。

「勤労婦人福祉法」
 やがて新設された労働省婦人少年局に移動、初代婦人少年局長・山川菊栄女史のもと、女子及び年少労働者ならびに一般婦人についての資料の収集・実態調査・政策立案・ 資料の公表・「婦人週間キャンペーン」を、全国の婦人少年室の女性職員とともに邁進します。膨大な資料をいちいち英語に翻訳しては、週に1回上司のお供をしてGHQへ赴き交渉の通訳をしたり直接話し合ったりしてGHQの許可を得ながら仕事を進めます。やがてGHQがなくなると、旧体制派・吉田茂内閣によって山川菊栄女史が罷免。婦人少年局解体の圧力が強くなる中、展子は課長・田中寿美子女史の補佐を経て課長として、「事業内ホームヘルプ制度」(企業が家事・育児を補助する人材を雇う制度)を繰り広げます。さらに局長として赤松良子女史を補佐に迎えて「勤労青少年福祉法」そして「勤労婦人福祉法」制定に尽力。『伸びゆく力 : 働く年少者の生活記録』を刊行。 男女の賃金格差が2倍に広がる中で「ベストでないがベター」として「育児休業」を法に盛り込みます。舞台が変わって、国際労働機関ILOの地域会議が東京で開催されることになり、展子は同時通訳に抜擢されます。軍政部で米国各地のなまりのある英語に鍛えられていた展子は、さらに各国式オーストラリア英語・インド英語・フランス英語はじめ各国式英語と格闘して自信をつけます。

「女子差別撤廃条約」
 展子はジュネーブにある国際労働機関事務局・ILO本部で事務局長補佐として働くことになります。100か国から集まる職員たちと世界の労働問題を研究し、資料を作成し、条約草案を造り、総会などの会議を運営します。意見を言いたい聞きたい場合に署名入りの文書を出し、コピーを取って広く関係者に配り、毎日毎日、文書による協議で仕事の連絡も計画も論議も進めながら、黙っていては馬鹿だとみられる・人と違う意見を言うことが歓迎される雰囲気の会議で展子は自分に鞭打ってしゃべりたてます。2年を過ごした後、デンマーク駐日大使に着任。2か月後にはコペンハーゲンで開催された「国連婦人の10年中間会議」の準備に取り掛かります。現地の各国55人の大使へ表敬訪問、週に3日ずつの招かれるパーティーと招くパーティーで友好親善と情報収集。そして「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」の締結を渋る日本国政府を外圧で制し、日本政府代表団首席代表として署名。日本国内における「男女子雇用機会均等法」の成立はじめ「ジェンダー平等」を大きく推し進めます。帰国後の展子は、男性が願望を込めてつくっているセックス文化産業の繁昌ぶり、雇用平等法制定の的の外れた論争内容にカルチャーショックを受けつつ、婦人問題企画推進有識者会議の座長・横浜市女性協会の理事長・女性職業財団の初代会長を歴任します。

-在デンマーク日本国大使館
-ILO
-男女共同参画府
-『ジュネーブ日記 : レマン湖の見えるオフィスで』高橋展子  日本労働協会1979年
-『私の英語修行』富田展子 潮出版社 1981年
-『デンマーク日記 女性大使の覚え書』高橋展子 東京書籍 1985年

Share Your Love and Happy Women's Story!

あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!

Share your story of a woman that inspires you!

SHARE YOUR LOVE AND STORY

TwitterLinkLinkLinkLinkLinkLink

 #女性史 #ジェンダー史 #日本のヒロイン #女性の声 #女性の本棚 #国際女性デー #WomensHistory #HappyWomensDay #MeTooJapan